2023年03月12日「うめくこと、望みに生きること」

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うめくこと、望みに生きること

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章18節~30節

音声ファイル

聖書の言葉

18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。19被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。24わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。ローマの信徒への手紙 8章18節~30節

メッセージ

 私どもが日々、耳を傾けています「いのちの言葉」、つまり、聖書にはいったい何が書かれているのでしょうか。聖書は「世界のベストセラー」と呼ばれています。キリスト者以外の多くの方々が聖書を手に取り、読んでいることでしょう。読む人の関心によって、受け取り方も様々ですし、「聖書には何が書かれているのか?」と問われましても、皆の答えが一つに揃うわけではないでしょう。しかし、私どもキリスト者にとりましては、おそらくですけれども、その答えはだいたい一致しているのではないかと思います。聖書の中心メッセージとは、「神の救い」であるということです。そのために、イエス・キリストがこの世界に来てくださり、十字架に死に、甦ってくださったということです。イエス・キリストをとおして与えられる救いを受け入れる時、私どもは罪赦され、神と共にある永遠のいのちに生かされるのだと聖書は私どもに告げています。

 ただ、「救い」と一言で言いましても、色んな救いがあります。聖書は罪からの救いを語りますが、人によっては、罪のことよりも、健康のことであったり、人間関係であったり、貧しさであったりというふうに、目の前の様々な困難から救ってほしいと切実に願う人はたくさんいます。先週は、詩編の御言葉から、人というのは神の守りなしには、いついかなる時も生きていくことはできない存在であるということをお話しましたが、同じように人は色んな救いを求めて生きているのだと思います。聖書が語る救いの中心にあるのは罪や滅びからの救いですが、だからと言って、それ以外の救いを人は求めてはいけないのかというと、決してそんなことはありません。私たちキリスト者も礼拝の中で、また日々の歩みの中で、罪の赦しと憐れみを願いますが、他にも「神様、救ってください」と真剣に願っていることはたくさんあるのではないでしょうか。

 2週間前の2月26日の礼拝で、本日お読みした箇所のすぐ前、ローマの信徒への手紙第8章12〜17節の御言葉を読みました。その続きに当たる箇所が今朝の18節以下の御言葉です。ここで繰り返し語られていた言葉があります。それが「うめき」という言葉です。あまりに苦しくて助けを求めたい、救いを求めたいにもかかわらず、その思いを言葉にして、声にして叫ぶことができません。言葉が出てこない、うめくことしかできないのです。私どももそのような経験を、洗礼を受ける前だけではなく、洗礼を受けてからも経験いたします。17節にもありましたように、神の子とされた私どもは、キリスト共に苦しみをも共有するのです。

 では、地上の歩みにおいて経験するあらゆる苦しみはいったい何を意味するのでしょうか。私どもはこのことを絶えず御言葉から学ばなければいけません。そうしませんと、ただ苦しいだけで終わってしまうからです。神の救いというのは、神の福音とも言われます。福音とは喜びの知らせという意味です。キリストによって救われるという、これ以上にない喜びの知らせを聞き、それを信じた者たちの生活というのもまた、喜びに満ちた生活です。あるいは、24節に「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」とありました。救われた者の生活の中心にあるのは希望であるということです。いつも喜びと希望に満ちた生活をしているのが、キリスト者であると言えるのですが、それでも私どもはうめくような苦しみを経験します。喜びや希望がかすれて見えてしまうような信仰の危機を経験することもあるのです。そこでどう生きるか?そこでどのようにしてなお喜びと希望に立つのか?このことは、キリスト者として極めて重要なことですし、まだ洗礼をお受けになっていない方にとりましても、無視することができない大切な問いではないかと思います。

