2022年08月14日「疲れた者に安らぎを」

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疲れた者に安らぎを

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章25節~30節

音声ファイル

聖書の言葉

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書 11章25節~30節

メッセージ

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」主イエスがすべての人に向けて語り掛けておられる御言葉です。他の誰でもないあなたに向けて、主はお語りになります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」聖書の中でもたいへんよく知られた御言葉であり、それだけ多くの人々が深い慰めをここから受け取ってきました。あまり私が丁寧に説明しなくても、一度聞いただけで、心に迫るものがあるのではないでしょうか。聖書の中にこの私のことが語られている。この私のために主イエスが御言葉を語ってくださっているのだということがよく分かるのです。なぜなら、私どもは誰もが疲れているからです。重荷を負って、今にも倒れそうだからです。いや、既に倒れ伏し、立ち上がる気力さえ失っているのかもしれません。だから、休みがほしいのです。それもちょっとした休み、気休めというのではなく、休みを得ることによって、魂までもが新しくされるような真実の休み。生きることがたいへんな世の中にあって、しかし、それに負けることのない確かな力を得ることができる。そのような休みというものを手にしたいのです。しかし、それを見出すことができないのです。そのような時に、私どもは御言葉を聞くのです。疲れた者の心を知り、真実の休みを欲している私どもに、「休ませてあげよう」と招いてくださる方の声を今ここで聞くのです。

 マタイによる福音書第11章28節の御言葉はたいへんよく知られていると申しました。既に洗礼を受け、キリスト者として長く歩んでおられる方にとっても、まだ求道中の人であっても、聖書をまだ読んだことのない人にとっても、一度聞いたら忘れることができない御言葉であると思います。ですから、例えば、まだ洗礼を受けておられない方、新しく来られた方のことを覚えて特別伝道礼拝というものをささげることがありますが、その中で、よくこの御言葉が選ばれることがあります。先月、大会メディア・ミニストリーによる動画撮影を行いましたが、その最後に30秒から1分程度、牧師が挨拶する時間があります。限られた時間の中で、簡単な挨拶で終わってもよかったかもしれませんが、どうもそれだけではもったいないと思いまして、短い招きの言葉を一言だけ語りました。その時の土台となった言葉がこのマタイによる福音書第11章28節という御言葉でした。礼拝の最初の招きにおいても、この御言葉をよく選びますし、教会のホームページやパンフレットなどにこの御言葉が記されていることがよくあります。ある教会では、毎週、礼拝の最初に、この主イエスの招きをもって始めるそうです。あるご婦人の方は、毎週、その招きの言葉を聞くことを楽しみに教会に来られているというのです。主イエスの招きを聞くだけでもう十分だというのです。礼拝には他にも賛美や祈り、説教などたくさんのことがあるのですが、ひたすら最初に告げられる主イエスの招きに自分のすべてを委ねるようにして、礼拝に集う方がおられるのです。

 今朝は、第11章28節だけではなくて、25〜30節も一緒に読みました。今日はなるべく28節の御言葉に集中して耳を傾けたいと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」と主イエスは招かれます。ここで言われている「疲れ」というのは、ちょっとした疲れというのではなくて、本当に疲れ果てているということです。心身共に労苦を重ねること、骨折るようにして働き、一所懸命になり過ぎるあまり疲れ果ててしまうということです。重荷を負って、労苦しつつも、何も報われない空しさ、絶望に捕らわれている私ども人間の姿であると言ってもいいでしょう。「重荷を負う」というのも、これも丁寧に訳すと「重荷を負わされている」ということです。自分の意志で喜んで背負っているというのではなくて、背負わされているのです。本当は背負いたくないのです。もし可能ならば、自分はもっと違う生き方をしたいと思っているのです。しかし、そう簡単に自分の思うどおりに生きることなどできないのです。たとえ、自分で選んだ道であったとしても、労苦し、重荷を負わずに、人は生きることができないのだということを、どこかで知っているのです。

