2023年01月15日「交わりのなかで知る真理」

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交わりのなかで知る真理

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 1章1節~4節

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聖書の言葉

1初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――2この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――3わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。4わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。ヨハネの手紙一 1章1節~4節

メッセージ

 私どものいのちの歩みは、頭の中や心の中だけですることではありません。誰にも見えないところ、隠れたところ、深いところで物事を静かに考えることも大切なことだとは思いますが、生きるというのは実に具体的なことなのです。つまりそれは、体を伴う歩みであるということです。実際に体を動かすということもあるのですが、たとえ、肉体が病やケガなどで弱さや傷を負ったとしても、自分の体といつも一緒に生活をしている自分自身のことを否定することはできないでしょう。体の一部がわるくなると、こんな部分はいらないということにもなるかもしれませんし、大きな病気などの場合は取り除いた方が健康のためにいいということもありますが、しかしそれでも体とともにある生活を続けます。肉体を失うことは、いのちを失うことになるからです。

 信仰の歩みにおいても同じことが言えます。信仰というと、神様と私との一対一の関係が大事であり、心や魂が清められ、救われることが大事だと考えます。体というのは、病気などの弱さもそうですが、罪や汚れが宿る場所であるというふうに考える人もいるのです。しかし、心と体、魂と体というものは実に深く結びついていまして、簡単に切り離すことはできません。どちらが尊く、どちらかが汚れているということではなく、心も体も両方とも尊いのです。救われるというのは、体も魂もキリストのものとされるということであるからです。パウロという伝道者は教会について「キリストの体」と言いました。地上の教会もまた具体的な存在であるということです。キリスト者一人一人の心の中に、教会があるわけではないのです。目に見え、声を聞くことができ、体に触れることができるそのような具体的な体、具体的な存在をもってこの地上に立っているのが、キリストの教会です。また、私たち一人一人の存在がまさに教会そのものであり、教会を形づくる上で大切な一人一人であるということです。

 そして、何よりも大切なこととしてここで覚えたいのは、教会の頭であり、教会の中心、土台であるイエス・キリストもまた具体的なお方であるということです。今朝はヨハネの手紙一の冒頭の言葉を聞きました。最初にヨハネはこのように言います。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。」耳で聞くことも、目で見ることも、手で触れることも、決して曖昧なことではなく、極めて具体的なことです。あなたの耳で聞き、目で見、手で触れることができるほどに、確かであり、真実であると言えるお方、イエス・キリストが現れたのだと賛美しているのです。耳で聞いた肉声の響きを、目で見た光景やその姿を、体に触れた時、あるいは触れられた時の感覚を自分の体がしっかりと覚えているのです。ある意味、私どもが心で感じることよりも、確かな仕方で主イエスのことを具体的に知ることができた喜びを、驚きをもって伝えているのです。そして、このことは主イエス・キリストがまことの人間として、肉あるお方として、この世界に来てくださったことを言い表しています。

 ところで、ヨハネの手紙一の冒頭の言葉を聞きながら、同じ「ヨハネ」という名前がつく「ヨハネによる福音書」の冒頭の部分を思い出している方もおられるでしょう。昨年末の待降節とクリスマスにヨハネによる福音書の御言葉を共に聞いたばかりです。福音書ではこのように記されていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)「初めからあったもの」という言葉で始まるヨハネの手紙とも重なるところがあります。また、このような御言葉もありました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(同1:14)福音書も手紙も同じ人が書いたのかどうかは分りませんが、明らかにヨハネの手紙を書いた人は、福音書の言葉を意識して記しています。あるいは、福音書に記されている信仰の心を受け継ぐようにして、この手紙を書き始めるのです。福音書においても、手紙においても、ここで言われている「言」とはイエス・キリストのことです。「命の言」とも言われますし、「永遠の命」というふうにも言われています。

