2022年12月18日「初めからあるもの」

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初めからあるもの

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章1節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネによる福音書 1章1節~14節

メッセージ

 先ほど、讃美歌121番を共に歌いました。決してクリスマスによく歌う賛美歌というわけではありませんが、本当はもっとクリスマスに歌われてもいい歌ではないかと私は思います。今朝は1節と4節だけしか歌いませんでしたが、この賛美全体が私どもに訴えかけているのは、「この人を見よ!」というこの一言に尽きます。この人というのはクリスマスにお生まれになったイエス・キリストです。生けるまことの神であられながら、人となってこの世界に生まれてくださった主イエス。しかも、「馬槽の中に」という言葉が表していますように、主イエスはこの世界の最も貧しく、最も低く、最も暗い場所をご自分の居場所、ご自分が生きる場所としてくださいました。そこにいのちの光を灯してくださったのです。その真っ暗なところで、主イエスは、いじけたり、腹を立てたり、絶望したりというのではなく、父なる神の御心に最後まで生き抜いてくださいました。十字架の死に至るまで従順であり、そこに救いの出来事がもたらされたのです。それによって、私どもはいついかなる時も神に愛されている存在であるということがよく分かるようになりました。

 そして、暗きに輝くまことの光、イエス・キリストは、今も私どもの歩みを照らし続けていてくださいます。言い換えれば、それはまだ深い闇がこの世界を覆っているということでもあるでしょう。どこか遠い場所にいる、自分とは違う人たちの心がまだ暗いままだというのではありません。私ども一人一人中にも、様々な思いが渦巻き、その思いをどこにぶつけていいのか分からないまま、心の中でとぐろを巻き、真っ暗な心、まるで死んだような心になってしまうということがあるのではないでしょうか。しかし、私どもは信仰のまなざしで、今も生きておられる主イエスのお姿を見ることがゆるされています。主イエスを信じる者とされています。救いというのは、この目で見、この耳で聞き、この手で触れることができるほどに確かなものであるということです。いや、本当のことを言えば、自分の不確かさを超えて、復活の主の確かさが私どもを捕え、救いの喜びに生かしてくださるのです。

 本日はヨハネによる福音書の冒頭の部分をお読みしました。次週のクリスマス記念礼拝でも同じ箇所をお読みします。本日は第1章1〜5節まで、次週は14節に焦点を当てて、続けて御言葉に耳を傾けます。どの福音書もそうですが、ヨハネによる福音書の中にも一度聞いたら忘れることができない物語がいくつも記されています。ただ、初めから順番に丁寧に読んでいきますと、難しい言葉と何度も出会うことになります。これはヨハネに限ったことでないのですが、それでもヨハネ独特の難解な言葉遣いを前にして戸惑ってしまうことがあります。例えば、最初の1節でこうありました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」分かるようで、分からないような、そういう言葉かもしれません。「何か高度なことを言っているに違いない」と思いながら、どこかついていけないという思いも正直あるかもしれません。

 しかし、この福音書を記した伝道者のヨハネも、また彼が実際生きていた教会の人たちも、この福音書を読む人たちを困惑させて、ひとりぼっちにさせようなどとは思っていません。この福音書は全部で21章ありますが、本来20章までだったと言われています。その最後を見ますと、この福音書が書かれた目的が明記されているのです。第20章31節です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」つまり、この福音書はもう信仰に生きている人たちだけではなく、まだイエス・キリストを救い主と信じていない、あなたのために書かれたものだというのです。今で言う求道者や未信者と言われる人たちが、どうか、イエス・キリストと出会ってくださって、イエスの名によるいのちを生きてほしい。そう心から願って書かれたものです。

 そういう理由もあるのでしょうか。日本で最初に翻訳された福音書はこの「ヨハネによる福音書」だと言われています。1837年のことです。翻訳した人は、ドイツ人宣教師ギュツラフという人です。彼は日本宣教を志しましたが、当時の徳川幕府に阻止されて、その思いは適いませんでした。でもずっと日本への思いは持ち続けたようです。するとある時に、海で遭難した3人の日本人漁師とマカオで出会うことになったのです。ギュツラフは、彼らの協力を得て、苦労しながら、何とか最初に翻訳したのがヨハネによる福音書でした。なぜギュツラフは最初にヨハネを訳そうと思ったのは分かりませんが、興味深いことだと思います。ギュツラフがヨハネによる福音書を好きだったのかもしれませんし、これこそ福音の真髄だと思ったのかもしれません。

