2023年01月08日「わたしたちはキリストのしもべ」

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わたしたちはキリストのしもべ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 17章1節~10節

音声ファイル

聖書の言葉

1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ルカによる福音書 17章1節~10節

メッセージ

 「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」この御言葉をとおして、私どもは自分が誰であるかを知ることができます。自分を知るだけでなく、どのように生きるべきかを教えてくれます。さらに、私どもはこの言葉をもって、主イエスに向かって、神様に向かって、喜びと感謝を表すことができるのです。そして、こういう言葉をいったいどのような時に口にすることができるのでしょうか。毎日の歩みにおいてということも、当然言えるかと思いますが、大きな節目を迎える時に、例えば、一年の歩みを終えようとしている時に、「神様、私は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言って、感謝することができるのです。

 先週から新しい一年の歩みが始まっています。29日には会員総会が行われます。そこで新しい年の歩みに心を向けるわけですが、同時に昨年一年間の歩みをも振り返ります。そこで私どもは何をしたらよいのでしょうか。何を語ったらよいのでしょうか。与えられた実りを数えながら神様に対して感謝を述べることができるでしょう。その時に自分たちの力を誇るのではありません。主イエスがこう言いなさいとおっしゃった言葉を口にするだけなのです。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」それで十分なのです。

 大切なことは、この主が与えてくださったこの言葉を心から喜びをもって口にすることができるかどうか、ここに私ども一人一人の在り方、また教会全体のあり方がかかっているということです。この一年、自分たちは「しなければいけないこと」をちゃんとできただろうか。そのように自問自答する時、様々な思いが浮かび上がってくるかもしれません。自信をもって、「私はしなければいけないことを全部行うことができました」と言える人はあまりいないかもしれませんし、たとえ、なすべきことをすべてできたとしても、それは当然のことに過ぎないということです。何かご褒美をくださいとか、今よりももっといい身分、資格を与えてくださいということではないのです。反対に、十分にできないことがあっても、神様の前に立ち帰って、もう一度やり直すことがゆるされています。

 神様から「これをするように」命じられたことを立派にやり遂げることができたかどうかということも大事なことかもしれませんが、しかし、それ以上に大切なことがここで言われています。それは、私どもは「取るに足りない僕」であるということです。私たちは何かを成し遂げることができても、できなくてもキリストのしもべ、神のしもべであるという信仰の事実は変わりません。この一年を振り返る時、そこで問われているのは、私どもが「イエス・キリストのしもべ」として生き抜くことができたかとどうかということです。「イエスは私たちの主です」と信仰を告白しつつ、キリストのしもべに徹して歩むことができたかどうか。そこに喜びを見出すことができたかどうかということです。このことを自分自身のこととして考えるとともに、私たち教会全体がキリストのしもべとして歩むことができるかどうか。ここに私たちの強さの秘訣というものがあると言ってもいいのです。

 ある本の中で読んだことですが、昔、スウェーデンにいたルター派のある牧師が、生前に自分の墓に刻む墓碑銘を決めておいたようです。教会墓地でよく見られるのは、「わたしは復活であり、命である」という主イエスの言葉や「我らの国籍は天にあり」という文字が刻まれているところが多いかもしれません。ちなみに千里山教会は「希望」という文字の下に、「私たちは主のもとに住む」という第二コリントの御言葉が刻まれています。そのスウェーデンの牧師がこの言葉を刻んでほしいと言った御言葉が、先ほどの10節の言葉なのです。「私は取るに足りない僕です」。どちらかと言うと、復活の希望を分かりやすく語っている御言葉を選ぶ人が多い中で、その牧師は「私は取るに足りない僕です」という言葉を選んだというのです。たいへん謙遜で、慎ましいという印象を受けますが、しかし、その牧師は喜びと感謝をもって、「私は取るに足りない僕です」と言うことができた人だと思います。「きちんとやるべきことをやることができました。あなたのお役に立つことができました。」そのような言葉をもって人生を終え、神様の前に立つこともできたかもしれません。しかし、そうではないのです。「私は取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」そのように告白することことができる信仰に生かされてきたことが、その人の喜びであり、平安でもあったのです。そして言うまでもなく、このことはここにいる私どもにも同じように言えることなのです。

