2020年08月09日「暴力の世界で柔和に生きる」

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暴力の世界で柔和に生きる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章5節

音声ファイル

聖書の言葉

柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。マタイによる福音書 5章5節

メッセージ

まもなく第二次世界大戦敗戦から75年を迎えます。今日8月9日は、長崎に原爆が落 ちた日です。あれから75年が経ち、直接、戦争を経験した世代の人たちは段々と少なく なってきました。でも、過去を見つめている人たちは、戦争を知っている世代の人たちだ けでなく、戦後に生まれた世代の人たちにも求められていることです。本日、発行された 「月報」の巻頭言の中で、キリスト者でもあり、ドイツの大統領でもあったヴァイッツゼ ッカーという人の言葉を紹介しました。彼はこのように言います。「過去に目を閉ざす者は 結局のところ現在にも盲目となります。」積極的な言葉に言い換えれば、「過去をしっかり と見つめるならば、今日という時をしっかりと生きることができるようになる。」そのよう に言うことができるでしょう。あれから75年経った今、改めて過去に何を見るのでしょ うか。そして、今日という日をどのようなまなざしで見つめているのでしょうか。

今日はきっと多くの教会で、とりわけ、「平和」ということを心に留めながら礼拝をささ げていることでしょう。礼拝という事柄の中で、あるいは御言葉に聞きながら「平和」に ついて考える。あるいは、「過去」について考える。これが私どもキリスト者の物の考え方。 物の見方です。先程、マタイによる福音書第5章5節の御言葉をお読みしました。主イエ スが山上で弟子たちにお語りになった御言葉です。「柔和な人々は、幸いである、/その人 たちは地を受け継ぐ。」この主の言葉から、過去を見つめ、今を見つめます。神の言葉はど の言葉もそうですが、決して過去の言葉ではありません。昔は意味をもった言葉だけれど も、今の私たちには通じない言葉というのではないのです。あるいは、聖書の言葉は、過 去の言葉だから、現在に当てはめるとこういう意味になるというふうに、私どもが勝手に 適応させて、初めて意味を持つような言葉でもありません。神は今も生きておられ、今、 私ども一人一人に、そして教会に向けて、生きた言葉を語りかけてくださるのです。

「柔和な人々は、幸いである」と主イエスは告げていてくださいます。「柔和」というの は、「優しい人」とか「穏やかな人」という意味です。他にも、「忍耐深い人」「力づくで生 きようとしない人」「赦しを必要としている人」と訳されることもあります。そして、私どもが柔和であるかどうかが問われる場所があります。それは、人間関係において、人間同 士の交わりにおいて、自分が柔和な人間であるのか、優しい人間であるのかが問われるの です。そして、おそらく多くの人たちは、少なくとも教会に集う者たちは、主イエスがお っしゃるように柔和に生きることを願っているのだと思います。そして、自分の周りにい る人たちも、なるべく優しく、穏やかであってほしいと願います。いつも一緒にいる人が、 イライラしている、怒ってばかりいる、そうとなるとこっちまで気分が悪くなってしまう ものだと思います。やっぱり、自分も柔和な人間、周りも柔和な人たち。そういう交わり を色んな場所で築き上げて行くことができたならば、何の問題も起きない。まして、戦争 など起こるはずはないと考えます。しかし、人間は柔和に生きることができませんでした。 75年前にあれだけの悲惨な経験をしたのに、まだイライラし続けている人たちがいる。 まだ怒り足りない人たちがいる。そこに平和が生まれるはずがありません。そして、私ど も一人一人もまた、「戦争」というようなニュースになるような大きな出来事でなかったと しても、身の周りに起こる不条理なこと、上手く行かない人間関係などによって、どうし ても穏やかでいることができなくなります。

