2022年12月11日「望みの星、イエス・キリスト」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

望みの星、イエス・キリスト

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 22章16節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

16「…わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」17“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。18この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。19また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。20以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。ヨハネの黙示録 22章16節~21節

メッセージ

 ヨハネの黙示録の最後の部分を今共に聞きました。黙示録だけでなく、聖書全体の締めくくりと言ってもよい御言葉がここで語られています。この世界の歴史、また私ども一人一人の生涯を考える時、とりわけ、その終わりの時を見つめる時、私どもに希望と慰めをもたらす祝福の言葉がここに満ち溢れています。

 今、教会では待降節、アドヴェントの時を過ごしています。クリスマスに備えつつ共に歩んでいる私どもですが、たいへん興味深いことに、聖書の終わりにはクリスマスの出来事を思い起こさせるような御言葉がいくつもあることに気づかされます。厳しい迫害の中、再び来たりたもうキリストを待ち望む姿勢とアドヴェントに生きる信仰の姿勢は一つだからという理由もありますが、黙示録の最後の御言葉そのものがまさに、クリスマスにお生まれくださったイエス・キリストを証ししていると言えるのです。

 例えば、16節で、主イエス・キリストは、「わたしイエスは」とご自分の名を口になさいました。「イエス」という名は、黙示録の中でそれほど頻繁に出て来るわけではありません。とりわけ、「イエス」という名が強調される時、それはクリスマスに私どもと同じ人間としてお生まれくださったお方であることを意味します。福音書では「ナザレのイエス」という呼び方で言い表すことがあります。そのお方が、「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」とご自分のことを紹介してくださいました。

 先にイザヤ書第11章の御言葉を朗読していただきましたが、その1〜2節にこうありました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」「エッサイ」というのはイスラエルの王ダビデの父の名前です。エッサイの株というのは、エッサイという木の切り株ということです。太い幹も枝も葉もない。もう死んだも同然のような切り株。しかし、根はまだ土の中に残っているのです。まだいのちを宿しているのです。そのいのちを宿している切り株からやがて芽が生え、枝が生える。そのように、敵との戦いによって、いや本当は罪によって敗れ果てた神の民イスラエルもいのちを吹き返すのだ。そのためにダビデの子孫から救い主が生まれるということを預言した神の御言葉です。

 「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」ダビデの「ひこばえ」というのは、若枝のことですが、他の翻訳を見ますと「ダビデの根」「ダビデの根っこ」と訳されます。根をしっかりと降ろしていますから、簡単なことで抜けることはありません。たとえ、幹が根元から切られても、しっかりとした根っこによって、確かないのちに生きることができます。2千年前のクリスマスにこの世界にお生まれくださったイエス・キリストは、まさにこの地上に根を深く降ろし、私どもの救いとなってくださいました。私どもはどうでしょうか。風が吹けば、すぐに揺れ動いてしまうことでしょう。本当はもう真っ二つに折れてしまったような私どもであり、もう再生することなど不可能だと諦めてしまうような絶望の中にあって、主イエス・キリストは「わたしが来たからもう大丈夫だ。わたしはこの世界にしっかりと地に根を張っているから、わたしが与える救いにあずかるならば、あなたもまた生きる!」と約束してくださるのです。

 もう一つ興味深い言葉は、わたしイエスは「輝く明けの明星」であるとおっしゃっているということです。夜明けを告げる星、朝を告げる星、それがクリスマスにお生まれになった主イエスだというのです。イエス様が、明けの明星として薄暗い空に輝いておられる。何かそれだけで不思議と私どもも心は魅了されてしまうものです。昔から人々は夜空を見上げ、美しい星の数々を見ながら、様々なことを思い巡らせていたようです。どれだけ手を伸ばしても届かない遥か高い場所で光り輝く姿に神の臨在を覚えることもありました。また、神だけではなく、この世の支配者や英雄を表すものにもなりました。

