2022年07月10日「喜んで生きる秘訣」

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聖書の言葉

4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。フィリピの信徒への手紙 4章4節~7節

メッセージ

 伝道者パウロは語ります。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」これは私どもを喜びへと招く言葉です。「喜べ!」「喜ぼう!」と招いているのです。ある神学者は語ります。「喜べ!勝利したものが戸口に立っておられる」と。戸口に立っておられるお方は勝利者イエス・キリストです。まるでヨハネの黙示録第3章の場面を思い出させるような御言葉でもあります。キリストが戸口に立って、扉を叩いておられるのです。私どもはいつも不安や恐れ、そして、思い煩いの部屋に閉じこもってしまいます。そして、誰も入って来ることができないようにしています。そして、ますます深い闇の中に閉じこもるのです。けれども、主イエスはその重くて頑丈な扉をいとも簡単に打ち破ることができるお方です。ただ、ここでは敢えてそのような形で扉の奥に入って来られる訳ではありません。あくまでも戸口の外に立っておられるのです。なぜでしょうか。それは「喜びなさい!」という声を聞いて、あなたの手によって扉を開けてほしいからです。死に勝利した主イエスの招きに応えてほしいからです。やがて救いを完成に導いてくださる勝利者イエス・キリストをあなたの中に、あなたの人生の中に迎え入れてほしいからです。

 なぜ、私どもは日曜日、ここに集って礼拝をささげているのでしょう。それこそ、ありがたいことに生活の一つの習慣になったと言いましょうか、神を礼拝することなしに生きていくことのできない者とさせていただいたという方も大勢いるでしょう。あるいは、日常の様々なことと戦いながら、何とか月に1度でも、数カ月に一度でも礼拝に行きたいという人もいます。また、最近ではコロナ禍という特殊な事情の中、外にも出られない方がいます。せめてライブ配信からでもいいから、礼拝の恵みにあずかりたいという方もおられます。理由は色々あるかもしれません。しかし、一つ確かな事実は、礼拝というのは神の招きから始まるということです。神があなたを選んでくださって、御自身の前に連れて来てくださったのです。そして、私どもはその神の招きに応えて、今日も神様の前に立つことができました。神様はどのような招きの言葉を語ってくださったのでしょうか。礼拝の最初に告げる御言葉もその中の一つかもしれませんが、今共に聞いた御言葉で申しますならば、「喜びなさい!」という招きです。どうして喜ばなければいけないのでしょうか。主イエスがお甦りになられたからです。天におられる主が再び来てくださるからです。主はすぐ近くにおられるのです。神の平和が私どもの歩みを守ってくださるからです。だから、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と私どもを招いておられます。私たち一人一人の歩みが、そして、教会の歩みが主にある喜びに満たされるために。

 ただ、先程、子どもたちお話しましたように、「喜びなさい!」というのは、本当に不思議な言葉だと思います。喜びというのは、誰かから命じられて喜ぶものではないと思うからです。それにパウロが語るには、「常に」「いつも」喜びなさいと言うのです。嬉しい時だけ喜ぶというのではなくて、喜んでいられないような時にも、例えば、悲しい時や辛い時も喜べというのです。よく考えるとあまりにも無茶なことを聖書の御言葉は私どもに語っていると言えます。しかし、それでも、なぜか不思議な魅力を感じる言葉ではないかと思います。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」なぜ魅了されるのでしょうか。それは、もしこの御言葉どおり常に喜ぶ生き方をすることができたら、「こんなに素晴らしい人生はない」と心のどこかで思っているからです。「いつも喜ぶことなどできるはずはない」「そんなバカな話はない」と笑いながら、実は、本当にそう生き方ができればどれだけ幸いなことだろうかと、どこかで思っているのです。私が人間としてこの世界にいのちが与えられた限りは、たとえ、どんな条件や環境に置かれたとしても、それによって左右されて自分を見失ってしまうのではなく、常に喜ぶ生き方というものがあるのではないか。そのことを信じたいと思っているのです。