 ただ自分のことを「しもべ」と呼ぶこの言い方ですが、今日ではあまり使われることは少なくなってきているのではないかと思います。決して、キリスト教会の中だけで用いられている言葉ではありませんが、自分のことを「しもべ」と言う人は、今はほとんどいないでしょう。そして、教会の中でも「しもべ」と言う人はあまりいないと思います。もちろん、自分のことを「しもべ」と呼ばないといけないという決まりはありません。しかし、それぞれの信仰の歩み、教会の歩みを考える時に、私たちは「しもべ」であるという信仰は、ある意味決定的な意味を持つと言ってもいいのです。それこそ、私どもが地上の生涯を終える時、「私は取るに足りないしもべです」と言えることが、どれだけ深い慰めと安心をもたらすのかということです。終わりの日、神様の前に立つ時でさえ、私どもがイエス・キリストのしもべであったということが、そのまま私の救いとなるのです。そのように、「キリストのしもべ」と呼ぶことができる信仰の心にいつも生きること。あるいは、ふと虚しさや悲しみを覚える時に、改めて、自分がキリストのしもべとされていることの恵みを思い起こしたいのです。

 ところで、この「しもべ」という言葉ですが、ギリシア語では「ドゥーロス」と言います。そのまま訳すと、実は「奴隷」となります。「私はキリストの奴隷」というのです。「奴隷」というのも正直、現代では通じない制度であるかと思います。昔は、聖書が書かれた時代は普通に「奴隷制度」というものがありましたけれども、今、そんなことをしていたら批判されるどころか、酷く罰せられることでしょう。時代によって、奴隷に対する扱いも様々でしたが、まるで物のように扱われ、主人の思うように使われてしまうのです。奴隷たちは心身ともに辛い経験を味わってきました。もしかしたら、そういう背景もあって、「キリストのしもべ」という言い方を避けている人がいるのかもしれません。「主人と奴隷」という関係ではなくて、もっと現代に相応しい人間関係に適用すべきだと言う人もいるくらいです。

 しかし、私どもの信仰を考えるうえで、「私はキリストのしもべです」と言うこと。あるいは、昔から教会が告白してきた「イエスは主である」と言うことは古いことなのでしょうか。現代には通じない教えなのでしょうか。「洗礼を受け、キリスト者になることは、キリストの奴隷になることだ」などと教会が教えている、と知ったらならば、それだけで周りから変な目で見られるかもしれません。他人からも神からも誰からも縛られることなく生きる。それが自由であると人は考えるからです。自分のいのちを他の誰かに握られるのではなく、自分で自分のいのちを握って生きることこそが人間らしいというのです。神様がいたとしても、「しなければいけないことをしただけです」と言うのではなくて、「神よ、私はこれだけのことをしましたから、それに相応しい報酬をください」と言いたくなってしまうのです。なぜなら、自分の働きであったり、行いというものが、自分という存在を形づくると考えるからです。神様や人間同士の生活の場においても同じです。例えば、周りから賞賛され、感謝されるような立派なことをすれば、そこに自分の居場所ができるどころか、その共同体の中で主人として立つことができるかもしれません。しかし、しもべとして生きている限りは、自分を生きることができないのです。それが私たち人間の中にある価値観なのではないでしょうか。

 聖書が語るしもべというのは、そのしもべが立派なことをしたから、家の中で居場所が与えられたというのではありません。自分の力で、自分の存在や居場所を切り拓いたのではないのです。しもべ、奴隷というのは、そこで生きるように呼び出された存在であるということです。つまり、私どもは真実の主人である神様からここで生きるように召し出された存在であるということです。いのちが与えられている私どもは、そのいのちをますます輝かしたいと願うものです。いのちが生き生きとするための生き甲斐、喜び、希望というものが何であるかを知り、それを手にすることができたらと願います。そのように願うこと自体はいいことです。しかし、そこで忘れてはいけないことがあるのです。それは、あなたは、あなたの主人である神様によって、今ここに在ることができるのです。何かができたらから自分の価値が高まるとか、逆にできなかったから自分の価値がなくなるというのではありません。私どもが神のしもべ、キリストのしもべであり、イエスこそ私たちの主であるということ。ここに私が私であるということの本当の価値があるのです。それ以上に付け加えることは何もないのです。

