2022年10月02日「慰めと執り成し」

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慰めと執り成し

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ペトロの手紙一 2章1節~10節

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聖書の言葉

1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。ペトロの手紙一 2章1節~10節

メッセージ

 前回に引き続き、「ペトロの手紙一」の御言葉を聞きました。文字どおり主イエスの弟子でありましたペトロという人が、当時迫害下にあった小アジアの教会、今で言うトルコ北部にある教会に宛てて記した手紙です。聖書には数え切れないほどたくさんの人物が登場しますが、ペトロという人もたいへん興味深い人物です。信仰生活を重ね、聖書に親しんでいる者たちは、この人がどういう人物であるかをよく知っていることでありましょう。ペトロという名を初めて聞く方や求道中の人にとりましても、何回かこのペトロの話を聞けば、すぐに親近感を抱いていただけるような人物ではないかと私は思います。聖書に出てくる人物であったり、キリスト者と呼ばれる人たちは何か特別に綺麗な心の持ち主であるとか、誰にもできないような立派な行いばかりしているというのではなく、誰でもするような失敗や過ちをおかしたり、自分と同じように喜んだり、腹を立てたり、悩んだりというふうに、案外自分と似ているのだなと思わされるのです。そして、そのような自分もまた主イエスにお会いすることができるのではないかと望みを持つことができるのです。

 ペトロという人は元々ガリラヤという田舎町の漁師でした。誰よりも漁が上手い漁師というのではありません。どこにでもいるような普通の漁師だったことでしょう。しかし、そのペトロが漁の後、舟から上がって網を洗っている時、主イエスとお会いするのです。「これからは人間を獲る漁師になる」という言葉に捕らえられてペトロは、すべてを捨てて主イエスに従いました。ペトロは12人いる主の弟子たちの中で、自分は一番弟子だという自負がいつもありました。主イエスから何かを尋ねられたら、誰よりも真っ先に答えたのがペトロでした。誰よりも真っ先に行動したのもペトロです。しかし、良かれと思ってしたことが大抵は裏目に出てしまいます。その度に主イエスから叱られるということもよくありました。それは主イエスがペトロのことを愛していたからでもあります。主イエスもまたペトロのことをいつも気に掛けておられたのです。

 自信に満ち溢れては、失敗を繰り返す。そのような姿に、私どもは自分自身を重ね合わせます。このペトロにとって、決定的とも言える大きな出来事がありました。主が十字架にかけられる直前に、三度、主イエスのことを知らないと否んだことです。あれほど、主イエスを愛し慕っていたにもかかわらず、また自分こそが誰よりも偉い弟子であり、主のためなら死んでも構わないとまで誓ったにもかかわらず、自分も主イエスのように殺されるかもしれないと思った時、死の陰がちらついた時に、いとも簡単に主を裏切ったのです。このペトロの裏切りについて、主イエスは先立って予告をしておられました。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」主の言葉どおりになりました。鶏が鳴き、三度主を否むという取り返しのつかない罪をおかしたことを知った時、ペトロは激しく泣きました。泣きに泣いたのです。ただその涙は単に自分の罪を悲しむ涙ではありませんでした。ペトロは主イエスの言葉を思い出して泣いたのです。一つは、裏切りを予告なさった主の言葉を思い出したのです。つまり、主イエスは自分のことをすべて知っていてくだくださる方の言葉をもう一度聞いたということです。そのお方が今まさに自分の目の前で十字架刑の判決を受け、十字架に向かおうとしておられる。この十字架は私のための十字架なのだということがよく分かったのです。