 2節の「この命は現れました」とあるのは、まさにクリスマスの出来事を指しています。福音書の言葉で言えば、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ということと、まったく同じことです。「言は肉となって」ということを、手紙の中では、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と言い換えています。主イエスは、天地創造の前から、つまり初めからまことの神であられました。そのまことの神であられる主イエスが、私どもと同じ人間となって、この世界に降って来てくださいました。私ども人間の生活の只中に来てくださり、そこをご自分の住まいとしてくださいました。私どもが生きる世界というのは、闇に覆われている世界であり、神様を悲しませてしまうような生き方しかできない人間が住むところです。しかし、そこにいのちの光が灯されたのです。愛の光と言ってもいいでしょう。主イエスの到来によって、神の愛がここにあるということが明らかにされました。どれだけ深い闇が覆っていても、どれだけ自分を否定したくなったとしても、神の愛を見出すことができるようになりました。その最たるしるしがキリストの十字架です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という有名な御言葉が福音書の中にもありますが、わずか5章からなるヨハネの手紙の中にも、幾度も神の愛が語られ、神の愛に生きることの勧めがなされています。一箇所だけお読みします。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9-10)

 この世の闇、その根底にあるものは、私どもが神を見失っていることです。神が愛であるということを忘れてしまっていることです。この世界を見ていたら、この私の人生を見ていたら、神が愛などとは到底言うことはできない。そう言って、すぐに諦めてしまいます。しかし、そのような闇の現実、滅びが支配しているかのような世界の中に、主イエスはまことの人として、具体的な仕方で来てくださいました。「もう生きてなどいられない」「もう将来などない」と嘆きたくなるような現実の中に、主イエスはまことのいのちをもたらすお方として来てくださったのです。

 そのお方について、ヨハネの手紙は、冒頭で「伝える」「証しする」「書く」というふうに言っています。この手紙を読み、聞いているあなたもまた、イエス・キリストをとおして、神に出会ってほしい。そのために神の愛をあなたに伝えたいのです。神の愛というのは、決して幻想などではなく、キリストという確かな仕方であなたにも与えられているものであるということ。このことを伝えたいと願いました。そして、一人の人に対してということもありますが、既に「イエスを主」と信じて集まっている教会の交わりそのものが、神の愛を証しする群れとして、そこに生きてほしいという願いがあったからでしょう。それは、この手紙を受け取った教会が、教会のいのちそのものであるイエス・キリストを見失いそうになっている。教会の土台が揺らいでしまっている。そのような危機があったからだと思われます。

 新しい一年が既に始まっています。自分自身のことだけでなく、教会においてもこの一年の歩みを神様に委ねつつ、なすべき働きをなしていきます。今日の月報にも記しましたが、新しいことばかりでなく、これまで大事にしてきたことを改めて大事にすることの必要性を感じます。不十分だったことを十分にできるように精一杯努めること。そのうえで新しい働きに目を向けるということももちろん教会に求められていることだと思います。いずれにせよ、「さあ、これから歩み出そう」という時には色んな心配や不安が付き物です。また、新しい年が始まったらからと言って、すべてがリセットされたわけでないでしょう。依然として、多くの問題や課題を抱えながら歩んでいる人が多いと思います。けれども、私どもは前を向いて歩んで行くのです。いのちそのものである主イエスが、私どもの前を歩んでいてくださるからです。

 ある外国の牧師の方が言っていたことですが、「不安があるというのはまことのキリスト者であるということの証拠だ」というのです。面白い言葉ですね。普通、「不安ばかりを口にする人はキリスト者らしくない」とか「不信仰のしるしだ」と言われるのではないでしょうか。「不安があるのは真のキリスト者の証拠」というのはどういうことなのでしょうか。その牧師が言う「不安がない人」というのは、この世界について諦めている人のことです。「どうせこの世界なんか」「どうせ人間なんか」と言って、いつも諦めに支配されているのです。だから、どんなに悲惨なことこが起こっても、何も驚かないし、不安にもならないのです。こういうものだと思っているからです。もちろん、神様についても、愛についても、そのようなものは幻に過ぎないと思っているのです。だから、誰かに傷つけられても、反対に誰かを傷つけても何とも思わないのです。