だから、柔和に生きるというのは素晴らしいことに違いはないのだけれども、そういう 人たちというのは、きっと心に余裕があるから、上りに上り詰めて生活にゆとりがあるか ら。だから、優しくなれるし、穏やかにもなれるのだろうと、考えるのです。反対に、自 分が追い詰められている時、本当に苦しくてどうしようもない時に、誰かに対して優しく 接することができるでしょうか。自分のことで精一杯なのに、他人のことなど構っていら れないというのが本音かもしれません。だから、結局、柔和な人というのはごく一部の限 られた人たちのこと。キリスト者の中でも、ごく一部の人だけが柔和になれるのだと勝手 に考えてしまいます。主イエスは、「 柔和な人々は、幸いである」とおっしゃったのに、 こっちのほうで言葉のニュアンスを勝手に変えて、「柔和になれる人々は、幸いである」と いうふうに勘違いして受け止めているのです。しかし、主イエスは、「柔和な人になること ができたら幸い、できなかったら不幸だ。」そんなことを言おうとしておられるのではない のです。主イエスは私どもが不幸になることを望んでおられるお方ではないからです。主 イエスは、私ども一人一人が本当に幸せになってほしいと願っておられます。主はいつも 幸いの中に、祝福の中に招いてくださるお方です。その祝福がいかにしたたかなものであ るのか。そのことが、「山上の説教」と呼ばれる主の言葉の中に明確に表れています。貧し い者を幸いに招き、悲しむ者を幸いに招きます。そして、柔和な人々をも幸いに招かれる のです。「自分は柔和な人間になどなればない。自分には何の力も、何の余裕もない。」と 言って、嘆く者を幸いの中に招いてくださるのです。

さて、このマタイによる福音書第5章5節の御言葉は、旧約聖書のある御言葉に基づい ていると言われています。主イエスはその御言葉を意識しておっしゃったのだろうと言う のです。それは、旧約聖書・詩編37編11節の御言葉です。旧約聖書869ページです。 「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」私どもが用いています新 共同訳聖書では、「貧しい人」となっていますが、以前の翻訳では「柔和な人」と訳されて いました。「貧しい人、柔和な人は地を継ぎ」と言うのです。そして、詩編37編全体を見ますと、この貧しい人がどういう人であったのか。どのような境遇の中に置かれていたの がよく分かります。詩編37編1節を見ますと、「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正 を行う者をうらやむな。」とあります。自分の周りに悪事があり、不正があります。もし、 このようなことが自分の身の回りで起こったならば、人はどうなるでしょうか。心騒がず にはおれないでしょう。苛立たずにはおれないでしょう。しかし、聖書はそこで苛立つこ とのないように!妬みを起こすことのないように!と呼び掛けています。その代わりに、 主に自らを委ねること(詩編37編4節)、主に信頼すること(同5節)、沈黙して主に向 かい、主を待ち焦がれよ(同7節)と語ります。そして、詩編第37編8節では、「怒りを 解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」と呼び掛けていま す。相手と同じように、怒りに心が支配され、悪事を謀ることのないようにと戒めていま す。つまり、苛立つことによって、神から離れるようなことはしてはいけない。不信仰に 陥ってはいけないと言うのです。そうではなく、主に心を向け、主に望みを置くようにと 呼び掛けているのです。

私どもが生きる世界は、聖書が語るように悪事と不正に満ちています。毎日見聞きする ニュースにはまさに悪事と不正が満ちています。そのところで、あの人たちは愚かだ。あ の国は間違っているといくらでも批判することができます。それらの悪事が他人事ではな く、自分の生活に関わるようなことであるならば、私どもはそこで黙ってなどいられない でしょう。怒りに満ち、自分たちこそ正義だと言わんばかりに大きな声を上げ、その相手 に立ち向かって行こうとするのではないでしょうか。ある人が、以前こんな興味深いこと を言っていました。「正義の反対は『悪』ではない。正義の反対は『正義』なのだ」と。両 者とも、自分たちが「悪」に属する者たちだなどとは決して思っていないはずです。自分 たちがしていることは「正義」の名に値する。その「正義」の名によって、戦争をし、「悪」 を滅ぼすのだと主張します。それに対して、相手の側は、「あなたがたは間違っている。私 たちこそが正義であり、あなたがたこそ悪なのだ。だから私たちは、正義の名のゆえに、 あなたがたを滅ぼす。」そのように、正義と正義がぶつかり、戦争というものが、歴史の中 で繰り返されてきました。そして、この「正義」という言葉の中に、「神」という言葉が当 てはめられ、「神の名による戦争」ということが、長い間、いや、今も続いているのです。

