2023年03月19日「安心して立とう」

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安心して立とう

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章46節~52節

音声ファイル

聖書の言葉

46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。マルコによる福音書 10章46節~52節

メッセージ

 3月も半ばを過ぎ、気候も少しずつ暖かくなってきました。今、春へと季節が変わろうとしています。季節の変化とともに、4月から「新しい道」へと踏み出して行く人も多いことでしょう。期待や楽しみと同時に、新しい環境の中で上手くやっていけるだろうかと不安を抱くこともあります。4月になってからも、特に生活の変化はないという人もいるかもしれませんが、教会の子どもたちや若い方たちのことを覚えて、私どもは祈りを熱くします。そして、本当は春という季節に関係なく、また若くても、年齢を重ねていても、いつもすべての人が、新しく生きるということへと招かれているのではないでしょうか。主イエスが「新しい道を歩むように」と呼びかけておられるのです。

 本日はマルコによる福音書第10章から、主イエスが盲人バルティマイの目を開かれたという物語を聞きました。49節で、主は人々を介して、バルティマイに呼びかけておられます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」いったいどのようにしたら、安心して立つことができるのでしょうか。ここに私どもが「生きる」ということにおいて、大切なメッセージが込められているのではないでしょうか。私どもが不安を覚えたり、疑いを抱いたり、躓きを覚えてしまうのは、安心して立つことができないからです。いつも足元が覚束ないのです。不安定なのです。私どもは、「これだ」と言える確かで堅固な土台が必要です。新しい道を歩み始める際に覚える不安もそうですが、たとえ死の波が襲って来て、自分を呑み込むようなことがあったとしても、なおそこで立つことができるような土台。しかも、やっとのことで立つことができるというのではなくて、なおそこで安心できるほどの余裕を持ちながら立つことができる土台というものの上に立つことができたらならば、どれほど幸いなことでしょうか。そのような私どものいのちを根底から支えてくれる土台に立ち、その確かな土台に支えられながら、神様に従う道、また神様からそれぞれに与えられた具体的な道を歩むことができたならばら、どれほど心強いことでありましょうか。十字架に死に、お甦りになった主イエスは、今朝、ここに集う私ども一人一人に呼びかけておられます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 今日の物語の舞台となっている町は、エリコと呼ばれる町です。このエリコの町は、イスラエルの都であるエルサレムの玄関口、エルサレムの入り口とも言われます。エルサレムまで1日で着く距離にありました。巡礼の旅の中にある者たちは、エルサレムに入る前に、エリコで宿を取り、神様の前に立つ備えをしたと言われます。服装などの身なりを整えるだけでなく、心をも整えて、エルサレムに向かう道を歩んだことでありましょう。そして、この時は、ユダヤ人にとって最大の祭りである過越祭の前でありました。巡礼するために各地からやって来たたくさんの人たちが、エリコの町に集まって来ているのです。

 そして、この機会を逃すまいとした人がいました。それが盲人バルティマイでした。彼は目が見えませんから、自分で働いて収入を得ることができません。それで、バルティマイは人々が多く行き来する町の門の近くの道端に座って、物乞いをしていたというのです。そして、おそらく、何らかの仕方で主イエスのことを以前から知っていたのだと思います。罪を赦す権威をお持ちであるとともに、神の国の到来を証しするために、病人を癒したり、悪霊を追い出したりというふうに数々の奇跡の御業を行っていたということを。そして、自分と同じように、盲人の目が開かれたということも知っていたのではないでしょうか。マルコによる福音書では、第8章22節以下に盲人が癒された出来事が記されています。もし機会があるならば、自分もまた主イエスにお会いし、目を癒していただき、見えるようなりたいと願っていたことでしょう。

 その主イエスが、エリコの町にやって来られるという知らせを聞くのです。決して、この千載一遇のチャンスと逃してはいけない、そういう思いで、心から必死に叫びました。バルティマイは目が見えず、自分の足で主のもとに行くことはできません。できるとしたら、叫ぶことしかできないのです。だから、バルティマイは大声で叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」この叫びは、単に自分の「目が見えるようにしてください」という願いを超えた叫びでもあります。「ダビデの子」という呼び名は、イスラエルの王・ダビデの子孫という意味だけではなくて、やがて、ダビデの子孫からまことの王であり、まことの救い主がお生まれになるという信仰的な意味を持つ言葉でもあるからです。バルティマイは、自分の体以上に、深い痛みや悲しみといったものを魂の奥底で感じていたのでしょう。「ダビデの子であられるイエス様、あなたが憐れんでくださらなければ、私は生きていくことはできないのです。だから、私を憐れんでください!私をお救いください!」あまりにも大きな叫び声だったのしょう。驚いた人々はバルティマイを叱りつけ、黙らせようとします。もしかしたら、「お前など救われる資格はない」「目が見えなくなった原因はお前の罪にあるのではないか」。そのような、人々の冷たい心がバルティマイの叫びを、なきものにしようとしたのかもしれません。しかし、バルティマイはなお叫び続けます。ますます、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大きな声で激しく叫ぶのです。