 ところで、聖書には神の救いが書いていると最初に申しましたが、救いを求めているのは人間だけなのでしょうか。あるいは、神様が救いたいと願っている対象は私ども人間だけのでしょうか。実はそうではないということが、今日の御言葉の中で語られています。うめいているのは人間だけではないということです。19節以下に記されていますように、「被造物」もまたうめきつつ、しかし、そこで希望を抱きながら、救いの時を待ち望んでいるというのです。「被造物」というのは、人間のことではなくて、人間以外の被造物のことを指しています。神様は人間をお造りになる前に、海や陸、動物や植物など、私どもが生きているこの世界をお造りになりました。何のためにお造りになったのでしょうか。神のかたちに造られ、創造の冠と呼ばれている私ども人間が、快適に生きることができるためでしょうか。もちろんそのような意味もありますが、神に造られた他の被造物もまた、神様を賛美し、神様の栄光をあらわすものとしてここにあるということです。旧約聖書の詩編を見ますと、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」という言葉がいくつも記されています。神様を喜ぶのは、私たち人間だけではなくて、被造物もまた同じなのです。

 けれども、その被造物が、19節にあるように、「虚無に服している」というのです。虚無に服すというのは、不足しているとか、本来の目的を達成していないという意味です。まるで罪人が神の栄光をあらわすことができなくなっているように、神に造られたこの世界もまた呪われた存在になってしまったということです。私どもは今、その大地の上に立って生きているのです。私どもが経験するうめくような苦しみ、その苦しみはどこからやって来るのでしょうか。苦しみの正体・原因と呼べるものとはいったい何なのでしょうか。また、一括りに「苦しみとはこういうことだ」と言うことはできませんが、長い歴史の中で、私どもが度々経験してきた大きな苦しみとは、例えばどういうものがあるでしょうか。旧約聖書の預言者にエレミヤであるとか、エゼキエルという人がいますが、彼らは私ども人類が歴史の中で直面する災いが3つあると指摘します(エレミヤ14:12、エゼキエル12:16)。一つは「剣」。二つ目は「飢饉」。最後の三つ目は「疫病」です。剣というのは戦争のことです。飢饉というのは、飢饉を含む自然災害のことです。疫病は病や感染症のことです。剣、飢饉、疫病、これらによって今も私どもは苦しんでいます。私ども人間だけではありません。被造物がこの世界全体がうめいているのです。

 昨日で、東日本大震災から12年が経ちました。関西に住む私どもは直接被災したわけではありませんが、ニュースや映像をとおして大きな痛みを経験しました。28年前には私どもの多くは阪神淡路大震災を経験しました。地震や津波以外にも台風や大雨、洪水など、毎年自然災害が絶えません。まるで自然が牙を向き、私たち人間の世界を襲ってきます。東日本大震災では津波が多くの被害をもたらしました。海の近くに住んでいた人たちがいのちを失いました。漁師をしている方など、海という場所が自分たちにとって生きる場所、生活していくための場所でした。しかし、震災以降、海を見るのも嫌、海に近くことさえ怖くなったという人たちがいました。確かに自然というのは脅威です。それでも、自然と上手く共存して生きているのが人間です。けれども大きな災害によって、それがもたらす悲劇によって、もはや人間にとって自然が敵のような存在になってしまうということがあります。また、津波だけではなく、原発事故によって、大地が放射能で汚染され、故郷を追われた人たちがたくさんいるということをも忘れてはいけません。

 また、昨年2月にロシアの侵攻によって始まったウクライナでの戦争が続いています。お互い剣を取り合っています。1年経っても戦争が終わるどころか、ますます激しくなっています。一人一人のいのちが尊ばれることなく、武力によって簡単に奪われてしまいます。ニュースなどで目にする町の様子もまた、自然災害のようにこの世のものとは思えない光景ばかりです。瓦礫の山と化し、人々の涙が、流血が大地に染み込んでいます。ウクライナの平和のために、ウクライナだけでなく世界の平和のために、また、戦いの地でうめく者たちのために、私どももまたうめくように祈ります。「神よ、憐れんでください」という祈りを消してはいけません。

