2022年09月11日「ただ一つの慰めに生きる」

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ただ一つの慰めに生きる

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 5章1節~11節

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聖書の言葉

1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。ローマの信徒への手紙 5章1節~11節

メッセージ

 先週から10月に行われる修養会のテーマ「慰めの共同体・教会」という主題で説教をしています。本日も前回に引き続き、使徒パウロが記した手紙を読みました。ローマの信徒への手紙第5章1節以下の御言葉は、「福音の真髄」と呼ばれる箇所でもあります。ある人は、「最悪、聖書の言葉をほとんど忘れてしまうようなことがあっても、このローマ書の御言葉さえちゃんと覚えていれば救いの確信に生きることができるし、まだ福音を知らない人々に伝道することができる」とさえ言いました。それだけ、この御言葉の中に大切なメッセージがいくつも込められているということです。例えば、1節から順番に目をとおしていきますとこのような言葉があります。「信仰によって義とされる」「神との平和」「恵み」「信仰」「神の栄光」「誇り」「苦難」「希望」「聖霊」「神の愛」「キリストの死んでくださったこと」「和解」。他にも信仰について考える上で大事な言葉がいくつもあります。これら一つ一つの言葉を取り上げるだけで、修養会が何回も出来るような思いがします。パウロは手紙の読み手たちと真っ正面から向き合うのです。そして、次から次へ、これでもかこれでもかという程に勝負球を投げ込んでくるのです。信仰をぶつけてくるのです。伝道者パウロの激しい息づかいが聞こえてくるような御言葉がここにあります。

 また、本日は聖書の御言葉と合わせて、いつも礼拝の中で告白している「ハイデルベルク信仰問答」の問1の言葉を別紙に書き記しておきました。「ただ一つの慰めに生きる」という説教題はここから取ったものです。すべてに触れることはできませんが、何度か説教の中で信仰問答の言葉にも触れたいと思います。ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いから始まります。生きている時だけでなく、「死のうとしている時も」と言うのですから、これは私どもの人生全体に関わる大切な問いであるということです。また、私たちの教会でよく読まれる「ウェストミンスター小教理問答」でも、最初に「人のおもな目的は、何ですか」と問うています。人間が生きる目的、人生全体の目的を問うのです。そして、ローマの信徒への手紙第5章の御言葉も、1節にあるように「信仰によって義とされた人間」はどう生きるのか。どのような恵みの中を生きるのかを語ります。信仰によって義とされるというのは、分かりやすく申しますと、イエス・キリストに示された神の愛と恵みによって救われた人間ということです。洗礼を受け、キリスト者となり、神の教会を形づくるために召された私ども一人一人のことです。

 2節に、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」とあります。「今の恵みに」とありますが、これは「今立っている恵み」ということです。それもよたよたしながら何とか立っているというのではなくて、しっかり立っているということです。さらに、2節前半の言葉をもう少し丁寧に訳しますと、「今立っているこの恵みの中に入る入り口を私たちは得た」となります。興味深い言葉です。私たちは「入り口」を知っている、それを手に入れた、神様から与えられたというのです。その入り口は神に通じる入り口であり、救いに至るいのちの入り口です。イエス・キリスト御自身が入り口であり、まことのいのちに至る通路であり、また道なのです。キリストをとおして与えられた恵みに立つ私どもはどのような生き方をするのでしょうか。

 パウロが一つ強調している言葉があります。それが「誇り」という言葉です。2節と3節、そして、最後の11節です。2節「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。11節「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」。この「誇り」という言葉は「喜び」と訳すこともできます。神の栄光にあずかる希望を喜び、キリストによって神を喜ぶのです。先程のウェストミンスター小教理問答も、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白していました。イエス・キリストをとおして与えられる救いの恵みに生きること、神の慰めに生きること、その幸いとは何でしょうか。それは、生きる目的が神様からはっきり示されたということではないでしょうか。もう自分はどう生きたらよいのかと迷うことはなくなったということです。それは3節以下に「苦難」ということが語られていきますが、苦しみの時にも自分を見失うことなく、生きる目的を忘れることなく真っ直ぐに歩んでいくことができる者とされたということです。神様から慰められることも、慰めを誰かと分かち合うことも、大事なのは歩むべき道や目的がはっきりと示されるということです。それも死を超えたいのちの道が示されるということです。

 パウロは、「私たちは何のために生きるのか」ということについて、神の栄光にあずかる希望を誇って生きるのだ。神を誇るのだと言いました。他の手紙の中ではこのようなことを言っています。お配りした別紙にいくつか記しておきました。