 もう一つは、ペトロが裏切る前に、主はこうおっしゃいました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)この主イエスの言葉、そしてこの主イエスの祈りがあったからこそ、ペトロは信仰を失わずに済みました。立ち直ることができたのです。やがて復活の主イエスとお会いします。そこですべての罪を赦していただき、神の平和が与えらます。そして、福音を宣べ伝える者として遣わされて行くのです。兄弟たちを力づけ、主が「わたしの羊」と呼んでいてくださる教会員を養い、それだけでなく囲いの外にいる選ばれた羊たち、つまり、まだ主を信じていない人々を信仰に導く尊い働きに召されていくのです。なぜ今、自分がこのように生かされているのか。なぜ、この働きに召されているのか。ペトロはそのことを思い起こす度に、はっきりと聞こえてくる主イエスの御言葉がありました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」私は主イエスに祈られている。罪の闇にあった時も、そして今も。主に祈られているからこそ、伝道の困難や死の恐怖が目の前にあっても乗り越える力、立ち向かう勇気が与えられる。そのようにして日々、主イエスの祈りによって力づけられたのです。そして、このことはペトロ一人だけのことではないでしょう。ここにいる私ども一人一人においても同じように言えることです。あなたは主イエスに祈られているのです。主に祈っていただいたからこそ、だから、罪赦され、赦されただけではなく、兄弟たちを力づける働きに召されているのです。そして、私どももまた祈りの道を歩みます。この兄弟をどう力づけたらいいのか。まだキリストの福音を知らないあの人を導くために、何が必要なのだろうか。それは主が私の救いと働きのために祈ってくださったように、私ども祈りつつ、教会の業、伝道の業に仕えていくということです。

 ペトロの働きは人々を救いの恵みに導くことです。ただそれだけではなくて、救われた一人一人が、今度は神の教会を建て上げるためにどうしたらいいのかということ丁寧に教えることでした。この手紙の中で、特にペトロの心にあったのは、洗礼を受けたばかりの人たちのことではなかったかと言われています。2節には、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。洗礼を受け、キリスト者として生まれたばかりのあなたがたということです。自分は洗礼を受けたばかりだから、教会に仕えるのはまた後でという話ではないのです。あなたがたもまた教会を共に建て上げていくためになくてはならない一人だというのです。それは洗礼を受け、教会の一員になった時から与えられる大切な使命です。ただペトロは教会の話をしながらも、この手紙の中では「教会」という言葉は一切用いないのです。本日の御言葉においても同じです。代わりにこのように言うのです。5節です。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」5節だけでなく、4〜8節にかけて、何度も「石」という言葉が出てきます。私どもは「生きた石」なのです。それらの石が一つ一つ組み合わさって、「霊的な家」、つまり「教会」が造り上げられていくというのです。大きなお城の石垣のように、石の大きさもそれぞれ違うかもしれません。中には大きな石と石の隙間に挟まっているような小さな石であるかもしれません。しかし、大きくても小さくても、教会にとってはならない大切な石です。同じ伝道者でもパウロという人は、教会はキリストの体であり、私たちはその部分なのだと言いました。それぞれが目であり、手であり、足であるというのです。それぞれ働きは違います。賜物も違いまします。しかし、それらの違う部分が組み合わさって一つの体を造っているのです。お前など役に立たない体の部分だからいらないなどと言う人はいないのです。教会を建て上げる一つ一つの石も同じです。こんな小さな石、こんな形のわるい石は役に立たないからいらないということでは決してないのです。

 そして、私たちは生きた尊い石だというのですけれども、大切なのは私ども教会を支える「要の石」があるということです。6節、7節でこう言われています。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。」「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」。神にとって選ばれた尊い生きた石、選ばれた尊いかなめ石、隅の親石。これらはすべてイエス・キリストのことを指し示している言葉です。教会の土台、教会の要となる一番重要な石、それはイエス・キリストであるということです。人々からこんな石などいらないと言われ、十字架につけられたイエス・キリストが、私という人間を造り上げるうえで、教会を建て上げるうえでなくてはならない石となりました。キリストという土台、あるいは、御言葉という土台がなければ、私どもの人生も教会共同体も意味を持たなくなる。それほどに大切な要の石、それがイエス・キリストです。

 キリストは、本当ならば無視をされ、あるいは蹴飛ばされて、どこかへ消えてしまうような小さな石を、尊い存在として、一つ一つ拾い上げてくださいました。そして、教会を建て上げるうえで欠くことができない石としてくださったのです。ご存知の人もおられるかもしれませんが、「ペトロ」という名前は彼の本名ではありません。ペトロというのは、主イエスが付けられたニックネームです。本名はシモン・バルヨナです。ペトロという名前には意味があります。覚えておられるでしょうか。それは「岩」という意味です。正確に言うと、岩から切り出された小さな石のことです。なぜ、「あなたはペトロ、あなたは岩だ」とおっしゃったのでしょうか。さらには、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と約束してくださいました。「あなたが『イエス様こそ私の救い主です』と信仰を告白した、その告白の上に、岩の上に教会を建てる」と宣言されたのです。ペトロには岩のように、何があっても動じないしっかりした信仰をいつも持っていたからこそ、岩と呼ばれたのでしょうか。あるいは、ペトロは相当の頑固者で、まるで岩のような心だったと言う人もいます。よく分からない部分がありますが、ペトロの生涯を見ると、先程申しましたように、しっかりした信仰に生き抜くことができたわけではありませんでした。主イエスに対してさえも、実は心を岩のように固くしていたのがペトロです。しかし、主イエスはそのペトロのために祈ってくださり、十字架につき、復活してくださったのです。ペトロは小石のような私でも、今こうして福音のために、教会のために用いられていることを心の一番深いところで受け止め、感謝をし、もう一度、主イエスのためにすべてを捨て、すべてを献げて生きる者とされました。