 その声が、ついに、主イエスの耳に届きます。49節です。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」この49節において強調されていることがあります。それは「呼ぶ」ということです。三度、呼ぶということが言われています。「あの男を呼んで来なさい」「人々は盲人を呼んで言った」「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。主イエスはバルティマイを呼んでおられるのです。バルティマイだけではありません。私ども一人一人に対して、今も呼びかけておられます。バルティマイは主の呼びかけ、これは「招き」と言い換えてもよいでしょう。バルティマイは、主の呼びかけ、主の招きに応えました。そして、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げていただき、願いどおり目が見えるようになりました。

 この物語は、単なる癒しの物語、奇跡の物語ではありません。第8章22節以下に、もう一つ盲人の目が見えるようになったという奇跡が記されていると申しました。そこでは実に丁寧な仕方で、主が盲人を癒される様子が記されています。人々が一人の盲人を主イエスの前に連れて来まして、彼に触れてください、癒してくださいと願います。そうしますと、主は盲人の手を取り、村の外に連れて行き、その人の目に唾をつけて、両手をその人の上に置いてくださいました。一方、バルティマイの場合はどうでしょうか。主イエスは彼に近づいたり、手を取ったり、触れたりということは一切なさいませんでした。けれども、実はそこに本日の御言葉の大きな特徴があるのです。単なる癒しや奇跡物語ではないと言ったのもそのことと深く関わりがあります。もちろん、バルティマイも先の盲人と同じように癒されているのです。しかし、ここで主イエスがしていてくださっていることは何でしょうか。それはバルティマイを呼んでおられるということです。招いておられるということです。バルティマイも主イエスを呼びました。主イエスもまたバルティマイを呼ばれるのです。そして、バルティマイが安心して立てるようになったのは、彼が必死に叫んだからというよりも、主の呼びかけが彼の恐れや不安を取り除いたからなのです。

 人々を介しておっしゃった「お呼びだ」という主イエスの言葉、これは私どもを怯えさせるような言葉ではありません。私どもは自分より立場の上の人から呼ばれると心が騒ぎます。「お父さんが呼んでいるよ」「先生が呼んでいるよ」などと言われると、「ああ、また何か言われるに違いない」とか、「また怒られるのではないだろうか」。そのように不安に駆られて、自分を呼ぶ人のところに行くということがあります。けれども、主イエスの呼びかけは違うのです。「安心しなさい」という言葉がありましたように、私どもは安心して、私を呼んでくださる主のもとに行くことができるのです。それもバルティマイがそうしましたように、躍り上がるようにして主のもとに行くことができるのです。

 「安心しなさい」というこの主イエスの言葉は、様々な言葉に訳すことができます。「安らかに」「平安の内に」と言うこともできますし、「元気を出しなさい」「しっかりしなさい」「恐れることはない」というふうにも言うこともできます。ある英語の聖書を見ますと、”take heart”と訳されているものがありました。“take heart”興味深い言葉です。”take heart”「心を持て!」というのです。「安心する」というのは、しっかりと心を持つということです。安心できないのは、心を失っているからです。バルティマイは心を失ったまま、道端に座り込んでいました。誰にも顧みられないまま、ずっと悲しみの中にいたのです。目が見えるようになりたいと願ったのも、見えるようになることによって、失われた心を取り戻すことができると考えたからでしょう。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、心から救いを求めるバルティマイの叫びを主は聞いてくださり、主はバルティマイに呼びかけます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」ここに主イエスとの出会いが起こるのです。

 そして、「安心できる」という根拠は、ただ主イエスの中にだけあるということです。自分の中にある条件がすべて整って、そこで初めて不安や疑いの思いに打ち勝ち、主イエスのもとに行くことができるというのではないのです。「安心しなさい」「立ちなさい」と、主が呼びかけてくださるからこそ、私どもも本当に安心して立つことができます。50節に「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあるのですけれども、ここまで大喜びしているのは、盲人の目が見えるようになったからだと、つい思ってしまうのですが、まだこの時点では癒されていないのです。まだこの時点では見えていないのです。自分の姿も、主イエスがどこにいるのかもまだ見えていない、まだ分からないままなのです。けれども、主イエスの言葉を聞いて、躍り上がるほどの喜びに生かされている人の姿がここにあります。まだ自分は見えていないのです。まだ自分の中では十分ではないのです。しかし、主イエスが「安心しなさい、立ちなさい」と呼びかけてくださる。だから、私は安心して立つことができるというのです。主が呼んでくださる。ただそれだけです。しかし、それは躍り上がるほどの喜びを与えるものであるということです。