 もし、私どもが自分のことを神様から切り離して生きようとするならばどうなるでしょうか。つまり、キリストのしもべとしての生き方を辞めてしまうならばどうなるのでしょうか。それは依然として、自分で自分を作り出そうという価値観から抜け出すことができないまま生きていくということになるのではないでしょうか。自分で働いて、その自分の働きに応じた報酬をいただいて、生きていくのです。自分のいのちを自分で握りしめて生きていくのです。自分を支えるのは、自分だけなのです。しかし、そういう生き方が、実は窮屈であるということに、人はどこかで気づいていると思うのです。どんなに働いても、どんなに善いことをしても、満たされることのない虚しさがあります。そこで疲れを覚えてしまいます。自分のいのちも人生も自分のものだと言いながら、こんなに苦しい生き方はないのです。

 私どもは礼拝の中で、「ハイデルベルク信仰問答」というものを告白していますが、その最初に、私のただ一つの慰めというのは、私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、イエス・キリストのものであるということを告白していました。私どもは誰のものか。それは主イエスのものだというのです。自分は自分のものだと意気込みながら、本当は「苦しい」と叫んでいただけの私どもを、罪の奴隷として苦しんでいた者を、主イエスはご自分のものとしてくださいました。だからもう、「これだけのことをしたからこれだけの報酬をください」などと言う必要すらなくなったのです。主イエスは今朝の御言葉において解き放たれた人間の姿を語ってくださっているのです。

 洗礼を受けるというのは、「イエスは主である」と告白することです。これまで自分の人生は自分のものだと思っていた。自分のいのちを握っているのは自分である。自分のいのち、生き方の責任者もまた自分自身であると思っていたのです。しかし、主イエスにお会いし、洗礼に導かれ、救いの恵みにあずかるというのは、そこで新しい主人が現れるということです。実は私の本当の主人は主イエス・キリストであった。そのキリストのものになり切っているということです。私はキリストの御心のままに生きる存在であり、「もうそれで十分」と言う生き方をすることができる。これがキリスト者の幸いであり、私どもがキリストのしもべとされているということの恵みです。

 主イエスは、私どもの主人となるために、私どもをご自分のものとするために何をしてくださったのでしょう。奴隷というのは、お金によって売買されてきました。奴隷を自分のものとするためにお金を払ったのです。では主イエスは私どもを買い取るためにどれだけの代価を支払ってくださったのでしょうか。主イエスが私どもを贖うために、「贖う」というのは、代価を払うという意味ですが、私どもを贖ってご自分のものとするために、どれだけの代価を払ってくださったというのでしょう。その代価というのはお金ではありません。主イエスはご自分のいのちと引き換えに、私どもをご自分のもの、神のものとしてくださったということです。それがキリストの十字架の出来事です。主イエスのいのちによって、私どもはしもべとされました。私たちが主イエスのしもべになる前に、まず主イエスが十字架上でいのちを注いでくださり、ご自分のいのちという驚くべき代価を支払い、買い取ってくださいました。私ども一人一人は、それほど大切にされているということです。それほど高価であるということです。私の存在そのものが、既にもう報われているのです。私は主のものであり、わたしたキリストのしもべであるという事実に私どもは慰められるのです。ここにいのちそのものが新しくなる道が拓かれているのです。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」この言葉は言い換えるとこうなります。「私は値を求めないで生きることができるようになったあなたのしもべです。」主人に感謝を求めるのではなく、主人に感謝する言葉、主イエスを賛美する言葉として口にすることができます。私どもは主にあって、喜びのしもべなのです。

 「取るに足りない僕」と言いなさい。主イエスはそうおっしゃいました。「取るに足りない」というのは、「役に立たない」という意味もありますが、ここでは、そういう意味よりも、お金を払っていただくに値しないという意味で理解することができるでしょう。主イエスと私どもとの関係は、雇用主と雇い人という関係ではないのです。お金や損得による関係ではありません。完全に主人のものとされたしもべです。主イエスがご自分のいのちを十字架でささげてまでして買い取った大切なしもべです。だから、主イエスは「このしもべは役に立たない」などとは一言もおっしゃっていません。しもべは、命じられたことをすべて果たして、家に帰って来ます。そこですぐに報酬を求めるわけではありませんし、休憩するわけでもないのです。帰って来てすぐに主人のために夕食の準備をします。主イエスは、何か特別に優れたしもべについてお語りになっているのではなく、わたしのものとされたしもべは皆このように生きるのであって、そのことを何よりも喜びとして生きるのだというのです。