 また、旅人や航海する人にとっては、夜空に輝く星は方向を示す道しるべにもなりました。地理的な方角に留まらず、この世界や政治の行く末を占う際にも星は大きな意味を持ったのです。マタイによる福音書第2章では、東方の占星術の学者たちが、救い主誕生を示す星の光に導かれて、ついに、幼子イエス様と出会い、宝物を献げて、礼拝するという有名なクリスマス物語の場面がありますが、彼らの仕事はまさに星の動きによって、この世界の動きを占う仕事でした。少し類は違いますが、今日も「星占い」と呼ばれているものをどこへ行っても見ることができます。しかし、2千年前、夜空に輝く星に導かれた占星術の学者たちは、クリスマスにお生まれになった主イエスに出会った時に、黄金、乳香、没薬という高価な宝物を主に献げました。それらは彼らの商売道具と言われています。これらを用いて星の動きを占っていたのです。でも主イエスとお会いした時、それらを献げたのです。もう要らなくなったのです。代わりにまことの宝物であるイエス・キリストを受け取ったからです。彼らにとって、自分たちの人生を導くものは星でもなく、当時、世界を支配していたローマの権力でもなく、まことの救い主イエス・キリストであるということに気づきました。イエス・キリストこそ人生を導くまことの希望の星なのです。「イエスが生まれた場所を教えるように、拝みに行くから」と言って、本当はイエスのいのちを奪おうとしていた当時の支配者ヘロデに背を向けるように、彼らは別の道を通って、つまり救いの道を通って帰って行ったのです。その彼らの前からも後ろからも、夜空に輝く星が彼らの歩む道を照らし続けていたことでしょう。彼らの心の奥にまで、神の救いの光は届いていたに違いないのです。

 本日の黙示録の御言葉においては、夜空に輝く星ではなく、「輝く明けの明星」です。「明けの明星」という言葉は、初めのほうの第2章28節に一度出てきます。ティアティラに宛てて記された手紙の中で主はこうおっしゃるのです。「同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」ここでは主イエスがこの世界を御手によって支配し、勝利の約束を与えてくださるお方として「明けの明星」ということが言われています。第22章においても同じです。クリスマスに私どもの救い主として来てくださり、十字架で死に、お甦りくださった主。天に昇り、神の右に座したもう主が再びこの世界に来てくださり、救いの御業を完成してくださいます。その主イエスは、第1章でも言われていましたように、やがて来られる、そのうち来られるというのではなくて、今まさに来たりたもうお方であるということです。まだ朝は来ていないのです。まだ暗いのです。しかし、明けの明星が新しい朝、新しい一日の訪れを告げているように、主イエスは救いの完成の日を告げる存在として、今も地上に生きる私どもの歩みを照らし、希望を持って生きるように励ましてくださいます。

 希望の星であられるイエス・キリストを私どもは見つめ、また仰ぐ中で、そこで何をするのでしょう。もちろん、礼拝をささげつつ地上の教会は歩みを重ねていくのですが、ではそこで私どもは何を語るのかということです。礼拝の中で私どもは御言葉を聞くだけでなく、私どもの側からも様々なことを語ります。一つに絞るのは難しいかもしれませんが、例えば17節にこうあります。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。」花嫁というのは「教会」のことです。「霊」というのは聖霊のことです。御霊に導かれて、花嫁である教会は「来てください」と言うのです。誰に向かって言うのか。それは花婿であるイエス・キリストに対してです。また、「これを聞く者」というのは、まだイエス・キリストのことを救い主と受け入れていない求道者のことだと言う人もいますし、礼拝に集う会衆全員のことだと言う人もいます。言い換えれば、神を信じる者もまた信仰に導かれていない者も、神に造られ、いのち与えられた者、皆がキリストに向かって口にすべき、信仰の言葉、賛美の言葉、祈りの言葉が「来てください」という言葉に集約されると言ってもいいのです。

 そして、「来てください」という教会の祈りは必ず聞かれるのです。主イエスと私どもの関係は花婿と花嫁の関係です。それゆえに、私どもと主は確かな愛の絆で結ばれた関係であるからです。花婿と花嫁と言いながら、もし互いの間に愛がなければ、健全な関係でなければ、こんなに虚しいことはないでしょう。けれども、私どもは花婿である主イエスに対して、そんな心配をする必要などないからです。主は十字架で死んでくださるほどに、私どもを愛していてくださるからです。だから、「来てください」という祈りを聞いてくださる主イエスは、20節にありますように、「然り、わたしはすぐに来る。」と約束をしてくださいます。その約束を信じることができます。

 また、17節の後半では、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」そう言って、主は私どもを御許に招いておられます。すべての者を礼拝へと招いておられるのです。私どもは救いの恵みにあずかりながらも、弱く、罪深い者です。恐れなくていいものを恐れ、本当に恐れるべきお方をすぐに忘れてしまいす。だから、渇きを覚え、飢えを覚えてしまいます。そこで「主よ、来てください」と祈ることができれば、主の約束を信じることができるのですが、「来てください」と祈ることができないほどに弱り果ててしまうことがあるのです。

