2022年12月04日「迎えるべきお方は誰か」

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迎えるべきお方は誰か

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 3章14節~22節

音声ファイル

聖書の言葉

14ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。22耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」ヨハネの黙示録 3章14節~22節

メッセージ

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」難しい言葉が多いと言われているヨハネの黙示録ですが、この御言葉は理屈抜きにキリスト者の心に届く、そのような慰めの言葉ではないでしょうか。愛唱聖句として心に刻んでいる人も多いのです。

 日本のキリスト者の詩人に水野源三という人がいます。日本の教会の中ではよく知られている詩人の一人です。「瞬きの詩人」とも呼ばれました。小学生の時に赤痢にかかり、脳性麻痺を併発し、体の自由を奪われました。幼くして、若くして将来の希望を失ってしまったのです。話すこともできませんから、自分の意志を誰かに伝えることもできません。けれども、目をつむることはできる。瞬きはできるのです。「水がほしいか?」と聞かれたら、水野少年は目をつむって、自分の意志を伝えます。ひらがなの50音を記した表を家族が作成いたしまして、行と文字を一つずつ順に指さしていきます。水野少年は自分の伝えたい言葉・その文字のところに来ると、瞬きをして、一文字一文字重ねながら、自分の言葉を伝えていったというのです。やがて、短歌や俳句、詩を作るようになりました。水野さんにとっても、親や家族にとっても根気のいる作業でしたが、それを乗り越えて、人々の心に訴える美しい作品をたくさん生まれました。

 水野さんは、最初、病の絶望の中にいましたが、ある牧師との出会いがきっかけで信仰へと導かれていきました。母親が毎日朗読する聖書の御言葉をとおして、生ける主イエス・キリストに触れ、まことのいのちの道へ、救いの道へと導かたのです。そして、体を自由に動かすことができなくも、神様に生かされている喜びを与えられていることに感謝し、その喜びを一人でも多くの方に届けたいと願ったのです。

 水野さんが次のような詩を残しています。「あの日あの時」という詩です。

 あの日あの時に 

 戸の外に立ちたもう

 主イエス様の 

 御声をきかなかったら

 戸をあけなかったら 

 おむかえしなかったら

 私は今どうなったか 

 悲しみのうちにあって

 御救いの喜びを 

 知らなかった

 先程の黙示録の御言葉を思い起こさせるような御言葉です。イエス・キリストと出会い、救われた喜びを知る時に、同時にそこで知る思いというのは、いつもキリストが私の心の戸を、魂の扉をたたき続けてくださったのだなあということです。悲しみの時も、恐れに捕らわれていた時も、望みを見出せなかった時も、主イエスは諦めることなく戸をたたき続けてくださった。私がイエス・キリストを救い主として受け入れ、キリストと共にある幸いに生きることができるために。

 信仰というのは、キリストの御声を聞き続け、ついに扉を自分の手で開けることができたからこそ与えられるものでもあるかもしれませんが、しかし、それにも勝ってキリストが戸をたたき続けてくださらなければ、自分の手で戸を開けることはなかったのです。もしキリストが私のことを諦めてどこかに行ってしまわれたならば、自分はどうなってしまっていたのか。それはもう悲しみに中に居続ける他なかったのです。しかし、キリストはどのような時も、私どもの心の戸をたたき続けておられたのです。神様のことなんか考えてもいかなった時、考えたくもなかった時でさえも、キリストは戸の外に立ち、御言葉を語り続けてくださったのです。そして、今も語り続けてくださるのです。この思いは、水野源三さんだけではなく、キリストのものとされている者、皆が知る思いであり、「あなたにもぜひこのイエス・キリストのことを知ってほしい」と伝えたくなるような熱い思いを与えてくれるものなのです。