 疫病ということにおいても、私どもがすぐに思い起こしますのは、新型コロナウイルス感染症のことです。本日発行された月報にも記しましたが、コロナ禍から既に3年を数えました。今は落ち着いた状況下にあるかもしれませんが、今回のコロナ禍によって、普段の生活もそうですし、教会生活においても対応が迫られました。大きな変化を経験する中で、心身共に疲れ果てたという人もいるでしょう。何よりもこの新しい疫病によって、多くの人たちがいのちを失いました。その悲しみが癒えることはありません。これらの自然災害や戦争や疫病というのは、最近始まったことではなくて、昔から人々が経験してきた大きな苦しみです。キリスト者であっても、なくても共通してこれらによってうめき苦しんできたのです。

 私どもは大きな苦難を経験します時に、「どうしてこんなことが?」と言って嘆きます。そこでなぜこういうことが起こったのか、その原因を突き止めようとします。しかしたとえ原因がわかったとしても、理屈を説明されても納得できないことはいくらでもあります。学者たちが、震災が起こったのは、地殻変動が起こって、それが原因で津波が発生したと詳しい説明を聞いても、なお「どうして」という意味は残り続けるのだと思います。原因が分かっても、苦しみを引きずったまま、この地上を生きていかなければいけないということがあるのです。

 

 また聖書が語るのは、災害や疫病や戦争が起こったらから、それによって、はじめてこの世界が暗くなった、生きづらい場所となったということではないということです。元々、この世界は生きづらい場所であり、闇に包まれた場所であったということです。被造物は虚無に服し、被造物は滅びへの隷属の中にあります。ただそれは、被造物自体が悪いということではないのです。20節には、「自分の意志によるものではなく」とあります。人間のように自分の意志で神の戒めに背き、罪をおかしたのではないということです。「服従させた方」、つまり神様ご自身の意志・ご計画によるものだということです。だから、18節に「現在の苦しみ」とありますが、これは今生きているこの時というのは、苦しみの時だということです。今自分は苦しくも何ともない、今自分は本当に幸せだと思っている人も、実は今苦しみの時を生きているのです。また、それぞれが今抱えている苦しみから解放されたとしても、苦しみの時を生きているということに変わりはないのです。

 それにしてもなぜ神様はご自分がお造りになった被造物を虚無に服すということをなさったのでしょう。実はこのことを深く関わっているのが、私ども人間であるということです。人間の罪ということと深い関わりがあるのです。人間が造られた目的は、神の栄光をたたえるためですが、同時に、神がお造りになった被造物を正しく治め、管理する使命を与えられました。創世記第1章28節に次のような御言葉があります。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」この御言葉どおり、人間が被造物を治める時、この世界が、全地が神様に向かって喜びの叫びをあげます。けれども、アダムとエバから始まり、その子どもカインもまた神様の前に罪をおかしました。アダムとエバがおかした罪によって、土は呪われたものとなり、本来喜びであるはずの労働が虚しいものと変わってしまいました。また、人類最初の殺人は兄弟同士によるものです。兄カインが弟アベルを妬み、殺したのです。弟アベルが流した血が、大地に染み込みました。それ以降、すべての被造物は人間と同じ運命を共にするようになりました。被造物もまた本来の生き方をすることができなくなったのです。そこに自然災害であったり、環境破壊などの大きな問題が生じるようになったのだと、聖書は語るのです。神様は弟を殺したカインにおっしゃいました。「何ということをしたのか。その血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」うめきや嘆き、それは人間だけ、被造物だけというのではありません。何よりも、この世界をお造りになった神様が誰よりもうめいておられるということです。