 私どもは知っているのです。どれだけ恵まれた環境に置かれていても、周りの人たちから羨ましがられても、いつも不平や不満ばかり口にしている人生というのはたいへんつまらない人生であるということを。まるで、そこにはいのちがないということを知っているのです。それに良い条件の中で喜べても、もちろんそれは素晴らしいことですけれども、それは当然と言えば当然なのです。むしろ、本当の喜び、本当の喜びの魅力というのは、喜べないようなところでなお喜ぶことができて、初めて大きな意味を持つのではないでしょうか。喜ぶことができない生活に打ち勝ってこそ、心から喜ぶことができるのです。ですから、喜びというのは力があるということです。まことの喜びには力があるのです。だから常に喜ぶことができるのです。私どもがいつも喜ぶことができないのは、悩みや不安がたくさんあるからではないのです。喜ぶ力がないだけなのです。ですから、私どもが普段から問われていることは、あなたは何を喜びとして生きていますかということです。あなたに喜びをもたらしているその源とっているもの、その力となっているものは何ですかということです。苦難の時、必ず問われます。喜ぶことができない状況に陥った時、必ず問われると思うのです。私は今まで何を喜びとして生きてきたのかということを。

 私どもが信仰に生きるということは、喜んで生きるということです。洗礼を受けてキリスト者になるとどうなるのでしょうか。それは生きることが喜びになるということです。生きるということの中には、また人生ということの中には、ありとあらゆることが起こるのです。洗礼を受ける前も、受けた後も、予期せぬことが次から次へと起こります。しかしそれにもかかわらず、喜ぶのです。それは我慢したり、無理をして喜んだ振りをすることではありません。そのようなことをしても空しいだけでしょう。力のない喜びに生きても何も楽しくないのです。しかし、私どもキリスト者は悲しみを経験しつつも、そのもっと深いところに、もっと力強い確かな現実として喜びがあるということを信じているのです。だから、悲しみや思い煩いで心がいっぱいになる時も、神が与えてくださった喜びが真価を発揮して、私どもを力強く支えてくれるのです。だから、常に喜ぶという生き方ができるのです。いのちある者たちが、本当は心のどこかでこういう生き方をしたいと願っている、その生き方を私どもは既に始めているのです。

 伝道者パウロは、「喜びなさい」と語りましたが、その喜びの根拠となるものは何でしょうか。何の根拠もないのに「喜びなさい」などとは言いません。既に説教の中でも触れていることですが、御言葉と照らし合わせて申しますならば、4節冒頭の「主において」ということです。「主において常に喜びなさい。」「主において」、この一句が信仰のすべてであり、私どもの人生のすべてであると言ってもいいのです。それゆえに、喜んで生きる生活もまた「主において」というこの一句にかかっているのです。「主において」、これはどういう意味でしょうか。言葉自体は短いのですが、豊かな意味を持つ言葉です。しかし、それほど多くの説明を必要とするわけではありません。私どもにとっての喜びというのは、主イエスと共にあるということです。主イエスとの交わりの中にあるということです。もうそれ自体が喜びなのです。私の人生の中には色んなことが起こりますが、それでも主イエスと共にあるという信仰の事実は変わることはありません。そこに喜びがあります。また、「主において」というのは、「主イエスの中で」と言ってもいいでしょう。喜びというと、一所懸命努力して自分の力で喜びをつかみ取るというイメージがあるかもしれません。喜べないような状況で何とか知恵や工夫を働かせて、喜びに生きようとするのです。しかし、聖書が語る喜びというのは、自分の中にある喜び、自分でつくり出す喜びではありません。喜びは、主イエス・キリストの中にあるのです。不安や恐れで心がいっぱいになり、罪のゆえに滅びる他ない私どもを救うために、イエス・キリストは十字架について死んでくださり、復活してくださったのです。まことのいのちと力に満ちた主イエスが私どもを捕らえていてくださいます。その力強い主の愛の御手の中で、私どもは本当の自分を見出したのです。神様から与えられた尊いいのち、キリストの血によって贖われたこの尊いいのちをどのように用いていけばよいのかを主イエスから教えていただいたのです。だから、私どもはこれからも私どもの主であり、救い主であられるイエス・キリストを信じて歩んでいきます。そういう意味で、「主において」というのは、イエス・キリストを救い主として信じ、主を信頼して歩み続けるというとてもシンプルなことなのです。もちろん、主を信じ続けるというのは、自分の調子がいい時だけとか、都合のいい時にだけ信じればいいというのではありません。常に、どんな時も主を信じる信仰に生きるということです。このお方を信じれば安心だという信仰に生きるのです。このことと常に喜ぶ生き方は一つのことです。