 ところで、なぜ7節以降で、しもべの話を主イエスは弟子たちにお語りになったのでしょうか。

しもべとして、神様のために、主イエスのためになすべき働き、奉仕はたくさんあるかもしれません。その中で、中心とも言える働きとは何なのでしょうか。そのことが1〜6節までに記されています。教会の中で、「小さな者をつまずかせないように気をつけなさい」と主はおっしゃいます。弱さを抱える小さな一人の価値を誰よりも知っていてくださる主イエスが、その一人のためにも十字架で死んでくださったからです。

 そして、ここで言われているつまずきと「罪」の問題は深く結びついています。例えば、教会共同体の中で、大きな罪を犯した兄弟がいた場合どうするのかということです。その人を、つまずいたままにするのか。倒れたままにするのか。それとも、手を差し伸べて、神様のもとにもう一度導こうとするのか。主イエスは、兄弟の罪について、戒めるとともに、ちゃんとその人の罪を赦してあげないと勧められます。4節に、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とありました。一日に七回罪を犯す。睡眠の時間を除きますと、だいたい2時間に一度は罪を犯している計算になります。しかもその人は、その度に、罪を指摘され、悔い改めているのです。けれども、悔い改めて出て行ったと思ったら、2時間後にまた悔い改めにやって来る。それを七回も繰り返すのです。これは赦したいと思っても、赦しようもないのです。まともに悔い改めることもできない者を赦してどうなるのかと思ってしまうものです。

 しかし、主イエスは赦すようにと言うのです。七回という回数ですけれども、「七」という数字は完全数です。だから、回数を数えるのではなく、完全に、無条件に赦してあげなさいというのです。弟子たちは、兄弟を赦してあげたいと願います。信仰に生きる者は、この兄弟がもう一度、正しい悔い改めをなし、救いの喜びに生きてほしいと願うのだと思います。しかし、それができないのです。どうしても赦すことができないという正直な思いがあるのです。赦すということは自分が傷つくことであるからです。七回も赦し続けるということは、いつまでも自分が傷つくことです。そういうところで、いつまで私は傷つくのですか。いつになったら報われるのですかという思いが強くなります。赦したいのだけれども、あの人はなぜ恩を仇で返すようなことをするのか。なぜ人の親切を踏みにじるようなことをするのか。段々と、愛したいという思い、赦したいという思いが憎しみへと変わっていくのです。見返りを求める者となり、あるべき自分の姿を見失います。そこで私どもは、キリストのしもべとして生きることを忘れてしまうのです。

 そういう自分たちの姿というのは、自分で見ていても恥ずかしいし、何よりも神様に、主イエスに対して申し訳ないと思うものです。どこかで。「こういう自分ではいけない」と気づいているものだと思います。だから、弟子たちは言いました。5節です。「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき」。細かいことですが、主語が「弟子たち」から「使徒たち」に変わっています。使徒というのは、復活の主が天に昇り、聖霊によって教会が生まれた後に、用いられた言葉です。使徒と呼ばれるのは、時間的にはもっと後のことなのです。しかし、ルカは「使徒たち」と言い換えました。ここで教えられていることは、この時の弟子たちの問題だけではないということです。のちに遣わされる使徒たちの問題であり、今日の教会が真剣に悩み、また戦っている問題でもある。まさに私たちのことである。そのことを「使徒」という言葉に重ねたのでありましょう。弟子たちも、今を生きる私たちも同じように悩んでいる深い問題です。罪を赦すということほど難しいことはないのです。他の誰よりも、神様ご自身が罪を赦すことのたいへんさと向き合っておられます。

 使徒たちは主に願い出ます。「わたしどもの信仰を増してください!」自分たちの信仰を見る時に、もう自分たちの中には伸びる可能性、増える可能性がないのだと思いました。もう自分たちが持っている信仰の限界というのはここまでであって、成長の可能性はないということです。だから信仰が強くなり、増えるには外から足していただくしかないというのです。何事も信仰がなければ主イエスから与えられた義務を果たすことができないし、主が教えてくださったように、兄弟を赦すことも赦しを説くこともできない。だから信仰を増し加えてくださいというのです。

