2022年08月28日「軽やかに生きるためのくびき」

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軽やかに生きるためのくびき

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節

音声ファイル

聖書の言葉

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章25節~30節

メッセージ

 2週間前の14日に本日と同じ箇所から共に御言葉に聞きました。その時は、特に28節の御言葉に集中して耳を傾けました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という御言葉です。聖書の中でもとりわけ慰め深い言葉としてよく知られています。初めて聞く人の心にも強く訴えかけてくる御言葉です。私どもは疲れ果ててしまうことがよくあるからです。生きることに疲れ果てた時、「こんな人生いったい何になるのか」という虚しさと絶望に襲われることさえもあるのです。そのことがどれほど恐ろしいことであるかを知っています。だから、一旦、立ち止まって、腰を下ろして、ゆっくりと休みたいのです。それも一時的な気休めというのではなく、心の底から元気になることができる、いのちに満ちた本当の休みを得ることができたら、どれだけ嬉しいことかだろうかと思うのです。生きる上で疲れを覚えることはあるのだけれども、それに決して負けることのない力強い歩みをしたいと誰もが願っているのです。そのための本当の休みがほしいのです。

 そのような私どもを主イエスは招いておられます。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」丁寧に言うと、「わたしが」休ませてあげようということです。他の誰でもないわたしが、主イエスがあなたに休みを与え、安らぎを与えると約束なさるのです。続く29節、30節でも「わたしが」ということが強調されていました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」これほどまでに、主イエスが「わたしが」ということを主張なさるのは、主イエスにしか与えることができない休みというものがあるからです。あるいは、主イエスにしか取り除くことができない重荷というものがあるからです。その重荷をわたしが代わって背負わなければ、あなたは本当に休むことはできない。平安の内に歩み、安心して死ぬことができないというのです。

 主イエスにしか取り除くことができない重荷、それは私どもの「罪の重荷」です。私どもは様々な重荷を背負って生きています。とりわけ、「愛」の重荷というものを背負って、神と隣人を愛して生きていると前回申しましたが、愛という人間が最も美しく輝くような生き方をするところで、いつも「罪」という重荷がまとわりついて邪魔をしてくるのです。愛に生きることが喜びでもなく、生き甲斐でもなく、ただの重い荷物になってしまうのです。「こんなものなければ」と自分の人生を呪い、愛すべき隣人を呪う。そこには当然神様をたたえる賛美の歌も生まれないのです。けれども、主イエスはそのような罪に喘ぐ私どもを救うために御許に招かれるのです。招くだけでなく、罪の重荷を背負い主は十字架に向かわれました。その主イエスが今日の私どもを招いてくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」大切なことは、主の招きを聞くだけではなく、本当に主イエスのもとに行くことです。主イエスの懐で憩うことです。そのような場所を主イエスはここにいつも備えていてくださいます。

 ところで、本日の28節のような特に有名な言葉というのは、どうしてもその御言葉だけが目立ってしまって、あまり前後の文脈というのが意識されないケースが多いのではないかと思います。25〜30節までの御言葉を一つのまとまりとして、先々週も本日もお読みしました。聞く者にとっては、やはり28節の御言葉、あるいは、28〜30節の御言葉にどうしても心が傾いてしまいます。初めの25〜27節はさっと読み飛ばしてしまうことが多いかもしれません。けれども、25〜30節自体がどういう文脈の中で語られた御言葉であるかということに注目する必要があるでしょう。あまり丁寧に見ることはできませんが、要するに、25節より前のところでは、主イエスが神の国の福音をガリララヤの人々にお語りになったにもかかわらず、人々はそれを受け入れなかったということが記されています。主イエスの到来によって、御国が近付いたこと。その神の御支配を示すために、主イエスは奇跡の御業を行い、それをとおして父なる神様の御心を明らかにしてこられました。しかし、人々は福音のメッセージを受け入れません。悔い改めて、神のもとに立ち帰ろうともしませんでした。そんなものは必要ない。私たちは選ばれた民である。誰の助けを借りなくても天にまで上げられる存在であると驕り高ぶったのです。今日の25節の言葉で言えば、「賢い者」「知恵ある者」というのが、ユダヤ人のことであり、このあと出てくるファリサイ派と呼ばれる人たちのことです。要するに、彼らは自分の力に頼る者たちであったということです。神の力など要らない。自分の力と知恵で救いに至ることができると信じていた人たちです。自分の力で安らぎを得ることができると信じていたのです。その彼らに対して、28節の御言葉とは対照的に、たいへん厳しい主の裁きの言葉が語られています。一方、今日の御言葉の後、第12章には「ファリサイ派」と呼ばれる人たちが出てきます。聖書の専門家であり、信仰を導くリーダ的存在でしたが、神の律法、神の掟を表面的に理解し、神様の愛の御心をまったく無視した読み方をするようになりました。あるいは、「〜しなければならない」「〜してはいけない」というふうに必要以上に細かい規則を自分たちで作り、それを守るように人々に迫ったのです。そして、律法を守ることができる者は救いが保証され、守ることができない者は、小さな者、貧しい者であり、天の国に入ることができない者と見下していたのです。