 私どもの救い主であるイエス・キリストはどこにおられるのでしょうか。5節の後半に「主はすぐ近くにおられます。」「主は近い」という言い方ですが、これはただ遠い近いという距離の話というよりも、再臨の主イエスを待ち望む時に、教会の人々は「主は近い」ということをいつも意識しながら過ごしていました。主イエスが日に日に、私どものところに近づいて来られる。その主イエスの迫りを意味する言葉でした。聖餐式の際に、「マラナ・タ」という讃美歌をよく歌うことがあります。「マラナ・タ」というのは、「主よ、来てください」という意味の言葉です。絶望の中で、嘆くように「マラナ・タ」と呼ぶのではありません。まもなくお出でになる主イエスが、救いの勝利をもたらしてくださることを確信し、希望をもって主の名を呼んだのです。誕生したばかりの教会は激しい迫害の中にありましたが、その中にあっても「主はすぐ近くにおられる」ということを信じ、望みと喜びをもって生きたのです。

 また、「主はすぐ近くにおられます」と祈りつつ、再び来られる主イエスを待ち望んでいるわけですが、同時に私どもが待ち望んでいる主は私たちといつも共におられるということ、今ここに生きて働いておられるということを御霊の働きの中で信じているのです。人は何か困った状況に陥った時、色んなものに助けを求めます。目に見える色んなものや色んな人たちの助けを求めるのです。私どもキリスト者も同じですが、目に見えるものだけがすべてではないことを知っています。目に見えるものに助けを求めながら、本当は目に見えない主イエスに一番の信頼を置き、助けを求めるのではないでしょうか。目に見えない主イエスのほうがこの世のどんなものやどんな人よりも、遥かに私と近いところにおられるということ、遥かに私と深い関係にあるということを信じているのです。自分を困らせている厄介な問題が自分の近いところにあるのではないのです。何にもまして一番近くにおられるのは主イエスなのです。

 この主イエスが終わりの日にもう一度来てくださいます。その時は、目に見えるお姿で来てくださるのです。ここに神様の御計画、救いの恵みが完全に成就します。それゆえに、私どもが信じていることは必ず勝利するのだということを信じて、どのような時もいつも喜んで生きるのです。キリスト者としての使命を忘れることなく歩んでいきます。そのキリスト者の生き方というのは、喜んで生きるということですが、5節では「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と勧められています。主にある喜びに生きることができるならば、「広い心」に生きることができるようにされるということです。「広い心」というのは寛容、親切、温和さ、思いやりというふうにも訳されます。ただ、そういう生き方は、この後の6節にあるように思い煩いも何もない状態、かなり心のゆとりがなければできないのでは思ってしまします。しかし、そうではないのです。たとえ思い煩い、苦しむことがあったとしても、私どもは主にある喜びを知っています。そのような生き方自体が主の恵みを証しし、多くの人々の目に、この世にはない不思議で魅力的な生き方として映るのです。そして、隣人に対しても、思いやりの心をもって接することができるのです。

 このフィリピの信徒への手紙は、獄中書簡と呼ばれ、先週のテモテへの手紙同様、獄中から記されたものです。そのパウロが牢屋の中から、「主において常に喜びなさい」と勧めています。それだけでも十分に私どもの心を捕らえる言葉であると言えるでしょう。この第4章だけでなく、他のところでも何度も「喜びなさい」と勧めるのです。ですから、この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれます。手紙の文章の大きな区切りごとに「喜びなさい」と勧めるのです。それは手紙の区切りごとにというよりも、人生の区切りごとに「喜びなさい」ということではないかと言う人もいます。人生の区切りというのは、人生を振り返る度にということでもあります。人生の節目節目に自らの歩みを振り返った時、そこで喜ぶことができる人生は幸いです。パウロという人は牢屋の中でも賛美を歌い、事実、いつも喜んで生きていた人でした。自分が獄中にあるというは、いついのちが奪われてもおかしくないという状態です。パウロはいつも死を覚悟していました。いつも緊張に満ちていました。一種の極限状態でした。しかし、神を賛美しつつ、再臨の主の迫りというものを日々感じていたのです。だから、一瞬一瞬が真剣の時であったに違いありません。牢屋の外にいようが、牢屋の中にいようが片時も無駄にできなかったのです。主イエスの救いにあずかり、主と共にある人生を歩ませていただいているからです。

