2023年01月29日「忍耐と慰めの神を知る」

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忍耐と慰めの神を知る

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 15章1節~6節

音声ファイル

聖書の言葉

1わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。ローマの信徒への手紙 15章1節~6節

メッセージ

 今年度の年間標語、年間聖句は、先ほど共に聞きましたローマの信徒への手紙第15章5〜6節の御言葉です。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」年間聖句の御言葉は年報の表紙にも記されていますし、千里山教会、めぐみキリスト伝道所の週報にもそれぞれ記されています。毎週、説教の中でこの聖句に触れたりですとか、月報の中で言及するようなことはいたしませんが、ぜひ一人一人が心に刻んでいただきたい聖書の言葉です。特にこの御言葉は祈りの言葉でもあります。御言葉を心に刻むというのは、その言葉によって生かされるということです。ローマ書の御言葉で言えば、この言葉を祈りの言葉として祈りつつ歩むということです。例えば、教会に集い、礼拝が始まるまで静かに備えます。どのようにして備えるのでしょうか。当日の朝、手にした週報に目を通す人もいるでしょう。色んなところに目を通すかもしれませんけれども、そこで今年の年間聖句に目を留めて、それを祈りとしていただきたいと思うのです。もちろん、礼拝前にだけに限らず、この御言葉、この祈りと共に教会を形づくらせていただく喜びを与えられたいと願います。

 新しい年を迎えるということ。それは祈りの心が新しくなるということでもあるでしょう。何もキリスト者に限らず、多くの者が祈るために外に出かけ、手を合わせます。教会に集う私たち一人一人も、それぞれに違った祈りの課題というものを持っています。6節に「心を合わせ」とありましたが、「心」というのは、ぼんやり何かを考えるということではなくて、心の最も深いところにある強い思いのことです。それぞれに与えられた働きや生活があり、それゆえに祈る内容も違うということがあります。しかし、そうであるからと言って、私どもはバラバラであるのかとい言うと、決してそんなことなないのです。心の深い所に宿る強い思いが何であるかを皆が知っているからです。祈るべきことがたくさんあり、それぞれにその祈りの内容も違うかもしれませんけれども、そういう私どもが一つになれるのは、心の奥で、まさに伝道者パウロが語ったように「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」という祈りの心とがあるからではないでしょうか。教会の歩みも、私どもの日々の歩みも色んなことが起こります。けれども、キリスト者に共通する思いは、神様が神様として賛美されること、崇められることです。ここに私どもの幸いがあるということを信じています。

 さて、神様から与えられた今年度の年間聖句として、この御言葉にしたのにはもう少し具体的な理由がありました。昨年の10月に千里山教会では教会修養会を行いました。「慰めの共同体・教会〜神からいただいた慰めによって、わたしたちはどう生きるか〜」という主題です。一昨年の修養会では新しい教会堂が与えられたことを踏まえ、「これからの千里山教会」について様々な角度から共に考えました。「慰め」という主題にしたのは、もう少し焦点を絞ってという思いもありましたが、学べば学ぶほど、何か一つに絞ることができたというよりも、教会のこと、神様のこと、救いのこと、祈りや伝道のことなど、たくさんのことを御言葉から教えていただいたような思いがしました。また、修養会前の一ヶ月間は、「慰め」を主題として計5回、朝の礼拝で学びましたが、本当はまだまだ続けることができるテーマだと思います。聖書が教える慰めということについて、どれも大事なことですが、新会堂が与えられた「これからの千里山教会」ということを考える時、私ども一人一人が祭司として召されていること、それゆえに、執り成しの祈りに生きることが大切ではないか。そのことを小さなことからでもいいから大切にしようと申しました。それも一人で祈るのではなくて、共に祈るということを大切にしてほしいのです。執り成しの祈りというのは、教会の仲間のために祈ることもそうですが、地域のために、まだ神様を知らない者たちのために、世界のために、私どもが代わって祈り続けます。これは決して小さいことではありません。尊いことなのです。そのようなこともあって、パウロの祈りが心に留まったということもありますし、4節には「忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とありました。5節にも「忍耐と慰めの源である神」とありました。ここでは「慰め」という言葉だけではなくて、「忍耐と慰め」と言い方がなされています。「忍耐」ということについては後で申しますが、ここでも慰めと祈りが一つに結びつき、さらにそのことが教会を建て上げるうえで大きな意味を持つということがここでも語られているのです。そして、神様を共にあがめる者とされるという、私ども人間が生きる目的は何かということも、ここではっきりと言い表されています。実に壮大な祈りがここに記されていると言ってもいいのです。