 先週から待降節、アドヴェントに入りました。4週あるうちの3週を、ヨハネの黙示録から御言葉に聞きたいと願っています。主の日の礼拝の中で神様から幻を示された伝道者ヨハネは、当時、ローマ帝国による厳しい迫害の中にあって小アジアの教会、今でいうトルコに位置する7つの教会に宛てて愛の手紙、慰めの手紙を記しました。第1章はいわゆる手紙の挨拶に当たる部分です。その後、第2章からはエフェソの教会から始まって、7つの教会一つ一つに向けて、言葉が語られていくのです。本日のラオディキアの教会は最後の7番目の教会に当たります。どの教会も迫害の中にありますから、慰めと希望に満ちた言葉がたくさん散りばめられているに違いないと期待するわけですが、そう思って、丁寧に読み始めてみますと、所々、ずいぶんと厳しい言葉があることに気づかされるのです。もちろん、慰めと励ましに満ちた言葉もあるのですが、読んでいて、聞いていて、ドキッとすると言いましょうか、気持ちが引き締まるような主の言葉と出会います。7つの教会に宛てられた手紙は、手紙であると同時に、それぞれの教会の「成績表」だというふうにも言われます。主イエスが7つの教会を評価されるのです。私たちの教会も例外ではありません。今、苦難の中にあるからといって、何をしても赦されるのかというとそうではないのです。苦難の中でこそ信仰が問われます。そして、苦しかろうが、悲しかろうが、悔い改めるべきことは悔い改めるようにと、主イエス・キリストは迫ってくるのです。

 そして、最後に記されているラオディキアの教会というのは、7つの教会の中で、一番主の評価が厳しい教会です。何一つとして褒められていないのです。他の6つの教会に対して、主は厳しい言葉をお語りになってはいるものの、ちゃんと評価すべき点は評価しておられるのです。けれどもラオディキアの教会に関しては、何も褒めておられないのです。15〜17節で主イエスはこうおっしゃっています。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」 あなたがたは冷たくもなく、熱くもなく、なまぬるいというのです。自分の信仰の歩みを振り返る時、もしかしたら、自分はなまぬるい存在ではないかと思ってしまうものです。信仰者として模範的な生き方がいつもできているかというと、そうではない。しかしそれでも、自分なりに一所懸命、教会生活をここまで続けることができたと自分で自分の信仰を評価するのです。ここで言われている冷たいというのは凍えるような冷たさです。熱いというのは沸騰するような熱さです。私どもはどちらかと言うとあまりにも極端なことは好まないところがあります。どうしても、真ん中、中間を取りたがるのです。だから、謙遜の意味も込めて、「私の信仰はなまぬるいのです」と、つい言ってしまいたくなります。

 しかし、ここではそんな呑気なことは言っていられません。なまぬるいと主イエスから吐き出されてしまうからです。「お前は不味いなのだ」というのです。「お前は美味しくない。わたしに喜びをもたらさない」とおっしゃるのです。厳しいことです。本日、聖餐を共に祝いますが、その時、必ずと言っていいほど、詩編第34編の御言葉を礼拝の最初に朗読します。今日は主イエスの招きの言葉を読みましたが、黙示録の前に詩編第34編の御言葉を普段よりも少し長く朗読していただきました。その中に、「味わい、見よ、主の恵み深さを。」(詩編34:9)という言葉がありました。主の弟子でありましたペトロはこの詩編の御言葉に導かれ、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」(ペトロ一2:3)と言っています。キリスト者というのは、イエス・キリストによって与えられた救いが、本当に美味しいということを知っている人たちのことです。聖餐でパンとぶどう酒にあずかる際に、私どもがしていることはまさにそのことでありまして、心から美味しいと言って、救いの恵みを喜び、そこで平安が与えられ、元気になるのです。