 しかし、キリスト者というのは、「ここに愛がある」という世界の中で生きている人たちです。「神が愛である」ということを信じている人たちです。だから、キリスト者が不安を抱いてしまうのは弱さや罪によるもの言ってしまえばそうなのですが、それは見方を変えますと、神様の愛というものをいつも確信しているから生まれる不安でもあるということです。神の愛を確信しているからこそ、生活の中で何か問題が生じてしまうと、自然と不安に襲われてしまうということがあるということです。だから、「神の愛が見えない」と嘆きながらも、そこで諦めているのではなく、本当はそのようなところでも神の愛の中に立ちたいと願っているのです。ですから、この一年もまた、予期せぬことが起こるかもしれませんし、その度に不安に捕らわれ、自信を失うこともあるでありましょう。そこで、「しっかりしよう!」と自分で自分を鼓舞することも大事ですが、不安になりながらも、なおそこで神様の愛の中に生きたいと願っている自分がいるこということに、ぜひ気づいていただきたいと思います。決して、自分を甘やかすという意味ではなく、不安の中にありながらも、今、神様の愛の中にある自分を大切にしていただきたいと思うのです。

 さて、伝道者ヨハネはこの手紙をとおして、いのちの言葉であるイエス・キリストについて伝えます。その目的について、3節でこのように述べています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」いのちであり、愛そのものであられるキリストを伝えるのは、あなたがたが交わりを持つためだと言います。「交わり」というのはどういうことでしょうか。仲良くお付き合いするということでしょうか。そういう意味合いもあるかとは思いますが、ここで「交わり」と訳されています言葉は、ギリシア語で「コイノーニア」と言います。教会生活を続けていると比較的よく耳にするギリシア語の一つです。このコイノーニアというのは、「あるものを共有する・分かち合う」という意味があります。キリストにおける交わりというのは、主イエスが私どもに与えてくださる救いの恵みをお互いに分かち合うということです。キリストのいのちを共に分かち合うということです。

 ですから、教会の交わりという時に、何よりも大事になってくるのは、主の日の礼拝における交わりです。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とあるように、私どもの交わりの基礎となるのは、神様との交わりなのです。そのことが最もはっきりとした形で現れているのが主の日の礼拝です。また、神様ご自身が、「父・子・御霊なる神」とあるように、交わりの神であられます。その愛の交わりを喜んでおられます。主イエスは、今、天におられ、私どもの目には見えませんけれども、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたもの」。そうはっきり賛美することができるほどに、礼拝をとおして、御言葉や聖餐などをとおして、イエス・キリストとお会いし、救いの喜びを分かち合います。それは心の中だけの狭い話ではなくて、実際の生活、教会生活とも深く結びついている歩みです。神様は礼拝をとおして、愛と喜びの中に私どもを招こうとされています。それも自分一人だけを招くというのではなく、ご自分の選びの民を、キリストの体である教会に招かれるのです。愛の交わりに生きておられる神は、一人一人を呼び集め、教会という交わりを形づくって歩むことを望んでおられるのです。

 この手紙が書かれた時代は紀元100年頃だと言われています。まだキリスト教会が生まれて間もない時代です。厳しい時代でした。ローマ帝国による迫害ということもありましたが、教会内においても様々な問題がありました。特にこの時代、教会を混乱に陥れたのは「グノーシス」と呼ばれる人たちです。霊肉二元論とも言われます。彼らも神を信じ、主イエスを救い主と受け入れているのです。けれども、彼らにとって、救いというのは魂の救いだけであって、肉体というのは依然として汚れているものだと考えました。

 だから、主イエスが肉をとって私たちの間に宿られたということ。耳や目や手などの五感に訴える仕方で現れたということを受け入れることはできませんでした。主イエスが神であることは信じることができても、人間であることは信じることができませんでした。主イエスが汚れた肉体を受け入れるなどということは、あり得ないことだと考えたのです。だから、クリスマスにお生まれになった主イエスは、人間の振りをして、仮の姿をとってこの世界に来たのだと信じていたのです。キリスト教会は、そのような誤った信仰と最初から戦わなければいけませんでした。ヨハネの手紙は「愛の手紙」と言われていますが、同時に「戦いの手紙」でもあるのです。この手紙の一番最後を見ると、「子たちよ、偶像を避けなさい」(5:21)という唐突な言葉で終わっていることに気づきます。真実の神、永遠の命であるイエス・キリストの内に、私ども留まらなければいけないのです。