 今朝、共に聞きましたローマの信徒への手紙第15章の御言葉はどのような文脈の中で、このようなことが言われているのでしょうか。第15章からというよりも、第14章から目を通したほうがよいでしょう。時間の関係で全部お読みするということはいたしませんでしたが、第14章からパウロは、ローマの教会が抱えていた具体的な問題について語り出すのです。どういう問題かと申しますと、第14章2節に記されていますように、教会の中に野菜しか食べない人がいたというのです。肉は食べないのです。一方で、野菜も肉も食べる人がいたのです。これは好き嫌いの問題とか、健康のためにという理由ではありません。信仰のゆえにそうしていたのです。キリストを信じるゆえに、私は野菜しか食べません。だから肉は食べないというのです。もちろん、主イエスはそんな教えを人々にお語りになったわけではないのです。ここで「肉を食べない」という場合の肉というのは、偶像にささげられた肉のことを意味しました。だから、「私はキリスト者としてそんな汚れた肉は食べることなどできない」と言ったのです。一方で、神様というのはただお一人であり、そもそも偶像の神など存在しないのだから、そのような肉であっても自由に食べることができるという人がいたのです。あるいはユダヤ人にとって、大切な日、大切な暦というもが昔からありまして、そういうしがらみからまだ解放されていない人たちが教会の中にいました。今日は、こういう日だから、こういうことをしよう。反対にこういうことをしてはいけないというふうに。しかし、キリストのものとされ、救われたというは、本来そのようなしがらみから自由になるということでもあります。キリストにある信仰によって自由に生きる者とされるということです。もちろん、自分の願いとキリストの思いをすり替えて、「これをすることは許されている」と勝手に判断することはいけませんが、しかし、どのような時も、どのような問題を前にした時も、キリストにある信仰をもって生きることができる。これは本来素晴らしいことであるはずです。けれども、当時のローマの教会の中では、1節にあるように、信仰的な意味で強い人、弱い人がいたのです。強い人というのは、信仰をもってすべての生活を貫くことのできる人のことです。御心に従いキリストにある自由に生きることができた人です。野菜も肉も食べることができた人です。一方、弱い人というのは、野菜しか食べないという人です。まだ自分自身に頼っているのです。ですから、まだ神様に信頼し切れていない、まだ神様に委ね切れていない。まだ自分の力、自分の強さでやっていけると思っているのです。

 私どもは自分の信仰生活を振り返ってみてどうでしょうか。自分は強い人でしょうか。弱い人でしょうか。大抵は、「自分は弱い人」というのではないでしょうか。謙遜を込めてということもあるかもしれませんが、実際に、「私は弱い」という経験を色んなところで重ねてきているからです。けれども、パウロは1節で「わたしたち強い者は」と言っています。パウロは自分のことを「強い者」と言うのです。私たちからすれば、「パウロ先生のような偉大な人は、確かに強い人ですよね」と思ってしまうかもしれません。しかし、パウロが書いた他の手紙を読むとすぐに気づかされるのですが、パウロは色んな弱さを抱えていた人でした。病気ということもそうですが、伝道者になったがゆえに数々の苦難、迫害を経験しました。何よりもパウロという人は、自分のことを「罪人の頭」と言っていたように、かつては教会を迫害する側の者でありました。キリスト者になってからも「わたしは何て惨めな人間なのでしょう」と自らの罪を嘆いたのでした。パウロもまた弱さを知っていた人でした。そのパウロが「わたしたち強い者は」と言っているのは、強がりでも偽りでも、自分を誇っているのでもありません。「強い者」というのは先に申しましたように、どこまでも神様により頼んで生きている人です。どんな場面にあっても、キリストにあって生かされているということを忘れないで生きることができる人です。決して、否定的な意味で「強い者」ということが言われているわけではないのです。ですから、パウロは「わたしたち強い者は」と言って、私どもが「強い者」となることができるように招いていることです。そういう意味で、キリスト者というのは確かに「弱い者」という一面もあるのですが、同時に、「強い者」であるということです。そして、弱いままでいいというのではなくて、信仰において「強い者」とならなければいけないのです。