 主イエスは、いくら伝道して上手くいかない。人々がなかなか福音を受け入れてくれないというどうしようもない状況の中で、今日の御言葉が語られていきます。主イエスもまた伝道の困難という重荷を背負いながら歩まれるのです。その時に、「誰も分かってくれない」と嘆くのではなくて、神様をほめたたえるのです。25節「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』主イエスが父なる神様を賛美することができたのは、父が御自分の御心を幼子のような者にお示しになるということを確信しておられたからです。幼子は大人に比べれば、知恵も力もありません。そういう意味で小さく弱い者です。愚かな者と言われることもあるでしょう。しかし、それゆえに、自分の助けてくれるお方、つまり、ここでは父なる神様にすべてをお委ねし、信頼します。また、父なる神様が幼子のような者に目を留めてくださるから、たとえ貧しさを覚えていても神の救いにあずかることができるのです。反対に知恵ある者、賢い者たちは、自分の力に頼るがゆえに、神のお姿を見失い、それだけでなく、共に生きる隣人、とりわけ弱さや貧しさの中にある小さな者たちの姿を見失っているのです。

 神はこのような世界に御子をお遣わしになりました。27節に「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」とあります。父なる神様の御心はすべて御子に委ねられています。だから、救いはイエス・キリストをとおして起こるのです。主イエスのことを抜きにして、神様のことも、自分のことも、救いのことも分からないのです。父からすべてが任せられている主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」と招いておられます。信仰というのは、この主イエスの招きに答えて、幼子のように、素直に主の懐に飛び込んで行くことです。

 主イエスは言葉を重ねられます。29節、30節です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」よく知られた御言葉に違いありませんが、正直28節に比べると印象が薄いかもしれません。28節は愛唱聖句としていても、30節まで暗記している人は少ないかもしれません。難解な言葉が使われているというよりも、一度、読んだだけでは簡単に心の中にスッーと入ってこないところがあるからでしょう。そして、御言葉に聞けば聞くほど、主イエスは不思議なことをおっしゃっているということに気付かされるのです。主イエスは、「わたしが休ませてあげよう」と約束してくださるわけですが、では具体的に、どのような仕方で休みを与えてくださるのでしょう。そのことが29節で言われています。

 ここを見ると、まず一つ目に「軛」という言葉が出てきます。私も実際には見たことがないのですが、軛というのは、牛などの動物の首にはめる木の太い棒のことです。棒の後ろには、鋤などの農具が付いています。動物の力を借りて土を耕すのです。今日で言えばトラクターのようなものでしょうか。軛を付けるということ、軛を負うということはどういう状態かと言うと、労働している状態を意味します。軛をはめているのに休んでいるということはないのです。一日十分に働いて、牛舎に帰り、「ご苦労様」と主人に言われて、軛を降ろしてもらって、初めて休むことができるのです。主イエスはここで何とおっしゃっているのでしょう。「わたしの軛を負いなさい」というのです。「働きなさい」「重荷を負いなさい」と言うのです。イエス様が「休ませてあげよう」と言ってくれたから、主の言葉を信じて、主のもとに行ったのに、「わたしの軛を負いなさい」などと言われる。今背負っている重荷の上に、さらに軛を背負わないといけないということなってしまう。いったいどういうことだろうかと思ってしまいます。さらに、「軛を負う」というのは自由を失うことを意味しました。軛をはめられたら、自分の思いどおりに進むことができないからです。いつもで主人の指示に従って進まなければいけません。ですから、聖書の中で「軛」という言葉は、奴隷や不自由を象徴する言葉として用いられることがあるのです。このようなことを聞くと、私どもが期待していたこととはずいぶん違うという話になるかもしれません。