 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:7-8)

 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(コリント二5:14-15)

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケ一5:10)

イエス・キリストによって義とされ、救われた私どもの歩み、また教会の歩みというのは、決して、複雑なものではありません。いわゆる楽な生き方をすることができるということではないのですが、いつでも真っ直ぐ、筋がとおった、一筋の心で生きることができるようになったということです。それは神を誇り、神を喜ぶとあるように、私たちを救ってくださった神様のために、主イエス・キリストのために生きるということです。自分のためや家族のために生きるということも当然あるのですが、それらはすべてが神様のためであり、神様の栄光をたたえるための歩みの中に含まれているということです。

 なぜなら、私どもは「キリストのもの」とされているからです。ハイデルベルク信仰問答の中でも語られていることですが、私の人生は、私のものではなくて、「体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのもの」であるということです。だから、私が生きる目的もただキリストのためであり、そのことが生きている時だけではなく、死ぬ時にも大きな意味を持つ、力を発揮するというのです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いにおいて強調されていることは、一つは「死」ということです。生きている時なら、いくらでも慰めはあるかもしれません。自分の趣味や家族と一緒に過ごすこと。あるいは自分の地位や名誉、富といったものによって日々慰められているとう人もいると思います。あるいは一時的なものであるかもしれないけれども、ストレスを解消するためにちょっとした安らぎや慰めを求めている人もいるでしょう。では死を前にした時、今にも死のうする時、それらのものは慰めになりますかということです。なかには慰めになるという人もいると思いますが、死そのものに打ち勝てるかどうかということです。二つ目は、「あなたのただ一つの慰めは何か」ということです。他の人にとってというのではなく、あなた自身にとっていのちをもたらすまことの慰めとは何ですかということです。最後三つ目は、「ただ一つの慰め」ということです。あれもこれもというのではなくて、ただ一つの、唯一の慰めは何ですかというのです。そのように考える時に、「慰め」というのは力強い慰め、死に勝つ慰めでなければ意味がないということがよく分かるのです。実際、原文のドイツ語においても、英語においても「慰め」という言葉にはたいへん力強い意味合いがあります。また、慰めというのは、私たちの心の拠り所という意味があります。拠り所であり、要塞、砦です。どんな力にも、どんな攻撃にも負けない砦です。そこから確信とか勇気という意味も生まれました。生きるにも死ぬにも、体も魂もすべてお任せすることができる、すべての信頼を置くことができる、そのような拠り所、砦とはどこにあるのでしょう。私を苦しめるあらゆる力を前にしても、怯えることなく立ち向かって行くことができるそのような勇気は誰から与えられるのでしょうか。それがイエス・キリストであり、キリストのものとされるということです。それが救われるということです。

 ローマの信徒への手紙に戻ります。パウロは2節でキリストによって救われた恵みに立つことができる喜びを語りました。そのあとで、3節「そればかりでなく」と言葉を続けるのです。「そればかりでなく」と聞きますと、もっと素晴らしいものがあるのだろうか?と少し期待をしてしまいます。しかし、読み進めていきますとびっくりするような言葉が語られていることに気付きます。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」きっといいものが待っていると思ったら、「苦難をも誇りとする」「苦難をも喜ぶ」というのです。普通はこう思うのです。「そればかりでなく、救われたら苦難は一切なくなります。」これならよく分かるのです。救いというのは、苦しいこと困っていることから救われる、解放されることだと思うからです。誰も苦難など歓迎しないのです。苦難があったほうがいいか、なかったほうがいいかと聞かれれば、度合いにもよりますが、やはりないに越したことはないのです。それにせっかくイエス・キリストに救われたのに苦難を経験しないといけないのだろうかという気持ちになってしまいます。しかし、パウロは苦難をも喜ぶと言うのです。キリスト者にも苦難があることは知っていても、それを誇りに思い、喜ぶとまでは、なかなかなれないかもしれません。立派な伝道者パウロだからこそ、このようなすごいことを言えるのだとつい考えてしまいます。でもパウロは自分一人のことだとは思っていません。ここでパウロは自分一人だけに起こっている救いの話をしているのではないからです。パウロはここで「わたしたち」という言葉を1節から最後まで何度も繰り返すのです。なぜなら、ここで言われていることは、私たちのことだからです。私たちキリスト者の中に、私たち教会員の中に起こっている恵みの出来事であるからです。