 しかし、主イエスは、救いの味わいを知っているはずの者たちを口にしながら、不味いと言って、吐き捨てられるのです。皮肉と言いましょうか、恐ろしいことでさえあると思います。主イエスは、「なまぬるいような生き方をしているあなたがたなどいらないのだ」「信仰生活に中途半端なことなどあり得ないのだ」というのです。そして、このことは私一人の問題ではなくて、教会全体の問題であるということです。あの人は、あまりまともな信仰生活をしていないけれども、それに比べ、私はしっかりしているなどということは言えないのです。あるいは、私一人だけが皆の足を引っ張っているから、しっかりとイエス様をお迎えしないということでもないのです。ラオディキアの教会全体が問われたように、千里山教会も同じように主の前に問われていることです。教会を牧する牧師などが一番、恐れをもって聞くべき主の言葉であると思います。

 私どもが生きる社会というのは、耐えず評価の目にさらされていると言ってもいいのです。他人から自分がどう見られているかということもありますし、自分もまた他人を評価します。自分で自分を評価することもあります。誰からあまり良くない評価をされると傷つくことでしょう。お前なんかに俺の何が分かるのか!と言い返したくなることもあるでしょう。しかし、私どもはここで、誰よりも私どものことを深く知ってくださり、それゆえに、正しい真実の評価・裁きをすることができるお方の前に立たされているのです。それは恐ろしいことかもしれませんが、同時に、救いであるということも私どもは知っています。外に立ち、戸をたたいておられるキリストの思いというのは、19節にあるように、「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」という、その一言に尽きるのです。戸を開けて、キリストを迎えることは、悔い改めて、神様のもとに帰ることと一つのことです。もう一度、キリストの救いが美味しいということを心から味わってほしい。そのために戸をたたき続けられるのです。あなたの心の戸を、教会の戸をたたき続ける。そして、戸を開けるならば、わたしは入って、あなたがたと共に食事をしようと約束してくださるのです。

 ところで、この20節の「戸」という言葉ですが、これは「門」というふうに訳すこともできます。今日の御言葉の一つ前、フィラデルフィアの教会に宛てて書かれた手紙の中に同じ言葉が用いられています。主イエスはこうおっしゃるのです。第3章7〜8節。「聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。』」。また今日のすぐ後、第4章1節ではこうあります。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。』」主イエスこそ、救いに通じる門、天に通じる門の鍵を持つただ一人のお方です。主がその鍵をもって、救いの門を開いてくださり、そこに入るように招いてくださいます。神の救いを妨げる力、神の愛から私どもを引き離そうとする力は、この世のどこにも存在しないのです。ラオディキアの教会に対して、褒めることは一つもないとおっしゃりながら、19節では「愛する者」と呼んでくださり、熱心に悔い改めるように、あなたがたも戸を開いて、わたしを迎え、わたしのところに帰ってくるように呼びかけておられます。もうあなたの前に救いの門は開かれているのだから、わたしのところに帰ってきなさい!

 それにしても、ラオディキアの教会の人たちの罪とは何であったのかということを問わずにはおれません。主が吐き出したくなるほどに、なまぬるい、不味いと言われる原因とは何だったのでしょうか。もう一度、17節をお読みします。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」ラオディキアという町は、商業が盛んな町であったと言われています。銀行が多い金融都市でありました。また織物産業が盛んで、黒い羊の毛で作られた織物は当時たいへん有名だったと言われています。また、目薬の産地としても知られていました。当時の目薬というのは今のような液体のものではなく、塗り薬だったようです。また、医者を育てる医学校もあったと言われています。要するに、たいへん裕福な町でありまして、かつて大地震が起こった時、ローマから援助の話があったようですが、ラオディキアはそれを断って、自力で復興したというふうにも言われています。ラオディキアの教会の人たちの中にも、豊かさの恩恵にあずかっていた人も多かったのではないでしょうか。また、この時は、迫害が厳しい時代と言いましたけれども、ラオディキアは政治的、軍事的に他の町に比べると、重要ではなかったため、あまり厳しい迫害ではなかったのではないかと言われています。

