2023年01月01日「こころを高く上げよう!」

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聖書の言葉

1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節

メッセージ

 今日は一年の初めの日です。「初め」であるがゆえに、私どもはこれからの歩みについて色々と考えます。この一年の歩みはもちろんのこと、私どもの将来についても様々な計画を立て、それを実行できるように努めます。私たち千里山教会においても、29日に定期会員総会が行われます。信仰をもって会議をし、教会の新しい一年の歩みについて共に考え、前に進んで行きます。

 使徒パウロがコロサイの教会に宛てて記した手紙の言葉を聞きました。パウロは呼びかけるのです。「上にあるものを求めなさい!」上にあるものを求めるように!その一言だけで、気持ちが引き締まるような思いさえいたします。心を上に向けるように!別の言い方をすると、2節にあるように、「地上のものに心を引かれない」ということでもあります。下にあるものでもなく、地上にあるものでもなく、上にあるものを求めるように!2節の「心を引かれないように」という言葉は、ギリシア語の原文にはありません。「上に思いを向けなさい。地上のものでなく。」そのように訳されているだけです。けれども、心を上に向けることができないというのは、下のもの、地上のものに心ひかれ、心捕らわれてしまう現実があるということでしょう。心が沈んでしまう現実があるということでしょう。

 そういうところで御言葉は私どもに語りかけるのです。「上にあるものを求めなさい!」ところで、「上にあるもの」とは何なのでしょうか?「上」とは何なのでしょうか?「上にあるものを求めなさい」という言葉に続けてこう記されています。「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」「上」というのは、イエス・キリストが神の右に座しておられるところです。別の言葉で言えば、「天」と言うことができます。天にあるものを求めなさい!復活し、天に昇られた主イエスは、父なる神の右に座しておられます。父と同じ力、同じ権威ある場所に今、主はおられるのです。そこで私どもの歩みを愛の御手の中で導いておられるのです。

 ですから、「上にあるものを求めなさい」というのは、いわゆる目標や志をもっと高く持って頑張ろう!ということではないのです。去年より、今年はもっといい成績を残そう!誰にも負けないように、一番に上に立つことができるように、一所懸命努力しようということでもないのです。もちろん、一年の初めに、それぞれに目標を立てて、それに向かって努力することはいいことだと思います。何か目指すものがないと、生きていてもつまらないし、何のために生きればいいか分からないという人もいるでしょう。そういう人生ではなくて、ちゃんと目指すべきものを見つけて、それに向けて生きることが自分の生き甲斐になるということがあるのです。そういう生き方は、キリスト者でない人も、キリスト者である人も共通して持っている思いなのではないでしょうか。

 ただ今日の御言葉が語る「上にあるものを求めなさい」というのは、私どもの努力目標であったり、くよくよせずに元気に生きようといった気持ちの持ちようであったり、そういうことではないのです。あくまでも、キリスト者としてあなたはどう生きるかという問題なのです。神様との関係のことが言われているのです。ですから、1節の初めに、私どもが上にあるものを求める理由・根拠として、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」とパウロは言うのです。そして、「上にあるものを求める」生き方は、キリスト者の問題だと先ほど申しましたけれども、実はキリスト者だけでなく、まだ洗礼を受けておられないすべての人に同じように言えることなのです。2節にこうありました。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」上にあるもの、天にあるもの、神がおられ、キリストがおられるところ。そこに心を留めるように。「心を留める」というのは、「考える」「判断する」、あるいは、「方向づけられる」という意味があります。どこに向かって歩んでいくのかというのは、私どもの心が今どこにあるのかということと一つのことです。上にあるものに心を留め、その方角に向かって歩み出して行く。神様に向かって生きるのです。

 キリスト者だけでなく、すべての者が、上にあるもの、天にあるものを求め、そこに向かって生きることを神様は求めておられます。天は、復活した主イエスがおられるところです。主イエスだけではありません。私どもが立つべき場所もまた、天であるということです。フィリピの信徒への手紙第3章20節に、「わたしたちの本国は天にあります」という御言葉があります。以前の翻訳では、「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。私どもはこの地上に生きていますが、私たちの真の故郷は天にあるということです。私たちのいのちもまた天にあるということです。上にあるものを求めて生きるというのは、主イエスを慕い求め、主イエスの中にあるまことの自分を、まことのいのちを求めるということです。3節では、「あなたがたの命は、キリストと共に」とありました。4節では、「あなたがたの命であるキリスト」と言われています。いのちとは何か?自分とは何者か?誰もが問うていることです。聖書ははっきりと語ります。いのちとはキリストである。私とはキリストと共にある私、キリストから切り離された自分などというのはあり得ないと。パウロはガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、たいへん美しい信仰の告白をいたしました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)