 そのような私ども一人一人のことを主イエスは知っていてくださいます。私ども一人一人が経験し、負っている労苦や重荷が如何なるものであり、それによってどれだけ辛く苦しい思いをしているかということを知っているのです。私のすべてを知っていてくださるお方が、「わたしのもとに来なさい」と言って招いてくださり、「休ませてあげよう」と約束してくださいます。「休ませてあげよう」というのは、丁寧に言うと、「”わたしが”休ませてあげよう」ということです。「わたしのもとに来なさい」「わたしが休ませてあげよう」というふうに、「わたしが」という言葉が続くものですから、日本語として少しくどいかなと思ったかもしれません。しかし、それでも「わたしが」「わたしが」と繰り返したほうが、主イエスの思いをよく表しているのではないかと思います。他の誰でもない主イエスご自身が、私どもに休みを与えてくださるからです。主イエスにしか与えることができない休みがあるからです。そしてこのこととの関連で、29節、30節と続きますが、ここでも「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というふうに、主イエスは、わたしのこと、御自分のことを強く主張なさいました。私どもの心をひたすら御自分のもとへと引き寄せようとなさるのです。「だれでもわたしのもとに来なさい」というのも、柔和で優しいイエス様の招きであることに変わりありませんが、「さあ、来なさい」というふうに力に満ちた御声をもって私どもを招かれるのです。さあ、来なさい!わたしのところに来たら、大丈夫だ!安心しなさい!という自信に満ちた声で私どもを招かれるのです。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」この主イエスの招きは誰にとっても魅力的な御言葉に違いありません。しかし、その一方で、この御言葉を私どもが本当に心から受け入れることができているかどうかということは、また別の問題ではないかと思います。「ああ、イエス様は私のために御言葉を語ってくださっている」と言いながらも、そこで立ち止まってしまって、実際は主イエスのもとに行かないということがいくらでもあるからです。また、別の言い方をしますと、より大胆な言い方をしますと、主イエスが与える休み、主イエスにしか与えることができない休みを受け入れたならば、私どもはもう他の仕方で休む必要などなくなってしまうということです。他の仕方で休むことを断ってまでも、主イエスのもとで憩うことを何よりも第一にして生きるということです。「だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう」という主イエスの言葉を聞いて、あなたはそのような選択をすることが本当にできますか?本当に主イエスの招きを受け入れることができますか?そのように、御言葉は私どもに問い掛けているとも言えるのです。

 私どもは、労苦し、疲れ果てる中で、色々な方法で何とか休みを得たいと願います。それぞれに、ストレスを解消する方法であったり、リフレッシュする方法というのを知っていたり、今もなお模索しているところがあるのではないでしょうか。今日はいわゆるお盆の真っ只中ですけれども、長く休みが取れる時にはどこかに旅行に行ったり、温泉につかったり、美味しい料理を食べたり。あるいは、自分の趣味に耽ったりというふうに、それぞれに休みの日々を楽しみます。どこかに行かなくても、家でボッーとしながら、体を休めるという人もいるでしょう。私どもは体においても、心においても休むということは、生きる上で決定的に重要なことです。何よりも神様御自身が「休む」というおことを大切になさいました。そのことが聖書の一番最初から記されています。天地創造の御業を行われた神様は七日目に休まれ、その日を聖別なさいました。私どもを祝福してくださるためです。安息日と呼ばれる日の起源がここにあります。

 私どもは、自分のことを考えてもそうですが、休むということが本当に苦手なのではないかと思います。休んでいるつもりでも、仕事のことをいつも考えていたり、休みの日をどう過ごすかという計画をきちんと立てていても、急用が入ることもあるでしょう。「いや、自分はそんなことはない。休みの日は充実した日々を過ごしている」という人ももちろんいると思いますが、休みが終わって、明日からまた仕事が始まるという時、「明日からまた仕事か…」「また明日あの人と顔を合わせなければいけないのか…」と溜め息をつきながら、憂鬱になってしまう人も多いと思うのです。そうだとしたら、この休みは何のための休みだったのか。結局、空しかったということになるのです。日々の働きと休日をうまく使い分けることはできるかもしれませんが、その休みの日々が、その人にとって本当に力になっていないということはいくらでもあるのではないでしょうか。聞いた話ですが、ドイツでは1年のうち3〜4週間ほどの休みがあるそうです。でも、ある人は、「自分はいつもこの4週間の休暇だけが楽しみであって、残りの48週はその休暇をどう過ごすか、そのことばかりをいつも考え、楽しんでいるだけ。仕事も我慢しながらしているだけだ」と言うのです。確かに、そのような気持ちになってしまうことも分からないわけでもありません。しかし、楽しいのはわずかで、残りは我慢しながら嫌々過ごしているというのは、やはりどこかおかしいと言いましょうか、寂しい思いさえいたします。自分の人生とは何であるのかということになってしまいます。

