2022年07月03日「忘れてはいけないもの」

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忘れてはいけないもの

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
テモテへの手紙二 2章8節~13節

音声ファイル

聖書の言葉

8イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。9この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。10だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。11次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。12耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。13わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」テモテへの手紙二 2章8節~13節

メッセージ

 私どもは日頃、色んなことを思い起こしながら生きています。これだけは忘れてはいけないというものをいくつも持っているのです。もしそれらの大切なものを忘れてしまうと、一人惨めな思いに捕らわれてしまいます。今日一日が台無しになったような気さえします。そのような思いをするのはもう嫌ですから、忘れないように心掛けて生きるのです。今日、自分が何をすべきなのかを、子どもの頃から一つ一つ確認するように生きていきます。大人になれば、やるべきことも増え、与えられた責任も大きくなっていくことでしょう。しかし、思い起こすこと、決して忘れないということは、何か恥ずかしい思いをするのが嫌だからとか、そういった消極的な理由だけではなく、積極的な意味合いもちゃんとあると思うのです。思い起こすこと、覚えること、忘れないこと。そのことによって、私どもは多くの益を得ることができるのです。一人の人間として成熟することができるのです。自分を成長させるために、自分が強くなるために、いつも忘れることなく、しっかりと考え続けるのです。そして、いつも思い起こすのです。ただ一方で、どれだけ自分自身をしっかり管理している人であっても、いやどんな人であっても、それぞれの人生において、本当に思い掛けないことが起こってしまうものです。長い人生において、物や知識を忘れることなくずっと生きることができたとしても、そのことによって、立派な自分を造り上げることができたとしても、突如大きな問題にぶつかるということが起こるのです。思い起こすとか、忘れないとか、もはやそのようなことを言ってなどいられない事態に正面からぶつかるということが起こるのです。

 今からもう15年以上前になります。日本の映画ですけれども、「明日の記憶」という作品があります。主演は渡辺謙、その妻の役が女優の樋口可南子です。私が神学校の時でしたが、派遣された教会で少し話題になったことがありました。その教会のある長老の方が月報にその映画のことを書かれていたのです。皆様の中にも知っておられる方がおられるかもしれません。この映画は、若年性アルツハイマーという病について描いたものです。アルツハイマーというのは、脳の中の神経細胞が減少、萎縮し、その結果、高度な認知症となってしまう病です。単なる物忘れというのではなく、いのちをも蝕む恐ろしい病です。渡辺謙が演じる佐伯という男は、広告代理店で部長として働いていました。年齢は49歳、すべてが上手く行っていました。しかし、いつからか突然、同僚の顔や名前、見慣れた光景や道を思い出せなくなります。やがて、病気によって仕事を辞めざるを得なくなりました。記憶がなくなってしまうことの恐ろしさというのは、どういうことでしょうか。人の名前や仕事を失うのもたいへんなことですけれども、もっと深刻なのは、自分が生きてきた記憶さえも失ってしまうということです。そう思うと、佐伯は段々と大きな恐れに捕われていくようになりました。今までの自分が消えてしまうということは、これまで積み重ねてきた人生に意味がなかったということではないか。そしてこれからの人生においても、記憶がなくなってしまうのであれば、何のために生きればよいのかも分からなくなっていくのです。忘れること、思い起こすことができなくなるということ。それは、突き詰めれば、自分の存在さえも忘れてしまうということです。そして、愛する家族さえも誰が誰であるのか分からなくなってしまうのです。病気によって、すべて忘れてしまうことの怖さとともに、病を患った本人も支える家族も深い悲しみを味わわなければいけない。その痛みが見ているだけで伝わってくる映画です。

 この映画の中で、一つ鍵になる夫婦の対話があります。夫の佐伯は妻の実枝子にこう言うのです。「俺が俺じゃなくなっても平気なのか。」俺が俺じゃなくなる。それは記憶がなくなることによって、もはや妻が知っていた夫ではなくなってしまうということです。そのように嘆く夫に対して妻はこう言うのです。「私がいます。私が、ずっと、そばにいます。」「私があなたのためにいます。」そう言って、妻は献身的に夫を仕えます。弱音を吐く夫に対して、強い愛の意志をもって支えるのです。改めて思わされます。私が私であるということはどういうことでしょうか。自分自身の問題に違いないのですが、私が存在するということは、もはや自分一人の問題ではないのです。自分自身を見失い、自分がこれまで生きてきた記憶さえも忘れるということが起こった時に、私を愛する他者の存在が決定的に重要になってくるのです。「私がいます」と側で言ってくれる人がどうしても必要なのです。病や困難な時だけではないでしょう。自分は誰の助けも要らないと言えるほどに、すべてが上手く行っていると思える時にも、私どもは、私どものために側にいてくださる方、私を愛してくださる方が必要なのではないでしょうか。