 ただ、ここで興味深いことは、普通、信仰的に弱い人と強い人がいれば、問題なのは「弱い人」ということになるのです。だから、強くなれるように、信仰生活を整えましょうということになるのです。しかし、ここでパウロが注意を促しているのは、強い者たちに対してなのです。強いがゆえに、陥りやすい過ちがあるというのです。例えば、第14章3節に「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とありますように、強い者が弱い者を裁くのです。相手を軽んじ、侮るのです。自分は弱いと思っていても、私どもはすぐに強くなることができます。自分より弱い人間を見つけ、その人の上に立ち、裁いて、見捨てさえすれば、強くなることができます。しかし、それは真実の意味で「強い者」とは言えません。信仰において、強い者となるというのはそういうことではないのです。

 先ほどから信仰において、強い・弱いということを申していますけども、私ども自身が、自分の信仰の強さ、弱さを考える時、普通は神様と私との関係の中だけで、強いか弱いかということを考えるのだと思います。今週は、教会に行けなかったとか、聖書を読んだり祈ることを怠ってしまったというふうに。でも、それだけではないのです。それも大事ですけれども、いやそれ以上に大切なことがあるとパウロは言うのです。つまり、それは教会の兄弟姉妹に対する態度によって、あなたの信仰の強さ・弱さがはっきりするのだというのです。教会の中だけに限る必要はないかもしれません。共に生きる者たちにどう接しているのか、実はそのことで、あなたが信仰者として強い人間であるか、弱い人間であるのかが分かるというのです。あなたの強さというのは、他者と共に生きる中で表れてくるものだというのです。これは驚くべきことと言いましょうか、ハッとさせられるようなことではないかと思います。

 パウロは、神様は、私どもが真実の意味において「強い者」となり、その強さをもって教会を建て上げていくことを求めておられます。1節をもう一度お読みします。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」強い者となるために、私どもがすべきことと、してはいけないことが語られています。「〜すべきであり、〜すべきではない」というふうに強い語調で語られています。「こうしたほうがいいですよ」といったアドヴァイスというのではなく、「〜すべきである」という強い義務、責任を促す言葉です。まず、私どもが強くなるためにすべきことについて、「強くない者の弱さを担うべきであり」ということが言われています。「強い人」というのは、「〜することができる人」ということです。ここで言われていることは、強い人というのは弱さを担うことができる人ということです。自分に与えられている強さを、その人の弱さを担うために用いることです。その人が抱えている弱さを見て、知らない振りをしたり、批判したり、裁いたりするのではありません。その人の弱さをそのまま自分が担い、背負うということです。そして、強くない者の弱さを担わないというのは、結局のとこと、それは自己満足に過ぎないのだということです。強い者となるために私どもがすべきことは、相手の弱さを担うということです。そして、すべきでないことは「自分の満足を求めるべきではない」ということです。「自分の満足を求める」というのは、2節にある「隣人を喜ばせる」ということと正反対のことです。そして、聖書は「自分の満足を求める」生き方を強く批判しています。自己満足というのは、自己中心であるということです。神様に対しても、人に対しても高慢になります。聖書はそこに罪の根源があるということを初めから教えています。

 私どもが信仰において強くなるために、もう一つすべきこととして、2節で、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」と言っています。自分の満足を求めないで生きるというのは、人の弱さを担うことでありますし、「弱さ」と言う時、その人の罪の問題も含まれるということもあるでしょうから、決して楽な生き方でありません。まさに忍耐が求められます。強い者というのは忍耐する力がある人のことです。けれども、忍耐するというのは、「本当はこんなことしたくない」とつぶやきながら、嫌々することではありません。隣人を喜ばせるという行為も同じです。愛と喜びをもって行うことです。また、隣人を喜ばせるというのは、相手のご機嫌を取ることでもありません。「おのおの善を行って」とありました。「善」というのは、その人の救いに役立つことです。その人と救いの喜びを共有することです。また、「互いの向上に努めるべきです」というふうにもありました。「向上」というのは、「建て上げる」という意味の言葉です。それも「家を建てる」ということです。ですから、向上に努めるというは、その人を立派な人にするとか、その人を尊重することではないのです。そのようなことも、共に生きる上で大事ですけれども、ここで言われていることは、神の家である教会を建て上げるためになされるべき行為として互いの向上に努めるのです。キリストの体の一部とされ、私もあなたも共に礼拝をささげ、神と教会に仕える生活に励んでいくのです。