 さらに、「わたしの軛を負いなさい」という言葉に続いて、「わたしに学びなさい」というのです。そうすれば、安らぎを得られるというのです。私どもは学校などで、既に学びということを経験されてきたことと思います。そのようにして、今があると思うのですが、振り返ってみると、学ぶということは決して楽なことではないということが分かります。しんどいなあと思うこともあるのです。救いというのは、自分の知恵や力によるのではなく、ただ神様の恵みとして与えられるものだということを聖書は語っているのです。幼子のように神様を信頼することが大事だと先程も教えていたのです。でもここで、「わたしに学びなさい」などと言われると、いったいこれもどういうことかと思う人もいるのではないでしょうか。「わたしに学びなさい」と言うのだけれども、どれだけ学ばないといけないのだろうか?と心配になる人もいるでしょう。この程度の学び、この程度の点数では救われないのではないかと不安になります。また、「わたしに学びなさい」というのは、勉強するというよりも、「わたしの弟子になりなさい」ということなのですが、それでもやっぱりキリスト教も学びや修練を積み重ねて、極みの境地に達しないと救われないのだろうか。キリストの弟子として、相応しい基準に達しないと本当の安らぎを得られないのかと誤解してしまう人もいるかもしれません。

 しかし、主イエスの御言葉の不思議さは、私どもの普通の感覚では到底理解できないところに、実は大きな慰め、喜びが隠されているということです。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主は約束してくださいました。安らぎを得られるというのは、安らぎを「見出す」ということです。安らぎを獲得するということです。ちゃんと探すべき所を探さないと見つからないということです。それなのに私どもは自分にとって休みとはこういうものだ。こうしたらリフレッシュすることができる、こんなことをしていたら休みにならないというふうに、それぞれにどうしたら安らぎを得ることができるのかできないかということをよく知っているつもりでいるのです。けれども、こうすれば休めるに違いないと言いながら、実際はまったく休めていないのです。元気になっていないのです。ため息をつき、重い腰を上げるようにしてでしか立ち上がることができないのです。だから、ちゃんと見出すことができるように探さないといけないのです。その場合、何の当てもない広い場所を手当たり次第探すというのではありません。主イエスのが「わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」というふうに、これ以上にないヒントを私どもに与えてくださっているのです。そこで主イエスの軛を負い、主の弟子となって、主に倣って生きるようにと招いておられるのです。実はそういうところで、私どもが「まさか」と思うところで、まことの安らぎを見出すことができるのだというのです。私どもは主イエスの言葉を前にして、余計な知恵を働かせる必要はありません。まず、主の言葉を聞いて、ここでも幼子のように信じる信仰が求められるのです。

 また、ここで大切なのは、「わたしの軛を負いなさい」「わたしに学びなさい」とおっしゃっている、この「わたし」というお方、つまり「イエス・キリスト」というお方はどのようなお方であるのか。そのことをよく理解するということが大事だということです。それによって、軛の意味も内容も大きく変わってくるからです。私どもに軛を負わせるイエス・キリストという主人はどのようなお方なのでしょうか。前回も少し触れましたが、29節の最初に「わたしは柔和で謙遜な者だから」と、主は御自分のことを紹介してくださっています。例えば、「柔和」というのは優しいお方であるということです。だからこそ、へりくだって謙遜になることもできるのですが、ただこの柔和とか謙遜であるというのは、人間が持つ性格や徳の一つではないということです。柔和であり謙遜であるというのは、主イエスそのものを表し、さらには救いそのものを表す言葉であるということです。例えば、主イエスは柔和な方、優しい方というのですが、これはただ単に弱いのではありません。内に強靭な力を秘めた優しさです。しかし、その力を戦いに訴えるというのではなく、自らが苦しみを引き受けることをとおして、その力を発揮なさいました。主イエスの柔和さの中に秘められた力によって、敵を傷つけ、いのちを奪うために発揮されたのではなく、自らが苦しみを引き受け、敵意や悪意を受け止めることによって、罪と悪に打ち勝とうとなさいました。そこに主の十字架が見えてきます。

 主イエスにしか与えることができない休み、主イエスにしか取り除くことができない重荷、それは最初にも申しましたが、「罪の重荷」です。愛に生きようとしながらも、相手に傷付けられたり、反対に相手を傷付けてしまうことがある私どもです。愛の重荷に耐え切れず、それが憎しみにさえ変わってしまうような私ども罪人の傍らに十字架の主イエスがおられるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」という御言葉が真実であるということを明らかにするために、主イエスは十字架につき、すべてを献げてくださいました。この主イエスが私どもの主人でいてくださいます。この世には、何にも縛られていない自由な自分を大切にするという価値観が確かにあります。でも本当はどこかで知っているのではないでしょうか。たとえ、今自分は自由だと思うことがあっても、どこかに不安があるということです。でも、気付かない振りをして、今を自由に楽しく生きればいいと思っているのです。あまり先のことを心配しても、心配するだけ無駄だというのです。しかし、聖書が語る自由というのはそういうことではありません。神様につながれてこそ、人は初めて自由に生きることができるのです。柔和で謙遜なお方である主イエスが、「わたしの軛を負いなさい」と言って御自分の軛を私どもに負わせてくださいます。まことの主人となってくださいます。主イエスの軛をちゃんと背負っているならば、私どもは主イエスから離れることはありませんし、神様からも離れることはないのです。それゆえに、主イエスからいつもまことの安らぎを与えられ、安心して生きることができるのです。それは、「今を自由に生きればそれでいい」というのではなくて、自分の最期の日々まで、さらには終わりの日、神様の前に立つ日まで、私どもは安心して、希望を持って生きることができるということです。