 また、ギュツラフは博学な学者たちと一緒に翻訳したというのではなく、偶然出会った漁師たちと訳したというのは意味があると思うのです。しかも彼らは神様のことを知らない人たちでした。聖書の言葉というのは、専門家が研究に研究を重ねた結果やっと分かったというのではないのです。キリストの福音というのは、漁師といういわば庶民の立場にある人たち、彼らの日常の中に届けられるものです。目の前に日常の風景が広がり、そこで生活の音や匂いがする、福音というのはそういうところに届けられ、喜びの響きを立てるいのちの言葉なのです。ギュツラフが訳した日本語聖書まさにそのような言葉で満ちています。そして、ギュツラフの訳は現代でも評価されている翻訳でもあります。例えば、1章1節の冒頭をこう訳すのです。「ハジメニカシコイモノゴザル コノ カシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル」。「言」を「カシコイモノ」と訳しました。そして、「神」を「ゴクラク」と訳しています。相応しい訳語を見つけるのにずいぶんと苦労したのではないかということがここからも見て取ることができます。

 ところで、この「言」というのは、先取りするようですけれども、14節にありますように、肉となられ、つまり人間となられて、私どもの間に宿ってくださったイエス・キリストのことです。なぜ主イエスのことが「言」と言われているのかは後でお話ししますが、ギュツラフは主イエスというお方は「カシコイモノ」だというのです。賢さ、あるいは、知恵といってもいいかもしれません。神の知恵そのものであられる主イエスは、何があっても行き詰まるということを知りません。どんな困難でも、どんな闇でも賢く生きる術を知っています。それは単に頭がいいということではなく、どこまでも父なる神の御心に忠実に従おうとする主イエスの賢さです。そこに苦難に勝つ力が与えられます。その力は死に勝利するほどに、いのちが躍動しているということです。主イエスの賢さは、そのような賢さであるということです。

 私どもは生きる中で様々なことを自問自答いたします。特に苦難や試練を経験する時、色んなことを考えるのです。これからどうしたらいいのか…。何かいい方法はあるものだろうか…。そのように、私どもは生きること、自分自身が存在することそのものを深く問うということがあるのです。いのちとは何でしょうか?なぜ私は存在しているのでしょうか?何のために生きているのでしょうか?あるいは、それなりに生きていても、まだ満足することができないという思いでいっぱいになることがあります。不安があるからでしょう。あるいは、この世界にはもっと大切なものがあるのではないか。しかし、それをまだ見たことがないのです。まだ触れたことがないのです。どこかもやもやした思いを抱えながら、このままでは安心して死ぬことができないと思っている人もいることでしょう。私どもが本当のいのちを生きるとはどういうことなのでしょうか。

 ヨハネは福音書の初めからそれらの問いと真正面から向き合うのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「初め」というのは「起源」のことです。「根底」あるいは、「土台」というふうに言うこともできるでしょう。初めにあなたにどうしても伝えたいことがあるというのです。順番的な話ということでなく、まず聞いてほしいこと、最初に信じてほしいことがここにあるということです。すべての源、土台と言えるものがここにあるというのです。

 「言」というのは、先ほど申しましたように、イエス・キリストのことですから、「初めにイエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった。」そのように言い換えることができます。ここで言われている一つのことは、イエス・キリストは神であるということです。初めから存在しておられたお方、この世界が造られる以前から既におられたお方、永遠なるお方だということです。この主イエスが神と共にあったというのです。父なる神と共にあるということです。「神と共にある」というのは、一緒に横に並んでということではなく、「神に向かって」ということです。つまり、主イエスは、また神様というお方は本質的に、交わりの中にある神であり、その交わりを喜んでおられるということです。今日の御言葉は、キリスト教神学を考えるうえでも重要な箇所であり、イエス・キリストの「二性一人格」や、「三位一体論」を考えるうえで大きな意味を持っている御言葉です。ただここではそういう細かい議論をしようというのではありません。

 一つ考えたいのは、なぜイエス・キリストのことが「言」と言われているのかということです。言葉とは何なのでしょうか。私どもも生活の中で言葉を用います。自分の意志を相手に伝え、相手の思いを知るうえでも言葉は重要です。しかし、人間の言葉というのは、時に人を傷つけることがあります。人の言葉ほど信用できないものはないということにもなりかねません。しかし、ここで言われている「言」というのは、神様ご自身、主イエスご自身のことです。あるいは、神の言葉について言われているのです。この「言」と訳されています元のギリシア語は「ロゴス」という言葉です。どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、これは言葉は言葉でも、内実がある言葉、中身がある言葉、実行力がある言葉。そのような意味があります。