 救われるべき対象というのは、人間だけではありません。被造物もまた、救われるのを切に待ち望んでいます。他の聖書の箇所には、来るべき救いの日には、新しい天と新しい地が与えられることが約束されています(ペトロ二3:13)。19節にありました、「切に」待ち望むというのは、首を長くしてという意味です。それだけ心から、真剣にということです。それは被造物が苦しいからうめいているからというふうにも言えますが、この手紙を書いたパウロは、ただ被造物がただうめいて苦しんでいるというのではなくて、実はそこで希望をもって待ち望んでいるのだと語ります。将来与えられる希望のゆえに、首を長くして待ち望む。生き生きとした姿で待ち望むというのです。22節では、「産みの苦しみ」という表現もしています。陣痛、出産の苦しみは激しいものですが、その先に与えられる新しいいのちの誕生を待ち望むがゆえに、母親は痛みや苦しみに耐えるのだというのです。

 また、興味深いのは19節の御言葉です。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」細かいことですが、被造物が待ち望んでいるのは「神の子」ではなく、「神の子たち」です。つまり、被造物は「神の子」であるイエス・キリストを待ち望むのですけれども、その前に「神の子たち」である私たちが現れるのを待っているというのです。私どもが本当に神様の子どもとされた時、つまり、完全に救われた時、それは同時に被造物全体にとっても救いとなります。なぜなら、私どもが罪から完全に救われた時、その人間によって、被造物が正しく治められ、それゆえに被造物は本来の目的である神の栄光をあらわすものとされるのです。だから、洗礼を受けた時、喜んでいるのは神様や教会の人たちだけではなくて、被造物全体が私がキリストのものとされたという出来事を喜んでいると言うことができるのです。

 そして、23節以下では、被造物だけでなく、「わたしたちも」と言って、今度は神の子とされた私どもキリスト者の将来の約束のことが語られます。わたしたちというのは、「霊の初穂」をいただいている私たちです。「初穂」というのはその年の最初の実りを意味しますが、初穂に続いて、その後も豊かな実り、収穫が約束されているということを意味しています。第8章で語られていることは、キリストによって救われるというのは、「霊」、つまり、聖霊が与えられるということです。私どもは、聖霊といういのちの息を呼吸しながら、とりわけ「アッバ、父よ」と祈りつつ、救われた喜びに生きるのです。さらに、聖霊というのは、11節で言われていたように、主イエスを復活させた方の霊であるということです。その霊が私どもの内に宿っている。それゆえに、死ぬはずの私の体がなお生かされるのだ。復活の望みに生きることができるのだと語ります。ですから、23節でも「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と語っています。救われる、復活するというのは、心や魂だけの問題ではなく、体を含む全存在にまで及びます。私どもが生きるこの地上には、苦しみがあり、思いがけないことが突然起こります。何か起こったことのために、懸命に備えていても、それでも受け止め切ることができないほどの大きな苦しみに襲われることがあります。本当にうめかざるを得ないのです。

 けれども、神様の子どもとされている私どもは、うめいて、それで終わるというのではなくて、うめきつつ、なお望みを持って生きる者とされています。霊の初穂が与えられているのですから、既に今ここから望みをもって確かな歩みを重ねることができます。最初の18節でも「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とありました。「取るに足りない」というのは、「天秤」を意味する言葉です。今の苦しみを片方の秤に乗せます。もう一方に何を乗せたら苦しみが解決するのでしょうか。苦しみが生じたその理由や原因といったものを乗せることでしょうか。そうではありません。私どもは苦しいことを経験しますと、つい後ろを振り返って、ああでもない、こうでもないとその原因を考えるのです。しかし、先程申しましたように、それでは人は救われません。ここでパウロが語りますように、今の苦しみと釣り合うのは、いや、それを救うのは、将来起こることだというのです。「将来わたしたちに現されるはずの栄光」ということです。主イエスが生まれつき目の見えない人を癒したという物語が福音書には記されていますが(ヨハネ9章)、その時、主は、「この人が生まれつき目が見えないのは本人が罪をおかしたのでも、両親が罪をおかしたのでもない。神の業がこの人に現れるためだ」とおっしゃいました。過去に起こった未曾有の出来事、それによって生じた苦しみや悲しみといったもの、それ自体は何も変わらないのです。起こってしまったものは仕方がないと言えばそうかもしれませんし、過去を追求したところで、私どもは本当には癒されないのです。救われないのです。私どもの救いというのは、今神様があなたにしてくださることにかかっているということです。また、神様があなたの将来のために既に備えていてくださる栄光にかかっているということです。

