2023年02月05日「疑いによって救われる」

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疑いによって救われる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 14章22節~33節

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聖書の言葉

22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。マタイによる福音書 14章22節~33節

メッセージ

 旅路に譬えられることの多い私どもの人生ですが、聖書ではよく船旅、航海に譬えられることがあります。弟子たちが舟に乗り込んで、向こう岸を目指すように、キリスト者たちは「教会」という舟に乗って進んで行きます。陸路であっても、海や湖の上であっても、共に危険が伴うということに変わりはありませんが、やはり水の上、海の上というのは特別な怖さというものがあるのではないでしょうか。海や湖の水そのものが、絶えず揺れ動いていて、不安定なのです。もちろん、その上にしっかり立つなどということはできません。だから、舟に乗って進んで行きます。その舟もまた豪華客船のような大きなものではなくて、小さなものです。大きな嵐に襲われたひとたまりもないのです。それにもかかわらずに、私どもが舟に乗って信仰の旅路を続けていくことができるのは、そこに主イエスが共にいてくださるからです。

 福音書の他の箇所では、弟子たちと主イエスがガリラヤ湖を舟で進んでいた際、嵐に襲われて、沈みそうになったという今日の物語とよく似た話が記されています。マタイによる福音書では第8章23節以下に記されています。その時、弟子たちは舟が沈まないように必死でした。しかし、主イエスは嵐の中、ぐっすり眠っておられたというのです。どんな嵐の中でも、いのちの危機の中にあっても、安心して父なる神様に身を委ねておられる主イエスの姿に深く慰められるような思いがいたします。ただ、その時一緒にいた弟子たちにとってはそれどころではありませんでした。こんなたいへんな時になぜ眠っておられるのか。なぜ何もしてくださらないのか。弟子たちは主イエスを起こします。主は弟子たちの無理解をたしなめられました。けれども、主は弟子たちの恐れの原因となった嵐を静めてくださったのです。

 一方で、今日の物語ですけれども、舟に乗っているのは弟子たちだけです。主イエスは不在です。山に登って祈っておられました。ご自分の働きのために、人々の救いのために一人静かに祈っておられたのです。ただ弟子たちはこの時不安だったでしょう。主イエスがおられないからです。このことも、地上の教会の姿と重なります。もちろん主イエスは聖霊において共にいてくださいますが、肉の目でそのお姿を見ることができないからです。自分たちの目で見ることができないというところに、私どもの信仰の小ささ、弱さが顕著に表れます。そして、案の定と言いましょうか、この時弟子たちは、真っ暗なガリラヤの湖の上で強い逆風に悩まされました。夜の闇と波の力によって、行くべきところを見失ってしまうのです。恐れの中にあっても、深い闇に取り囲まれたかのような中になっても、そこでどのような道を見出すのか。試練の中で絶えず問われていることでもあります。この時、湖の上の弟子たちも同じでした。ここからどこに進んで行けばいいのか。そもそも主イエスがおられないではないか。主に従うにも従いようがないではないかと思ったかもしれません。

 それに、1節にありましたように、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せた」のです。自分たちの意志ではありません。信仰の歩みは、自分の思いではなく、主の御心に従うことです。私の思いを超えて、神様が私の歩みを導かれるということです。そういう意味で言えば、神様に強いられて従っているという言い方もできるのです。この事実を一人一人がどう受け止めるのか。このことも神様からいつも問われていることです。主よ、あなたがこのようなことを私たちに強いたから、こんな危険な目に遭ったではないかと反発してしまうということもあると思うのです。神様の思いと私どもの思いが絶えずぶつかる中で、何を選び取ったらいいのでしょうか。そのことさえもよく分からなくなってしまうということもあることでしょう。

 そのようなところに、祈りを終えられた主イエスが山から降りて来られます。そして、行き悩む弟子たちのところに来てくださいました。25節「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。」信仰の問題で行き詰まる時、いつも助けは主イエスのほうから来るのです。私たちは主のところに行くことはできません。しかし、主イエスが来てくださいます。それも、ここでは舟に乗って助けに来られたのではなく、闇の中、また波が激しい中、湖の上を歩いてやって来られました。聖書において、海であるとか、水というのは「死」の象徴として描かれることもあります。創世記の初めを見ますと、天地創造の前に、「地は混沌で遭って、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:1)とあるとおりです。主イエスは死の力、闇の力が支配するような水の上を歩いて来られます。つまり、罪も死もあらゆる苦難も、ご自分の足下にあるということです。ご自分の支配の中にあるということです。まさに、救い主として、真のいのちと光をもたらすお方として、湖の上を歩き、弟子たちのもとに、もちろん私どものもとにもやって来てくださいます。行くべき道、進むべきいのちの道を切り拓き、そこに招くためです。ですから、25節冒頭の「夜が明けるころ」というのは、ただ時間の経過を表す言葉ではなくて、主イエスが甦れた日の朝の光を意味すると多くの人が指摘します。朝日よりももっと明るいいのちの光、希望の光として主は来てくださるのです。