 そのような中で、甘えが生じ、信仰の姿勢が崩れてしまったのでしょうか。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という人たちが出てきたというのです。同じ信仰者として、耳を疑いたくなるような言葉かもしれませんが、このことは果たしてラオディキアの人たちだけの問題なのでしょうか。そこまで神様に助けていただかなくても、何から何まで神様にしていただかなくても、自分たちが持っている豊かさだけ何とかできるという思いが少しでもあるならば、私どももまた主イエスがここでご指摘なさったような「金持ち」であるということです。いくら経済的に貧しい生活を強いられていたとしても、そこで、「神など必要ない」と言うのならば、それは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っていることと同じだということです。どれだけ自分で自分を美しく装い、立派な身なりで着飾ったとしても、神様の目には惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者だというのです。

 だから、「あなたがたに勧める」と言って、私どもに声をかけてくださいます。真の豊かさとはどのような豊かさであるのかということです。18節「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」私どもが豊かに生きるために必要なもの、それは火で精錬された金であり、白い衣であり、目に塗る薬だというのです。白い衣も目に塗る薬も、おそらくラオディキアで有名だった織物や目薬のことを意識して語られた言葉でしょう。けれども、町のどこに行っても、精錬された金や白い衣や目薬は売っていないのです。なぜなら、「わたしから買うがよい」とありましたように、イエス・キリストからしか買うことができないものだからです。主イエスのもとに行かないといただくことができないのです。火で精錬された金のように純粋な信仰を主イエスからいただきます。白い衣というのは、キリストご自身のことを言ってもいいでしょう。どんなに華やか服や自分の身を守る鎧や兜にも勝って、キリストを着るのです。キリストをまとって、罪赦された者として、神の前に立ち続けます。人間の肉の目、この世の目ではなく、神様がキリストをとおして与えてくださったまなざしで、神様を見つめ、自分と隣人を見つめて生きていきます。

 20節で、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」と主はおっしゃいました。信仰の目で見るのです。戸口に立って、その扉をその門をたたき続けておられる主イエスのことを。その手に、戸の鍵を持ちながら、ここではあえて主はその鍵を用いようとはなさいません。私どもが主イエスを迎えることを、主はずっと待ち続けてくださるからです。あなたがたを愛するにことにおいて、わたしは何があっても諦めないという思いを明らかにしてくださるためです。その主イエスの思いを知るだけで、私どもの心は熱くならざるを得ないのです。

 戸をたたき続ける主イエスの手には、火で精錬された金があり、白い衣があり、目薬があります。決して、いらないものを押し付けてくる嫌な訪問販売員ではありません。私どもが死を超えたいのちの望みに生きるために、主イエスは来てくださいます。待降節を私どもはどういう思いで過ごしたらよいのでしょう。もちろん、楽しみにしながら過ごしたらよいのです。けれども、私どもはそこで見るべきものを見つめます。既にキリストから信仰の目薬をいただいたからです。その時に見えてくるのは、この世界が抱えている闇もそうですが、何よりも私どもの罪の問題です。私ども教会の歩みが神様の前に問われています。「熱心に努めよ。悔い改めよ。」十字架についてくださるほどに私どもを愛しておられる主イエスの言葉を忘れてはいけません。堂々と神様の御前に進み出ることができない痛みをしっかりと覚えながら、その罪を赦すために主は来てくださいました。いや「もうあなたがたの罪は赦されている」という祝福に支えられて、今朝もここに立つことができたのです。