 さて、そのパウロが本日の後半部分にあたる6節のところでこのように語ります。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」この言葉はまだ神を知らない人に向けて語られた言葉ではありません。洗礼を受け、キリスト者に向けて語られた言葉です。キリスト者も思い煩うことがあるのだということです。敢えて、強調するまでもなく誰もが経験することだと思います。洗礼を受けた時は、これですべての悩みから解放されると最初は信じていた人もいると思うのです。ところが、洗礼を受けてしばらく経っても、目の前の現実は何も変わらないし、次から次へと新しい問題と向き合わなければいけない。本当に困ってしまったということになるのです。皆、思い煩うのです。キリスト者であっても、なくても苦しいこと、悲しいことはたくさんあるのです。しかし、問題は思い煩った時、どうすればいいか分からないということです。正しい解決方法が分からないのです。キリスト者であってもどうしたらいいか分からないのです。「思い煩うのはやめなさい」と命じられても、「そうは言われても…」と言ってみたり、「どうしたらいいのですか?」と思っているキリスト者は意外と多いのではないでしょうか。どうしたら喜ぶことができるのでしょう。そのことも大事です。そして、どうしたら思い煩わずに済むのかということも同じくらい大事なことです。常に喜ぶというのは、常に思い煩わないということだからです。

 「思い煩う」という言葉には、心が分裂するとか、心が二つに別れるという意味がありあります。たいへんなことが起こると心が一つに定まらないのです。心がバラバラになるのです。心が二つになるのです。そして大抵の場合、わるいほうにしか考えることができなくなってしまいます。諦めや疲れ、苛立つ思いに心が奪われてしますのです。マタイによる福音書を見ますと、主イエスが「山上の説教」と呼ばれる箇所で、「思い悩むな」「思い煩うな」と弟子たちに命じられた場面があります。マタイによる福音書第6章25節以下の御言葉です。自分のいのちのことで何を食べようか、何を飲もうか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。思い悩んだところで寿命をわずかでも延ばせると思っているのか?そんなはずはないだろうというのです。しかし、人間は真剣に思い悩めば悩むほど、長生きができると思っているのです。だから、何を食べ、何を着るかが、食べていくために何をするかが、人生において極めて重要な問題になると本当に思っているのです。しかし、人間のいのちの価値は私どもが何かを考え抜いたり、悩み抜いたところでどうにかなるというものではありません。では、人間のいのちの価値はどこにあるのでしょうか。主イエスは「野の花を見なさい」とおっしゃいます。明日、炉に投げ込まれてしまう雑草のような野の花でさえ、神はいのちを与え、美しく装ってくださるのです。もしかしたら、今、自分は雑草のように、誰の目にも留まらないような惨めな存在だと思って、暗い気持ちになっているかもしれません。もう明日生きているのかどうかさえ分からないほどに、自分の価値を見失っているかもしれません。しかし、神様はそのような者にも目を留めてくださるのです。それは特定の貧しい人とか弱い立場の人だけというのではないのです。罪のゆえに、人は皆、惨めな存在なのです。罪の病のゆえに滅びる他ない存在でした。しかし、神様はそのような私どもにいのちを与え、養い、育ててくださるのです。そして、イエス・キリストという何にもまして一番素晴らしい賜物を与えてくださったのです。誰が何と言おうと、私どもを美しく装い、「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。自分の力によるのではなく、ただ神様が与えてくださるものによって、私どものいのちは輝きを放つのです。

 だから最後に主イエスはこうおっしゃいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)私どもの生活には思い煩うことがたくさんあります。一つ問題が解決したと思ったら、新たな課題にぶつかります。そして、それらのことを自分の力で何とかしようとしているのです。自分の現在も将来も、生も死も自分で何とかしないといけないと思い込んで一所懸命になるのです。しかし、肝心なことを気付いていないのです。それは神様のことです。自分の生活の中に主イエスがいないということです。本当は共におられるのに、自分のことで一所懸命になり過ぎて、主イエスを自分の生活の外に追い出してしまっているのです。思い煩いの中で、それでもなお神様に愛されているという自信を失ってしまっているのです。だから、思い煩いというは、「人間は皆悩む者だから」という一般論ではなくて、信仰の問題なのです。思い煩いというのは、不信仰に他ならないのだというのです。だから、「思い煩うのはやめなさい」と、主イエスもパウロも厳しく戒めるのです。私どもの幸い、私どもの喜びは、神と共にある生活です。色んなことが起こるに違いない私どもの人生ですが、そのような中で神様に祈るのです。「父なる神様、他のことはいいですから、あなたが私の生活の真ん中にいてください。いつも神様が近くにいることを分からせてください。御心を示し、私の歩みを初めから終わりまであなたの御手の中で導いてください。」そのように祈ることができる人は、本当に幸いな人なのです。そういう人は神様の目に本当に美しいのだと言うのです。