 神を誇り、神を喜んで生きる私どもの歩みですが、その中で苦難に遭うことがあります。そこで大切なのは、苦しみ遭わないようにするというのではなく、苦しみそのものをどう受け止めていくかということです。「困った時の神頼み」という言葉があります。あまりいい意味で用いられる言葉ではありません。いつもは神様に頼って生きていないのに、何か自分に都合が悪くなったら、神様にお願いするのです。いかにも自分中心だと批判するのですが、でも、本当に困った時、苦しい時に神様を呼ぶことができる人は幸いです。詩編の中に、「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50:15)という御言葉があるように、神様は「わたしを呼びなさい」と、私どもよりも先に声を掛けてくださっています。私どもは自分勝手かもしれませんが、それでも「神様!」と叫ぶ我が子のことを憐れんでくださいます。それが私どもの神様です。「困った時の神頼み」よりも問題なのは、「困った時の神離れ」ではないでしょうか。そんな言葉はありませんが、困ったこと苦しいことが起こった時に、いとも簡単に神様から離れてしまうということがあるのです。「こんな苦しみを与える神様は私の神様ではない。本当の神様ではない」と言って、神様から信仰から、そして教会から離れてしまうということが起こってしまうのです。

 ではいったいどうしたら、「苦難を誇りとする」ということができるのでしょうか。先週の第二コリントの御言葉から理解するならば、私たちの神が慰め豊かな神であり、すべての慰めの神でいてくださるから苦難をも誇りとすることができるのです。それも正しい一つの理解です。このローマの信徒への手紙の中でも、まったく違うことを言っているわけではありません。ただ、表現が違っています。このように言うのです。3節〜5節前半、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉、これも有名な御言葉の一つでしょう。キリスト者の人生訓、座右の銘にしたくなるような言葉です。でも、「これはいい言葉だ」「素晴らしい」と思っているだけで、実際この御言葉に生きなければ意味がないと思うのです。

 苦難を誇りにして生きていくことができるその根拠、その理由について、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」とパウロは語りました。ここには、「忍耐」「練達」「希望」というふうに3つのことが語られていますが、目指すべきは最後に言われていた「希望」ということです。苦難から希望に至るその過程に、忍耐があり練達があるのです。

 最初の「忍耐」ということですが、これは苦しみの重荷に押しつぶされないように、歯を食いしばって、グッと我慢をするということではありません。苦しみに耐えながらも、希望を待ち望む心。あるいは、このような苦難の中にも神様が共におられ、神様の恵みが必ずあるということを最後まで信じる信仰のことです。

 次の「練達」ということですが、これも何か苦しみにへこたれずに、立ち向かっていくことではないのです。苦しみを跳ね返すことができるだけの頑丈な心や体を持つというのでもありません。あるいは、一つもボロを出さないとか、何があっても無感動で心が動かされることもない人間になるということでもないのです。「練達」というのは、「試験に合格する」という意味があります。何の試験なのでしょうか。どんな苦しみにも負けないためにどうしたらいいのかという試験なのでしょうか。そうではなくて、ここで言われている試験というのは、「純粋さの試験」です。鉱石から不純物を取り除き、精錬し、純金を取り出すように、苦難を経験することをとおして、私どもはますます神様を信頼するものにつくり変えられていきます。心が神様のほうに真っ直ぐ向かうようになるのです。苦難の中で、心が頑なになるのではなく、むしろ心が柔らかくされていくのです。神様を見つめているからです。また「練達」という言葉には、さらに色んな意味がございます。「品性」「性格」という意味があるのです。英語で言えば「キャラクター」(個性)が私どもの中に形成されていくということです。このことから「刻印する」という意味にもなりました。私どもは「神のもの」とされていることを示す刻印が刻まれているのです。そのような存在、個性を持つ者として一人一人が教会に生きているのです。

 最後の「希望」ということですが、これも何か鋼や鎧のような堅く頑丈な心を持つということではないのです。ここは調べていて興味深かったのですが、希望というのは、むしろ傷つきやすい柔らかい心に生きることだと、ある人はいうのです。どういうことかと申しますかと、苦しい時に神様に助けを求めない者になるのではなく、神様に叫び、助けを求め、神様の前で涙を流すことができる人間になるということです。そして、神様に涙を拭ってもらう慰めを知っている者。それが希望に生きるということです。ひたすら神様に望みを置くその心は、神様に対してだけではなく、共に生きる兄弟姉妹や隣人に対しても向けられていきます。神様に悲しみの涙を拭ってもらった者は、共に生きる者たちの涙を拭う者として傍に立つことができます。それが慰めに生きるということでもありますが、パウロはこの手紙の第12章15節でこのように言いました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」これはただ同情し合って共に泣くということを超えて、神様が与えてくださる希望のゆえに、泣くことができるということです。共に涙を流しながらも、望みに生きているとさえ言うことができるのです。