 また、ここで思い起こしますのはルカによる福音書に記されている一つの物語です。ルカによる福音書第12章13節以下の「愚かな金持ち」という主イエスがお語りになった譬え話です(新約131頁)。ある年、金持ちの畑はずいぶんな豊作となりました。それで金持ちは大きな倉を建て、そこに作物を収め、こう自分に言い聞かせたというのです。自分に言い聞かせるというのは、自分の「魂」、自分の「心」に言い聞かせるということです。自分の「いのち」と訳すこともできます。男は自分の魂を安心させるために言うのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」問題は、彼が金持ちであるとか、大きな倉を建てたということではありません。では、物質的には貧しくても、心が豊かであればいいのでしょうか。どうもそういうことではないようです。問題は、自分が持っているものによって、自分のいのちさえも保証できると思い込んだことです。自分の豊かさに溺れ、神の前に豊かに生きるということを忘れたからです。だから主イエスは、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」とおっしゃいました。

 さらに、興味深いのは、この愚かな金持ちが自分で自分に言い聞かせているように、「自分」ということをたいへん強調していることです。日本語には訳されていませんが、他にも「わたしの作物」「わたしの倉」「わたしの穀物や財産」というふうに「わたし」ということに執着するのです。一方、本日の御言葉では「わたしのもとに来なさい」「わたしが休ませてあげよう」と主イエスが御自分のことを強く主張なさってしましたね。人間が自分で与える休みと主イエスが与える休みが対比されているのです。そして、男が自分の魂に向かって「さあ、ひと休みしよう」と言いましたけれども、この「休む」という言葉は主イエスが「わたしが休ませてあげよう」とおっしゃった言葉とまったく同じです。男はわたしが所有するものによって、休みを得、安心しようとしました。死に対する安心もまた、わたしが持っている物の中で解消できると思い込みました。しかし、彼に待っていたのは死という現実であり、どうすることもできなかったのです。「休む」ということは私どもにとってなくてはならないものです。しかし、休みは休みでも、まさに生と死を分ける休みというのがあるということです。救いと滅びを分ける真実の休みというものがあるということです。そして、このことは決して他人事ではないのです。愚かな金持ちの中に見られた貪欲の罪というのもありますが、人生の不安を解消したいという思いもまた誰の心にも深く根付いているからです。究極的には死に対する不安があるのです。だからその問題を解決し、安心させてくれるものを誰もが必要としているのです。死に打ち勝つ休み、しかも、そこで神の裁きの前に立ち得ることができる休みというのは何かということを問わずにはおれません。

 誰もが労苦して疲れ果てています。背負いたくない重荷を背負わされることもあります。最初は軽々と担ぐことができたかもしれません。最初は喜んで担ぐことができたかもしれません。しかし、段々としんどくなってくるということもあるでしょう。それに、私どもが背負う様々な重荷というのは生涯決してなくなることはないということです。このことは再来週、詳しく申しますが、主イエスは「わたしのところに来て、休んでいったら、もうあなたの重荷は全部なくなっている。これからはもう何も思い煩うことなどないのだから、安心するように。」そのようにおっしゃったのではないということです。それどころか、29節にあるように「わたしの軛」を負いなさいと言うのです。重荷の上に、さらに軛という重荷を負うように。そう理解できる言葉です。しかし、そうやって主イエスのもとに来て、主イエスの軛を負うならば、あなたは安らぎを得られるというのです。本当に不思議としか言いようがないことを主イエスはここでおっしゃるのです。