 使徒パウロは語ります。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。」この言葉は、生まれたばかりの教会の信仰告白ではなかったかと言われます。これだけはどうしても忘れてはいけないというものが、ここにあるとパウロは言うのです。思い切ったことを言えば、他のことは最悪すべて忘れてもいいのです。自分が誰であるのかが分からなくなってもいいのです。すべてを忘れたとしても、この一つのことだけで思い起こせばいいのです。忘れずに覚えていればよいのです。それであなたの信仰はもう十分だと言っていただける、そのたった一つのことがここにあるのです。それはイエス・キリストのことです。そして、イエス・キリストのことを思い起こすというのは、昔偉大な人物がおられたというような話ではありません。イエス・キリストをとおして、昔も今も、そして将来においても変わることのない神の真実な愛が私たちの中に貫かれているという、この神の救いの御業を今ここに見るのです。イエス・キリストは、神の選びの民であるイスラエルの王であったダビデの子孫としてお生まれになったお方です。人間の罪の現実・その歴史の中にお生まれになり、その闇の中にあって、まことの光として歩まれたお方です。私どもに罪の赦しと神との和解をもたらすために十字架で死なれたお方です。そして、死者の中から復活されたお方です。このイエス・キリストのことを思い起こしなさい。いつも主イエスのことを思っていなさい。忘れることのないようにしなさい。ここに喜びに溢れたいのちがある。あなたの救いがある!

 この手紙を書いたパウロはこの時、世の支配者の権力に捕らえられ、獄中にいます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」パウロはキリストの福音を宣べ伝えたがゆえに、幾度も牢に入れられました。その度に死を覚悟したと言われます。もう二度とここから出ることはないのではないか。しかし、そこでパウロはいつもイエス・キリストのことを思っていたのです。自分を覆う闇や死の恐れに捕らわれていたのではなく、イエス・キリストのことを忘れることなく、思い起こしていたのです。パウロは囚われの身となり、この時、重い鎖でつながれています。身動きができない不自由さの中に置かれているのです。そこは光が届くこともなく、真っ暗で冷たい部屋であったかもしれません。しかし、そこでもパウロはイエス・キリストのことを忘れることはありませんでした。鎖の重さを足に感じながら、その鎖を軽々と担う自由というものを知っていたのです。なぜなら、キリストの福音は牢獄の外でも宣べ伝えられているという事実があったからです。神の救いの御計画、教会の働きはなお前進していきます。神の言葉はつながれていない!パウロにとって、鎖よりも遥かに確かな真実がここにはありました。

 私どもの生活はどうでしょうか。私どもは今パウロのように牢の中にいるわけではないでしょう。重い鎖につながれているわけでもないのです。しかし、人は常に様々なものに捕らわれている現実がやはりあるのだと思うのです。目には見えないかもしれませんが、重い鎖につながれたように、足を引きずりながら不自由に生きているということはないでしょうか。自分の弱さや貧しさの虜となっていないでしょうか。いつも人と比べるようにして生きながら、そこで一喜一憂する生活を送っていないでしょう。主イエスを信じる信仰に生きながらも、目の前のことに追われ、信仰の喜びを失っていないでしょうか。

 この手紙は元々、若い伝道者であるテモテを思いやって書いた手紙でした。教会員を思って記した手紙もたくさんあるのですが、同じ働きに召されている者たちに向かっても、パウロは愛の手紙を記しました。テモテは若い伝道者です。しかし、この若いということが理由で、人々から軽んじられ、それゆえに傷を負い、弱さを覚えていました。伝道者としての自信を失っていたのです。そのテモテに対して、「まあ、そういうこともあるから気にするな」「伝道者も弱い人間の一人なのだから」。そう言ったのではありませんでした。第2章1節でこう言います。「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりないさい。」パウロは強くなるようにと勧めるのです。弱いままだとなぜいけないのでしょうか。軽んじられたままだとなぜいけないのでしょうか。それは、福音が福音として聞かれなくなってしまうからです。そうすると、人々が救いにあずかることができなくなってしまうのです。主の恵みによって、あなたが強くなる。それはあなただけの問題ではない。人々の救いに関わる大切な問題、教会が教会として立つ上で極めて重要な問題なのです。だから強くなりなさいと勧めるのです。では、その強さはどこから与えられるのでしょう。主の恵みによって強くなるというはどのようにして可能になるのでしょうか。

