2022年12月25日「輝け!いのちのことば」

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輝け!いのちのことば

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章1節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネによる福音書 1章1節~14節

メッセージ

 イエス・キリストの御降誕を喜び祝うクリスマスの礼拝を、こうして共にささげることができ感謝いたます。また今日は丁度12月25日に当たるということもありますが、同時にそれは今日が今年最後の主の日であるということも意味します。来週はもう1月1日、もう新しい一年が始まっているのです。この一年、この世界やこの国にも、また私たち教会や、それぞれの家族、そして、自分自身の歩みにおいても、色んなことが起こった一年であったに違いありません。いわゆるいいことばかりが起こったというわけではないと思いますが、私どもはそこで神様が与えてくださった恵みを数えることができます。それは誰が見ても、それは素晴らしいことだと言えるものばかりではないかもしれません。はっきり言って、こんなことなかったと思える出来事もたくさんあったに違いないのです。しかし、そこで「これは神様の恵みだ」とこのクリスマスの日に言うことができるのです。なぜなら、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストが神の恵みそのものであり、「こんなことなかったほうがよかった」と嘆きたくなる現実の中にまさに私どもと同じ人間として来てくださり、私ども共にこの現実を生きてくださるからです。

 本日も先週に引き続き、ヨハネによる福音書第1章の御言葉を聞きました。その14節にこのようにありました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」また、今日はお読みしませんでしたが、16節には次のようにありました。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」イエス・キリストはまさに恵みと真理に満ちたお方です。恵みの上に、さらに恵みを受けたというふうに、「恵み」「恵み」と連呼しながら、伝道者ヨハネは、主イエスのことを私どもに紹介するのです。恵みと真理そのものある主イエスが来てくださったのです。真っ直ぐ素直な心で、嘘偽りなく生きていきたい。どんな時も誠実にと願いながら、どうしてもそこで自分に嘘をつき、誤魔化さないと生きていけない現実があります。真理によって自らの人生を形づくることができない現実があります。しかし、主イエスはそのような世界の中に恵みと真理を、つまり救いをもたらすために来てくださいました。だから、恵みというのは自分にとっていいこと、わるいこというふうに判断するようなものではありません。恵みとは、真理とはイエス・キリストそのものなのであるからです。

 ヨハネは、主イエスのことについて最初にこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言」というのは、イエス・キリストのことです。そして、イエス・キリストは神と共にありました。それも2千年前のクリスマスの時から神と共にあるというのではなくて、天地創造の前から既に神と共にあり、創造の御業に関わっておられました。なぜなら、キリストは神そのものであられるからです。その主イエスのことについて、「言」という言い方をするのはどうしてでしょう。この世界は神の言葉によって、その語られた御言葉が実現するようにして造られていったからです。その神の言葉は、初めに「光あれ」と命じられたように、愛と希望に満ちたものです。生き生きとしたいのちに満ちているのです。私たち人間もこの世界の一員であるばかりか、造られたものの中で一番尊いものとされています。だから、私どものいのちの根底、いのちの土台にはいつも神の愛があります。闇に覆われてしまいそうな辛い現実の中にも、神様の愛の語りかけがあります。闇の現実、罪と死の現実の中で、なお望みをもって生きよとするいのちが躍動しているのです。まさに光と希望に満ちたいのちです。

 今日は特に14節の御言葉に心を留めたいと思います。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」クリスマスは神であられるイエス・キリストが人間となってこの世界にお生まれくださった出来事です。ただヨハネは、「言であるイエス様が人間となった」という言い方をしないで、「言葉は肉となって」という言い方をしました。人間のことを「肉」という言葉で言い表すのです。なぜ、人間ではなく、肉という言い方をするのでしょうか。もちろん神が人間となられたと言っても間違いではないのです。ただ神が人間になるというのは、間違った見方をすると「現人神」ということになってしまいます。当時、ローマを支配していた皇帝も「私が主であり、私が神だ」と言って、自分を礼拝することを強要しました。日本でも、天皇が現人神だと言われていた時代があったのです。そして、現人神という場合、彼らは人々を救うどころか、恐怖と暴力によって人を支配しようとしたのです。けれども、神であられるイエス・キリストが人になるというのは、そういうことではありません。