 私どもの人生は苦労の連続です。なくなることはありません。そのような厳しい現実の中で得る休みとはいかなる休みなのでしょうか。ちょっとした憂さ晴らしや、気休めであるならば、その時は満足しても、残りの人生というのはまたつまらないものになってしまうのです。しかし、主イエスが「休ませてあげよう」と言って、与えてくださる休みというのは、そういう一時的なちっぽけなものではないということです。休むというのは、別の言い方をすると、本当に元気になるということです。新しい力を得るということです。砂漠のような厳しい道を歩む私どもが、ついにオアシスを見出し、いのちの水を得るということです。尽きることのないいのちの泉を見出すということです。それによって、「ああ、自分は生き返った。これで再び旅を続けることができる!」そう言って、再び立ち上がるのです。「よっこいしょ」と言って、重い腰を上げるのではありません。「ああ、明日からまた嫌な一日が始まる」と言って、溜め息を付くのではありません。「私は今力を得た。こんなわたしでも立ち上がれるのだ!さあ、もう一度やってみよう!」と望みをもって、前に歩み出して行くことができる。そのような確かな休み、力に満ちた休みを主イエスは与えてくださるのです。その時に労苦し、重荷を負いながらも、安心して生きる生き方ができるようにされていくのです。砂漠のような道のりであっても、常に新鮮な水、生き生きしたいのちの支えられるということが実際に起こるのです。そのような恵みをこの主イエスの御言葉をとおして与えられてきたからこそ、この御言葉が多くの人々から愛されてきたに違いないのです。

 さて、ここで言われている「重荷」とは何かということについて、一つは、今まで語ってきたように人生における様々な労苦と理解することができますが、文脈に沿って理解するならば、「律法」のことだと言われます。律法というのは、要するに「聖書」の言葉ということですが、なぜ神の言葉が人々にとって重荷になるのでしょう。その背景には、ファリサイ派、律法学者と呼ばれる聖書の専門家、信仰の指導者たちの存在がありました。彼らは聖書に記されている神の御心を忘れ、御言葉をただの戒律のような厳しい言葉として人々に伝えたのです。「〜しなければならない」とか「〜してはいけない」というようなことを、必要以上に細かく分けて人々の生活に適用しようとしました。数え切れないほどの戒め、背負い切れないほどの戒めが人々を苦しめました。しかも、決して、罪人である人間が実行することなどできない戒めです。そこに救いの道が示されることがありませんでした。御言葉に生きることのたいへんさに苦しんでいるということを律法学者は知りながら、そこで指一本も貸すことはなかったのです。むしろ、自分たちの立派さを誇っていたのです。

 しかし、本来、律法というのは、神の言葉に生きるというのは、重荷でも何でもないはずです。御言葉に聞き従うというのは、私どもにとって喜びそのものです。もちろん、厳しいことや驚くべきことを神様は命じられることもあるでしょう。律法の要約である神を愛し、「隣人を愛する」という生き方もまた、尊い生き方であり、それゆえに重いことです。愛することは、片手間にできることではありません。「こんな重荷を背負うのは嫌だ」と言ってしまえば、その人を本当に愛することはできないでしょう。しかし、なぜ私がこの人と向き合って、この人のために愛の業を続けなければいけないのだろうと思うことも、時にあるかもしれません。そのように、ふと溜め息を付き、つぶやくところで深い空しさに捕らわれ、生きる意味を見失ってしまう恐怖というものを、私どもはどこかで知っているのだと思います。だから、そのように愛の業に真っ直ぐ向き合う自分、しかし、そこで挫折し、絶望してしまう自分。そういう自分を丸ごと受け止めてくれるお方、私の存在そのものを愛し、私をすべて赦してくださるお方を私どもは見出したいと願っているのです。

 主イエスが、「わたしのもとに来なさい」「わたしが休ませてあげよう」というふうに、「わたしが」ということを強く主張なさる意味がここにあります。他の誰でもないこのわたしがということです。わたしにしか与えることができない休みがここにあるのだということです。それは、言い換えると、わたしにしか取り除くことができない重荷があるということです。わたしがあなたからどうしても取り除きたいと願っている重荷があるのだということです。その重荷をわたしが担わないと、あなたは安心して死ねないというのです。だから、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげようと、私どもを招かれるのです。