 だからこそ、使徒パウロが語りましたように、教会に与えられている聖霊が私どもを助け、執り成し、呻くようにして、私どもの祈りを神に届けてくださいます(ローマ8:26-27)。そのような幸いを改めて覚えながら、いったい私どもの心の渇き、その根っこにある深い問題とは何であるのかということです。罪の問題も含め、何が私どもに渇きをもたらすのでしょうか。実はこのこととの関連で思い起こすべき御言葉が、第5章に記されています(新約p458)。伝道者ヨハネは幻の中で、玉座に座っておられる神の右手に巻物があるのを見るのです。その巻物が七つの封印で閉じられていたというのです。けれども天にも地にもその巻物を開く者が見つからず、ヨハネは激しく泣き続けるのです。この時流したヨハネの涙を私どもも本当は知っているのではないでしょうか。巻物が開かない、閉じられているというのは、神様の御声が聞こえてこない悲しみを意味するからです。神の言葉が聞こえない、聞こえるのは獣の声ばかり、獣の像を拝む人の声ばかり。私どもに真実の望みを与えてくれる言葉はどこにも聞こえてこないのです。

 けれども、泣き続けるヨハネの傍らに天の長老が立ち、声をかけるのです。第5章5節の御言葉です。「すると、長老の一人がわたしに言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」泣くな!見よ!このお方が神の巻物を開いてくださる。神の勝利を告げる言葉を聞くことができる。その勝利をもたらすお方について、「ダビデのひこばえ」と呼んでいます。本日の第22章16節と同じです。「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」黙示録の最後で再び、「ダビデのひこばえ」という主イエスの名を聞いた時、ヨハネは嬉しかったに違いありません。あの時流した涙、あの時覚えた渇きは決して無駄になることはない。涙は拭われ、渇きは癒された。いのちの水によって、神の御言葉によって。

 ですから、18〜19節にあるように、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」のです。どこか厳しいように思われるかもしれませんが、でもそのとおりなのだと思います。例えば、先程の「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」という御言葉に余計なものを付け加えたり、取り除いてしまったならば、それこそ私どもは呪われた存在となり、不幸になってしまいます。ヨハネが主の日、幻をとおして示された御言葉は、もうそれだけで救われるに十分な御言葉なのです。既に洗礼を受けてキリスト者として歩んでいる者も、まだ洗礼を受けておられない方も、値ないしに神に招かれているのです。主イエスが私どものために十字架に死に、甦ってくださったのですから、価なしに、つまり、神様からの恵みとして救いが与えられるのです。だから何も躊躇することはないのです。「わたしのもとに来るように」と主はいつもあなたのことを招いておらレルのです。

 その恵みに生かされつつ、私どもは地上の歩みを重ねていきます。それは神を礼拝する歩みと一つのことです。17節、20節で「来てください」「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉がありました。アラム語で「マラナ・タ」と言います。聖餐式の時によく歌う賛美歌の一つです。昔から教会は聖餐の中で、「マラナ・タ」と歌いながら、祈りながら、主を待ち望む希望に生きたのです。

 また「主イエスよ、来てください」という言葉の前に、「アーメン」という言葉が付け加えられています。このことに最後心を向けたいと思います。「アーメン」という言葉もまたアラム語ですが、私どもも祈りの最後に、また賛美の最後に「アーメン」と唱えます。「真実です」「本当です」という意味です。教会生活、信仰生活の中でこれまで幾度「アーメン」と唱えてきたことでしょうか。私どもの信仰の歩みは、祈りつつ歩む生涯です。キリスト教会の歴史もまた「アーメン」と唱えながら、その歴史をここまで重ねてきました。そして、終わりの日の祝福を語るヨハネの黙示録、その最後に、私どもが祈りの最後に唱えている「アーメン」という言葉が用いられ、「アーメン、主イエスよ、来てください」という祈りがささげられていることは、とても興味深いことだと思います。

 この世界の歴史もそうですが、私どもの人生を思います時に、最後にどのような言葉を残して、神の身許に行くのかということをふと考えるわけです。もちろん、人によってそれぞれ違うとは思うのですが、でも、牧師として働く中でご高齢の方や病と闘っておられる方、そして、死を前にした方、そういった方々と向き合うことがよくあるわけですが、その途中や最後に共に祈ることがあります。もう大きな声で賛美歌を歌ったり、お話することもできないくらいに弱り果てている方もおられます。けれども不思議なことに、祈りの最後に唱える「アーメン」という一言だけは、力強く口にされる。そのような方々との出会いが多く与えられてきました。私ども一人一人の人生もまた「アーメン」と言って、最期、終わりを迎えるのです。そして、実はこの「アーメン」という一言の中に、信仰とは何であるのか。その真髄とも言えるものがすべて含まれていると思うのです。