 さらに、希望が持っている特色について、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と5節で言われています。以前は「希望は失望に終わることはない」とか、「希望は恥を来らせず」とも訳されていました。私どもが苦難の中でしばしば経験するのは、これに望みを置いていたけれども結局欺かれたとか、このことに望みを置いていたせいで自分が恥ずかしい思いをした。そういう辛い経験をしてしまうということです。しかし、キリスト者に与えられている希望は私どもを欺いたり、失望させたりということはないのです。ただ一つの慰めを与えてくださる神様に最後まで希望を置き、拠り所とするならば、私どもの歩みは祝福されるのです。暗闇のトンネルを彷徨うということがあったとしても、神様の恵みに立つことができる入り口、つまり、イエス・キリストを知っているのですから、望みを持って歩むことができます。主イエスが暗闇の中で、自分を見失っている私どもを見つけ、私どもを手を取り、もう一度、恵みの中に立たせてくださるのです。神様のもとに連れ帰ってくださるのです。

 「希望はわたしたちを欺くことがありません。」その理由についてパウロは5節後半から、「神の愛」というに触れながら、さらに語り始めます。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」苦難の中で、忍耐し、練達し、希望に生きる。この過程の中で、私どもは神のもの、キリストのものとされている確かな刻印が刻まれていきます。ますます、神様を信頼する者へとつくり変えられていきます。それは自分の力ではなく、神の力、聖霊の力によるのです。私は神様から愛されている。神様の愛が注がれているということがよく分かるのは聖霊の働きによります。自分の力に頼るならば、苦難の時、私は神様に愛されているなどというふうにはなかなか思えないのです。この「注がれる」という言葉ですが、これは雨が降り注ぐという意味の言葉です。しかも、ポツポツと降る小雨というのではなくて、土砂降りの雨です。それほどに激しい神の愛が私どもに降り注いでいる。ですから、聖霊によって、神の愛が私どもの心に激しく注がれているというのは、「洗礼」の出来事だと言う人もいます。洗礼の際、存在丸ごと水の中に浸るように、私どもも神様の激しい愛の雨の中に浸っているのです。

 この神の愛が、イエス・キリストをとおして示されました。主イエスが私どものためにしてくださったことは何でしょうか。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」ここでは主イエス・キリストが私どもに何をしてくださったのか。神様の愛というものはどういうものなのかが記されています。同時に、神様の愛の対象となった私ども人間がどのような存在であったかということも記されています。私ども人間について、6節には「弱かった」「不信心な者」、8節では「罪人」、10節では「敵であったときでさえ」と言うのです。最後の「敵」ということですが、これは憎しみ合っているということだけでなく、その憎しみのゆえにどちらかが生き残り、どちらかが殺されなければいけないということです。両方とも生き残るわけにはいかないのです。そのような激しい関係、それが敵であるということです。

 しかし、聖書はおかしなことに、死んだのはイエス・キリストだというのです。本来ならば、神の敵であり、怒りと滅びの対象であった私ども罪人が滅びることなくいのちを得たというのです。それは、主イエスが十字架の上で、私どもが受けるべき裁きと呪い、そして、死をすべて背負って死んでくださったからです。このようなことが言われています。もう一度、7節、8節「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」私たち人間も時に誰かのために死ぬということがもしかしたらあるかもしれません。7節の「正しい人」というのは、真面目な人ということですが、これはあまりいい意味ではありません。偉そうにしている人、血も涙もない人という意味です。そういう人のために死ぬ人はあまりいないのです。「善い人」というのは、思いやりがある人。優しい人という意味です。そういう人のためなら、いのちを惜しまない人がいるかもしれないというのです。要するに、自分たちに利益をもたらしてくれた人のためならば、死んでも構わないと思うことがあるかもしれないというのです。人間の愛というのは、このように損得勘定で測っているところがあるかもしれません。この人を愛しても、自分に何の得もないならば愛しても意味はないし、まして、その人のためにいのちを献げようなどとは思わないのです。