 もし、私どもが神様というお方、イエス・キリストというお方を抜きにして、上を求め、上を目指す生き方をするならばどうなるのでしょうか。それこそ、まるで自分が神であるかのような生き方をしてしまうのではないでしょうか。良くも悪くも、結局は自分次第ということになるのです。良い結果を残せば賞賛されるかもしれませんが、結果を残すことができなければ誰も目を留めてくれません。すべては自分で責任を取らなければいけないのです。また、イエス・キリストというお方を無視して、人生を築き上げようとする時、神様に対してだけではなく、その過程で多くの人を傷つけることになります。でもそういう痛みを知らないまま、上に立つ快感に酔いしれてしまうのです。自分さえ良ければいいと思うからです。そして、人間には限りがあります。今、心地の良い場所に居ることができたと思っても、それが永遠に続くことはありません。やっと手に入れたものが時間と共に衰えたり、他の誰かに奪われることもあります。一度落ち込んだ気持ちを元に戻すことはたいへんなことです。そして、ああ、もうこれで安泰だと言えるものを結局最後まで手にすることができないまま終わってしまうのです。

 パウロは「地上のものに心を引かれないようにしなさい」と警告しました。地上のものとは、今申しましたように、神様から遠く離れたところにあるものです。それを「罪」と言ってもいいでありましょう。コロサイの信徒への手紙は、第3章から洗礼を受け、キリスト者になったものが具体的にどのような生活をすべきかを勧めています。そして、キリスト者の生活というのは、何か抽象的なことではなく、極めて具体的なことであるということです。5節以下では、「こういうことをしてはいけない」と戒められています。例えば、5節では、「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」8節では「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」とあります。ここで言われていることが上を求めず、地上のものに心ひかれて生きてしまう人間の姿です。しかし、キリストのものとされたあなたがたは、そのような罪から救われのだから、そういう生き方はしてはいけないと言うのです。

 またこの手紙が書かれた時代、もう一つ教会を苦しめていた大きな問題がありました。第2章20節を見るとこうあります。「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き…。」また、第2章8節ではこうあります。「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」「世を支配する諸霊」「世を支配する霊」というのは、御言葉の真理とはかけ離れた教え、価値観のことです。人間中心のこの世的な価値観です。また、当時キリスト教会を惑わしていた異端のことをも指しています。イエス・キリストが神であることは認めるものの、まことの人間であることを認めなかったのです。先週のクリスマスでは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という御言葉を聞きましたが、彼らから言わせると、イエスは仮の姿をとって人間になったに過ぎないというのです。しかし、そうしますと主イエスがこの地上で経験した苦難もまた仮のもの、何よりも十字架の苦しみも仮のものということになります。そうしますと、私どもの救いはどうなってしまうのでしょうか。罪の赦しも、永遠のいのちの希望もあくまでも仮の話になります。なぜ異端はそういうことを考えたのでしょう。それは、私どもの体、肉体は汚れたものだと考えたからです。救われるのは魂であって、体ではないと考えました。肉体をもって生きる地上の生活など無意味だと思ったのです。当然、そこには乱れた生活しか生まれてきません。

 しかし、キリスト者は違うのです。第3章12節いかに、洗礼を受け新しくされたあなたがたはこのように生きなさいと勧めるのです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」このあともいくつかのことが語られていきます。これらのことを自分の妻や夫、子どもたちに対して実践するように。つまり、目の前にいる隣人との間で、具体的な実りを結ぶように努めなさいと勧めるのです。私どもはこの世的な価値観から完全に解放されているでしょうか。地上のことに一所懸命になっても意味がない、この世は苦しみや悲しいことばかり、こんな世界のために真面目に生きても仕方ないとどこかで諦めてはいないでしょうか。神以外の何者かに心奪われていないでしょうか。重荷を担いつつ、隣人愛に生き抜くことができるでしょうか。「世を支配する霊」というのは、決して、昔の話ではないのです。