 主イエスはご自分の呼びかけに応え、そして、私どもが立つことができることを望んでおられます。マルコによる福音書に先立って、旧約聖書エレミヤ書第29章の御言葉を聞きました。有名な御言葉の一つかもしれません。特に自分の将来や、教会の将来のことを考える時、ついこのエレミヤ書の言葉を開きたくなります。そこで神様はこう言われます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」(エレミヤ29:11-14)主イエスもまた願っておられるのです。バルティマイに対して、そして私どもに対しても。どうかあなたも見出してほしい、わたしを尋ねてほしい、わたしを求めてほしい。わたしがあなたの近くにいるのだから、わたしがあなたを呼んでいるのだから。だから、安心して立ちなさい!そして、わたしと出会おう!バルティマイは主イエスの名を、心を尽くして呼び求めました。主イエスもバルティマイを呼んだのです。お互いを呼び合う、響き合いが起こりました。そこにバルテイィマイと主イエスとの出会いが起きたのです。救いの出来事が起こりました。そして、私どもまた例外なく、主イエスとの出会い、救いの中に招かれているのです。

 主イエスは、ご自分の呼びかけ、招きに応えてやって来たバルティマイに対して、「何をしてほしいのか」とおっしゃいました。わざわざ聞かなくても、バルティマイの願いが何であるのかをご存知だったと思いますが、敢えて、バルティマイ自身の口で、その願いを言わせたのです。「先生、目が見えるようになりたいのです。」目が見えるようになりたいというのは、肉体の目が開かれるということもありますが、彼が抱えていた悲惨は、心を失っていたといことにありました。それは、心の目が開かれていなかったということでもあります。主イエスは、バルティマイの願いを聞いて、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃってくださいました。そして、願いどおり、目が見えるようになったのです。

 大切なのはここからでして、見えるようになった、その目で何を見て生きるのかということなのです。実は、「何をしてほしいのか」という問いは、今日の箇所の直前36節においても、主がお語りになった言葉です。ここでは弟子のヤコブとヨハネに対して、「何をしてほしいのか」と尋ねられました。けれども、ヤコブとヨハネは何を願ったのでしょうか。彼らは言うのです。イエス様、あなたが終わりの日に栄光をお受けになる時、あなたの右と左に、私たちをそれぞれ置いてください。右・左というのは、右大臣・左大臣ということでしょう。つまり、弟子たちが主イエスに求めたのは、罪からの救いではなくて、自分たちの地位や名誉、権力といったものでした。要するに、誰よりも偉い者になりたいと思ったのです。そのように一番近くにいた弟子たちが、一番主イエスのことをよく分かっていないといけない、よく見えていないといけないはずの弟子たちが実は何も見えていなかったということです。

 では、目が開かれたバルティマイはどうしたでしょうか。主は「行きなさい」とおっしゃいました。「行きなさい」とおっしゃるのですけれども、ではいったいどこに行くのかということです。自分の家に帰って行ったのでしょうか。そして、物乞いをしなくてもいいように、仕事を見つけて、自分の力で稼いで、それで生活を続けていったのでしょうか。そうではありませんでした。彼は開かれた目で、主イエスを見つめ、主のあとに従いました。最後の52節にこうありました。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」今日の物語は単なる癒しや奇跡ということではなく、何よりも主イエスの呼びかけに焦点が当てられています。そして、呼びかけに応えて生きるキリスト者の姿が鮮明に描かれているのです。「命」に「召す」と書いて「召命」という言葉があります。「召し出す」という言葉もあります。主に呼ばれ、主の救いにあずかったならば、そこでじっとなどしていられません。躍り上がるような思いで、主のところに出て行くのです。そして、開かれた目で、主イエスの背中を見つめるようにして、その御跡に従っていきます。元々、道の外れ、道端に座り込んでいた者が、主の呼びかけによって、安心して立ち上がり、そして開かれた目で、主が歩まれる道を歩む者とされます。

 その主イエスの道において、教えられますことは、誰よりも偉くなるとか、誰よりも力を持つことではありません。主イエスに従う道、それはどこに通じるのでしょう。今朝の御言葉の前の箇所、第10章32節では、「一行がエルサレムに上っていく途中」とありました。また、後の箇所、つまり次の第11章1節には、「一行がエルサレムに近づいて」記されています。主イエスが歩まれる道はエルサレムに通じる道です。つまり十字架への道です。その途上で、バルティマイとの出会いがありました。今日の物語は十字架の出来事を先取りするような出会いと言ってもいいでしょう。この福音書を記しましたマルコは、第8章と本日の第10章に、盲人の癒しの出来事を記しています。そして、この出来事に挟まれるようにして、3度にわたって「受難予告」と呼ばれる主の言葉を記しました。つまり、十字架で死に、三日後に復活するということです。けれども、先ほど申しましたように、弟子たちは十字架の意味を理解することができませんでした。理解したのは、このバルティマイだったというのです。

