2023年04月30日「人生の方向転換」

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人生の方向転換

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 5章1節~11節

音声ファイル

聖書の言葉

1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。ルカによる福音書 5章1節~11節

メッセージ

 私どもの人生にとって、「出会い」というのはとても大きな意味を持つのではないかと思います。大きいどころか、決定的な意味を持つと言ってもいいのです。それぞれの人生を振り返ってみましても、数々の素晴らしい出会いというものが与えられてきたのではないでしょうか。私を産み、育ててくれた親や家族や愛する伴侶、また友人や同労の仲間たちや恩師など、きっと多くの出会いが与えられてきたことでありましょう。そして、出会いが人生において、決定的な意味を持つのはどうしてかと言うと、その人と出会ったことによって、これまでの生き方がまったく変わってしまうということが起こるからです。もちろん、それは良い意味で人生が変えられるということです。友人と夜を徹してとことん語り合ったり、先生から良きアドヴァイスをいただいたり、神様が与えてくださった夫や妻と一緒に生きることをとおして、あるいは、出会ったその人が抱えている重荷と真剣に向き合うことをとおして、初めは思いもしなかった生き方へと導かれるということがあるのです。自分の思いを遥かに超えたところに今立っているということがあるのです。まさに出会いは大きな意味を持つのです。いや、あなたの人生において決定的な意味を持つのです。

 そして、私どもがこうして教会に集い、礼拝をささげる生活。つまり、信仰生活において何が一番重要なのでしょうか。これもまた「出会い」であるということです。何よりも主イエスと出会うこと、神様と出会うということです。この主イエスとの出会いこそが、何にも勝る決定的な出会いです。そして、神様が呼び集めてくださった信仰の仲間、教会の兄弟姉妹との出会いをとおして、私どもの信仰生活、人生そのものが豊かなものとされていくのです。洗礼を受けてキリスト者になること、キリスト者として神様と教会に仕えて生きること。そこで大事なのは何なのでしょうか。聖書をよく読んで、たくさんの知識を身につけることでしょうか。教会のために一所懸命奉仕することでしょうか。それらも大事なことです。洗礼を受ける前に、知ってほしいこと、これだけはどうしても信じてほしいということがあります。また、洗礼を受けてそれでおしまいというのではなくて、いつも、いつまでもキリストのものとされた喜びに生き続けてほしいと願います。そのためにキリストの御体である教会に連なり、教会に留まって豊かな祝福にあずかってほしいと願います。

 しかし、その祝福された生活の中心にある思いは、「私はイエス・キリストとの出会いが与えられた」「主イエスとの出会いによって私の人生は変えられた」という、大きな喜びなのではないでしょうか。「運命的な出会い」という言葉がありますけれども、自分の思いを遥かに超えた驚きとも言えるような出会い、喜びに溢れた出会いというものが、私の人生の根底にあるということ。主イエスとの出会いが私のいのちを生かしているということ。しかも死に打ち勝つ望みに今ここで生かされているということ。これが私どもに与えられている神様からの祝福です。しかも、一度出会ったらそれで終わり、一度信じたらもうそれでいいというのではなく、キリストの出会いというのは絶えず与えられるものです。絶えず、主イエスは私どもとの出会いを求めておられます。私が主イエスとの出会いを喜ぶ以上に、主イエスご自身があなたと出会えたということを本当に喜んでいてくださいます。誰がどう言おうと、あなたのことを喜んでおられるお方がおられるということです。私どもが主の日の朝、ここに呼び集められましたのは、「今日、ここでわたしと出会おう」という愛に満ちた主イエスの思いがあるからに他なりません。

 私どもが主の日ごとに、また日々耳を傾けています聖書にも、主イエスと出会った多くの人々の物語が記されています。今朝はルカによる福音書第5章の御言葉を共に聞きました。ここでも決定的な出会いが与えられた人がいます。それがシモン・ペトロと呼ばれる人です。ここに記されている主イエスとの出会いをとおして、ペトロはキリストに従い、キリストの弟子として新しい歩みを始めたのです。十二人いた弟子の中でも、とりわけ、よく知られている弟子の一人と言えるでありましょう。「ペトロの召命」というふうにも言われます。それゆえに、ペトロが主イエスと初めて出会った場面は「ゲネサレト」と呼ばれる湖においてと思う人が多いのです。ちなみにゲネサレトというのはガリラヤ湖の別名です。

