2023年04月09日「響き渡るいのちの大声」

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響き渡るいのちの大声

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章38節~44節

音声ファイル

聖書の言葉

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。ヨハネによる福音書 11章38節~44節

メッセージ

 私どもはいったいどこに向かって歩んでいるのでしょうか。いのちを与えられた人間が最後に行き着くところ、終着点・ゴールは、いったいどこにあるのでしょうか。それは人間が生きる目的とは何であるのか、ということでもあるでしょう。ゴールというのは、目的ということでもあるからです。

 主イエスは、愛する友であったラザロの遺体が収められている墓の前に立っておられます。当時の墓というのは、洞穴のような場所に遺体を収め、その穴を大きな石で塞いでいました。大きくて重たい石です。それは何を意味するのでしょうか。何を象徴しているのでしょうか。当然、遺体が目に見えるところにあると、不吉なで汚らわしいと感じるからでしょう。遺体が死という現実が、自分たちの生活の中にあるのは困るのです。また、遺体が腐っていく臭いをかぐこともしたくはありません。誰かに遺体を盗まれてもたいへんなことです。けれども、大きく重たい石というのは、そういうことだけでないのです。何よりも、生きている者と死んだ者を隔てる重い石であるということです。どれだけその人を愛していても、死んだらその交わりも絆もそこで完全に絶たれてしまうのです。

 私どもも、また墓の前に立つことあります。どのような思いで墓の前に立つのでしょうか。イエス様の時代のように大きな石でなかったとしても、遺骨が収められ、そこに石の蓋がされている。この事実は生きている者に厳しい現実を突きつけます。愛する者が亡くなった時、葬儀の時、火葬や収骨の時、私どもは深い悲しみや虚しさを覚えてしまうことがあります。そして、納骨の時もまた同じように、胸が締め付けられるような思いがします。故人の遺骨が自宅にあるだけで、少しは安心できるという人も、それらがすべて墓の中に納められ、石の蓋がされる時、何とも言えないない気持ちになるのです。「あぁ、本当にあの人は死んだのだな」と、改めて愛する者が死んだという事実の前に立たされるのではないでしょうか。

 そして思わされるのです。結局、人間が最後に行き着くところは「墓」なのだということを。つまり、私どもは「死」というゴールに向かって進んでいるのだと。しかし、死が人生のゴールであり、死が人生の目的であるなどということは、実に悲しいことであり、何と虚しいことであろうか。誰もがどこかで気づいていると思うのです。しかし、「いちいちそんなことを考えてみても仕方がない。」そう言って、死という現実に蓋をして、見て見ぬふりをして生きている。あるいは、自分がいつかは死ぬということを忘れて、生きてしまっている。そういうところがあるのではないでしょうか。生きることも、死ぬことも、どちらも私どもにとってはとても大切なことです。でもその大切なことを忘れてしまっている。それは、死ということに対して希望を見出すことができないからです。だから覚えていても意味がないと思ってしまうのです。しかし、もし死という現実に対して、希望を持って立ち向かうことができたらどうでしょうか。しかも、勇ましく立ち向かって行ったはいいけれども、敗れてしまったというのではなくて、死に勝利するいのちに、今生かされているということを、本当に信じることができたらならばどうでしょうか。

 それはもう生き方がまったく変わってしまうと思うのです。なぜなら、私どもの人生の終着点、生きる目的が死ではなくなってしまうからです。死は人生の通過点でしかなくなるのです。死を超えて、進むべき場所、私どもが本当に立つべき場所があるというのです。最後に私どもに約束されていること、それは「復活」であるということです。死ではなく、死に打ち勝ったいのちの中に立つということです。しかも、いつの日か、そういう時が来る。死んでから、何年か経ったら復活する。そういうことではないのです。もちろん、終わりの日、復活するということを聖書は約束するのですけれども、今日という日から、今地上の歩みをしているこの時から、復活の力強いいのち、望みと喜びに満ちたいのちに生きるのだと、神様は私どもに約束してくださっています。

 病気によって死んでしまったラザロには二人の姉妹がいました。姉のほうがマルタ、妹がマリアです。主イエスは姉のマルタにこのようにおっしゃいます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)教会の葬儀の時に必ずと言っていいくらいこの御言葉が朗読されます。教会の墓石にこの主の言葉が刻まれているところも多くあります。「わたしは復活であり、命である。」主イエスご自身が復活であり、いのちであるとおっしゃるのです。本日、主イエス・キリストの復活を記念する礼拝をささげています。「わたしは復活であり、命である」ということがどういうことであるのか。主イエスはご自分の存在をもって、私どもに示してくださいました。十字架で死んだ主イエスは、三日目の朝、お甦りになられました。