 だから、希望をもって歩もうとパウロは教会の人たちを励まします。24〜25節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」「希望によって救われている」というのは、分かるようで分かりづらい言葉ですが、要するに、私たちが救われるというのは、どのような時も希望によって生きることができるということです。決して、自分たちの力でというのではなく、ただ神様の恵みによって、ただ神の霊の助けによって、希望に生きることができるということです。だから、26節以下では、詳しく触れる時間はないのですが、聖霊ご自身が、苦しみうめく私たちのために執り成してくださるということが言われています。私どもの弱さというのは祈ることができなくなるということです。苦しみの中で祈りの言葉を失い、呼吸困難に陥ることです。うめくことしかできなくなります。しかし、聖霊が私どものうめきを共有してくださいます。それだけでなく、うめくようにして、神に祈ってくれるというのです。「アッバ、父よ」と祈ってくれるのです。だから、どのような苦しみの中にあっても、神様との交わりが途絶えてしまうことはありません。いつも神様のいのちの息に生かされ、神様と共にある幸いを喜ぶことができます。

 この地上を歩む中で、戦争や自然災害や疫病といった大きな苦しみが、突如私どもを襲います。それらは、私どものいのちをも呑み込む力を持っています。他にも、家族のことや、仕事や学校のこと、人間関係のことなど、それぞれが苦しみを抱えながら生きていることでしょう。しかし、それらのことは、「この世界が元々そういう世界だから悪いんだ」ということではないと思うのです。私たち人間も被造物も造られた時、神様から「極めて良かった」と喜び満足していただいた存在であるということです。それが人間の罪によって、この世界に暗い世界となってしまいました。希望を見出すことができず、死と滅びの運命をただ受け入れる他ありませんでした。しかし、そのような世界に、神様はイエス・キリストをお遣わしくださいました。ダビデ王が詩編の中で歌ったように、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という有名な御言葉が、キリストのゆえにもっと確かなこと、もっと真実なこととして私どもに迫ってきます。

 だから、うめくような苦しみの中でも、将来与えられる望みに生かされるのです。キリストにある信仰をもって、苦しみを受け止め、前を向くことができます。その終わりの日に与えられる希望というのは、目に見えないのだとパウロは25節で言いました。神様ご自身がまだ私どもの目に見えないということも意味しています。また、うめきの中でもし目に見えるものばかりに頼ろうとするならば、必ずそれらのものによって振り回されます。もちろん、目に見えるものに助けられるということもあるのですが、その根本において、もし目に見えない神様に望みを置いていなかったらとしたならばどうなるのでしょうか。それは、神様も、信仰に生きることも私には必要ないということになります。そこに救いはないのです。ではどうしたら、目に見えないものに望みを置くことができるのでしょうか。最後まで、目に見えない神様に望みを置いて生きることができるのでしょうか。それは、聖霊に導かれ「アッバ、父よ」と祈ること、叫ぶことによってです。祈らなければ何も見えなくなるのです。神様のことも分からなくなりますし、それゆえに、自分のこともよく見えなくなるのです。自分を見失ってしまうのです。だから、私どもは祈らなければいけないのです。祈らないというのは、肉の欲、貪欲に捕らわれていることのしるしでもあります。祈らないというのは、神様以外のものによって、生きようとしているということです。そこに望みは見えてこないのです。