 パウロも言います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」どうしたら思い煩わなくて済むのでしょうか。それは主イエスがおっしゃったこととも重なることですが、神様に祈ることです。しかも「感謝を込めて」祈りなさいというのです。普通、神様が祈りに答えてくれて、初めて人は神様に感謝できると思っているところがあります。しかし、祈る前から感謝しなさいと言うのです。祈りとは何でしょうか。神に願い、神に求めることが祈りでしょうか。そのとおりなのですが、それだけが祈りのすべてではありません。私どもは祈る度に、神様の応答を待ち望みます。願わくは、自分が期待した応答を望みます。しかし、祈りの喜びというのは、祈りに対する答えがどのようなものであるかということよりも、祈ることそれ自体が喜びなのです。だから、祈る前から神様を喜ぶことができるというのです。「主において常に喜びなさい。」主においてというのは、主イエスとの交わりの中でという意味でもあると申しました。主イエスとの交わりそれ自体が喜びなのです。祈りというのは、神様との交わりであり、対話です。信仰の喜び、感謝というものがすべて祈りの中に表れているのです。祈りというのは、自分の願いということもあるかもしれませんが、それ以上に神様と一緒にいたいからささげるのです。感謝するということも、喜びと同様、自分が感謝できる時だけ、自分に都合のいい時にだけするのではなくて、いつも感謝するのです。だから祈る前から、神様に感謝することができるのです。

 またパウロは、「何事につけ」祈りと願いをささげるようにと言いました。何事につけ、感謝を込め、求めているものを打ち明けなさいというのです。あらゆる問題について祈るのです。ほんの些細なことでもいいのです。子どもが親に今日あったことを全部話すように、何でもいいから話しなさい、祈りなさいというのです。人間の親は忙しくて、いつも子どもの話に耳を傾けてくれないかもしれません。けれども神はそうはなさいません。私どもとの祈りの対話を喜んでくださり、願いと求めをしっかりと聞いてくださるのです。そして、御心に適った良き道を備えてくださるに違いないのです。だから、どんなことでも祈っていいのです。こんな小さなことをいちいち祈ってもいいのだろうかとか、こんなことを祈ったら嫌われるのではないだろうか。そのように、神様に気を遣ったり、自分を少し飾り立てるようにして祈る必要などないのです。

 私どもは礼拝の最初に罪の告白の祈りを共にささげます。礼拝の中で用いている祈りの文言自体は整えられたものですが、その内容というのは綺麗なものではないはずです。神に罪を告白するというのは、本来、綺麗か綺麗でないかという話ではないのです。とてもドロドロとした内容であるはずです。でも、神様はそのような私どもの罪の告白を聞いてくださるのです。実は神様が一番聞きたい祈りの一つでもあるのです。そして、イエス・キリストをとおして、その祈りに確かな仕方で答えてくださいました。私どもの罪を赦してくださいました。その十字架の主が復活して、私どもの近くにいてくださるのです。罪赦された人は、神はすぐ近くおられるということをよく知っている人です。だからどんなことでも祈りなさいというのです。ある人は、「神に対して、本気でため息をついたらそれは立派な祈りとなる」と言いました。信頼する神様に思いのたけを語りなさい。自分の心配事を投げ掛けなさい。そして、自分で自分を心配するのではなく、神様に心配していただきなさい。神様に相談したら、あとはすべてを信頼してお任せするように。

 ただ問題は、私どもキリスト者は結局のところ真剣に祈ろうとしないということです。だからますます思い煩ってしまうというのです。ですから、キリスト者の大きな問題は思い煩うことではありません。祈らないことなのです。この手紙自体もパウロがフィリピの教会に対して思い煩うことがなければ、わざわざ書く必要はなかったのです。例えば、すぐ前の第4章2節以下を見ますと、エボディアとシンティケという二人の婦人が主にある同じ思いに立つことができなかったということが分かります。なぜ争っていたのかは分かりませんが、このことがきっかけでフィリピの教会はたいへんなことになっていたのです。パウロはすぐにでも駆け付けたかったでありましょう。しかし、今自分は牢屋の中にいてどうすることもできないのです。どれだけパウロはフィリピの教会のことを心配したことでしょうか。心配しながら何もできないことをどれだけもどかしく思ったことでしょうか。しかし、そこでパウロは諦めたのではなく、思い煩ったのでもなく、すべてを打ち明けるようにして祈ったのです。主において常に喜び、いつも感謝する生活を続けたのです。そして、あなたがたたも主において一つになろう。そのために、主において常に喜びなさいと勧めたのです。