 この後、パウロは、私どもキリスト者というのは、「キリスト・イエスの立派な兵士」であると3節で語ります。兵士は強くないと意味がありません。ただ、強く立派な兵士になるというのは、武装するとか、武器を用いるとかそういうことではないのです。武器を持つことよりももっと強くなると言いましょうか、人間が持つありとあらゆる力を合わせて戦ってもどうすることもできない、そのような闇の現実を打ち破ることができる、そのような真実な力に生かされる者となるということです。その力、強さ、立派さを手に入れるために何をしたらいいのでしょう。それはとても意外なことでありました。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」というのです。それだけでいいと言うのです。ただそのように語るパウロ自身は今どのような状況に置かれているのでしょうか。イエス・キリストのことを思い起こし、キリストの福音を宣べ伝えたがために牢に入れられ、鎖につながれてしまいました。主イエスを思い起こしても、強くも何ともないではないか。弱くて、惨めなだけではないかということになってしまいます。獄中にいるパウロの姿は、立派でも何でもない。人生の敗北を意味すると思われても仕方ないのです。しかし、パウロは強がっているわけで何でもなく、本当に解き放たれるような思いで語るのです。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 さらにこう言います。10節「だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。」解き放たれていると語りつつ、「耐え忍んでいる」と語ります。普通の感覚ですと、解き放たれ、自由にされていることと、耐え忍ぶということは、あまり結び付かないのではないかと考えます。しかも耐え忍ぶというのは、苦しみが過ぎ去るのをとにかくじっと耐えるというのではないのです。鎖につながれ、不自由な中にあっても、本当に不思議で理解しにくいことかもしれませんが、それでもなお自由に生きることができるということです。神が与えてくださった信仰がそのことを可能にします。イエス・キリストのことを思い起こす。このたった一つのことが、苦しみの中で、なお喜ぶということを可能にさせるのです。

 だから、11節冒頭で「次の言葉は真実です」と語って、鍵括弧で括られている引用の言葉を記します。この言葉は信じるに値するものであるということです。信ずべきことはこの言葉だというのです。括弧の中の引用の言葉は、当時の教会の礼拝の中で歌われていた賛美歌ではないかと言われます。あるいは、8節と同じように、教会の信仰告白の言葉でなかったかとも言われます。キリスト者が苦難を経験する時、いったいどうやって耐えればいいというのでしょう。耐えるだけなら、頑張れば少しくらいはできそうなものですが、まして、忍耐を強いられる状況の中で、なお喜ぶということがどうして可能になるのでしょうか。その秘訣というものをパウロは語ります。自ら、テモテに対して、私どもに対して見せてくれているのです。それが賛美の歌を歌うということです。忍耐の秘訣、それは神を賛美することです。以前も申しましたけれども、自分の心の中にある思いを歌うのではありません。神とはどのようなお方であるのか。イエス・キリストとはどなたなのか。キリストは私どものために何をしてくださったのかを歌います。それらのことを思い起こすようにして、パウロは獄中から賛美の歌を歌うのです。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

 この賛美の歌が、既に教会の中で歌われていました。どのような時によく歌われたのでしょうか。皆が口を揃えて言うのは、洗礼式の時にこの歌が歌われたのではないかということです。11節に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。」とありました。これはまさに洗礼という出来事が何であるかをよく言い表している言葉です。同じパウロが書いた手紙にローマの信徒への手紙というものがありますが、その第6章でパウロは洗礼とは何であるかということについて丁寧に述べています。洗礼というのは、古い自分が死ぬことを意味します。だから水の中に沈んで死ぬのです。しかし、それで終わりではありません。水の中からもう一度、出てくるのです。もう一度いのちの息を吹き返すのです。そして、イエス・キリストから与えられた新しいいのちに生き始めるのです。主イエスが十字架で死に、復活なさったように、私どももまた古い自分に死に、キリストにある復活のいのちに今ここから生き始めるのです。これが洗礼を受けるということです。「次の言葉は真実です。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。」教会の人々は、洗礼を受ける者が与えられる度にこの歌を歌いました。洗礼の時だけではなく、いつも歌っていた歌ではないかと思います。私は洗礼を受けている。私はキリストのものとされている。このことは洗礼の時だけ覚えていればいいというものではないからです。信仰生活の歩みすべてにおいて、私どもを支える確かな救いの真理がここにあるからです。