 ところが、弟子たちはと言いますと、26節を見ると分かるように、「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」というのです。子どもたちに言わせれば、「お化けだ」ということでしょうか。いい年齢をした人間が「幽霊だ」と言って怯えるなんてと思うことでしょう。近づいて来られる主イエスを見て、何か別のものに見間違えたというのではないのです。自分たちの目に映るのは明らかに主イエスなのです。ではなぜ「幽霊だ」などと言って怯えたのでしょうか。これは信仰の問題なのです。幽霊というのは、本来いるはずのない存在ということです。そのいるはずのない者が、湖の上を歩くという、これもあり得ないような仕方で近づいてくる。これはもう恐怖でしかありませんでした。では、いるはずのない者がいるということはどういうことでしょうか。それは、深い悩みの中に、主イエスがいるはずなどないと思い込んでいたことです。信仰に生きていますから、当然、主イエスを信じています。いつも共にいてくださるということも信じています。けれども、予想外の思いがけない出来事に襲われる時、意図も簡単に主イエスを見失うのです。主イエスはおられるのだけれども、さすがに今自分が経験しているこの苦しみ、この悲しみの中にまでは来てくださらないだろう。あの時、主は確かに私を助けてくれたけれども、今回のこの苦難の中にまでは、さすがに主は来てくださらないだろう。今回ばかりは主イエスでも無理だと言って、自分の中で勝手に、主イエスがいないことにしようとしているのです。主イエスの恵みを自分の中で小さくしているのです。しかし、主イエスの恵みというのは自分の手の中に収めることができるような小さなものではありません。逆に主イエスの大きな恵みの御手に再び捕らえられることによって、その大きさ、強さを知るのです。主イエスの恵みというのは、その真ん中に立つことによって、その恵みの広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるのです。

 弟子たちは、「幽霊だ」と言って、主の恵みの大きさを再び見失いそうになりました。けれども、27節にあるように、主イエスは「すぐ」弟子たちに話しかけられたというのです。思い悩み、行き詰まる私どものところに、主イエス自ら近づいてくださいます。そして、すぐに声をかけてくださいます。どれほど、主イエスの前で不信仰な姿を晒してしまったとしても、主は私どもから離れようとはなさいません。主は弟子たちに一言、こうおっしゃいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」多くの信仰者たちが慰められてきた主イエスの言葉でありましょう。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」幾度でも聞きたくなるような言葉です。この「安心しなさい」という言葉ですが、他のところでは「元気を出しなさい」と訳されることがあります。例えば、病気の人を癒す場面です。安心するというのは、何かホッとして、心おだやかにというイメージがありますが、それだけではなく、元気になる、病にも打ち勝つということです。だから、主イエスから安心が与えられるというは、元気になる、強くなるということです。だから、他にも「勇気を出しなさ」と訳されることもあります。自分と敵対する人たちやこの世の力によって苦難を味わうことがあります。でもそこで勇気を出して生きられるのです。ヨハネによる福音書の御言葉ですが、主イエスは最後の晩餐の席で説教をなさいました。その最後に弟子たちにこうおっしゃったのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)神に敵対する世、つまり、罪と死の力に主イエスは既に勝利しておられるのです。だから、恐れることはないのです。この福音書が初めに読まれた時代もそうでしたが、迫害が厳しい時代でした。毎日が死と隣り合わせです。しかし、そのような苦難の中にあっても、勇気を出し、元気を出し、安心してキリスト者の歩みを貫いたのです。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」真ん中の「わたしだ」という言葉ですが、これは「幽霊ではない。わたしだよ」ということではないのです。「わたしだ」という一言に、実は深い意味が込められるということです。旧約聖書の出エジプトの中で、神様がモーセの前に現れた時、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)と言って、ご自分のことを紹介してくださいました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」という不思議な言葉ですが、これは「わたしこそ神、生きて働く神」「わたしはあなたと共にいる神」という意味の言葉です。神様というお方は、どこまでもあなたと共にいたいと願っておられる神であるということです。私どもが神様を見失いそうになり、慌てふためいている時にも、罪に苦しむ時も、死を前にして恐れる時も、神様はあなたと共にいたいと願っていてくださるということです。あなたと共にいるために、私どもを脅かすあらゆる苦難や恐れの中に共に立ち、それに打ち勝ってくださり、安心を与えてくださいます。忍耐が強いられる時も、勇気と元気を与えてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 この主イエスの言葉に誰よりも早く反応したのは、弟子のペトロでした。何でもすぐに答え、実行しようとするペトロらしい姿がここにもあります。ペトロは主に答えます。28節「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」「主よ、あなたでしたら」という言葉は、「主よ、もしあなたが幽霊ではなく本物の主イエスでしたら」ということではなくて、「主よ、あなたでしたか」「主よ、あなたこそ、生きて働く神ですね」「あなたこそ、私と共にいてくださる神なのですね。ありがとうございます。」ということです。そして、主の言葉に信頼して、自分も主のもとに行きたいと願いました。あなたが命じてくだされば、その言葉の力を信じて、水の上に足を踏み出して行くことできます。だから、御言葉をください。御言葉の確かな力に私を生かしてください。