 この後、バルティマイはどうなったのでしょうか。その後の彼の物語が聖書に記されているわけではありません。しかし、一つ手掛かりになりますのは、「バルティマイ」という名前自体がこの福音書に記されていることです。マタイやルカにも同じ物語が記されているのですが、そこでは「バルティマイ」という名前は記されていません。けれども、マルコによる福音書が読まれた教会では、「バルティマイ」という人は、とてもよく知られていたのでしょう。バルティマイもまた、自分に起こった救いの出来事を喜んで教会の人たちに伝えたと考えることができます。

 そして、もう一つ、バルティマイについてはっきり言えることがあるのです。バルティマイはエルサレムに向かう道を歩まれる主に従っていくのですが、自分の目が開かれてから、わずか一週間で、彼は主イエスの十字架を見たのです。そして、そこで十字架の叫びを聞いたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」一週間前、自分が主イエスに叫んだ叫びよりも、遥かに大きく深い叫びが、バルティマイの心を捕らえたことでありましょう。神の御子であられる主イエスが、神に見捨てられ、神から突き放される、そのようなところで叫ぶ叫びを聞きながら、震えるような思いがしたのではないでしょうか。私ども人間が本当に苦しまなければならないものとは何であるのか。またその苦しみから解き放たれなければいけないものは何であるのか。そして、本当に私どもが安心して立つことができる場所はどこであるのか。そのことを主イエスの十字架の叫びをとおして、バルティマイは改めて知ったのだと思います。主の十字架の叫びに、深い恐れを抱きながら、しかし、その十字架の叫びに生かされ、救われるという恵みの経験をしたのです。しかも、主に従うその道の中で、主の十字架の意味を深く悟ったのです。

 十字架の出来事から三日後、主は予告しておられたようにお甦りになりました。復活の主は、弟子たちや他の多くの人たちに対してそうしてくださったように、復活の主自ら、バルティマイのもとを訪ね、「平和があるように」と告げてくださったことでしょう。その時に、「ああ、あの時に、安心しなさい。立ちなさい」と言って、自分を招いてくださった主の言葉が、これまで以上に、いのちの満ちた言葉として迫ってきたことでありましょう。「立ちなさい」という言葉は、「起き上がる」とか「復活する」という意味の言葉です。主イエスの呼びかけ、主イエスの招き、それは私どもを真実に生かすいのちの言葉です。罪と死の恐れからも私どもを解き放ち、躍り上がるほどの自由と喜びに解き放つ力ある言葉です。

 「安心しなさい」これは色んな意味があると申しました。安かれ、元気を出しなさい、恐れることない、心を持ちなさい…。そして、ヨハネによる福音書第16章にも、「安心しなさい」という言葉が用いられています。ここは主イエスの「遺言説教」と呼ばれるもので、最後の晩餐の席で弟子たちに語られた遺言のような御言葉です。その説教の最後で主は弟子たちにこうおっしゃいました。ヨハネによる福音書第16章33節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」十字架を前に、最後の最後にどうしても伝えたかったメッセージがここにあります。そして、今、キリスト者として苦難多き世を歩んでいる私どもにどうしても聞いてほしいという御言葉がここにあるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」「勇気を出しなさい」という言葉、これが今日の箇所で言われていた「安心しなさい」という言葉と同じ言葉なのです。主イエスは罪に対して、死に対して十字架と復活において勝利してくださったお方です。主に呼んでいただき、主と共に、信仰の仲間と共に歩む道はいのちの祝福に満ちた道です。けれども、私どもは知っています。自らの罪を、弱さを。再び、心の目が霞んでしまい、主イエスのお姿を見失いそうになってしまうということを。世には苦難があるからです。神に敵対する力あります。自分の心では受け止めきれない悲しみに襲われることもあるでしょう。主に従い切れない自分に失望することもあるでしょう。これから進んでいく新しい道において、不安を覚えることもあるでしょう。

 しかし、復活の主は、私どもに呼びかけていてくださいます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」私どもが安心して立ち、そして、新しい歩みをここから始めていくことができるように、主は私どもを呼んでくださいます。この朝もいのちが呼んでくださったからこそ、ここに集うことができました。ここから始まる新しい週の歩みが、いやすべての日々が、ただ主の呼びかけによって支えられ、それに応えて歩むものとなりますように。祝福を祈ります。お祈りをいたします。

 私どもの心の目を開いてください。開かれた目で、主の十字架をしっかりと見つめ、救いの喜びにいつも生かしてください。私どもに呼びかけ、招いておられる主の御声に生かされ、最後まで主の道を歩み抜くことができますようにお導きください。イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。