 その願いに対して、主はこのようにお答えになりました。6節です。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」弟子たちは、自分たちが赦しに生きることができないことについて、信仰が少ない、信仰が小さいということに原因を見ているようです。しかし主イエスは、信仰とは量の問題ではないのです。質の問題だと言うこともできるかもしれませんが、要するに、信仰というのはあるかないかどちらかだということです。そして、信仰が神様から与えられているならば、たとえ、それがからし種一粒のような小さいものであっても、赦しに生きることは可能だとおっしゃったのです。桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と命じて、そのとおりになる。これはあり得ないことです。兄弟の罪を限りなく赦し続けるということも、同じようにあり得ないこと、できるはずなどないと考えてしまいます。そのことを「信仰が少ないから」と言って、つい言い訳をしてしまします。しかし、主はからし種一粒の信仰があればできる、大丈夫だと励ましておられるのです。兄弟の罪の現実、自分自身の罪の現実を見つめ、「私は信仰者として失格だ」と諦めそうになるそのところで、主イエスは私どものことを既に信仰にしっかりと生きている者として見ていてくださるのです。あなたがたに信仰はある!あなたがた自身が、十字架による罪の赦しの奇跡に生かされているではないか!だから、あなたがたもまたわたしの言葉に聞き従うことができる!あなたがたもまた兄弟を赦し、互いに赦し合う恵みの中を生きることができる!主イエスは私どもを励まします。主は弱さの中に力を注いでくださるお方です。とりわけ、兄弟の魂を配慮するということにおいて、また人々を救いへと導くという点において、不可能を可能にしてくださるお方なのです。

 そのために、主がここでお語りになったように、キリストのしもべに徹して生きるのです。信仰を増やしてもらって、何とかやっていくということでもありませんし、いわゆる「信心」と呼ばれるように、自分の心の持ちようで信仰が増えたり減ったりということでもないのです。信仰というのは、純粋に主イエスを信頼することです。私のことを信じていてくださる神様に、私たちの罪を赦すために十字架でいのちを献げてくださった主イエスに信頼をし、委ねることです。私の主となってくださった主イエスに結びつき、主イエスの懐に飛び込み、あるいは、主に抱きついていくような、そういう心。それが信仰であり、そのことを最もよく表しているのが「しもべ」という言葉なのです。そして、私どものまことの主人である主イエスは、聖書の他の箇所に記されているように(マタイ25:21、ルカ12:35~、22:28~)、人間の主人のように自分のしもべに対して冷たいお方ではありません。私どもの働き一つ一つをご覧になって、喜んでくださるお方です。「よくやった」と褒めてくださるお方なのです。

 最後にキリスト者の詩人に星野富弘さんという方が書かれた詩を紹介して説教を終わりたいと思います。このような詩です。

  いのちが一番大切だと思っていたころ

  生きるのが苦しかった

  いのちより大切なものがあると知った日

  生きているのが嬉しかった

 星野さんはこの詩について丁寧な説明はなさいませんでした。「いのちより大切なもの」って何ですか?と聞かれてもあえて答えることはしませんでした。聖書に書いてあるとしか答えませんでした。いのちが一番大切だと思っていたころというのも具体的なことは分からないのですが、きっと、自分のいのちにしがみついていた日々のことなのではないでしょうか。自分のいのちも人生も自分のものだと思い込んで生きていた時です。自分の居場所、価値を高めるために、自分の力に頼っていた日々のことでしょう。しかし、キリストと出会うことによって、そのような苦しみから解き放たれたのです。いのちより大切なものがあると知った日というのは、今日の御言葉で言えば、自分はキリストのものであり、自分はキリストのしもべなのだということを知った日でもあるということです。もう自分で自分を支えなくてもよくなった。自分以外の者に支えられているのだから。私を神のものとするために十字架で死に、復活してくださったいのちの主が私を支えていてくださるのだ。そのことを知ったとき、今までに覚えたことのない安堵と喜びを知ったのでないかと思います。

 私どもも星野さんの気持ちがよく分かると思いますし、主イエスが今日も御言葉を与えてくださいました。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」自分を誇るのでも、報いを求めるのでもなく、ただ私どもの贖い主であるイエス・キリストに対して、心からの感謝をもって賛美します。キリストのしもべとして最後まで歩み続けることの中に、私どもの喜びがあり、平安があるのです。お祈りいたします。

 神よ、あなたのしもべとされていることを感謝します。なすべき働きをこの年も、あなたの前でなしていくことができますように。自らの信仰の弱さ、小ささ、また罪というものを痛感することがありますが、そのようなところでも、あなたが私どものまことの主人として支え、励ましてくださいますから感謝いたします。主にある赦しと平和の福音が教会においてはもちろんのこと、すべてのところにおいて満たされますように。そのために私どもをあなたのしもべとしてお用いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。