しかし、聖書は語ります。「怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立 ってはならない。」「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だ くみをする者のことでいら立つな。」もし、私どもが苛立ちに負けてしまうならば、どうな るでしょか。沈黙などしていられないでしょう。大きな声を出すに違いないと思います。 そして、やがて黙ってなどいられなくなり、声を出すだけでは気持ちに収まりがつかず、 自分たちの力で苛立ちの原因を何とかしようとします。暴力を用いてでもいい、いかなる 手段を駆使して、力づくで何とかしようとします。私どもが生きている世界は、力と力が ぶつかる世界です。力でもって、何事も決着をつけようとする世界です。あるいは、相手 を無視するという仕方で沈黙を貫き、関係を断つということをするかもしれません。

キリスト者もその中にいつも巻き込まれてしまいます。主イエスを信じ、主イエスに従って、この世を生きる時に、果たして、ここで主がおっしゃるように、「優しい」というこ とだけで、この世の中を生き抜くことができるのでしょうか。もちろん、柔和であること、 優しい人であること、そのこと自体はとてもいいことに違いない。でも、本当のことを言 うと、それだけでは十分ではない。もっと強くならないといけない。競争が激しいこの世 の中で、何としても上に這い上がって行くためには大きな力が必要だ。自分が生き抜くた めには、他人を踏みつけてまでも、生き抜くのだという闘争心が必要だ。要するに、優し さだけではだめなのだ。案外、そのように何処かで考えている人は多いと思います。でも、 聖書は、苛立つな、うらやむな、沈黙し、主に信頼せよ!と繰り返し呼び掛けます。私ど もが柔和であるということは、決して、心や性格の問題ではありません。心の度量が大き いか小さいか、そういうことではないのです。あなたがたは柔和であるか、柔和でないの かというのは、信仰の問題、神様との関わりの中で捉えなければいけない大切な問題であ るということです。

この「柔和」という言葉は、聖書の他の箇所にもいくつか記されています。しかし、4 つある福音書の中で、マタイだけが「柔和」という言葉を用いるのです。マタイは、本日 の箇所の他に、もう2箇所この「柔和」という言葉を用いていますが、それらは私たち人 間ではなく、主イエス御自身を指す言葉として用いられています。柔和であられる主イエ スのお姿をマタイは私どもに紹介してくれるのです。一つは、マタイによる福音書第11 章29節です。第11章28〜30節までをお読みします。新約聖書の21ページです。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わ たしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あ なたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 もしかしたら、聖書の中で最も慰め深い言葉であると言ってよい主イエスの招きの言葉が ありました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう。」そうおっしゃったすぐ後に、「わたしは柔和で謙遜なものだから」と、主は御自 身のことを紹介してくださいます。主イエスは、私どもに重い軛を負わせるようなお方で はないのです。柔和なお方であり、私どもに安らぎを与えてくださるお方です。そのため に、他の誰でもない主イエスから学び、主イエスから知恵をいただきながら、信仰の旅路 を続けて行くのです。