 そのこととの関係で、3節ではこう言われています。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」万物というのは、すべてのものということですが、これは神によって造られたすべての被造物を意味します。この出来事を記しているのが、朗読していただいた創世記第1章の御言葉です。天地創造の物語です。聖書が一番最初に語る出来事でもあります。ヨハネは明らかに、天地創造の出来事を意識して書いているのです。それは3節になってから書き始めるというのではなくて、最初の1節において、「初めに…があった」という文章を用いていることからも分かります。「初めに…があった」。聖書に精通している人はすぐに創世記の天地創造の御言葉を思い出したのです。

 「万物は言によって成った」とあります。これは創世記を見ていただくと分かるのですが、例えば、「光あれ」と神様が命じると、その言葉どおり光が誕生しました。闇と混沌の中に、希望の光がもたらされたのです。そのようにして、他の被造物も神の言葉によって造られていきました。私たち人間も同じです。聖書が私どもに伝えたいのは、「神の言葉による創造」ということです。だから、「光あれ」とか「水の中に大空あれ」という神の言葉が、その後も続けて記されていくのです。全能の神様ですから、黙ったままでこの世界をお造りになることもできたでしょうし、聖書記者も「神様がこの世界をお造りになりました」という書き方でもよかったかもしれません。しかし、そのようには記さなかったのです。なぜなら、天地創造の出来事を語る時、神様の言葉が決定的な意味を持つからです。世界の初め、人生の初め、その源、土台には神様の言葉がある。神様からの語りかけがあるということです。誰に対する語りかけかと言うと、それは私ども人間に対する語りかけです。それゆえに、私どもは孤独ではないのです。そして、私ども人間は神の言葉に応え、従う存在として造られたということを意味します。人は神に似せて、神のかたちに造られました。それは御言葉に応答する存在として、つまり、神を礼拝する存在として造られたということです。

 また、天地創造において、神の言葉が大切な意味を持つのは、神様が語られた御言葉は必ず実現するということが、最初から語られ、最初から約束されているということです。この世界というのは神様の言葉、また神様の御心が実現する場所であるということです。イザヤ書第55章10〜11節に次のような御言葉があります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」ここでは、御言葉が一人の人格ある者のように語られます。その御言葉は神の御心を実現するというミッション・使命が与えられています。そして、御言葉はそのミッションを必ず成し遂げるのだというのです。ここに主イエスのお姿を見ることもできるでしょう。私どもを救うために来られた神の言葉こそ、イエス・キリスであるからです。

 また、私たちが御言葉によって造られたということは、私ども一人一人の中に神の御心が込められているということです。その御心によって、私どもの歩みが最後まで導かれるということです。その神様の御心とはどのような御心なのでしょうか。それは「愛」の御心です。なぜ神様の御心は「愛」であると断言できるのでしょう。聖書の至るところに「神が愛である」ということが言われているからということもありますが、聖書は初めから既に神の愛を語るのです。神様の第一声である「光あれ」という言葉がまさに愛に満ちた言葉であるということです。神様が初めに造られたのは「光」でした。神様がこの世界に最初に与えられたのが「光」なのです。この光というのは、太陽の光ではありません。太陽は第四日目に造られたのであって、第一日目に造られた光は別の光を意味します。神様が「光あれ」と命じて、そこで生じた光。それは、この世界の根本に射し込む光であるということです。ある人は、神様は闇に対する宣戦布告をここでなさったと言うのです。絶対にこの世界を、絶対にあなたがたを無意味さや虚しさに渡すようなことはしない。虚無の中に消えることがないように、わたしがあなたを支え、わたしがいのちを与えると宣言しておられるのです。それはまさに愛の言葉であり、希望をもたらす言葉です。神様に造られたもので、神の愛を受けていないものは何一つないのです。神様の愛こそ、私たちを生かす本当のいのちであるということです。初めからあったもの、それは神の愛です。この世界の源、私の人生の土台、そこには神の愛があります。希望があります。その神の愛があなたの歩みを初めから今に至るまで、そして、死を超えて、とこしえにあなたを支えるのだと聖書は約束してくれています。

 続く4節では、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とあります。自分のいのちについて分からなくなった時、自分を見失った時、これからのことが不安になった時、私どもは初めに戻るのです。言の中に、神の言葉の中に、そしてイエス・キリストの中に戻るのです。そこに「いのち」があるからです。「いのちとは何か?」ということよりも、「いのちとは誰であるのか?」これがヨハネによる福音書が伝えたいことでもあります。いのちとは何かを問うことは無意味ではありません。むしろ大事なことです。でもヨハネが、いや神様が本当に願っておられることは、イエス・キリストと出会ってほしいということです。イエス・キリストの中で見出すいのちこそ、神様があなたに生きてほしいと願っているいのちであり、光と希望に満ちた生き生きとしたいのちであるからです。私どもを取り巻く環境や状況がいかなるものであっても、そこでなお輝くいのちがあるのだということです。そのまことのいのちをもたらすイエス・キリストと御言葉をとおして、礼拝をとおして出会ってほしいのです。