 「肉」というのは人間のことに変わりはないのですけれども、その人間というのはどういう人間であるかということです。強くて、立派な人間に主イエスはなられたのでしょうか。そうではないのです。この肉という言葉は、弱く儚い存在であるということを示しています。あるいは、罪に苦しむ存在であり、死に限界づけられた存在であるということです。そのようなあらゆる弱さを抱えているのが人間です。しかし、大事なのはここからで、「私は弱いから」と言って嘆いて終わってしまうのではなく、それゆえに神様の憐れみに依り頼んで生きること。それが聖書が語る「肉」ということなのです。

 主イエスは私ども人間が抱える現実をすべて知っていてくださいました。そのうえで肉となってくださったということです。ですから、この世界のことを何も知らないお方が、2千年前に急にこの世界に突然産み落とされたというのではないのです。主イエスは天地創造の前から神であられるお方です。この世界の歴史、私ども人間の歩みのすべてを初めからご覧になっておられた主イエスが、父なる神様の御心にしたがって、この世界に来てくださいました。それは人間が肉なる存在であるがゆえに抱えている、あらゆる弱さの只中に来てくださったということでもあります。何か思い当たる辛そうなことを一つ一つあげていくというよりも、まず自分のこととして、自分が抱える弱さや不安、恐れや悲しみについて静かに思い起こすことができるでしょう。それにもかかわらず、神様に助けを求めようとしない高慢さがあります。自分のことにこだわるあまり、周りの苦しみがまったく見えていないということがあります。自分さえ幸せだと思えれば、他の人のことなどどうでもいいのです。神様さえも必要ないのです。そのような現実、つまり、罪の闇で覆われたこの世界の中に、この私の中に主イエスは来てくださいました。

 それは私どもの弱さそのものを共に担うということであり、代わりにわたしがすべて担うという主イエスの決意、覚悟の表れでもあるのです。それを「愛」という言葉で言い表すこともできるでしょう。第3章16節に有名な聖書の言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」愛するというのは、その相手と同じようになるということでもありますし、相手と同じ所に立つことでもあるでしょう。そして、愛する相手と同じ場所に立ちながら、そこで自分に不利益が生じたり、痛みを伴うことがあっても、それを受け入れるということなのです。神様は、「あなた」という存在を抜きにして、わたしは御子イエス・キリストを遣わすことはしないというのです。

 私どもは自分の弱さや惨めさと直面する時、周りを取り巻く人たちや環境に嫌気が指す時、どうしても否定的な思いになってしまいます。「こんな世界なんか…」「こんな人たちなんか…」「こんな私なんか…」。そう言ってつぶやいてみたり、憎しみを覚えたりしてしまうものではないかと思います。けれども、神様はそうではありません。この世界がどんな世界であっても、この私がどんな人間であっても、「神であるわたしにとってあなたは愛するに値するのだ」というのです。愛されるに相応しい価値を私どもが持っているから、愛するというのではありません。神様がご自身の正しさ、聖さによって私どもをご覧になるならば、愛するどころか見捨てる他ない存在です。けれども神様は私どもを愛してくださいました。この世を愛して、罪人たちを愛して、神様ご自身に何の得があるのでしょうか。特どころか、損でしかないのです。しかし、神様の愛は損得勘定で計ることなどできません。私どもを愛し、肉の弱さから救い出すためには、神様がすべてを投げ出さなければどうすることもできないのです。その神の愛が最もよく表れているのがキリストの十字架なのです。

 さて、イエス・キリストが肉となったということに続いて、こう言われています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ここでも細かいことですが、「わたしたちの間に生まれた」と言うのではなく、「わたしたちの間に宿られた」という言い方をしています。「生まれた」ではなく、「宿られた」と言うのです。「宿る」というのは、私たちの間に「住む」ということですが、もう少し丁寧に申しますと、「天幕を張る」という意味があります。天幕を張って、そこに住むということです。「天幕」というのは聞きなれない言葉かもしれませんが、分かりやすく申しますと、「テント」のことです。主イエスはあらゆる弱さを抱える私たちと同じ人間となり、私たちの間にテントを張って住んでくださったというのです。

 今日の私どもからすれば、テントと言われても、どこか安っぽい感じがしますが、主イエスはよその国からこの世界に観光に来られたお客さんではありません。どこかからひょいとやって来て、適当に居心地のいいホテルに宿を取られたというのでもないのです。天からやって来られた主イエスは、客ではなく、この世界に住むという決意、覚悟をもってこの世界に来てくださったのです。私どもも知らない国、知らない町に旅することがありますけれども、客としてそこに行くのと、実際にそこに住むのとではまったく事情が違うことは分かると思うのです。よそからやって来た客、しかも、そこに数日滞在しただけでは、その国、その場所というものは分からないものです。実際に、その町の住民として生きる中で、その町の事情というのが詳しく分かるのだと思います。