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」そう語ったパウロは、7節で「そうすれば」と言って、祈りの先に何があるのか、その恵みの事実を語ります。主が近くにおられることをいつも喜び、思い煩うことをやめて、何事も感謝を込めて祈る生活に生き始める時に、そこに何があるのでしょうか。パウロは語ります。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」ここで語られている確かな約束は、神の平和があなたがたと共にあるということす。それも「人知を超える平和」だということです。人もまた生きるうえで人知を尽くします。そして、自分の生活を必死に守ろうとするのです。私どもの生活は不安や思い煩いが絶えないからです。しかし、人間がどれだけ知恵を尽くして、考えたものであっても本当の平和ではありません。結局は不安にしかならないのです。なぜなら、そこに神様がおられないからです。だから、今は平和だ、今は安心だと思っても、何か事情が変わればすぐ崩れてしまうと思うのです。

 しかし、神の平和、神の平安というものは、人知を超えるというのです。神様の平和というのは、神様が支配しておられる平和ということです。神様の愛の御心が貫かれているがゆえに平和であるということです。ですから、神の平和というのは、神の救いそのもののことです。ただ心が落ち着くとか精神が安定するとか、そういう次元の話ではなくて。神の平和があるというのは、あなたは救われているということです。だから、どんなに思い煩うことがあっても、神様の救いのゆえに大丈夫だと心から告白することができるのです。その神の平和が、「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」というのです。一番厄介なのはやはり自分の心ではないかと思うのです。一旦、思い煩ってしまうと、その騒ぎ立つ心をなかなか鎮めることができないからです。考えれば考えるほど、余計に不安が募って落ち着くことができなくなるのです。しかし、そこに人知を超えた神の平和があるのです。イエス・キリストが私どもの心を鎮めてくださいます。私どもの考えがおかしな道に行かないように守ってくださいます。この「守る」という言葉は、元々、兵士が町を守るという時に用いられた言葉でした。ファリピの町にはローマの兵営がありました。「キリスト・イエスによって守るでしょう」という言葉を聞いた時に、すぐにピント来たに違いありません。自分たちを苦しめるどんな敵に対しても、主イエスが正面から立ち向かってくださり、勝利を収めてくださるということを。それは決して楽な戦いではありません。思い煩いという死をもたらす敵は、罪そのものだからです。だから、主の十字架を見れば、その戦いの激しさが分かるのです。十字架の上でいのちをすべて献げてくださるほどに激しい戦いをもって、私どもを思い煩いから救い、神の平和を私どもの間にお与えくださったのです。そして、共にいてくださる主は、今も私どものために戦い、執り成していてくださいます。だから主において常に喜ぶ生き方をすることができるのです。また、私どもの主は、復活の主であり、再臨の主でいてくださるお方です。それゆえに、死を超えた望みに生き、最期まで勝利を確信して歩んでいくのです。

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」これは礼拝への招きの言葉でもあると最初申しました。この世の生活において、様々なことで思い煩い、罪と悪の力に苦しめられる私どもの歩みですけれども、その只中でここに集められるのです。そして、「喜びなさい」という声を再び聞くのです。その主の招きに応えて、私どもは教会の兄弟姉妹と共に神を喜び、賛美の歌を歌います。復活の主は今も生きておられること、何にもまして私どもの近いところにおられるということをここで共に確認するのです。礼拝をとおして、神様の勝利をいつも確信し、神様の平和のうちにそれぞれの生活の場に帰っていくのです。帰って行くその先には、まだ解決できていない深い問題がなお根付いているかもしれません。心配していたことが現実に起こってしまうかもしれません。しかし、主において常に喜ぶという驚くべき生き方に私どもは召されています。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからです。何よりも、どんな苦しみよりも主は近くにおられるのです。その主イエスを信じ、主に祈るならば、私どもの歩みにどんなことがあっても必ず守られるのです。お祈りをいたします。

 いのちの喜びにいつも私どもを生かしてください。どんな思い煩いにも負けることのない力強い喜びを主が与えていてくださるのだということを信じることができますように。私たち教会が、主にある喜びにいつも生かされ、救いの恵みを映し出す存在としてここに立ち続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。