 信仰において強い者となるために、パウロはすべきこと・すべきでないことを語りました。自分の満足を求めず弱さを担うこと。隣人を喜ばせること。共に教会を建て上げる者へと導くこと。これらのことはパウロが自分で見出した真理ではありません。実際にそのように教えてくださったばかりか、そのように生きてくださった方をパウロを含め、私ども教会に生きる者たちは皆知っています。その方こそ、私どもの救い主であるイエス・キリストです。3節でこう言われています。「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです。」信仰の土台、教会の土台、人生の土台であるイエス・キリストに目を向けるように。私どもはキリストのゆえに立っているではないかと呼びかけるのです。主イエスはご自分の満足を求めず、強くない者の弱さを担ってくださいました。人間の罪を背負い、十字架の道を最後まで歩んでくださいました。3節に「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という括弧で括られた言葉があります。これは旧約聖書・詩編第69編10節の引用です。「あなたをそしる者」というのは、「神様をそしる者」ということです。つまり、人間が神様をそしる、軽んじるという罪が見つめられています。その罪が、わたしにふりかかかったのです。「わたし」というのは詩編の中では詩人のことですが、これは主イエスのことが預言されていたというのです。主イエスが神を神としない人間のそしり、罪をすべて引き受けてくださったからです。イエス・キリストほど強い方はどこにもいません。主イエスほど何でもおできになる方は他にいません。その最も強いお方が十字架という苦難の道を歩まれました。私たちの代わりに十字架の上で神に裁かれ、見捨てられたのです。

 弱さを担い、罪を担うというのは、十字架に示されているように、苦しみを負うということです。あるいは忍耐を強いられるということです。神様は、また主イエスは私どものためにどれだけ忍耐してくださったのでしょうか。私どものためにどれだけ苦しんでくださったのでしょう。聖書には、神の忍耐がいかなるものであったかが初めからよく記されています。ローマの信徒への手紙の主題は、よく「神の義」と言われます。私どもが神によって義とされるというのは、私どもが救われるということです。私どもは、救われるため何か立派なこと、善いことしたらか救われたというのではありません。あるいは、ありとあらゆる苦しみに耐えたからこそ、ついに救われたというのでもないのです。救いというのは神様の義、神様の正しさ、神様の真実が貫かれたところに与えられるものです。その神の義がキリストの十字架において明らかになりました。私どもの罪、私どもの不真実に対して、神の正しさが貫かれたならば、私どもはひとたまりもないのです。滅びる他ないのです。しかし、神は私どもを救うために忍耐してくださいました。そして、ついには御子イエス・キリストを与えてくださいました。キリストが私どもの罪を担い、罪ある者として十字架で神の裁きを受け、死んでくださったのです。

 神様が、主イエスが私どものために忍耐してくださったがゆえに、そこに慰めがもたらされました。だから、「忍耐と慰め」というふうな言い方がなされているのです。そして、忍耐によって慰めが与えられるというのは、救いが与えられるということです。4節に、「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くものです」とありました。「かつて書かれた事柄」というのは、引用されていた詩編69編の御言葉のことです。続けて、「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」この場合の「聖書」というのは、「旧約聖書全体」のことを指すのですが、今日の私どもにとっては、旧約聖書だけでなく、「新約聖書」も含みます。つまり、聖書全体ということです。聖書は何を語り、何を教えているのでしょうか。それは「忍耐と慰め」について語られているということです。神様の忍耐と慰めを学ぶことによって、ついには希望が与えられるということです。神様ご自身が忍耐の神であり、慰めの神であり、希望の神であられるということです。

 この慰めと忍耐、あるいは希望ということですが、これは神様が私どもに与えてくださるものです。それによって、私どももキリストのように、忍耐と慰めに生きることができるというのです。忍耐も慰めもこれは一人ですることではありません。慰められるのも、慰めるのも相手があって初めて成立することです。共に教会を建て上げる中で、隣人と共に生きる中で、私どもは忍耐が強いられることでしょう。でも我慢して、嫌々することではないのです。キリストに倣って、キリストの愛に基づき、喜んですることです。隣人の弱さを担うことは、確かにたいへんなこと、苦しいことです。けれども、キリスト者はそこで聖書から慰めが与えられることを信じています。弱い者を担う働きを、私どもは信仰のゆえに、キリストの名のゆえに行います。キリストに倣って行うのです。つまり、私どもの働きは、いつもキリストと結びついているということなのです。