 私どももペトロと同じように「生きた石」として教会を造り上げる働きに召されています。では、具体的に何をしたらよいのでしょうか。もう一度5節を、そして9節も合わせてお読みします。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」ここであなたがたは「祭司」であるということが重ねて言われています。「祭司」とはいったいどのような存在なのでしょうか。聖書を読みますと、「祭司」というのは、「預言者」や「王」と並んで、神と人々のために召された特別な働き人であるということです。分かりやすく申しますと、今で言う牧師の働きということになるかもしれません。ただペトロはここで特別な人だけ、一部分の人だけが祭司なのだと言っているのではないということです。洗礼を受けたばかりの自分が祭司などというのはおこがましいと思ってしまいがちですが、それは間違っているのです。皆、祭司なのです。9節の「王の系統を引く祭司」と訳されています言葉は、「祭司の集まり」「祭司の国」ということです。教会員皆が祭司という聖書の教えは、16世紀の宗教改革において再発見された御言葉の真理の一つでもあります。これを「万人祭司」と呼びます。私たちが立つべき所は御言葉のみであり、救いは私たちの行いによるのではなくキリストの義、真実によるということ。それに並んで、私ども一人一人が生きた石であり、聖なる祭司であるということ。このことは教会生活、信仰生活の中で大きな意味を持つのです。子どもたちにお話した言葉で言えば、私どもは皆、天の国の王子であり、王女なのです。

 この祭司というのはどういう働きをする人なのでしょうか。いくつかあるのですが、一つは神を礼拝する存在であるということです。旧約聖書の時代では、祭司が礼拝をささげる際に、動物をいけにえとして献げ、神に赦しを乞うたのです。今は礼拝の度に、いけにえを献げるなどということはいたしません。主イエスが、神の小羊として御自分のいのちを十字架で献げてくださったからです。キリストのゆえに、私どもは神の前に立ち、神を礼拝する者へと変えられました。パウロは次のように言っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)私どもはいけにえに献げるための動物や畑の実りを持ってくるというのではなくて、キリストのものとされた自分自身をすべて神様に献げるようにして礼拝をささげるのです。こうして、主の日、神様の前に心も体をもって集い、礼拝をささげる。このこと自体が祭司としての尊い務めを果たしているということです。

 もう一つ大切な働きは、「執り成し」の務めです。執り成すとはどういうことなのでしょうか。例えば、辞書的な意味で申しますと、「双方の間に第三者が入って、関係を好転させること」「具合が悪い状態を、間に入って取り計らい、好転させる。よいように取り計らう」とあります。ですから、祭司である私どものまなざしは神様に真っ直ぐに向けられていますが、それだけではなく、同時に執り成す相手である隣人やこの世界全体に向けられているということです。そして、ペトロが信仰を失いそうになった時、そのペトロのために主イエスが先立って祈ってくださったように、執り成すということにおいて、なくてはならない業が「祈り」なのです。祈ることなしに、執り成すということ、いや、祭司という働き全体を担うことはできないということです。