 主はペトロにおっしゃいました。「来なさい。」「ペトロよ、わたしの言葉を信じて、わたしのところに来るように。」ペトロは主の言葉に導かれて、自分の足を湖の上に踏み出して行きます。最初は恐れがあったかもしれません。でも一歩、また一歩踏み出して行きます。するとどうでしょうか。水の上に立ち、水の上を歩くことができたのです。そして、主イエスのところに近づいて行きます。ペトロは主イエスの言葉を聞き信じるところで、不可能だと思っていた本当になり、実現していくことを知りました。御言葉に聞き従う歩みの中で、その言葉が確かなものとなっていく。そのようにして自分の歩み、生き方も確かなものとされていくという大きな喜びを知りました。ペトロはとても嬉しかったに違いありません。

 しかし、次の30節から物語は再び大きく展開していきます。30節「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」御言葉の確かさに喜びを覚えたペトロでしたが、再び恐れに捕らわれることになります。湖の上を歩いていたペトロの目線の先にあるのは主イエスです。主イエスだけのはずです。けれども、「強い風に気がついて怖くなり」とあるように、風に怯え、風によって激しく揺れる波を見て恐れました。その途端、沈みそうになり、思わず、「主よ、助けてください」と叫んでしまいました。

 叫びを聞いた主イエスはどうなさったのでしょう。次の31節です。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」主は沈みそうなるペトロの手を捕まえ、助けてくださいました。そして、助けの御手、救いの御手の中で、ペトロにこうおっしゃいます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」主は、「なぜ恐れたのか」「なぜ勇気を出すことができなかったのか」などとはおっしゃいませんでした。「なぜ疑ったのか」とおっしゃったのです。ペトロは風や波が怖かったのではありません。疑っていたのです。疑いを持つということが、信仰が薄いということでもあります。信仰が薄いというのは、信仰が小さいということです。「疑う」という言葉は、「二つのものを見る」という意味です。見るべき一つのものを見ないで、もう一つの別のものを見てしまいます。それが疑うということです。ペトロは主イエスだけを見て、主イエスの言葉だけを信じて、湖の上を歩くべきでした。しかし、それができず、強い風や波に目を奪われたのです。沈みそうになったのは、波が大きかったからというのではありません。主イエスの言葉を信じ、信頼することができなかったからです。御言葉が持つ強さ、確かさに自分を委ねることができなかったからです。主の言葉に従って歩んできた、これまでの一歩一歩が波に呑まれてしまうかもしれないと思ったのです。