それゆえに、神が与えてくださる慰めによって、今、自分に委ねられている働きが、決して虚しくないということ信じることができます。今、私たち教会に与えられている働きについて、肉の目では厳しく、苦しいということがあるかもしれませんが、御言葉をとおして明るいまなざしが与えられます。希望をもって、キリストのしもべとしてなすべき働きをなすことができるようになるのです。

 今朝はお読みしませんでしたけれども、第14章から始まる事柄を締めくくる最後の言葉として、次のような御言葉、祈りの言葉が記されています。第15章13節の御言葉です。5、6節と合わせて心に刻んでいただきたい祈りの言葉です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」私どもの神は、忍耐と慰めの源である神であり、希望の源である神でもあられます。神様をどう呼んでいるか。そこに私どもの信仰がよく表れています。あるいは、神様をどのように呼んでいるか、その言葉の中に私どもの心、願いが映し出されていると言ってもいいのです。「愛する神様」と言って、祈れば、神は愛であり、私は神様の愛を慕い求めますと告白しているのです。他にも「天におられる神様」とか、「父なる神様」など色んな呼び方があります。あまり気にせずに、当たり前のように、普段、祈りの度に、神の名を呼んでいるところがあるかもしれませんが、立ち止まって考えてみるならば、もう他に何も祈る必要がないほどに、神様の名前、呼び名の中には豊かな恵みがあるのです。「忍耐と慰めの源である神」というのも同じです。よく考えますと、私どもは祈りにおいてさえも、弱くなり、罪を重ねてしまいます。祈ること自体を怠ることもあるでしょう。祈っても、心からの祈りとなっていなかったり、祈りつつどこかで諦めてしまったり、自分勝手な祈りをしてしまうことも少なくないのです。けれども、神様は忍耐をもって、私どもの祈りに耳を傾け続けてくださるのです。そして、御心にかなった仕方で答えてくださり、慰めと希望を与えてくださいます。そのようにして、私どもを強い者へと造り変えてくださるのです。

 「慰め」という言葉は、ギリシア語で「パラクレーシス」と言います。これは豊かな意味を持つ言葉で、慰めの他にも、励ますとか、勧めるとか、説教するという意味があります。元の意味は「傍らに呼び寄せる」という意味です。主の日の礼拝が慰めの場であるというのは、神様が「こっちに来なさい」と招いてくださり、救いの言葉を聞かせてくださるからです。礼拝において、復活の主にお会いし、御言葉において、慰めと平安が与えられるからです。「よしよし、大丈夫か」というようなことではなくて、神の慰めというのは、死に打ち勝った力強い慰めです。だから確かな望みをここで持つことができます。

 そして、私ども自身が今度は隣人の傍に立ち、隣人を慰める者とされます。他者と共に、弱い者と共に生きる者とされるのです。その時に、相手を非難し、我慢するという意味での忍耐ではなく、「この人もいつか神によって慰められる」という希望をもって、傍らに立ち祈ります。そのために私の忍耐が、私の強さが用いられるのです。用いていただくのです。祈らざるを得ないのではないでしょうか。私どもは忍耐と慰め、希望をもって、兄弟姉妹の弱さを担い、祈り続けます。そのような意味で、キリストの教会は慰めの共同体であり、祈りの共同体なのです。いつも側に招いてくださる神が私どもに慰めを与えてくださいます。だから、私どもは祈り続けます。神様の側に、慰めの泉の傍らにいながら、そこで一滴も汲まずに通り過ぎるようなことはしてはいけないのです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」この御言葉は教会に与えられている祈りです。私どもの心からの願いです。何よりも、神がキリストをとおして、私どもに望んでおられることなのです。お祈りをいたします。

 忍耐と慰めの源である御神、希望の源である神よ、このように心を合わせ、声を合わせて共に神を呼ぶ幸いに、この一年も生かしください。キリストにあって強い者としてください。共に生きる者たちの弱さ、教会の仲間たちの弱さを、もう自分は担うことができないと嘆いてしまうところで、主にある慰めの言葉を聞かせてください。そこで共に祈る者とさせてください。そのような祈りの交わりの中において、また主の日の礼拝において、神の慰めを経験し、ますます神をほめたたえる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。