 しかし、ルカによる福音書を読みますと、実はすぐ前の第4章38節以下にペトロと主イエスが出会っていたということが分かります。そこでは高熱を出して苦しんでいたペトロのしゅうとめを癒してくださったという話が記されています。他にも同じ様に病気で苦しんでいた人たちを癒したり、悪霊を追い払ったということが記されています。ペトロはおそらくこれよりも前に主イエスに出会い、会堂で主が語られる御言葉を聞き、その力に心打たれていたのではないかと思われます。それでペトロは集会が終わった後、主イエスを自分の家に招いたのです。まだ話が聞きたいと思ったのでしょう。そう思って、主を家に招いたら、しゅうとめが熱で苦しんでいたのかもしれません。その苦しみを主は癒してくださったのです。ペトロは既に主イエスを知っていました。既に主イエスに出会っていました。そして、御言葉を聞き、その主の言葉の力、主がなさる奇跡の御業を知っていたのです。しかし、ここではまだ主に従うということにまでは至っていないのです。改めて考えさせられますのは、主イエスに従うまでに至る、そのような出会いというものがどのようにして起こるのかということです。単に、主イエスの言葉や御業はすごいなあと関心するだけではなく、「この方に従う道の中に私のすべてがある。」そう言って、この私もまたすべてを献げて生きることができる、そのような真実な出会いはどのようにして与えられるのでしょうか。違う言い方をすれば、神様に救われるための出会いというのは、どのようにして起こるのかということです。

 主イエスはこの時、湖のほとりに立っておられました。群衆が神の言葉を聞こうとして近づいてきます。人々も心のどこかで飢え渇きを覚えていたのでしょう。主が語られる神の言葉をもっと聞きたい、あるいは、主に近づいて自分たちの願いを聞いてもらいたいと思ったのでしょう。その時、岸辺にあった2そうの舟に主の目が留まりました。その一つがシモン・ペトロと、ここには名前が記されていませんが、ペトロの兄弟アンデレの舟でした。主は「舟を出してほしい」とお願いします。ペトロはそのとおりにしました。群衆と少し距離を取られたところで、主イエスは群衆に向かって神の言葉を語り、教えられました。なぜ群衆と少し離れたところから、お語りになったのでしょうか。もちろん、群衆がどっと押し寄せてきたらご自分の身が危ないということもあったとでしょう。けれども、それだけではなかったでしょう。信仰に生きる者にとって、主イエスから距離があると言われますと、どうしても否定的な意味で捉えてしまいます。まだ主を信じ切れていないとか、まだ疑っているというふうに。でもここでは主イエスのほうから敢えて群衆と距離を取られました。それは人々が神の言葉に聞くというこの一点に集中させるためです。第4章42節にもありますように、群衆はずっと主イエスの後をついて来るのです。主が心を静め、祈りに集中するために人里離れたところに行っても、彼らは主イエスを捜し回るのです。そして見つけたら、「自分たちから離れないでくれ」と言うのです。ただ、この場合の主を捜し回るとか、私たちから離れないでくれというのは罪からの救いを求めていたというよりも、自分たちの願いを聞いてほしい。そのことで心がいっぱいだったということです。主イエスに近づきながら、しかし、そこで本当に主イエスが見えていない。離れないでほしいと言いながら、主がおっしゃることは二の次で、一番大事なのはやはり自分の思いであり、願いなのです。けれども、主イエスはこの湖の場面で群衆と距離を置かれます。主は湖の上におられるのです。そうしますと近づきたくても、さすがに水の中にまで入ってくることはできないのです。だから、人々はそこで「自分が」「自分が」という思いを捨てざるを得ません。誤解してほしくないのは、主イエスは決して彼らを突き放しているわけではないということです。主イエスが願っていること。それはわたしが語る言葉に聞いてほしい。神の言葉に耳を傾けてほしい、集中してほしいということです。この主イエスの思いはいつになっても消えることはありません。いや、日毎にその思いは強くなっているのです。神の言葉に耳を傾けなさい。心を集中させなさい。

 また、「神の言葉に集中しなさい」という思いは、この時、一緒に舟に乗っていたペトロに対しても同じでした。ペトロは主を舟にお乗せしているだけであって、神の言葉を聞いているのは群衆のほうだと思っていたことでしょう。実は、舟の中で一番主イエスの近くにいながら、主はあの人たちに向かって語っておられるのであって、自分には関係ないとペトロはどこかで思っていたのです。けれども、神の言葉を語り終えられた主イエスは、今度ペトロ一人に向かって、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じられました。主イエスが語られる言葉というのは、私には関係ないとか、あるいは群衆に紛れて気楽な思いで聞けばいいというのではないのです。主がペトロ一人に向かって語られたというのは、まさにあなたが聞くべき言葉がここにあるということです。そして、聞くだけでなく、聞いて主に従うということ。主に従って生きるということ。このことをあなた自身のこととして真剣に受け止めてほしい、そして決断してほしいのだということです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