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」神様は愛をもって私どもに語りかけてくださいます。その愛の証しが、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストです。主イエスは暗闇の中に射し込む希望の光、いのちの光です。その光は今もなお輝き続けているのです。どこで輝いているかと言うと、「暗闇」の中で輝いているのです。ですから、闇は今もあるのです。10節、11節を見ると、「世は言を認めなかった」「民は受け入れなかった」とあります。私どもの歩みの中には様々な闇があります。光と闇が交差する中を、行ったり来たりしながら、居場所を定めることができないままでいるということもあるかもしれませんが、ここで語るこの世の闇というのは、神の言であり、命であり、光であるイエス・キリストを拒むことです。つまり、人間の罪の闇ということです。

 けれども、もう一度5節を見ていただくと、「暗闇は光を理解しなかった」というのです。「理解しなかった」と訳すこともできるのですけれども、暗闇が光を受け入れなかったという意味ではありません。以前の訳では、「やみはこれに勝たなかった」となっていました。他にも「追いつくことができなかった」とか「捕らえることができなかった」と言うこともできます。闇は光に追いつき、光を押しつぶし、光を手中に収めようとしたけれども、ついにそれができないまま終わってしまったというのです。主イエスが私どもを罪から贖うために十字架につかれた時、暗闇は勝利したと思ったかもしれません。しかし、それはほんの一瞬でした。なぜなら、主イエスは朝の光の中でお甦りになったからです。

 ヨハネが、天地創造の出来事を心に留めながら、「初めに言があった」と語ったのは、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストによって、新しい創造の出来事がもう一度ここに起ったということを告げるためなのです。罪から救われるというのは、私どもが神の言であるイエス・キリストによって、もう一度、新しく創造されることなのです。

 主イエスは、この福音書の第8章12節のところで、ご自分のことを「わたしは世の光である」と紹介なさいました。そうおっしゃった後で、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と約束してくださいました。驚くような言葉です。あなたはもう闇の中を歩くことはないというのです。自分の中にも、この世界にもいくらでも闇はありそうなものですが、いや事実あるのですが、決してごまかしているわけでも何でもなく、イエス・キリストといういのちの光を持っているがゆえに、闇はもはや闇ではない。あなたは神の愛に包まれて、希望をもって歩むのだと告げてくださるのです。

 ある方が言っていましたが、年齢を重ねるというのは、これまで生きてきた世界、また今生きている世界にある闇を長く見つめ続けてきたということでもあるというのです。だから、高齢になるにつれて、死の闇もそうですが、闇を見つめる自分の目がどんどん鋭くなっている。でもそれは危険なことだと。自分もまたその闇に引きずり込まれそうになるからです。けれども、私どもは神の言葉によって造られたのです。私どものいのちは神の愛の御心が支えています。たとえその神様の愛を忘れ、自分を否定してしまうほどに深い闇の底に落ちたとしても、私どもの魂は「生きたい!」と叫んでいるのではないでしょうか。「本当のいのちを生きたい!」と叫んでいるのです。人間は神によって造られたからです。私どものいのちは神によって与えられいのちだからです。

 だから、イエス・キリストは人となってこの世界に来てくださいました。「あなたが本当に生きるべきいのちがここにある」「そのいのちをわたしが与える」。そう言って、主イエスは十字架につき、甦ってくださいました。だから見つめるべきはイエス・キリストであり、このお方と出会い、共に歩む時に、私どもは罪の闇、死の闇なんかよりもっと確かなまなざしでいのちの光を見つめることができます。安心して、復活の主イエスからいただくまことのいのちを最後まで生きていくのです。お祈りをいたします。

 自分たちに与えられたいのちを見つめながら、自分の存在の不思議さを思い、生きる意味を問うことがあります。決して簡単な問いではありませんし、生きることのたいへんさを色んなところで経験します。これからもするでしょう。しかし、初めからある神様の深い愛が、私たち一人一人の中に息づいています。復活の主のいのちの鼓動が死の闇を打ち破り、私どもを支えていてくださいます。クリスマスにお生まれになり、私どもを救うためにこの地上を歩まれた御子イエス・キリストをしっかりと見つめることができますように。今も生きておられる復活の主が語らえるいのちの言葉によって、私どもがいつも生き生きとしたいのちに生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。