 この地上の歩みには確かに、誰かに傷つけられてしまう現実があり、また誰かを傷つけてしまう現実、後悔ばかりしてしまう現実があります。だからこそ、その傷つけられた心、傷つけてしまう心を地上ではなく、上に、天に向けること。心の置き場所を地上にではなく、上に置くこと。キリストのもとに、神様のもとに置くことが求められます。しかしながら、地上に心ひかれて生きていた者が、「上にあるものを求めよ」「イエス様のところに心を置こう」と言われても、急にできることではないのです。いや本当は誰にもできないのです。人生の土台を、地上から天に変えるということは、人間の業ではできないのです。ただ神にしかできないことなのです。イエス・キリストにしかできないのです。そして、「上にあるものを求めなさい」という時に、私どもの視線は当然上へと向けられます。しかし、それは同時に下にも向けられるのではないでしょうか。私どものいのちを下から支える土台は何であり、何よって生きるのか、その源を見つめることとなるからです。上からも下からも神様の愛と恵みに挟まれ、取り囲まれるようにして生かされている。それが私どもキリスト者の本当の現実です。私たちのために十字架で死んでくださり、復活してくださった主イエスゆえに、上にあるものを求めることができます。天を仰ぎ、キリストを仰いで礼拝をささげます。ここに私どもの原点があることを知るのです。

 そして、もう一つ私どもが思い起こすべき原点というものがあります。3節を見ますと、「あなたがたは死んだのであって」とあります。「死んだ」というのはどういうことでしょうか。私どもは死んだからこそ、上にあるものを求めることができるのです。「死んだ」というのは、洗礼を受けてキリストのものとされたことを意味します。第2章12節をご覧ください。「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」洗礼を受けるというのは、キリスト共に死ぬことです。キリストが私どもの罪を背負って死んでくださったがゆえに、罪に支配されていた古い自分もそこで死んだのです。そして、キリストが復活なさったように、私どもも罪赦された者として、新しい者として復活したのです。新しい私、本当に生きるべき私が誕生した出来事、それが洗礼の出来事です。

 洗礼というのは、一回的なものであって、何度も授けてもらうものではありません。一回的というのは、私どもの歩みにおいて決定的なものであるということです。何があっても、決して覆されることがないほどに、確かなものだということです。私どもは、洗礼を受けてキリスト者として歩む中で、よく揺らいでしまいます。罪に苦しむこともありますし、色んな苦難や試練の中に立たされます。嫌というほど弱い自分に気づかされます。これでは自分はキリスト者として失格だ。もう一度、洗礼を授けてほしいと願いたくなることもあるかもしれません。しかし、その必要はないのです。そんなことをしてもいつまで経っても安心できません。キリスト者が信ずべきことは、キリストの十字架と復活の御業が完全であったように、洗礼において神のものとされたことも完全であり、確かなことであるということです。自分の弱さや罪に嘆き続けるのではなく、それらを赦し、すべてを覆ってくださるほどに、私どもをご自分の支配の中に置いてくださるイエス・キリストに心を向け直します。上にあるものを求め、そこに心を向けるのです。

 また、洗礼の出来事を思い起こすというのは、キリストの体である「教会」のことを思い起こすことでもあります。洗礼を受けることは、教会の仲間になるということだからです。そうしますと、上にあるものを求めるというは、決して、自分一人ですることではないということが分かります。教会の仲間と共に、そこにはまだ洗礼を受けていない仲間もいると思いますが、皆一緒に上にあるものに心を向けます。

 信仰の仲間と共に上にあるものを求めます。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とありました。これは神様が意地悪をして、私たちのいのちを隠しているとか、まだ本当のいのちを生きるには早いと言って、隠しておられるということではありません。何よりも、私どものいのちはキリストと共に今ここにあるのです。これ以上に何も望むものはないと言えるほどに、すべてにおいて満ち足りているいのちです。しかし、私どもは地上に生きているがゆえに、十分にその素晴らしさを見ることができないという一面を持っています。それは4節で「キリストが現れるとき」とあるように、主イエスが天から再び来てくださる時まで隠されているというのです。だから、主が来られた時には、私どももキリストと共に栄光に包まれるのです。その時、キリストから与えられたいのちがどれだけ素晴らしいものであったかということが明らかになることです。どれだけ、自分が、私たち教会が、キリストから愛され守られていたのか。そのことを地上にいた時よりも、もっと鮮やかな仕方で示されます。だからこそ救いの完成を待ち望みます。キリストのいのちに生かされながら、上にあるものに心を留めます。