 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」もう明らかだと思いますが、この御言葉を聞く時に、昔から教会の人たちは聖餐のことを思い起こしました。ある人はこの食事というのは、「夕食」を意味する言葉だというのです。朝食や昼食というのは、さっと済ませてしまうことが多いものです。ゆっくりご飯を食べている余裕がないほどに、私どもは忙しくしているのです。けれども夕食は違うというのです。夕食は朝や昼に比べれば、豪華なものなのではないでしょうか。一日の働きを終え、疲れ果てた心と体を癒してくれる、そういうものではないかと思います。家族や同僚など、食事をしながらゆっくりと楽しい交わりを持つこともできるでありましょう。まあ、ライフスタイルはそれぞれですから、実際は夕食後も仕事に追われるという人もいるかもしれませんが。しかし、信仰の食卓、聖餐というのは、終わりの日に与えられる救いの喜びを、先立って主イエスと共に、信仰の兄弟姉妹と共に味わう時です。ついに来るところまで来た。ついに真実に憩うべきところを見出した。ついにすべてが神様によって満たされた。そのような救いの完成の喜びに連なる食卓、それが聖餐です。そして、主が与えてくださる恵みの糧によって、苦難多き世にあって、なお望みをもって最後まで歩むことが許されているのです。

 戸口の前に立ち、戸をたたき続けてくださる主イエスは、よそから来た客ではなく、私どものまことの主人でいてくださいます。だから、戸を開けて主を迎え入れるならば、主は私どものために食卓を用意してくださいます。そして、私どものことを「愛する者」と呼んでくださるだけではなく、「勝利を得る者」と呼んでくださいます。最後に21節をお読みします。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」私どもの歩みは敗北の人生ではないということです。では、勝利を得るということはどういうことでしょうか。この世では、嫌というほど自分の弱さや惨めさを経験した。何をやっても失敗ばかり。しかし、最後には自分を苦しめていた者たちを見返すことができた。ほら見たものか!ということなのでしょうか。決してそうではありませんし、神様が与えてくださる勝利というのはそんなちっぽけなものではないのです。この世の価値観における勝ちであるとか負けであるとか、そんなことでひがんだり、憎んだり、相手を見下したり、そういう一喜一憂するような小さな人生を生きるのではないのです。あなたがたが本当に勝利しなければ、神様の前に立つことができないものがある。あなたがたを惨めなままに、貧しいまましておくことなどできない。だから何としてでも、まことの勝利をあなたがたに与えたい、神が与える豊かさに生きてほしいと主はおっしゃいます。そのために、主イエスは十字架で死んで甦ってくださいました。

 罪と死に勝利したもういのちの主が、「使徒信条」の中でも告白していますように、今、天におられ、父なる神の右の座に着いておられます。その玉座とも言える場所に、同じ神の勝利にあずかる者として、あなたがたをお迎えするというのです。畏れ多いことですが、これほど喜びに満ちた場所はどこにもないのです。主の日の礼拝の度に、礼拝堂に集い、私どもがこうして座っている椅子というのは、言い方はわるいかもしれませんが、何でもないような椅子です。まして玉座とは言いがたいものです。まことの王であられるイエス様に座っていただくには、せめてもう少し高価な椅子のほうが良いかもしれません。しかし、そんなことよりも、私どものことを「愛する者」「わたしの勝利にあずかる者」と呼んでくださっている主イエスが、今朝もここに招いてくださり、主が座しておられる所に、共に座らせてくださっているということ。そして、私どもも、主のいのちの言葉を聞いて、戸を開き、主イエスをお迎えすることができたということ。このことに勝る喜びは他にないのです。今から私どもは復活の主が用意してくださる食卓にあずかるのです。お祈りをいたします。

 主よ、私どもがあなたを探し求めるよりも先に、私どものことを憐れみ、熱心に探し続けてくださり、心の戸をたたき続けてくださいました。かつては神などいらないという偽りの豊かさによって、自分を飾ろうとしていた私どもです。そのことがどれだけ神の御心を悲しませてしまったことでしょう。主が今も訪ねていてくださる教会であり、一人一人であることをいつも覚えることができますように。イエス・キリストからしかいただくことができない救いの恵みを受け取り、共に分かち合い、まだあなたのことを知らない者たちにも主の恵みを届けていくことができますように。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。