もう一つは、第21章5節です。新約聖書の40ページです。「シオンの娘に告げよ。『見 よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろ ばの子、子ろばに乗って。』」この御言葉は先に読んでいただきました旧約聖書ゼカリア書 が既に告げていた言葉です。そして、この場面は、主イエスがエルサレムに入場し、十字 架へ向かう最後の一週間が始まろうとしていた時でした。主イエスは、まことの王、まこ との救い主として、この世界に来てくださいました。しかし、まことの王としてのお姿は、 軍馬に乗り、武器を持ってやって来たというのではないのです。その正反対でした。小さ な子ろばに乗り、私たちが想像するような王に相応しくないような姿でやって来られたの です。周りからすれば、見すぼらしく、恥ずかしい姿であったでしょう。どこに世界の王 であるということの強さ、力があるのだろうと思われてもおかしくない姿です。しかし、神様は救い主が、柔和であるということの中にしか、この世界が救われる道、平和が実現 する道はないと確信しておられたのです。そして、主イエスは神の御心に従い、柔和な道 を歩まれたのです。もちろん、論敵や弟子たちに厳しい言葉を口にされることもありまし た。でも、決して、相手を踏みつぶし、ましていのちを奪うということはなさいませんで した。

主イエスがエルサレムにやって来られた時、人々は、「ダビデの子にホサナ!」と言って、 主を賛美しました(マタイ21章15節)。「主よ、お救いください」と言って、主イエス が与えてくださる救いに期待をしたのです。しかし、私どもは知っています。この「ホサ ナ」という賛美が、一週間もしないうちに、「十字架につけろ」(同21章22節)という ことを。そして、主イエスは十字架につけられ、死んでしまわれたのです。柔和に生きる 以外に、救いも平和もないと信じて歩んで行かれた、その先にあったものは何だったので しょうか。それは、十字架につけられて殺されるということでした。だから、多くの人々 が、主の十字架の前に立ち止まってしまうのです。それはしばしば人々の躓きにもなって きました。私どもは主イエスの十字架に何を見るのでしょうか。「柔和な人々は、幸いであ る」という主の御言葉を、改めてどのような思いで受け止め、主にお従いしていけばよい のでしょうか。どうしても拭い去ることのできない思いがきっとあるに違いないと思いま す。「優しさだけではやっぱり勝つことはできないではないか...」という思いです。しかし、 「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」という御言葉は、柔和を貫 き、十字架で死なれた主イエスから問いであり、またチャレンジ・挑戦でもあります。そ して、信仰の決断を迫る言葉です。柔和に生きる道を真っ直ぐに歩まれた主イエスのこと を、あなたはどう思っているのか?主イエスは勝ったのか?それとも負けたのか?私ども はそれにどう答えるのでしょうか?そして、私どもも主がおっしゃる柔和な生き方をしよ うと決心し、その一歩を踏み出すことができるのでしょうか。

私どもが主の日毎に教会に集い、こうして礼拝をささげるのは、主イエスが十字架で殺 されておしまいになったことを、嘆き悲しむためではありません。主の日の礼拝の中で、 いつも神様が告げてくださるのは、「主イエスはお甦りになられた!」という喜びの知らせ です。だから、柔和を貫かれ、それゆえに十字架で死なれた主イエスは、決して敗者では ありません。なぜなら、神が死と滅びの中から、主イエスを呼び起こしてくださったから です。主が復活されたからです。優しさだけで勝てるのだということを、神は驚くべき仕 方で私どもに明らかにしてくださったのです。キリストの教会は、この神の勝利を記念し て、礼拝をささげます。

いつも遣わされて出て行くこの世界には、まだ戦争やテロがあり、暴力があります。力 ある者が弱い者を支配しています。悪が満ち、不正が至るところでまかり通っています。 また、優しくなれる余裕がないほどに、多くの者が様々なことで思い悩み、悲しみや苦し みを抱えながら生きています。だから、自分も力があればなあ...、と思ってしまうのです。 力があれば、色んなことに打ち勝てることができるのに...。心の余裕があれば、もっと豊 かな人間になれるのに...、と思ってしまいます。もちろん、私どもが教会として、一人のキリスト者として、声を上げること、抗議や抵抗することがいけないと言っているわけで はありません。信仰に生きるというのは、時に、いやいつも戦いに生きるということと一 つです。怒ること、嘆くことがあって当然でしょう。しかし、私どもはそこで武器を取る のではないということは明らかです。あるいは、相手の人格を踏みにじったり、「あなたが たは間違っている」と言いたいだけ言い放って、もうスッキリした。教会としての役割は 果たしたのだから、「あとは神様どうぞ」ということでもないと思います。たとえ、柔和に 生きることができていても、イライラしながら生きていても、結局のところ神様に心が向 いていないならば、神のもとにいつも留まっていなければ、何の意味もないと思います。 私どもがいつも神様の御前で心からひざまずいて礼拝をささげていないならば、いくら正 義を主張しても、いくら強い武器を造っても、本当の平和を実現することはできません。