 ただ、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」という主の言葉はペトロをはじめ、漁師たちを驚かすような言葉でありました。なぜなら、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と5節にありますように、プロの漁師たちがこれまでの経験や知恵を駆使して漁を行ったにもかかわらず一匹も獲れなかったからです。悔しかったと思います。心身共に疲れ果てるまで働いたのに、何の成果もなかったことに大きな虚しさを覚えたことでありましょう。そのような徒労感を覚えながら、この日の朝、彼らは湖のほとりで網を洗っていたのです。しかし、主はおっしゃいます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」ペトロたちの驚きというのは、「先生といえども、漁師の素人であるあなたに何が分かるのですか」という思いだったに違いありません。漁については自分たちの方がプロフェッショナルなのです。誇りをもってこの仕事をしているのです。イエス様、いくら何でもあなたに漁のことが分かるはずはありません。そのような思いを漁師たちは正直抱いたのではないでしょうか。

 神様が語られる言葉は決して抽象的な言葉ではありません。私たちに向けて語られた言葉であるというのは、私たちの生活の中に、私たちが生きる現実の中に向かって語られる言葉です。だから、御言葉が聞かれる時、そこに深い慰めが与えられます。けれども、生活の中で御言葉を聞くという時に、そこでの自分の経験が邪魔をするということがあるのです。つまり、「私のこれまでの経験上、神様、あなたの語られる言葉は意味を持ちません」と言って、御言葉に真実に聞こうとしないのです。それは神様のお働きを自分の中で小さくしてまっているということです。この部分においては、確かに神様の言葉は効き目があるかもしれないけれども、この点においてはいくら御言葉が語られても意味を持たないのだと、どこかで思い込んでしまっているのです。自分のこれまでの経験からして、神様の言葉が力を発揮することはないというのです。

 しかし、主はおっしゃいます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」わたしの言葉を信頼しなさいということです。自分の思いや願いを捨てて、御言葉に集中するとともに、御言葉が持っている力に信頼しなさい。神様がなさる御業の大きさを信じなさいということです。この主の言葉に、シモンだけはこう答えたのです。主はなぜこんなことをおっしゃるのだろうと内心思いながら、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」そう言って、主の言葉を信じ、主の言葉どおり沖に舟を漕いで行って、そこで網を降ろしたのです。「お言葉ですから」というのは、あなたの言葉だけを頼りにします。あなたの言葉だけが理由でそのとおりにします。あなたの言葉にかけてそのとおりにしますというのです。このように主イエスの言葉に信頼を置くことができたのは、やはり、ペトロが以前、主の言葉や主がなさることに圧倒されたということがあったからではないでしょうか。御言葉に夢中になったあの時こと、しゅうとめの病が癒された時のことなど、過去に与えられた一つ一つの恵みを覚えていたからでしょう。確かに、あの時、主のなさることに驚きつつも、信じて、従うまではいかなかった。けれども、そういう主から与えられた恵みの経験が、時を経て、今の自分に大きな意味をもたらすということがあるのです。それは主イエスが昔も今も、そしてこれからも永遠に生きておられるお方であるからでもあります。

 私どもも、自分が洗礼に導かれるまでの日々を思い起こすことができるでありましょう。もちろん中には、初めて教会の礼拝に出て、初めて説教を聞いて、そこで心打たれて、その瞬間、洗礼を受けようという決心に至ったという人もいると思います。しかし、おそらく多くの人は信仰に導かれるまでに多くの日々を費やしたのではないでしょうか。御言葉に心打たれる時もあれば、よく分からない時もたくさんあったと思います。聖書をとおして神様が伝えようとしている内容はだいたい分かったと言いながらも、洗礼の決心ができずに長い日々を過ごしたという人もいるでしょう。そしてこういうことは、求道中の時だけではなくて、洗礼を受けた後、キリスト者としての生活を続ける中でも実は同じように起こることなのです。御言葉に心打たれつつも、なかなか古い自分から抜け出せないでいる。今度こそ御言葉によって変えられたい、変わりたいと願いながら、「ああ、また何もできなかった」という経験をすることがあるのです。しかし、そういう信仰の日々、求道中の日々が意味をまったく持たないのかいうと、そうではないのです。神様が定めてくださった時に、神様の御心にかなった仕方で、私ども一人一人が決断し、従うことができる日が必ず来るのです。私どももペトロのように、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言える時が必ず来るのです。そのことを信じて、神を求め、信仰の歩みを重ねていきます。