 私どもが苦しいと感じるのは、うめきたくなるのは、大切なものを失ったからでしょう。だから、まず願うのは、失われたものが戻ってくるとことだと考える人が多いと思います。中には絶対に戻ってこないものもあります。それでも、復興であったり、再建であったりというふうに、元の生活に戻そうと、皆が力を合わせて頑張ります。キリスト者であるかなしか、そんなことは関係ありません。一つの国や一つの世界を巻き込むような悲惨を経験しますと、人間というのは良い意味で変わります。心が動かされ、助け合い、愛し合います。震災の時にも「絆」ということの大切さが何度も訴えられていました。自分のことしか考えていなかった人が、苦しんでいる人のために、自分の時間やお金をささげるようになりました。自分の生活を犠牲にしてでも、苦しんでいるあの人たちが少しでも元気になってくれたらそれでいいと思えるようになりました。また、自分に与えられている賜物を精一杯生かして、苦しんでいる人を励まそうと思いました。今まで見失っていた人としての尊い生き方を苦しみの中で見出したのです。そういう姿というものを、最近ではコロナ禍であったり、震災の際に身近なこととして目にしてきたのではないでしょうか。そのような人間の姿というのは本当に尊いもの、美しいものだと思います。

 そのような中で、私どもも一人の人間としてということもありますが、キリストに救われ、神の霊を与えられた者として、苦しみをどう受け止めるのかということが、いつも問われているのではないでしょうか。それは難しいことではなくて、本当に幸いなことだと私は思います。それはいつも神様の前に立ち帰って物事を考えることだからです。失った生活を取り戻すこと、元の生活に戻ることができること。そのために一所懸命になること。このことは本当に喜ばしいことです。しかし、それ以上に、神様のところに戻っていく生活が、いかに大事であるのか。私どもキリスト者は、様々な苦しみを経験しながら、そのことをいつも思わされるわけです。うめくような現実の中で、自分が神様の御前に低くされるということも起こります。こんなに今自分が苦しんでいるのは、「明らかにあの人のせいだ」「あのことがあったからだ」と言いながらも、ふと神様のことを思い起こします時に、不思議なことに、自分の罪が見えてくるということもあるのだと思います。また、決して軽率な仕方で、「こういう悲惨な出来事が起こったのは、自分の罪のせいだ、あの人たちの罪のせいだ。だから裁きが下ったのだ」などというふうに言うべきではないと思いますが…。しかし、その上で自然の災害など神様がお造りになった世界が大きな力をもって、私たちの前に迫って来た時に、実はこの世界も人間のいのちも死もすべてをお治めになっておられる神様という方が、今も生きてここにおられるということに改めて気付かされるのです。そこで、畏れおののくということが起こるわけです。神様を真実に恐れる時に、本当に自分が小さくされるということがあるのです。そして、同時に、「恐れるな」と言って、救いの御手を差し伸べてくださる神様との出会いが与えられるのです。その時に、ああ自分にとって大事になのは、神様のところに戻ることだったのだ。つい忘れてしまっていた。神様、申し訳ございません。そう言って、神様の前に悔い改め、感謝し、賛美するということが実際に起こるのです。私どもにとって、何が尊い生き方であるのかを、毎週、礼拝の中で神様から教えていただくのです。そのようにして、地上における信仰の歩みを重ねていきます。自分一人だけではなく、教会の仲間と共に、聖霊なる神様と共に、うめきつつ、しかし、望みをもって生きていくのです。復活の主イエスのいのちの息を呼吸しながら、「アッバ、父よ」と祈りつつ歩んでいくのです。そこに神様に造られた人間の尊い姿があるのです。お祈りをいたします。

 うめくような現実の中にあっても、主イエスを復活させたもう御霊の力に支えられながら、神と共にあるいのちの歩みを重ねていきます。予期せぬこと、不条理としか思えない大きな出来事に呑み込まれ、言葉を失ってしまうことの多い私どもです。しかし、それら一つ一つの苦しみを、信仰をもって受け止めることができますように。キリストにある救いの喜びが、私どもの苦しみをとおしても、豊かに用いられ、御国が前進しますように。主イエスが再び来てくださることに希望を置き、すべての被造物が御名をほめたえるという、本当に壮大な信仰の幻に生きることができるように、これからも御言葉と御霊をもって励ましてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。