 神であられる主イエスは天において、既にこの世界のことも、私たち人間のこともご存知でした。ですから、わざわざ地上に降りて来る必要もなかったと思います。それに主イエスにとって明らかに、天のほうが居心地がいい場所でした。すべてにおいて満足できる場所でした。ですから地上という低い所にまで行かなくても、天という高みから私どもを救うということもできたでしょう。この地上に住まいを構え、この地上に生きる人たちと共に時間をかけて歩まなくても、一瞬にしてこの世界を神様の御心に適う世界に変えることも当然できたはずです。しかし、神様の御心は違いました。「肉となって、わたしたちの間に宿る」という仕方でしか、私どもを救うことができないとお考えになられたのです。私どもが生きているこの場所に来てくださり、住んでくださり、そこで私どもと出会ってくださる。主はご自身の身をもって、「救いはここにある」ということを明らかにしてくださいました。

 先ほど、天幕というのは私どもには聞き慣れない言葉だと申しましたが、ユダヤ人にとりましてたいへん大きな意味を持ちました。神の民にとりまして、天幕や神殿という存在は、神の臨在を表すものであったからです。神様がここにいる。神様が今ここに生きておられるというしるし、それが天幕であり、神殿でありました。天幕のことを「幕屋」と言うこともあります。かつてエジプトの奴隷から解放された神の民は、約束の地に向かって、40年もの間、荒れ野を旅したのです。一つの場所に定住することなく、神様が示される場所に向かって旅を続けたのです。その時に彼らはテントを張りました。自分たちが休むための場所です。同時に神様の指示によって、神様のための天幕、幕屋を作ったのです。決して豪華なものではありませんが、神様のための天幕、それは彼らの信仰の旅路において、いつも神が共におられるということを示すものであり、彼らが自分たちをエジプトの奴隷から解放してくださった神を礼拝するためのものでした。

 神の民がその途中で天幕を張った場所は、決して立派な町でもありませんし、堅固な城壁に取り囲まれているわけでもありません。夜には真っ暗になり、辺りを十分に見渡すこともできないのです。獣が襲って来るかもしれません。敵がやって来るかもしれません。常に見張りを立てていないと安心して眠ることもできないのです。実際に何も起こらなかったとしても、いつも緊張が強いられる。もうそれだけで疲れてしまいます。そんな時に自分たちが居るテントから、ひょっと顔を出すと、神様の住まいである天幕を見ることができる。神の臨在を覚えることができる。ああこれで安心して眠ることができる、安心して朝を迎え、旅を続けることができる。そう思ったことでしょう。そして次の日になれば、自分たちのテントも神様のための天幕も一緒にたたんで、それを携えて再び旅を続けたのです。

 私どもの人生もまた「旅」に譬えられることがよくあります。人はそれぞれに生きる目的を見出すために旅を続けます。それは生きる喜びを見出すための旅と言ってもいいでしょう。あるいは、まことの平安を見出すための旅と言ってもいいかもしれません。それを手にするために、あらゆる努力をし、同時に多くの失敗を重ね、色々と悩みながら「これだ」というものをつかみとるための旅路です。そして、信仰者の歩みもまた旅そのものなのです。それは神様を信じているけれども、まだ行く先も知らされずに、彷徨いながら旅をしているというのではありません。クリスマスに来てくださった主イエスが終わりの日に再び来てくださり、救いを完成してくださると神様は約束してくださいました。その希望に支えられながら、私どもが遣わされている教会や生活の場所で神様の愛のご支配がここにあるということを証ししていく働きが私どもに与えられています。神のものとされながらも、色んな苦難を経験することがありますが、しかし、そこで神様が共におられるということを知り、神様を礼拝しながら歩みを重ねていきます。「旅」という性格上、不安やトラブルというのはどうしても付き物ですが、そのような中にあっても心から安心し、憩うことができるものがあればどれだけ嬉しいことでしょうか。「どうしたらいいのだろうか…」と困っている時に、「どうされましたか?迷われたのですか?あなたが向かうべき場所はここではありませんよ。わたしが教えて差し上げましょう。わたしが道案内いたしますから。」と言って、手を取って導いてくださるならば、私どもは旅の途上であっても安心できます。