 さて、6節以下には、主イエスの言葉を神の言葉を信じて、従う時、そこに何が起こるのかということが記されています。6〜7節「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」ここに記されていますように、主の言葉どおりにすると、びっくりするくらいにたくさんの魚が獲れたということです。漁のプロであった自分たちはどうすることもできなかった。疲れと虚しさを覚えるだけだった。しかし、御言葉を信じたら、驚くほどの成果が与えられたのです。この出来事は私どもに何を教えているのでしょうか。どうしたら困難な状況の中でも魚がたくさん獲れるのかということでしょうか。どうしたら人生の成功を収めることができるのかということでしょうか。そうではありません。ここで神様が伝えたいことは、神様が語られる力がどれほど大きなものであるのかということです。そのことが大漁に獲れた魚に示されたということです。人間の言葉ではダメなのです。神の言葉が語られ、聞かれなければいけません。私どもが苦難を経験いたしますと、言葉を失うということもありますが、反対にいつもよりもお喋りになることもあります。この状況を何とかしたいという思いから、色んな人間の言葉が出てくるのでしょう。自分たちの経験であったり、知恵であったりというふうに。しかし、人間がどれだけ集まっても、どれだけ知恵を合わせてもどうすることができない大きな問題を、私ども人間は抱えて生きているのです。しかし、そこに神の言葉が語られるなら、その御言葉が真摯に聞かれるならば、私どもが思いもしない驚くべき恵みを経験するのです。

 ペトロは主の言葉の大きな力を前にして、主の前にひれ伏してこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」神の言葉が語られ、聞かれるところに起こる驚くべき出来事、それはいったい何なのでしょうか。御言葉に力があるというのはどういうことなのでしょうか。どういう意味で力があると言うのでしょうか。例えば、御言葉に力があるということは、お語りになったことが現実になるということができます。嘘でも、虚しくもない、真実であるということです。大漁をもたらしたように、豊かな実りが与えられるということでもあります。あるいは、慰められる、平安な気持ちになる、そのように私どもに心の動きをもたらす力があるということもあります。その一方で、8節のペトロの言葉から大切なことを教えられる思いがいたします。神の言葉が力を持っているというのは、私どもの罪が明らかにされるということです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という告白が生まれるということです。5節では「先生」と主イエスのことを呼んでいました。しかし、大漁の魚の中に表れた神の言葉の力を見た時に、「主よ」というふうに呼び方が変わるのです。先生から「主よ!」という呼び方に変わるのです。イエス様は単に先生やご主人様ということではなくて、「主イエスこそ、まことの神である」という告白です。「主イエスこそ、救い主です」という告白でもあります。御言葉の力を知る、それは神であられる方が今ここに本当に生きておられるのだということを知ることです。

 説教の初めに、私どもは「出会い」が与えられることによって、人生が大きく変えられる、豊かなものとなると言いました。それも決定的に変えられると言いました。そのことが主イエスとの出会いによって与えられます。主イエスとの出会いによって、私どもが決定的に変えられるということが本当に起こります。その時に、どうしても無視することができないのが、私どもの「罪」の問題なのです。神の前に立つことができない自分に気づかされつつも、そこでひれ伏す者とされるということ。これが決定的に変えられるということです。ひれ伏すというのは礼拝する姿勢です。ある人は、ひれ伏すことができるというのは、その方に自分のすべてをあずけることができるからだと言います。私はこんなにも罪深い人間だけれども、この私をこのイエスというお方は本当に守ってくださるのだ。このことを信じるからこそ、ひれ伏すことができるのです。「私から離れてください」と言いながら、ただ主イエスの前にひれ伏し、ひざまずく人間こそ、最も人間らしい人間であり、本当に自分らしい自分を生きているのだというのです。