 イエス・キリストに対する誤った信仰はそのまま、教会生活や日々の生活の中に大きな影響を及ぼします。救いが魂だけの問題であるならば、わざわざ教会に行く必要はありません。一人で聖書を読んで、自分なりに主イエスを信じればいい話になります。当然、主にある交わりを形成することに関心がありませんから、教会の様々な具体的な働きを共に担うということも、自分には一切関係なのです。さらに、「救いは魂だけで、肉体は汚れているから関係ない」と言う時に、普段の生活はどうなるのでしょうか。肉体は元々汚れていて、どうすることもできないのだから、何をしてもいいということになるのではないでしょうか。肉体だけならば、罪を犯してもいいということになるのです。あり得ないような話ですが、実際に教会の中にあった話なのです。そして、このようなグノーシス的な考えというのは、2千年前の話ではなく今も根強く残り、今もなお戦い続けなければいけない信仰の問題であるということです。

 教会の交わり、キリストの交わりという時に、その中心は主の日の礼拝ですが、様々な集会、具体的な活動、奉仕があることを思います。先週は礼拝後、祈りと交わりの会を行いました。小会・執事会がありました。今日は礼拝後、各会の総会があります。教会学校の教師たちの会議もあります。他にも水曜日の祈祷会や各委員会などがあります。主の日の礼拝のために多くの兄弟姉妹が与えられている奉仕のために備えをします。キリストの救いにあずかる私ども一人一人が、このように交わりを形成し、共に礼拝をささげたり、共に祈ったり、共に奉仕をする。これも大切な交わりです。礼拝が一番大事であって、他のことは重要ではない。他のことはできる人がすればいいし、したい人がすればいいということではありません。賜物によって委ねられた働きの違いというのはありますけれども、どの働きも教会を造り上げていくうえで重要な働きです。自分では何でもないようなことであったとしても、それは礼拝をささげることに等しい重みを持っているということです。

 また、教会というのは、「建物のことではなく、神様によって集められた一人一人のことだ」とよく言われます。そのとおりなのですが、私どもは3年前、新会堂の建築を経験しました。その時に、「教会にとって大事なのは私たち一人一人なのだから、雨風さえしのげれば、建物は適当なものでいい」などとは考えませんでした。できることには限度がありますが、それぞれが精一杯に献金をささげ、祈りつつ会堂建築の働きに参与しました。建物を具体的にどうするかということについても、慣れないながらもよく話し合いました。主イエスは神でありながら、人間としてこの世界に来てくださったのです。私どもが見聞きし、手で触れることができるほどに、神の愛は確かであるということを伝えるために、そして、キリストのいのちを分かち合う群れ、教会を造るために、主は来てくださいました。そのイエス・キリストの体である教会に連なり、そこで交わりを持つというのは、与えられた教会堂と共に歩み、与えられた会堂を大切にしながら歩むということでもあります。

 新会堂完成後、すぐにコロナ禍になりました。今もその影響下にありますが、世界中の教会が改めて深く考えさせられたのは、交わりの大切さだったのではないでしょうか。共に集まることができなくなりました。共に集まることができても、時間や人数に制限がありました。ライブ配信という新しい手段が生まれたかもしれませんが、これまでのように体をもって共に集い、共に主の食卓にあずかることができない寂しさをも味わいました。それは、キリストにある目に見える具体的な交わりを、それぞれの教会がこれまで大切にしてきたからではないでしょうか。コロナに関係なく、お互いの顔を見ることができないという寂しさはなお残り続けるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、「私どもは主にあって一つ」と言うことができる交わりが形成されているならば、どのような寂しさを乗り越えることができるはずです。