 「アーメン」という言葉は、「真実です」「本当です」という意味があると申しました。そして、聖書全体に目をとおしますと、神様ご自身のこと、あるいは、主イエスご自身のことを「アーメン」という言葉で言い表しているということです。例えば、イザヤ書65章16節にはこうあります。「この地で祝福される人は/真実の神によって祝福され/この地で誓う人は真実の神によって誓う。初めからの苦しみは忘れられる。わたしの目から隠されるからである。」ここで言われている「真実の神」というのは、「アーメンの神」「アーメンなる神」ということです。また先週は第3章14節以下の御言葉に聞きましたけれども、そこではこう言われていました。「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。」ここでは主イエスについても「アーメンである方」ということが言われているのです。神様は真実なお方であるというのはどういうことでしょうか。それはご自分の約束において、つまり、私どもを救うという約束において真実であるということです。ですから、神様がアーメンなるお方であるということが一番はっきりと表されたのが、クリスマスの出来事です。救い主がこの世界に、私どもの中に与えられたということにおいて、神の約束は成就しました。ご自分の真実を貫いてくださいました。そして、クリスマスにイエス・キリストがこの世界にお生まれになり、神様が真実を貫かれたということは、私どもの不真実を打ち破ってくださった出来事であるということでもあるのです。私どもが罪人であるというのは、神様に対して不真実であるということだからです。でもその不真実を貫いて、神様はイエス・キリストにおいて真実を貫かれました。だから私どもは救われたのです。

 そして、神様の真実というのは、クリスマスだけに限ったことではありません。今も真実な神として私どもと共にいてくださり、私ども一人一人の人生を、この世界を、愛の御手によって終わりまで導いておられるのです。初めてあり、終わりであるお方。アルファであり、オメガである神は、初めから終わりまでご自分の真実をもって私どもの歩み全体を包み、守り導いてくださるのです。私どもは信仰の歩みの中で、祈りつつ歩みます。その度に、「アーメン」と唱えます。自分の祈りにおいても、兄弟姉妹が祈る祈りにおいても「アーメン」と唱えるのです。しかし、「アーメン」と唱えながら、どこかで自分の不真実さに気づいているということがあると思うのです。自分中心のお願いばかりしてみたり、どこか不安を抱えたまま、とりあえずよく分からないまま、最後に「アーメン」と口にすることもあるでしょう。しかし、そのような不真実さを少しでも持っているならば、私どもはもう祈ることができないのでしょうか。「アーメン、主イエスよ、来てください」と叫ぶことはできるものの、希望の中に立つことができない自分は信仰者として失格なのでしょうか。決してそうではないのです。罪深い私どもがなお「アーメン」と唱えることができるのは、神様の真実によってすべてが支えらえているからです。主イエスの名によって祈ることもまた、主の愛と赦しの中で祈るということなのです。

 また、「アーメン」という言葉は、動詞に言い換えますと「アーマン」という言葉になります。あーマンというのは、身を投げかける、信頼する、委ねるという意味があります。自分の不真実さに気付きながら、しかし、「アーメン」としか言うことができない者であることを思います。また、心身ともに衰弱していく中で、自分のために祈ってくる信仰の仲間や家族の祈りに合わせて、「アーメン」とひとこと言うことが精一杯だということも、これから先十分あり得ることです。まさに、「アーメン」という一言に、私どもの人生の様々なことが詰まっていると言ってもいいのです。しかし、それ以上に確かなことは神の真実であり、その真実であられるお方のいのちの御手、愛の御手が私どもの生活の中に差し伸べられているということなのです。

 「アーメン、主イエスよ、来てください」と言って祈りをささげ、「然り、わたしはすぐに来る」という主イエスの真実の言葉を聞く時、私どもの渇きもまた癒されるのです。輝く明けの明星であるイエス・キリストを仰ぎながら、苦難の中にあっても、そこで救いの光を見、望みに生きることができます。日ごとに、主の日ごとに復活の主のあしたの光の中に立つのです。そして、ヨハネの黙示録は、いや聖書の最後の言葉は祝福の言葉をもって終わります。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」神様が私どもに告げたいことがここにあります。そして、確かな事実として、今私どもは主イエスの恵みの中にあるのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたはクリスマスに御子をお与えくださり、ご自分の真実を示してくださいました。そして、今もなお確かな愛の御手によって私どもを捕らえてくださり、最後まで守り導いてくださる恵みを感謝します。地上の歩みにおいて、幾度も罪や弱さを覚え、渇きを覚える私どもですが、それにも増してあなたが与えてくださるいのちの言葉によって癒され、立ち上がることがゆるされています。教会の歩み、私たち一人一人の歩みを祝福してください。主の日の礼拝において、いつもいのちの光の中に立つことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。