 マタイによる福音書では最後の第28章で、もう一度だけ、「疑う」という言葉が用いられます(新約p 60)。ガリラヤの山の上で、復活の主イエスと弟子たちが出会う場面です。目の前に復活の主がおられ、その主の前にひれ伏し、つまり、礼拝しつつも、そこに「疑う者もいた」(マタイ28:17)というのです。11人いた弟子うちの数名だけがというのではなく、弟子たち皆が疑ったということです。最後の最後で信じたというのではなく、なぜ「疑った」という否定的なことが語られているのでしょうか。信仰に導くために、主は十字架で死に、甦ってくださったではないか。それなのに、ずっと近くにいた弟子たちはなぜ信じることができないのか。復活の主を前にして疑う余地がどこにあるのか。それこそ、死んだ人間が甦ったなどというのは、幽霊が現れたと思ったのでしょうか。しかし、そこでマタイは、疑う弟子たちに、ここでも今日の湖の場面と同じように、自ら近づいて来てくださり、恵みに満ちた言葉をかけてくださる復活の主のお姿を語ります。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:18-20)主イエスは復活を疑う弟子たちを福音宣教へと遣わしていくのです。なぜでしょうか。弟子たちを遣わす主イエスは、私どもの疑いにも、罪にも、死にも打ち勝ってくださったお方です。この世のどのような力、権能にも勝るまことの権能、力を持っておられる復活の主が、疑い深く、信仰の小さな弟子たちを、そして、私どもを生かすのです。そして、私たちは一人ではありません。主イエスが終わりまで共にいてくださいます。「いつもあなたがたと共にいる」というのは、「すべての日々において」あなたがたと共にいるということです。喜びの日も、悲しみの日も、健やかな日も、病の中にある日も、そして、死を前にした時も。そして、どのような日々であっても、私どもは主の弟子として遣わされた働きに生きることができます。弱さを覚えるところでも、神様のために生きることができるということです。

 信仰生活における「疑い」というのは、決して、良いものではありません。だから、主イエスはペトロを叱られました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」明らかに叱責の言葉です。しかし、ペトロを見捨てたわけではありませんでした。この時、ペトロは主イエスの御手の中にありました。主は手を伸ばして、ペトロを捕まえながら、おっしゃった言葉であるということです。恵みの中で叱られる。恵みの中で裁かれる。そのことによって、私どもが抱く「疑い」もまた意味を持つということです。自分の信仰の薄さ、小ささに気づかされる時、誰だって落ち込みます。でも絶望する必要はないのです。疑い、沈みそうになるところで、「主よ、助けてください」という叫び、祈りが生まれます。そして、そのような私どもを助けるために差し伸べられた主イエスの御手によって捕らえられるという経験をすることができます。もう一度、舟の中に戻していただく経験をします。そして、ついには、33節にあるように、「本当に、あなたは神の子です」という信仰告白、神礼拝へと至るのです。聖書は、人間というのは実に疑い深く、罪深い人間だということを言おうとしているのではありません。そのような疑い深い人間が、差し伸べられた主イエスの御手によって救われて、神を礼拝する者に変えられるという驚くべきことを語るのです。

 もしも、今日の物語の中で、ペトロが主の言葉を信頼し、強い風にも大きな波にも恐れることなく、水に沈むこともなく、主イエスを真っ直ぐに見つめ、ついに主のもとに行くことができた。もし、そのような物語であったならばどうでしょうか。ペトロだけではなく、他の弟子たちもペトロに続いて、次から次へと舟から降りて来て、全員が波風を一切恐れず、水の上を歩くことができたという話であったならばどうでしょうか。まったく別の物語になっていたと思うのです。

つまり、弟子たちにとって、私どもにとって、もはや「舟」など必要ないという話になる可能性があるのです。苦難を経験しても、自分の足で、自分の力で、水の上を歩いていけばいいだけの話になるからです。「主の言葉を信頼する」と言っても、大切なのは主を信頼するあなたの心次第ということになります。ですから、下手をすると舟や教会だけでなく、主イエスさえも私たちの人生に必要ないということになりかねません。そこで主イエスに対する信仰を言い表し、礼拝する思いは生まれないのです。

 でも福音書はそのようには語りません。舟は信仰の旅を続けていく上で、なくてはならないものなのです。舟の中、教会の中においてこそ、礼拝の心が与えられるからです。疑い、沈みそうになった私どもが主イエスによって救われたという恵みの経験、そして、教会のもとへ、神様のもとへ立ち帰る経験。このことが私どもの信仰に大切な意味を持つのです。疑うことなく、恐れることなく、ただ主の言葉を信頼し、全員が水の上を歩くことができた。それ自体はとても素晴らしいことだと思います。しかしそもそも、「ああ、これは私たちの物語だ」と言って、素直に受け入れることができるでしょうか。素晴らしい話に違いないのだけれどもと思いながらも、心にスッと入って来ないのではないでしょうか。なぜなら、私どもの真実の姿、私どもの信仰の実際のあり方というのはとても複雑であるからです。すべての日々において、水の上を歩くことができるほどの大きな信仰に生きているわけではないからです。今は、ちゃんと信じることができている。それなりにたいへんな日々だけれども、しっかり歩むことができている。そう思えることもあります。けれども、ちょっとしたことがきっかけで、自信が持てなくなった。恐れてばかり、疑ってばかり。御言葉を聞いても何も感じなくなってしまっている。そういうことがあります。信仰と疑いというのはまったく別のものではありません。信仰の歩みの中に疑いが存在します。