 では、主イエスが与える休み、主イエスが取り除き、取り除くだけでなく、それをすべて御自分で担おうとしておられる重荷とは何かということです。29節の最初でこのように言われています。主イエスは御自分のことを次のように紹介なさるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言うのです。柔和ということは優しいということですが、その優しさは人間が持つ性格の一つというのではなくて、神様というお方のご性質そのもの、あるいは「救いとは何か」ということを表す言葉です。救いの出来事というのは、神が優しいお方であり、それゆえに、私どもがいるところまでへりくだられたということです。人生の重荷に苦しみ、その重荷に苦しむとことで、なお罪深くなる私どもを救うために、神様は低くなって、降って来てくださいました。その救いの恵みがイエス・キリストに表されたのです。

 そのことが一番はっきりと表れているのが、主イエスの十字架です。十字架の死に至るまで、主は従順な僕として仕え抜いてくださいました。私どもが主イエスによって本当に取り除いていただかなければいけない重荷というのは、罪の重荷だからです。人間の一番深いところにある重荷でありながら、実はそのことに気付くことができない。それが罪の恐ろしさです。だから、その罪の重荷を主イエスが十字架で背負ってくださったのです。そこに赦しが与えられ、救いが与えられます。私どもにとって究極の不安であった死に対しても勝利し、その力強いいのちに生きることができるようになりました。そして、御言葉が告げるように、愛に生きるという尊い生き方をすることができるようになったのです。私どもの一人一人のいのちは全世界よりも重いのだと主イエスはお語りになったことがありました。それどころか、神が御子イエス・キリストのいのちを惜しみなく献げてくださるほどに、私どものいのちは重く、尊いのです。自分のいのちの重さを知っている私どもキリスト者であるからこそ、私どもは与えられた地上の生涯を神に感謝して、大切に精一杯生きるのです。あらゆる重荷、愛の重荷を背負いながら、時に倒れることもあるかもしれませんが、そこで絶えず響き渡る主イエスの御声に支えられ、励まされ、時に叱られながらも、最後まで信仰の旅路を歩んでいきます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」この主イエスの言葉を私どもは人生の色んな場面で聞くわけですが、とりわけ、今、私どもは礼拝の中で聞いていますね。日曜日というのは、「主の日」とか「聖日」と呼ばれることがあります。もとを辿れば、「安息日」という日に遡ることができます。安息日はいかなる日なのかということについては、天地創造や出エジプトの出来事の中にはっきりと示されていますが、要するに神様を礼拝するために、神様御自身が私どものために特別に取り分けてくださった日であるということです。「この日にわたしと会おう。」「この日、わたしはあなたに祝福を与える」と約束してくださった日です。

 だから、私どもは、私どもを救ってくださった神様の招き、また、主イエスの招きに応えるようにして、ここに集うのです。ここで安らぎ、憩うためです。主イエスから与えられるまことの安息によって、力を得、再び立ち上がるためです。この世的には、日曜日というのはまたとない休みの時です。自由に時間を使える貴重な時です。でも、私どもはここに集います。自分がしたいことを一旦止めてまでして、主イエスのもとで憩うのです。主イエスの招きを聞くだけで終わるのではなく、本当に主イエスの前に進み出て、すべてをお委ねするようにして、主の懐に飛び込むのです。「主よ、私の重荷を知ってください」「私の苦しみを受け止めてください」「この私を愛し、赦してください」。

 私どもの魂の叫びを知っていてくださる十字架の主は、「わたしのところで休んでいきなさい」と言って、まことの安らぎを与え、私どもをいのちある者として生かしてくださいます。そして、私どもは主の復活のいのちの祝福に押し出されるようにして、新しい歩みをまたここから始めていくのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」お祈りをいたします。

 人生の旅路に疲れ果て、もう一歩も前に進むことができなくなるほどに、深い空しさの虜になることがあります。休みを得たいと願いながら、真実に憩うことを見出すことができない私どもです。その私どもを救うために、神の御子が来てくださり、「わたしのもとに来なさい」と招いてくださいます。その愛と赦しに満ちたいのちの招きに応えることができますように。主が与えてくださる安らぎが何にも優って、力に溢れた素晴らしいものであるということを、主の日ごとに共に味わうことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。