 そのように、主の足もとにひれ伏し、罪を言い表したペトロに対して、主イエスはこうおっしゃいました。10節です。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」「恐れることはない」という言葉、聖書の中でよく聞く言葉の一つでしょう。ペトロもこの後、主イエスから「恐れることはない」という言葉を何度も聞くことになります。ではここでペトロが聞いた「恐れることはない」という言葉はどういう意味を持ったのでしょうか。怖がるな、大丈夫だ、勇気を出せということなのでしょうか。文脈によってはそのような意味も「恐れるな」という言葉の中には含まれるでしょう。けれどもここでの「恐れるな」という主の言葉は、言い換えると、それは「あなたの罪は赦された」ということなのです。聖い神の前に近づくことができないほどの罪の汚れを持った自分であることを知りつつも、主の前にひれ伏しているペトロ。そのペトロが本当に聞きたい言葉がありました。それが「恐れることはない」「あなたの罪を赦された」という主の言葉です。来週、再来週とヨハネによる福音書から続けてペトロという弟子に心を留めつつ、御言葉に聞きたいと願いますが、他の福音書を含めペトロという人物の生涯を見る時に、主イエスから初めに聞いた「恐れるな」という言葉が実は大きな意味を持ったということ。大きいどころか彼の生き方を決定づける言葉となったということがよく分かるのです。十二弟子の中でも一番弟子と呼ばれたペトロですが、一番偉いとか立派だということではなくて、一番罪の赦しを必要としていたのがペトロであった。そういう意味での一番弟子であったということができるのです。私どもも同じではないでしょうか。主イエスとの出会いが、私の人生を大きく変えた、決定づけたというのは、「恐れるな」「あなたの罪は赦された」という主の言葉によって、救っていただくことだからです。その救いの恵みに生涯あずかりながら生きていくのです。

 「恐れるな。」主はそのように告げられた後、ペトロにこうおっしゃいました。とても印象深い言葉ですね。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」ペトロは魚を獲る漁師でした。けれども主イエスとの出会い、罪の赦しによって、「魚を獲る漁師」から「人間を獲る漁師」になるという人生の大展開です。ただこの10節で、「人間をとる漁師なる」とありますが、元のギリシア語には「漁師」という言葉はありません。ある翻訳では「あなたは人間を生け捕ることになるだろう」と訳されています。人間を生け捕りにするというのは何か怖い感じがしますが、「生け捕る」という場合のここでの強調点は、捕まえるということよりも「生かす」という点にあります。だから、「ペトロよ、お前は今から後、人間たちを獲って生かす者となる」と言うこともできるのです。魚を獲る漁師ならば、捕まえられた魚はやがていのちを落とします。漁師は自分の手で捕まえた魚をシメて、捌いて商品にします。しかし、人間を生け捕るという場合はそうではありません。捕まえて生かすのです。捕まえて生き返らせるのです。捕まえてその人が生き生きとしたいのちに生きることができるようにするのです。何によって捕まえた人を生かすのか?それは神の言葉の力によってです。

 ですから、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」という主イエスの言葉は、特にキリストの福音を宣べ伝えるために召された伝道者にとっては大切な御言葉の一つとなりました。もちろん、伝道者だけでなく、すべての者にとって耳を傾けるべき大切な主の言葉です。私は牧師ではないし、教会学校の先生のように御言葉を語る奉仕もしていないから、関係ないというのではありません。すべてのキリスト者が、キリストの教会が伝道の働きに召されているからということもあるのですが、私たち一人一人の救いの原点に立ち帰るならば、いつもこの主イエスの言葉が響いているのではないでしょうか。忘れることなどできないのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 主イエスと出会い、主の言葉に心打ち砕かれ、罪の赦しが与えられたからこそ、私どもは今ここにいることができます。人間を獲って生かす者とされる前に、私ども自身がまず主イエスに捕らえられ、そして、生かされているのです。ペトロや伝道者だけではありません。キリストの救いにあずかっているすべての者に言えることです。私どもは主イエスの愛に捕らえられ、キリストのものとされました。私はもう誰のものでもないのです。だから、すべてを捨てて主イエスに従うことができるのです。すべてが主のものとされているからです。

 主に従い、主に召された働きに生きる中においても様々なことが起こるでありましょう。しかし、そこでも繰り返し私どもは主イエスとの出会いを重ねていきます。主が語られる力ある言葉によって養われ、御言葉によって新しく造り変えられるのです。そのように神の言葉に生かされる人の歩みは、人間の思いを超えて大漁の魚が獲れたように、溢れんばかりの豊かな実りをもたらします。つまり、虚しく終わることはないということです。すべての者を真実に生かしてくださるお方は主イエスただお一人です。生き生きとしたいのちに生きることができるために、主は今も働かれ、神の言葉を語られます。そこでこそ、私どもは自分にしがみつくことをやめて、主イエスがお語りになる言葉に心を開きたいと思います。そして、主に用いられることを喜びとして生きていきたいのです。お祈りをいたします。

 主よ、私があなたと出会う前から、あなたは私を選び、救いの恵みにあずからせてくださいました。私どもの歩みが、また私たち教会の歩みが、神の恵みの言葉によって豊かに祝福されたものとなりますように。人を真実に生かすために、私ども一人一人が召されています。主よ、私たちを用いてください。主にお仕えする歩みの中で、神の言葉の力を深く味わうことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。