詩編第37編の御言葉を紹介しました。そこで繰り返されていたのは、悪事や不正の中 にあっ多としても、主を信頼し、主にお委ねし、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれる ようにということでした。この詩編を読み進めていきますと、その後半に次のような慰め 深い言葉を見つけることができます。「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えて くださる。 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださ る。」(詩編37編23,24節)私どもが一日一日の歩み、一歩一歩の歩みは、無意味な ものではなく、神が定めたもうゆえに、確かな歩み、御心にかなう歩みとされます。これ ほど嬉しいことはありません。たとえ、倒れることがあっても、神は決して私どもを見捨 てることなく、その御手によって捕らえていてくださいます。そして、御子イエスをお与 えになったほどに世を愛してくださる神の御手は、罪の中に、死の滅びの中にまで届いて くるのです。だから、主イエスはお甦りになられましたし、私どもも主の救いの恵みにあ ずかることがゆるされたのです。

また、「わたしは柔和で謙遜な者だから」とおっしゃってくださった主イエスは、「わた しが休ませてあげよう」と招いてくださるお方でもあります。主イエスは、私どもにまこ との安らぎを与えるために、柔和さを貫き、十字架の道を歩み抜いてくださいました。「わ たしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう。」と招いてくださる主イエスの懐で、 私どもは憩いを得ます。そして、重い腰を上げて世に出て行くのではなく、主からいただ いだ恵みの糧を携え、軽やかに外に出て行くのです。この世の中には確かに、悲しみがあ り、苦しみがあり、暴力があります。だから、私どもの心も揺さぶられます。苛立ちます。 しかし、そのような中にあって、然るべき信仰の戦いをしながら、なお優しく生きること ができる。穏やかに生きることができる。そのような道を主イエスが拓いてくださいまし た。

私どもが信仰の目をもって見るべきことは、私どもが生きる場所は、主イエスの優しさ が勝利した世界であるということです。だから、「柔和な人々は、幸いである、/その人た ちは地を受け継ぐ。」とあるように、私どもはしっかりと「地を受け継いで」歩みます。「地 を受け継ぐ」というのは、究極的には神の国のこと、永遠の命のことでもありますが、同 時に今、私どもが地に足をつけているこの地上の世界のことでもあります。浮き足立った歩みをするのではなく、神と共に信仰の旅路を続けます。神は「あなたにこの地をぜひ受 け継いでほしい。わたしを信じるあなたがこの世界に必要なのだから。」とおっしゃってく ださるのです。やがて来るべき日に、もう一度主イエスが天から来てくださることを約束 してくださいました。その時に、この世界がまことの神のものであるということが明らか になります。神の柔和さが完全な勝利を収めるのです。「柔和な人々は、幸いである、/そ の人たちは地を受け継ぐ。」この主イエスの言葉の前にひざまずくような思いで耳を傾け、 主が備えてくださる幸いの中を歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

神よ、あなたは私どもの幸いを誰よりも強く願っていてくださいます。そのために、御 子を与え、「わたしに従うように」と日々招いてくださいます。生きることが決して楽な世 の中ではありませんが、神の御手による助けがあり、まことの安息へと招いてくださる主 の御声がいつも響いていることを信じることができますように。主に信頼しつつ、柔和に 生きることの幸いをいつもあなたから学ぶことができますように。また、悪と暴力に溢れ る世界を憐れんでください。再び来たり給う主を待ち望みながら、私どもを平和の使者と してお用いください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメ ン。