 人間が生きることは、肉体を持って生きることだと説教の最初に申しました。ですから、兄弟姉妹との主にある交わりに生きるということにおいても、それは五感を伴う具体的な交わりであるということです。例えば、自分の言葉や声を用います。対話をし、議論をし、共に祈り合うのです。以前は「平和の挨拶」の時に握手をしていました。病の中にある者を見舞う際は、その方の手を握ったままお話することもあります。礼拝後には掃除をしたり、植栽のために奉仕してくださる方もおられます。また、子どもたちや若い方においては、教会でも体を動かして遊んだり、汗を流してスポーツをしたり、ピクニックやキャンプをしたりしながら楽しみます。人によっては、別に学校でも家でもできるようなことであるかもしれません。しかし、私どもはそれら一つ一つのことを、主にある交わりにおいて行います。たとえ、小さなことであっても、そこにキリストにあるいのちの手応えを感じながら、共に教会を造り上げていきます。

 それだけに、私どもにとって一番辛いのは愛する兄弟姉妹を失うということでありましょう。「死」ということが私どもにもたらす悲しみは計り知れませんが、なかでも辛いのは共に歩んできたその体が火葬によって見えなくなってしまうということです。しかし、私どもはそこで信じることができます。死に打ち勝たれた復活の主が永遠のいのちを与えてくださるということです。私どもの交わりは復活の主のゆえに永遠の交わりであると確信することができます。生前、仲が良かったということよりも、もっと確かないのちの絆で結ばれていること、つまり、主にあって一つであるということ。これに勝る絆は他にないのです。

 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― 」この1節、2節の御言葉はクリスマスの出来事を表す言葉ですが、復活の主、イースターの出来事を表している御言葉でもあります。主がお甦りになられたということは、霊においてだけ、魂においてだけお甦りになられたということだけではありません。肉体をもって、目に見えるかたちでお甦りになり、弟子たちの前に現れてくださいました。復活の主イエスは私どものために十字架で死んでくださった、その傷を負いながらも、確かないのちの中に立ってくださり、「あなたがたに平和があるように」と力強く宣言してくださいました。その中には、最後まで主の復活を信じることができなかったトマスという疑い深い弟子もいたのです。いやトマスだけでなく、他の弟子たちも、そして私どもも、復活の主が訪ねてくださらなければ、誰も信じることはできなかったのです。教会の交わりは、疑い深く、つまずくことが多く、罪深い私どもを捕らえてくださった主イエスの愛によって生まれるものなのです。死に打ち勝ってくださった主の愛の中で、私どもは復活の望みに生きるのです。それも肉体を伴う、全存在における復活の希望です。

 この日、私どもをここに招いてくださった復活の主は、私どもの交わりの真ん中に立っていてくださいます。この年も様々な期待と共に、恐れや不安もまた尽きないかもしれません。しかしそこで、そのような自分を軽んじることなく、むしろ大切にする道を、主がご自分の存在といのちをもって拓いてくださいました。私どもはそのいのちの道を共に歩み続けます。共に生きることが難しく、疲れを覚えやすいこの世にあって、教会は「ここに愛がある」ということを告げ、「ここに交わりに生きる喜びがある」ということを証ししていきます。そのような尊い働きに一人一人が召されていることを覚え、この年も主にある交わりを大切にしていきましょう。お祈りをいたします。

 父、子、御霊なる神よ、あなたの愛と喜びの交わりの中に、私どもを招き入れてくださいました。今あなたにあって、兄弟姉妹との交わりに生かされ、キリストの体なる教会を造り上げる幸いに召されていることを覚え感謝いたします。キリストのいのちを分かち合って生きる喜びが、教会生活の具体的な一つ一つのことにまで及んでいます。この一年も教会の営みを豊かに祝福してくださいますように。礼拝を覚えつつ、集うことができない兄弟姉妹のためにも心を合わせて祈り続けることができますように。また、主にある交わりの中に、新しい仲間を増し加えてくださいますように。どうか伝道の働きをも顧みてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。