 もう一つ、「わたしに学びなさい」ということが言われていました。「学ぶ」というのは、「キリストの弟子」となるということです。キリストの軛を負うということが、同時にキリストの弟子となるということでもあります。弟子は自分の先生・師匠から学んで、成長していきます。私どもの救いのためにすべてをしてくださった主イエスが「わたしに学びなさい」と招いておられます。私たちが生きる社会は、たいへん学ぶことに熱心であると思います。好き嫌いに関係なく、とにかく小さい頃から学ぶことの大切さを教えられます。学ぶことがその人の将来を左右すると言ってもいいからです。そのような中にあって、学校や塾ではなく、教会でしか学ぶことができない大切な学びというものがあるのではないでしょうか。しかも、主イエスからしか学ぶことができない大切なものがあるのではないでしょうか。そのことに私どもはどこまで熱心であるかということです。あるいは、親になると、子どもに信仰について教えなければいけない立場になりますが、その点においてもどこまで熱心なのかということなのです。キリスト者として歩んでいる私どもは知っているはずだと思います。勉強をたくさんしてとか、競争をして皆よりもいい成績を残してとか、そういう話ではなくて、主イエスから御言葉をとおして学び続けなければ、私どもは本当に生きていくことができないのだということを。そうだとしたら、すべてのことを後回しにしてまでも、主イエスに学ぶということを第一にすることができるはずだと思うのです。そこで自分も自分の子どもも、神様に生かされているこの私のいのちが何であるかをじっと見つめながら、何が私の幸せなのか、どのように生きることが人間らしい生き方なのかを考えます。神様はこの私にどのような賜物を与え、何を私に期待しておられるのか。そのことを真剣に祈り求めながら、神様のものとされた恵みの中で成長していくのです。

 最後に主イエスはおっしゃいます。30節です。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」もう一度、「軛」という話に戻るのですが、決して、主イエスの軛というのは重いものではないというのです。決して、あなたを不自由させるものではないというのです。主イエスの軛を負えば、軽やかに、自由に生きることができるという確かな約束が与えられています。主イエスが私どものまことの主人、先生となってくださったからです。道を踏み外すことなく、神様のところへと連れて行ってくれるからです。

 さらに、この「軛」という道具ですが、一頭で背負うこともあるのですが、二頭で背負うこともよくありました。横に並んだ二頭の牛が同じ一つの軛を首のあたりに背負って共に働くのです。そのようなイメージで軛について考えていきますと、私と一緒に軛を負ってくださるお方は主イエス御自身であるということがすぐに分かります。「わたしの軛を負いなさい」と言われた主イエスは、私一人に軛を背負わせたまま、知らない振りをしているのはないのです。それどころか、主イエスも横にいる私と一緒に軛を背負ってくださるのです。主イエスは、私どもの疲れや労苦をよく知っておられる方であり、まことの休みを与えてくださる方です。そのお方が御自身の軛を私どもと一緒に背負って歩んでくださいます。だからこそ、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言うことができるのです。また、主イエスは、私どもに先立って重荷を背負ってくださったお方でもありました。人間の罪というどうすることもできない重荷を背負って、主は十字架に向かわれました。罪と死の重荷から解き放ち、それゆえにどのようなことがあっても立ち上がることができる生き生きとしたいのちに生かすためです。ですから、「わたしの軛を負いなさい」というのは、「わたしと共に生きよう」という主イエスのいのちの招きです。そして、主イエスの軛を負い、主イエスに学ぶ時、主が共におられるということがよく分かるようになるのです。そこに主イエスに対する感謝と喜び、また主を愛する思いが与えられていきます。