 一方、神様の愛というのはどのようなものなのでしょう。私どもは神様から愛されるだけの価値が本当にあるのでしょうか。私どもは神の敵ですから、神の愛に値しないのです。しかし、愛するに値しない罪人のために、御子イエス・キリストがたった一つしかない尊いいのちを献げて十字架の上で死んでくださいました。これはいったいどんな意味があるのでしょうか。これほど無駄ないのちの使い方はないと誰もが思うのです。でも、神様の愛というのは、御自分にとって得か損かということが基準になるわけではありません。明らかに御自分にとって損でしかない私どものために、人の目から見たらこれ以上無駄な死に方はないと思う十字架の死という出来事をとおして、私どもへの愛を示されたのです。そして、神様と私どもの間に和解と平和がもたらされたのです。このことは神にしかできないのです。この神の愛が聖霊によって私どもの心に豊かに注がれているからこそ、罪から救われたという恵みと共に、地上の歩みすべてにおいても最後まで私どもの歩みは守られていくのです。罪と共に、あらゆる苦難にキリストの苦しみが、神の愛が満ち溢れ、私どもを支えるのです。

 先週も申しましたが、私どもは苦難の中で心が頑なになるのです。あるいは、自分が苦しい時、他人の苦しみなどどうでも良くなるのです。他人を慰めている余裕などないからです。自分のことしか考えられなくなるのです。自分さえ良ければそれで良いのです。そのように苦難の中でも私どもは罪を重ねてしまいます。神様から距離を置こうとします。本当にどうしようもないのです。しかし、イエス・キリストをとおして示された神の愛というものは、そのような罪人を赦し、支え、本来の生き方へと私どもを導くものです。人が生きる目的について、パウロは、神を誇ることだと11節で言いました。「誇る」というのは「喜ぶ」といことですが、悪い意味だと誇ることは「傲慢」であるということになります。神を喜ぶことができないというのは、私どもが自分を喜ばすことばかり考えているということです。自分の人生は自分のものだと思っているからです。でも、そのような姿は神様の目から見れば傲慢に過ぎないのです。その私どもの傲慢さを打ち砕き、神を誇り、喜ぶ者として私どもはキリストにあって新しくつくり変えられたのです。

 ローマの信徒への手紙第5章を読む時、必ずと言っていいほどに多くの人が思い起こしている御言葉があります。同じローマ書の第8章です。一つは31節、32節。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」もう一つは、38節、39節。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」神は私どもの味方であり、もう敵ではありません。私どもの神は、イエス・キリストというこれ以上にない賜物を与えてくださいました。最上のものを与えてくださった神様は、苦難の歩みにおいても、相応しい助けをもって導いてくださるに違いないのです。悪いものを愛する我が子に与えるはずなどないのです。私どもの希望を欺く最たる力、それは死の力と言えるでしょう。けれども、その死の力でさえも、神の愛から私どもを引き離すことはできないのです。私どもは真実な救い主イエス・キリストのものとされているからです。十字架で死んで、甦ってくださった主イエスのいのちの御手の中にあるからです。生きるにも死ぬにも、いついかなる時も、過去も今も将来においても、神の愛が私どもに豊かに注がれています。神の慰めがいつも共にあるのです。「この確信に共に生きよう!」とパウロは私どもを招いています。神様が私どもを招いておられるのです。

 だから、私どもの心の奥深くには安心があります。私たちはキリストのゆえに、神との間に平和を得ているとパウロは1節のところで言いました。「平和を得る」というのは、「平和を持つ」ということです。そして、私どもが手にしている神の平和、あるいは、平安というものは、ふとした瞬間、自分の手の中からこぼれ落ちてしまったりとか、誰かに奪われてしまう心配はないのです。平和というのは自分でつかむものではなく、神様の愛の御手が私どもを丸ごと捕らえていてくださるところに与えられるものだから。だから、神様との平和が与えられているということは、もう何かに怯え続けなくてもいいということです。ある人は、神の平和を大地に譬えました。そしてこう言うのです。「倒れても転んでも、われわれはその大地の上にある。」どんな苦難に遭っても神は私どもの神でいてくださいます。たとえ倒れたとしても、私どもを包み込むのは大地よりも遥かに大きな神の愛です。そこからはみ出してしまうことなどないのです。だから、私たちはいつも神を誇り、神を喜びます。神の栄光にあずかる希望に生きるのです。お祈りをいたします。

 父、子、御霊なる御神、あなたの計り知れない御計画によって、私どもを救いの恵みへと招きい入れてくださり感謝をいたします。私を愛し、私を罪と死から救い出してくださった神様のことを喜び、ただあなたの御栄えがあらわされるために生きる者とされました。思い掛けない出来事が自分の中だけでなく、様々なところで起こります。その度に、私どもを心は揺らぎますが、神よ、あなたの愛が揺らぐことはありません。御霊を豊かに与えてくださり、私ども一人一人に注がれている神様の愛に浸り、神様を信頼しつつ、死を超えたいのちの望みに生きることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。