 そして、主の復活というのは、主イエスご自身のためにだけあるのではありません。主イエスお一人だけがお甦りになって、私どもは放ったらかしというのではないのです。復活の主は約束してくださいます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「わたしのことを信じるあなたもまた復活するのだ」と。そのことが本当であるということを示してくださるために、そのことによって神の栄光があらわされるために主イエスはご自分の復活に先立って、愛する友ラザロを復活させてくださいました。このラザロの物語は第11章1節から始まっています。一つの物語としてはたいへん長いものですから、本日はすべてを読むことはいたしませんでした。結びの部分だけを朗読しました。ただ初めから丁寧に目をとおして行きますと、3節でマルタとマリアは「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言っています。5節では「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とありますし、11節では主イエスご自身が「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃるのです。ここで言われている「愛する」ということと、「友」ということは実は同じ言葉なのです。ラザロとマルタとマリア、彼ら兄弟は主イエスにとって特別な存在だったとも言われています。マルタとマリアに限っては他の聖書の箇所でもよく出てくるのです。けれども、主イエスにとって「友」であり、「愛する者」というのは、何もラザロたちだけではありません。弟子たちに向かって、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15)とおっしゃってくださった主イエスは、同時に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(同15:13)とおっしゃってくださり、ご自身の十字架の死をとおして、この世のどこにもない、神様の真実な愛を示し、罪から救ってくださったのです。イエス・キリストのものとされている私どものまた、主イエスから「友」と呼ばれている者たちであり、主イエスの「愛」の中に事実今生かされているのです。

 ラザロが葬られている墓の中に向かって、主イエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。そうするとラザロが出て来たのです。死の眠りからまことのいのちへと呼び起こす、まさにいのちの大声です。このことが私どもにも起こるのです。なぜなら私どももキリストから「愛され」、キリストから「友」と呼んでいただいている存在だからです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」私どもにいつも求められていることは、この主イエスの言葉を信じることです。「わたしは復活であり、命である」という主の言葉が、私どもの生活を根底から支えるものとなり、今力となっているかどうか。このことが問われているのです。まだ洗礼を受けておられない方も、主イエスの十字架の愛の中に招かれているのです。「わたしは復活であり、命である。だからあなたは死んでも生きる。死を超えて、わたしと共に生きることこそが、あなたが本当に生きるべきいのちであり、人生なのだ。このことを信じるか?」主はいつも問うておられます。

 ところで、ラザロの物語を読みますと、ところどころ、主イエスの心の中にある激しい感情というのを見ることができます。38節でも「再び心に憤りを覚えて」とありました。「再び」というのですから、「以前」にも憤られたということですが、33節に遡って見ますと、「心に憤りを覚え、興奮して」とありました。二度も「憤る」ということが言われています。他にも印象深いのは35節です。そこを見ますと、「イエスは涙を流された」とあります。心に憤りを覚えるというのは、「馬が鼻息を激しく鳴らす」という意味があります。それほど激しく心が高ぶり、怒りを覚えられたというのです。主イエスが流された涙は、ラザロの死を悲しみ、涙する姉妹や周りの人々が流す涙を思ってのことですが、同時に激しい怒りを覚えておられました。その激しい怒りをもって、主はラザロが葬られている墓の前に立っておられます。

 では、何に対して主イエスは激しい怒りを抱いておられるのでしょうか。たとえば、姉妹のマルタとマリアですが、ラザロが病気で死にそうになっているにもかかわらず、そして、そのことを主は知っていたにもかかわらず、すぐに駆けつけてはくれませんでした。もう彼女たちがいるベタニアの村に主が着いた時にはラザロは死んでいたのです。死んでから4日経ち、主の到着を待つことなく、もう墓に葬られていました。死の力がラザロも姉妹たちをも完全に支配していたのです。姉のマルタも妹のマリアも主イエスに言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21,32)本当はもう何て言えばいいか、分からなかったのです。どうしたらいいか分からない。もう本当にやり切れない、そういう思いに満ちた言葉です。そして、明らかに妹のマリアのほうが自分を見失っていまして、もう言葉が出てこない。主イエスを見るなり、足もとにひれ伏し、泣くことの他に何もできないのです。

 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに…」。この言葉の中には、「どうしてすぐに来てくれなかったのですか!」という主イエスに対する不満も少しばかりはあったでしょう。しかし、それでもう主イエスなど信じないというのではないのです。二人とも、なおそこで主を信じようとしているのです。マルタの場合は主イエスの言葉を十分に正しく理解していない面があるのです。復活は信じているのですけれども、それは終わりの日に起こることとして信じているに過ぎないのです。いつかは喜べるかもしれないけれども、今の私にとって、復活が何を意味するのかとどこかで思っているのです。今はまだそういう理解なのですけれども、主イエスから「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。…このことを信じるか。」そうと問われて、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(同11:27)そう言ったのです。色々と不十分なところがあるかもしれない。けれども、主イエスを信じたい!その気持ちに嘘はありませんでした。