 しかし、主イエスはその疑いを、その小さな信仰をご自分の手で握りつぶしてしまうのではなく、大きな御手の中で守り、支えてくださいます。病を癒してくださる御手であり、罪を赦す御手であり、死に勝利した主の御手が私どもを捕らえるのです。信仰というのは、そのような主のいのちの御手の中で生まれ、強くされていくのです。だからある人は、「キリスト者に本当の失敗はない」と言います。もちろん、私どもの歩みを振り返るならば失敗だらけ、疑いだらけです。でも、主イエスは知っていてくださいます。私どもが主イエスを信じていること。小さい信仰かもしれないけれども信じようとしていること、従おうとしていることを。そのような私どもを主イエスは捕らえてくださるのです。だから、それは失敗ではないと言うことができると言うのです。

 疑い、恐れ、沈み、叫ぶペトロを助けるために、主イエスは手を差し伸べてくださいました。ちゃんと聖書を読めば分かることなのですが、私はずいぶん長い間、主イエスは舟の中から手を伸ばして、ペトロを捕らえ、舟に引き上げたのだと思い込んでいたところがありました。でも、主イエスが手を伸ばしたのは水の上なのです。そして、水の上にいた時、波風は強いままだったのです。静まったのは舟に戻った後のことです。ですから、助けられたペトロは、激しく波立つ湖の上を、舟があるところまで主イエスと共に歩いたのでしょう。一緒に手をつなぎながら歩んだのでしょうか。それは分かりませんが、ペトロにとって忘れることができない出来事となりました。

 私どもは、教会という「舟」の中に、今いますけれども、礼拝が終わって遣わされる場所は、決して穏やかな場所ばかりだとは限りません。荒波に呑まれそうになったり、暗闇の中で道を見失ってしまうこともあるでしょう。けれども、すべての日々において、主イエスは共にいてくださいます。肉の目には見えませんが、私どもを捕らえ、私ども手を取り、共に歩んでくださいます。どこに向かっているのでしょうか。舟に向かって共に歩んでいるのです。もう一度、私どもを舟に連れ戻してくださるのです。「教会という舟の中に帰ろう」「神のところに帰ろう」と言って、私どもを確かな仕方で導いてくださいます。32節に「二人が舟に乗り込むと、風は静まった。」とありました。そして、最後の33節にあるように、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って、主イエスを拝み、礼拝しました。2千年間、教会がしていることもまさにこれと同じことです。嵐が静まったという静けさだけでなく、神の前に立つ畏れがもたらす、まことの静寂の中で、私どもは喜びつつ、神を礼拝します。

 今から共に聖餐を祝います。聖餐というのは、復活の主が確かに生きて、今ここにおられるということが明らかにされる時でもあります。私どもの疑いも、罪も、病も、あらゆる苦難も、死さえも、復活の主にとって何の問題もないのです。何者にも勝って、いのちの主が私どもに近づいて来てくださいます。そして、弟子たちに声をかけられたように、ここに集う私どもに対しても主は語られます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」復活の主は、「わたしだ」と一言おっしゃってくださいます。「もうそれだけで十分です」「主よ、あなたが共にいてくださればそれで十分です」。そのように言うことができる恵みがここに満ちているということを覚え、救いの恵みを味わいます。また、聖餐の恵みに共にあずかることができる仲間が新たに与えられることを心から願います。ぜひ洗礼を受けること、信仰告白することを祈りつつ考えてみてください。様々な疑いも恐れも、主イエスがすべてを引き受け、信仰へと変えてくださいます。お祈りをいたします。

 救いの恵みにあずかりながらも、元気でいられなくなることがります。それに立ち向かう勇気さえも沸いて来ないことがあります。しかし、そのような私どものところに主は来てくださいます。本当は私どもが気づくことができていないだけで、いつも主は共にいてくださいます。そして、助けの手を差し伸べてくださいますから感謝をいたします。そのような主が、私どもの救い主でいてくださいますから、安心して、信仰の道を喜んで歩み、御国の進展のために共に仕えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。