 前回9月18日の説教では、「慰めの対話を求めて」という題で、特に罪を巡る対話、もう少し広い視野で見ると、救いや信仰を巡る対話ということについて共に考えました。兄弟が信仰のことで思い悩んでいる、罪の問題で苦しんでいる、その時に、私どもはその人のために執り成す必要があります。じっとそばにいることも大事ですが、もう一度ちゃんと神様のところに帰ることができるように導いて上げる必要があります。そこで対話が必要になります。どんな場合でも、こういう話をすれば、誰でも立ち直ることができるという決まり切ったマニュアルやハウツー的なものが聖書に載っているわけではありません。相手の魂を心から思いやり、配慮しつつ相応しい慰めの言葉、励ましと勧めの言葉を語ります。福音の響きが聞こえる確かな言葉を語ります。その時に、神に祈ることなしに、慰めの言葉を語り、執り成すことができないということを、私どもは既に経験として知っているのではないでしょうか。私の言葉があの人のために何の役に立つのか?何の役にも立っていないのではないか?余計に傷口を広げてしまっているだけではないか?しかし、そのところで祈るのです。主イエスの励ましを聞くのです。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19-20)

また前回のところにも出てきました召し使いたちや妻や夫のように、家族をはじめ、学校や職場など、それぞれが生活の場に召されています。そこで平和に暮らすことができたらと願いますが、理不尽なことを経験することもあるのです。「なぜですか?」と問うこともあるでしょう。そのように問うこと自体が、既に祈りの言葉になっていると言えるのですが、祈りながら、そこでも私どものために足跡を残してくださった主の御跡を踏んで歩んで行きます。その主イエスは、ペトロのために、私どものために祈ってくださったお方であり、十字架の上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成しの祈りをささげてくださったお方です。この方のいのちの恵みにあずかりながら、聖なる祭司として祈りつつ共に教会を造り上げていくのです。

 私どもは祭司として隣人を見つめ、この地域やこの国、この世界を見つめます。そこで見えてくるものとは何でしょうか。もちろん良い部分を見出すことも大事ですが、とりわけ、「祭司」としてという場合、私どもは人間とこの世界が抱える闇、つまり、罪の問題、あるいは、苦しみの問題を避けてとおることはできないのです。祈りを失ってしまっている隣人のために、この世界のために代わって祈ってあげるということ。誰かのために、この世界のために代わって信じるということです。祈ることができず、神の前に立つことができない者のために、祭司である私どもが代わりに神の前に立つのです。そして、神様はそのような私どもの信仰を見出したいと願っておられるのです。

 旧約聖書のエレミヤ書と呼ばれる書物があります。バビロンとの戦いに敗れ、都エルサレムは陥落してしまいます。信仰の拠り所であったエルサレム神殿も破壊されてしまうのです。そして、人々は捕囚の民として敵国バビロンに連れて行かれることになりました。故郷から引き離され、まことの神を知らない異教の地での捕囚生活が強いられるということ。神の民にとってこれほどの屈辱はありません。当然そこで、「いつ故郷に帰れるのか」「いつこの苦しみが終わるのか」ということを祈りつつ、神様に問うたのです。ところが神様の答えは驚くべきものでした。捕囚は70年続くというのです(エレミヤ29:10)。そしてこうおっしゃるのです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」(エレミヤ29:4-7)神様は御自分の民に対して、異教の地バビロンの町に腰を据えて生活をし、バビロンの町の平安のために祈りなさい。それが異教の町に生きるあなたがたの使命であると命じられるのです。しかも、バビロンのために祈るというのは、敵のために祈り、執り成すということです。そして、「平安」という言葉は、「繁栄」とも訳される言葉です。なぜ祈りの中で敵の繁栄を願うのでしょうか。普通はそんな祈りは誰もしないのです。神様が教えてくださらないと祈ることができない驚くべき祈りです。もちろんここで言われている平安とか繁栄というのは、世の権力者が神の御心を無視して、好き勝手に振る舞うことを許すということではありません。町が平安を取り戻し、町に住む人々が皆安心して落ち着いて暮らすことができる。そのような生活の中に、人々が神様の祝福を見出すことができるように祈りなさいということです。私どもも同じです。今朝、こうして礼拝に出席している人たちは、町の人々のほんの一握りに過ぎません。しかし、町の人々を代表し、町の人々に代わって、町の人々のために、礼拝をささげ、執り成しの祈りをささげます。教会は町の人々の救いのために、執り成し手として町の真ん中に立ち続けるのです。