 妹のマリアも主の足もとで泣き続けます。悲しくても、腹が立っても、死という現実を前にした時、泣き続けることしかできないのですけれども、しかしそれでもマリア主にひれ伏しています。「ひれ伏す」というのは礼拝をささげる姿勢を意味する言葉でもあります。こういう礼拝の仕方があるというのです。涙を拭ってから、心の中をちゃんと整理してから、あるいは、主イエスに対する信仰をちゃんと理解してから、礼拝に来なさいというのではないのです。主イエスはすべての者を招かれます。決して、主は彼女たちの無理解さや弱さをご覧になって憤っておられるのではないのです。

 そして、主イエスは彼女たちの悲しみに心を打たれ、主イエスご自身の悲しみとして共に涙を流してくださいます。この後、主はラザロを甦らせます。病気で死ぬということが分かった時から、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(ヨハネ11:4)とおっしゃっていました。初めからラザロを復活させるとこができると確信しておられました。だとしたら、この時の主イエスの涙は何だったのかと言う人もいるかもしれません。悲しんでいる振りをして涙を流されたというのでしょうか。もちろんそんなことはありません。この主イエスの涙ほど真実な涙は他にないのです。死の現実に呑み込まれてしまうことがどれほど悲しく、悲惨なことであるのか、主はよく知っておられます。悲しむ者と共に悲しみ、泣く者と共に泣いてくださる。それが主イエスです。そして、この悲しみの涙は同時に、憤りの涙でもありました。決して、マルタとマリアの姉妹や他の人々の不信仰や無理解に対して憤っておられるというのではないと思います。私どもを絶望と悲しみのどん底に突き落とす死の力そのものに対して憤りを覚えておられるのです。愛する者との絆を引き裂き、生きる力を完全に奪い取ってしまう死の力に対して、主は激しい怒りを覚えられるのです。

 「涙を流す」というのは、どこか弱い人であるということのしるしのように思われてしまうことがあるでしょう。特に、悲しみの涙、愛する者を失った時に流す涙といった場合、これらの涙の中に、普通は強さとか希望といったものは見出せないのです。人は死の力に立ち向かうことができないように、死に対する悲しみの涙もまた、何も生み出さない。そう考えてしまいます。しかし、主イエスは違います。主イエスの涙は違うのです。主は死の力に対して、悲しみの涙、憤りの涙を流されました。その主イエスが、主イエスだけが死に立ち向かってくださるのです。私どもには到底できません。死の力にかないっこありません。立ち向かおうとすればするほど、死の力に圧倒され、自分のいのち・人生に失望することでしょう。けれども、主イエスは涙を流しながら死に立ち向かい、戦ってくださるのです。

 そして、愛する友ラザロが葬られている墓の前に立たれた時、再び心に憤りを覚えられました。主は人々におっしゃいます。「その石を取りのけなさい。」するとマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」そう答えるのです。「四日」というのは何を意味するのでしょう。昔、人々は、死んでも三日の間は魂がその人の近くをさまよっているから、蘇生する可能性があると信じていたようです。しばらく気を失っていたけれども、三日目に奇跡的に意識を取り戻すということもあったでしょう。しかし、四日目になったらもう諦めるしかない。完全に死に支配されている。望みはないということです。事実ラザロの体からも死の臭いがしたのです。「主よ、四日もたっています…。」「イエス様、お気持ちはありがたいのですが、石を動かすことなどできません。死の現実という重く大きな石を動かすことなどできないのです。」

 マルタはまだ主イエスのことが分かっていませんでした。主はおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」「マルタよ!信じなさい。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」主はマルタを決して突き放そうとはなさいません。「わたしを信じなさい」と招かれるのです。もし信じるなら、神の栄光が見られる!神が神であられるということがいったいどういうことであるのか、わたしを信じるなら分かる。わたしの言葉を信じるなら分かると約束してくださいます。

 主イエスは父なる神様に祈られます。ラザロが復活するというのは、この出来事をとおして、神の栄光があらわれるためです。神はいかなる神であるのか。このことが明らかになるために、父よ、あなたがわたしを罪と死の力に支配されている闇の中にお遣わしになりました。この喜びの知らせを人々が知り、信じて、いのちを得ることができますように。