 クリスマスは、神であられるイエス・キリストが、肉である人間となられた出来事です。14節後半で、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言われています。栄光というのは、神様が神様であることと言えますが、ヨハネによる福音書の文脈では、主イエスが肉を取られたこと、さらには、主イエスが十字架で死なれたことを意味しています。人の目からすれば、十字架というのは栄光どころか、こんな悲惨な死に方はないと誰もが思うものです。しかし、「わたしたちはその栄光を見た」というのです。14節の「わたしたち」とは誰のことなのか。それは主に従った弟子たちと理解することもできますし、伝道者ヨハネが属していて教会のことだとも言われます。そして、今、教会に生きる私ども一人一人のことでもあります。弟子たちも私どももまた、神様から与えられた信仰のまなざしによって、主の十字架を見ることができました。主の十字架の中に神の栄光を見ることができたのです。私たち教会の中にも主イエスは宿ってくださり、十字架の言葉を語り続けてくださいます。

 主の十字架をとおして、神の栄光を見る時、私どもは神様の素晴らしさをほめたたえます。そして、もっと単純なことを言うと、「栄光を見た」というのは、十字架をとおして神とお会いすることができたということです。先ほど、主イエスが私たちの間に宿られたというのは、私たちの間に天幕を張ることだと申しました。この天幕は「会見の幕屋」とも言われました。「会見」というのは、「記者会見」の「会見」という字です。「出会い」の「会う」という時に、「見る」と書いて「会見」。幕屋で神を礼拝すること、それは神とお会いするということです。神を見るということです。主イエスが肉となって、私たちの間に宿られたということ、その出来事の中に示された、神様の愛、神様の栄光というものが十字架において明らかになりました。それは何を意味するのかと申しますと、主の十字架のゆえに、どんな絶望の中にあっても、そこで神と出会うことができるということです。どんな深い闇の中でも、自分を見失うことなく生きることができるのです。そこで神と出会うことができるからです。まことの光である主イエス・キリストが闇の中で、神の御顔を照らしてくださるからです。4節、5節にはこうありました。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」いのちであり、光であられるキリストは闇の中でこそ輝くのです。暗闇は光を理解しなかったとありました。闇は光に勝たなかったということです。だから本当に安心して生きることができるし、「安心して行きなさい」と励ましてくださいます。そのような神と礼拝において出会うのです。

 クリスマスというのは、繰り返しになりますが、神であられるイエス・キリストが人間となって、肉となってこの世界に生まれてくださった出来事です。そのことを私どもは喜び祝うわけですが、もう一つクリスマスを祝うべき理由があります。12節にこうありました。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」主イエスは、人間である私どもを「神の子」とするために、この世界に来てくださいました。愛と希望に満ちた言葉、力ある言葉によってこの世界をお造りになった神様は、「言」である主イエスによって、罪の闇に覆われ、死の陰の中を歩んでいた私どもを救い新しい存在に造り変えてくださったのです。だから、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うとともに、私どもが神の子とされたことを喜び祝う時です。私どものもう一つの誕生日が今日という日なのです。

 今から神の子とされた者たちが共に主イエスの食卓を囲みます。闇の中にあったとしても、いのちの光が私どもを照らしているのだという事実をいつもここで見ることができます。十字架で死んでくださり、お甦りになられた主は今も生きておられるからです。主イエスにお会いし、主イエスこそ「私たちの救い主」と信じる信仰が与えられていることを感謝し、信仰の旅路を、主と共に、教会の仲間と共に続けていきます。そして、神様の願いは、まだ信仰を言い表していないあなたもまた、神の子の仲間入りをしてほしいということです。わたしと真実の出会いをしよう。御子イエス・キリストをあなたのために献げるほどに、あなたのことを愛しているのだから。救いへの招きは今もなおやむことはありません。いや日ごとに、招きの声は大きくなっているのです。お祈りをいたします。

 クリスマスにこの世界にお生まれくださり、私たちの間に宿ってくださった主よ、あなたをとおして、神に出会うことができました。この世界や自分自身を否定してしまうほどにすべてが嫌になってしまう私どもですが、そのような暗い現実を引き受け、そこにいのちの光を灯してくださいました。だから、どのような場所においても、神が共におられるということを知ることができるようになりました。それゆえに望みをもって、信仰の旅路を最後まで歩むことができますように。主イエスが今も宿ってくださる場所として、私たち教会がこの地に立ち続けることができますように。いのちの言葉で私どもの群れを満たしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。