 この時、バビロンにいた信仰の民のように、私どもも神様に選ばれた祭司として、執り成しの祈りをささげて生き続けるということは、たいへんな忍耐がいるかもしれません。例えば、執り成す必要があるということは、誰かと誰かの関係がとてもわるいその真ん中に入って行くということでもあります。片方の味方になり、片方の敵になるのではなく、あくまでも執り成す務めに生きるために、その真ん中に立ち、両者の痛みを共有するということです。なぜわざわざ自分が傷つき、犠牲になるようなことをしなければいけないのだろうか。あるいは、正直、今自分は他の教会員のこと、隣人や世界のことにまで心を配る余裕がない。自分のことで精一杯ということもあると思うのです。もしかしたらそういった思いなどから、キリスト者たち皆が祭司として生きることがどこかで私どもの間で消極的なものになってしまったのかもしれません。

 確かに、信仰生活を続けていますと、時に誰かのために祈るどころか、自分のためにも祈ることができないほどに気落ちしてしまうということもあるでしょう。そこで自分は信仰者として失格だとか、教会員の資格などないなどと勝手に判断をしてしまうことがあるのです。しかし、そこでもう一度思い起こしたいことは、私どもが聖なる祭司として、執り成しに生きることができるために、今も、神御自身が私どものために執り成していてくださるということです。十字架を前にしてペトロのために祈ってくださった主イエスの祈り、十字架上での主イエスの祈りも先程紹介しましたが、使徒パウロという人も執り成しということについてこのように言っています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26-27)「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)細かい説明をする時間はありませんが、父なる神様がお遣わしになった御子イエス・キリストが、そして、聖霊が今も私どものために執り成していてくださいます。敵の力、罪の力に苦しみ、救いの確信が揺らぎそうになる時があります。しかし、父なる神の右に座しておられる主イエスが、十字架と復活によってキリストのものとされた真実な私どもの姿を、父なる神の前に紹介してくださるのです。「神よ、見てください。これがわたしが十字架で贖ったあなたの愛する子どもたちです。」また、何を祈っていいのか分からなくなるほどに深い絶望の中にある時も、共にいてくださる聖霊が言葉にならない思いを、そのまま呻くようにして神に届けてくれるのです。主イエスと聖霊というこれ以上にない素晴らしい執り成し手によって、私どもは苦難の時も、そして今日も、父なる神様の前に立たせていただいているのです。

 また、聖なる祭司として召されている私どもは、祈る働きに召されているのですが、同時に教会の仲間たちから祈られていることをよく知っている人間でもあるということです。自分のこれまでの信仰の歩みを振り返る時、見えないところでどれだけの人たちが自分のために祈ってくださったことでしょうか。健やかな時も病める時も、私どもは教会の兄弟姉妹の祈りによって支えられてきたのです。試練の中で祈る言葉を失い、執り成しの祈りどころか、自分のためにすら祈ることができなくなることがあります。でも、教会に生きるというのは、主イエスと御霊による執り成しとともに、祭司である兄弟姉妹によっていつも祈られている。この祝福をよく知っているということです。教会の交わりは祈りの交わりでもあるのです。だから、神様から離れてしまったと自分で思い込んでいたとしも、実は兄弟姉妹の祈りに支えられならが、神様の前に立ち続けているのです。そして私も教会のために、教会員のために祈ろうという思いが、そこで増し加えられていくのです。

 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」神様が今日も驚くべき光の中へと私どもを招き入れてくださいました。救いの光の中で、今一度、自分たちの姿を見つめ直しましょう。そして、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」と3節で語られていましたように、復活の主が用意してくださった食卓をとおして、救い恵みを心と体で味わいましょう。私どもはもう偽りや妬みや悪口を言わなくてもよくなったのです。神様が比べ物にならないほどに、心から美味しいと言える救いの恵みを私どもの舌に乗せてくださったからです。私どもの口に祈りの言葉、賛美の言葉を与えてくださったからです。私どもはキリストによって本当に新しくされたのです。お祈りをいたします。

 神様、私どもは自らの歩みを振り返る時、そこに主イエスの祈りがあったことを思い起こすことができます。祈りがあなたのもとに届けられるために、主は十字架でいのちをささげてくださり、十字架の上でも罪の赦しのために祈ってくださいました。救いの恵みに生きる私どもも聖なる祭司として、執り成しの務めに召されています。神を礼拝し、祈りをささげ、兄弟の魂を配慮しつつ歩む祭司の群れとしての教会を祝福してください。心に掛ける隣人やこの世界を前にして、自らの小ささを思うことがありますが、生きた石と用いてくださり、小さな祈りさえも尊い祈りとして聞いてくださる神様にお委ねしながら歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。