 そのように祈られてから、主イエスはラザロを呼ばれるのです。しかも大きな声でラザロを呼ぶのです。「ラザロ、出て来なさい!」私どもは知っています。私どももまた似たようなことをしてしまうということがあるのです。死んだ者に呼びかけるということを。なぜなら、愛する者の死を受け入れたくないからです。しかし、私どもがどれだけ心を込めても、どれだけ大きな声で、その人の名前を呼んでも、決して返事など返ってきません。それが死の現実です。そんなことは言われなくても分かっているのです。それでも、死んだとしても、愛する者を呼びたくなるのです。しかし、この時ほど自分の語る言葉は虚しいと思うことはないでありましょう。返事どころから、甦ることなど決してないからです。

 でも、主イエスの御声は違います。死んだ者の名前を大きな声で呼ぶということ。「ラザロ、出て来い」と大声で叫ぶこと。ある人は「感動的な光景だ」と言う人もいるでしょう。イエスというお方はラザロをとても愛しておられたのだなと。でもある人たちにとっては、滑稽に見えることでありましょう。いったいイエスという男は何をしているのか。悲しみのあまり気がおかしくなったのか。そう思うことでしょう。しかし、主イエスの言葉は、私どもが口にする言葉とは違います。主イエスの大声はラザロの眠る墓の中に響き渡ります。主イエスの大声は死んだラザロに届くのです。「ラザロ、出て来い!」そのように命じたら、その主のお言葉どおり、ラザロは墓の中から出てきました。主イエスの言葉は虚しく地に落ちることはありません。主が語られる言葉は出来事を起こします。神様が言葉によってこの世界も人間もお造りになり、それをたいへんお喜びになられました。主イエスの言葉もまさにいのちの言葉そのものです。そのことがラザロに起こりました。死をいのちに変えてくださったのです。主イエスのいのちの言葉が死を完全に呑み込んだのです。「ラザロ、出て来なさい!」

 ラザロの物語をこの先読み進めていきますと、この出来事をきっかけにして、主イエスと捕らえ、殺そうとする計画がますます強くなっていったということが分かります。ラザロにいのちを与えたというこの出来事・奇跡が、主イエスに十字架の死をもたらしました。復活のいのちを私どもに与えてくださるお方が、十字架で死んでくださいました。私どもを支配し、吞み込もうとする死に打ち勝つために、いのちそのものであられる主イエスが十字架の死を死んでくださいました。矛盾することなのでしょうか。そうではありません。なぜなら、十字架の死を死んでくださった主イエスは、復活してくださったからです。主は死に勝利してくださいました。主イエスが十字架で死んで、復活してくださったお方であるからこそ、「ラザロ、出て来なさい」という言葉が真実の言葉であり、いのちの言葉であるということを私どもは本当に信じることができます。

 やがて、私どもも死んで墓に葬られる時が来ます。けれども、最初にも申しましように、そこは私どもが最後に行き着く場所ではありません。主イエスは私どものために、私どもを罪から救い出すために十字架に死に、墓に葬られました。そして、三日目の朝、つまり、イースターの朝、主イエスは墓から出て来てくださいました。ですから、主イエスを信じる者にとって、墓というのは、もはや闇の力が支配している場所ではなくなったのです。墓の中にも、死という現実の中にも、イエス・キリストのいのちの光が射し込み、キリストのいのちの香りで溢れるようになったのです。死を前にしても、いや死んだとしても、神は私どもを見放しません。キリストのゆえに、私どもは見失われた者にはならないのです。神は私どもを見出してくださいます。死を超えて神のものとされ、キリストの内にあって永遠に生きる者とされるのです。だからこそ、来るべき復活の日を待ち望みつつ、主に結ばれて眠るのです。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」いのちの言葉がここにあります。そして、「ラザロ、出て来なさい」という主イエスの大声によって、ラザロが墓から出て来たように、私どももまた甦りの朝、目を覚まします。「起きなさい、甦りの朝だ!」その時、私どもは救いのまったき喜びと平安の中に立ち、神様を賛美します。このことこそが、私どもの人生の終着点であり、生きる目的なのです。ラザロ、出て来なさい!起きなさい、甦りの朝だ!お祈りをいたします。

 私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた父なる御神、あなたは御子をまことのいのちの光として、罪と死に支配されたこの世界にお遣わしくださいました。死がすべてを呑み込んでしまう現実に対して、深く悲しみ、涙し、憤りながら、立ち向かってくださいました。キリストこそ復活であり、いのちであるということを信じると共に、そのことが私どもを喜びと希望に突き動かす大きな力となりますように。あなたが聖書をとおして語り掛けてくださる御言葉によって、生き生きとしたいのちに生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。