 今日は、説教の後と、聖餐式の際に、「こころを高くあげよ!」という賛美歌を歌います。この「こころを高く上げよう」という言葉は、古くから、聖餐を祝う礼拝において、司式する司祭が口にした言葉と言われています。ローマにいたヒュッポトリスという人が記した礼拝式文があります。聖餐の祝いの順序を記したものです。そこでは最初に司式者が平和の挨拶をします。続けてこう言うのです。「スルスム・コルダ」。これは「こころを高くあげよう」という意味の言葉です。司式者は会衆に「心を高く上げよう」と呼びかけます。すぐに会衆は答えます。「わたしたちはもう主のほうを向いております。」既にイエス・キリストのほうを向いているというのです。そこで司式者は言います。「主に感謝をささげます」。また会衆は答えます。「それはよいこと、正しいことです。」こうして司式者は私どもが感謝すべきキリストの救いの御業を語り始めます。忘れてはならないのは、「こころを高く上げよう」と聖餐の中で呼びかけることを勧めたヒュッポトリスは、やがて殉教いたします。ローマの教会はそのような迫害の中、信仰が脅かされる中でなお、心を高く上げたのです。苦難と危機の中で心をキリストのほうに向けたのです。上にあるものに心を留めたのです。私どももいつも問われていることです。礼拝において神の前に立つ時に、聖餐の時に、苦難の中で自分の弱さや罪と直面する時に、「いつも私たちの心は主のほうを向いています」と言うことができるかどうかということが問われています。いつも主のほうに心を向けるためにどうしたらいいのでしょうか。自分の心は地上のものに捕らわれていたと気づいた時、どうしたらいいのでしょうか。

 また、「こころを高く上げよう!」という言葉は、先立って朗読していただきました旧約聖書の哀歌から取られた言葉です。哀歌第3章40〜42節の御言葉をお読みまします。「わたしたちは自らの道を探し求めて/主に立ち帰ろう。天にいます神に向かって/両手を上げ心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」「両手を上げる」というのは、祈りの姿勢を表します。しかし、ここで祈りつつ上げる心は悲しみで満ちていました。悔い改めの思いで満ちていました。捕囚の民は、神に背いた罪を認めていますが、まだこの時は神の赦しがまだ見えていないのです。だからまだ嘆きの祈りと歌が続きます。

 心を高く上げること、上にあるものを求めること。それはかつて神の民がそうしたように、両手を上にあげて祈りをささげるということでもあるのです。天におられる父なる神に向かって祈るのです。父なる神のそばで私どものために執り成していてくださるキリストに向かって祈るのです。よく考えると、いつも私どもがしていることです。「天の父なる神様!」「天にまします我らの父よ!」矛盾するようなことかもしれませんが、私どもは主に心を向けることができない自分の心を、神に向けて祈ることがゆるされているのです。その時に旧約の民のように、まだ赦しが見えないと言って嘆き続ける必要はありません。既に主イエスが来てくださったからです。だから、天を仰いで祈りつつ、キリストと共にある私どものいのちを見出します。私どもの本当の生き方を主イエスの中に見出します。そして望みを新たにします。そこで「主よ、来てください!」「御国を来らせたまえ!」という新しい祈りが生まれます。 

 復活の主に支えらながら、心を高く上げましょう!私どもが今置かれている現実から、両手を上げ、上にあるものを求めて祈りましょう。教会のために、共に生きる家族のために、この世界のために、自分のために心を高くあげて祈りましょう。そして、私どものいのちであるキリストと共にある幸いを覚えつつ、愛の業に励みます。今から聖餐を祝います。天の御国にて祝われる恵みの糧を、今、復活の主は私どもに分け与えてくださいます。望みを新たにして、この一週間、この一年を共に歩んで行きます。お祈りをいたします。

 心沈むことの多い私どもです。上を向いて明るく生きたいと願いながら、自分の力ではどうすることもできません。しかし、十字架と復活の主のゆえに、私どもが本当に生きるべきいのちを生きることができるようにしてくださいました。上にあるものを、イエス・キリストを慕い求める信仰に生きることができますように。また、私たち教会が「祈りの家」であるがゆえに、なお苦難多き世にあって、人々の希望の存在としてこの場所に立ち続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。