 神様が喜んでくださる人というのはどういう人なのでしょう。それは、主イエスの招きに応えて、主のもとに行く人です。そこで自分の重荷をすべて主イエスにお委ねする人です。主が与えてくださる軛という重荷を、主と共に分かち合い、主に従う者です。それぞれの歩みの中で覚える重荷や、人間の根っこにある罪の重荷を自分一人で背負って、解決しようとする人では決してありません。神様は愛と憐れみの中で、イエス・キリストをとおして、私どもを選び、救いへと招いてくださいました。私どもは何のために生きるのか?と言われれば、私を罪から救ってくださった神様のために生きるのです。それ以外にありません。神様のために生きる、神様のために働くということの中には教会での奉仕をはじめ、遣わされた場所での様々な働きがあります。尊い愛の業があります。そこには当然、労苦が伴うことでしょう。けれども、それはただしんどい、ただ疲れるというのではなく、その根本にあるのは神様のための労苦と働きであるということです。

 聖書は神様のために労苦した人たちの姿を幾度も語ります。主イエス御自身が私どものために労苦と重荷を負われた方ですが、主に従う弟子たち、使徒たちもまた教会のために労苦しました。しかし、その労苦は虚しく終わったなどとは語りません。例えば、使徒パウロはこう語りました。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(コリント一15:10)パウロは神様のために「働いた」というのですが、この「働く」という言葉と、主イエスが語られていた「疲れた者」「労苦する者」という言葉は同じ言葉なのです。働くことの中で、労苦を重ね、疲れを覚えることがあります。時に、本当に疲れ果ててしまうということもあるでしょう。神様に喜んでいただくためにと、気持ちを高ぶらせて様々な働きに励もうとするのですけれども、どこかで「これではダメなのではないか」「もっとたくさん働いて、目に見える成果を上げないと神様はがっかりされるのではないか」とか色んなことを考え始めて心配になるのです。でも、神様が喜ばれるのは、自分一人で重荷を背負うということではなかったはずです。パウロもそのことをよく知っていたに違いありません。だから、私は他の使徒よりずっと多く働いた、労苦したと語りながら、決して、そこで誇らしげに自慢しているのではありません。「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と語るのです。私が働いているようで、実はその労苦、その軛を共に担ってくださった方のおかげで今の自分があると言って、神様に感謝しているのです。

 私どもも肩肘を張ることなく、神様のために、隣人のために仕えたら良いのです。疲れ果てたら、主イエスのもとで休んだらいいのです。神様に助けを求めたらいいのです。挫折するようなことがあるかもしれませんが、そのような私のことをすべて知っていてくださる主イエスのもとで憩うことを大切にしたら良いのです。そういう自分のことをすべて背負って歩んでくださるただ一人のお方が、私の側におられるということをもう一度教えていただくのです。そこで、自分に与えられた重荷を、自分なりに背負いながら主イエスと共に歩んでいくことができるのです。こんな私でも種によって立ち上がらせていただいた者なのだ。この私でも主の弟子としてお従いすることができるのだという自信と喜びに溢れて生きることができるのです。救いの御業も、私どもの地上の業も、最後は主イエスが完成してくださいます。地上のいのちには限りがあり、道半ばで倒れるようなことがあったとしても、神様のために労苦した人の歩みは、神様の目に尊いのです。

 キリスト教会で葬儀をする時、よく読まれる御言葉があります。ヨハネの黙示録第14章13節の御言葉です。「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」神様は私どもの地上の労苦をよくご存知です。洗礼を受けた後の働きも労苦も疲れもよくご存知です。悲しみも涙も神様はよく知っていてくださいます。救いの恵みにあずかりながらも、まだ自分の思いを優先してしまう私どもの罪や、素直に十字架の主のもとで悔い改めることができない罪をもすべてご存知です。でも、そのような様々な労苦や貧しさを覚えながらも、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と神様に感謝をささげ、神様を信頼して、すべてをお委ねして歩むならば、もうそれで十分なのです。復活の主イエスが与えてくださった確かないのちの中で、私どもは死を超えて生きることができます。死んでも、最後には神様の前でゆっくりと憩うことができます。復活の主に結ばれて安らかな眠りにつくのです。そして、やがて来る甦りの朝に、私どもはこれまでに感じたことのないような力に満ちて、立ち上がり、神様を共に賛美することでありましょう。主イエスは招いておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしは)休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」お祈りをいたします。

 主イエスの招きを聞きました。主が御自分の存在をかけて用意してくださったまことの安らぎを得るために、御許に行くことができますように。この世にあって様々な重荷を負いながら、そこで軽やかに生きることができる喜びをこれからも私どもにお与えください。そのために御言葉をとおして、主の御心の豊かさ知ることができますように。私どもの歩みがただひたすらに、神の御栄えをあらわすものとなりますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。