 そして、賛美歌というのは一人で口ずさむということも、もちろんあるでしょうが、何よりも教会の仲間と共に礼拝の中で歌うということに大きな意味があります。洗礼を受けるというのは、キリストと結び合わされるということですが、それは同時にキリストの体である教会に結び付き、キリストの体である教会の手足となって生きるのです。その時、私どもは既に死を越えたいのちに生きているという確信を持つことができます。そして、10節の終わりにあったように、永遠の栄光と結びつくキリスト・イエスの救いあずかっているという希望を持ち続けることができます。毎週、礼拝の中でしていることはまさにそういうことなのです。このキリストの福音を宣べ伝えるために、選ばれた人々のために、つまり教会の人々のためにあらゆることを耐え忍ぶのだとパウロは言うのです。

 12節以降に、賛美の歌がまだ続いています。「耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」ここには「キリストを否む」とか「わたしたちが誠実でなくても」とあります。どういうことでしょうか。洗礼を受け、キリストによって新しくされ、キリストと共に生きるものとされた者たちが、キリストを否み、キリストに対して不誠実であるということが果たしてあり得るのでしょうか。しかし、自らの信仰の歩みを振り返るならば、幾度、主イエスに対して不誠実であったことでしょう。「わたしたちが誠実でなくても」と歌わざる得ない現実があるということを正直知っているのだと思います。イエス・キリストの恵みを忘れ、イエス・キリストの愛の強さを疑ってしまうことが何度もありました。それはイエス・キリストを否むというだけでなく、「イエスを主」と告白して生きている自分自身をも否定することでもあったのです。そして、私どもがもしキリストを否むならどうなるのでしょう。それは12節の終わりにあるように、「キリストもわたしたちを否まれる」ということです。キリストから「あなたなど知らない」と言われてしまうということです。キリストに否まれるということは、どれだけ厳しいことであるか。それは「あなたはもう救いに値しない」と言われていることと等しいことです。私どもはそこで言い訳をすることは許されません。本来、罪の恐ろしさというのはそういうことであったはずです。

 しかし、この賛美歌を最後まで歌い続ける時に、ある矛盾と言いましょうか、おかしなことに気付かされるのです。私どもがキリストを否み、キリストに対して不誠実ならば、私どもはキリストから否まれる。これが正しい文章の流れ・筋道であり、正しい論理展開であるはずです。ただ、この賛美歌は最後にこう歌うのです。「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」どういうことでしょうか。私たちに比べて、キリストは如何に誠実であり、真実であられるか。そのことを強調したいのでしょうか。もちろんそういう意味も込められていると思います。しかし、ただ比較しているだけではないのです。日本語の訳では少し分かりづらいのですが、13節の最初にある「誠実」というのは、「真実」と訳すこともできます。さらには、「信頼」とか「信仰」と訳すこともできるのです。そのように少し言葉を変えて理解いたしますと事柄はよりはっきりしてくると思うのです。私どもに与えられている「信仰」とは何なのかということです。それは、キリストに対する「誠実さ」ということに違いないのですけれども、しかし、そこに本当の重点があるわけではないのです。なぜなら、私どもは不誠実で、不信仰であるからです。では信仰とは何なのか。救いとは何にすべてが掛かっているのか。それはキリストの真実にすべてが掛かっているのです。主イエスがいつも誠実であり、真実であられるということです。何よりも御自分に対して真実であられ、それゆえに、私どもに対して真実であられるのです。普通ならば、「あなたなど知らない」と主イエスから否まれて当然なのです。主イエスから否まれるだけでなく、私ども自らが主イエスを否んでいるのですから。しかし、この賛美歌は、「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。」と最後に歌うのです。だから、私どもは救われるというのです。主イエスから「知らない」と言われて、忘れられしまうことはないのです。いつまでも救いの恵みに留まることができるというのです。この賛美歌は文章としては明らかにおかしいのです。矛盾しているのです。しかし、その矛盾にキリストの愛が打ち勝ってくださいました。私どもの不誠実、不真実に勝利してくださいました。そして、ただ神の愛だけがキリストをとおして、私どもの中に貫かれたのです。だから、歌の内容が途中で変わってしまったのです。もはや私どもの不信仰がまったく意味を持たなくなりました。私どもの不真実が力を持たなくなりました。キリストの真実が貫かれたからです。このキリストの真実は、洗礼を受けたら、それで終わりというのではなくて、「キリストは常に真実であられる」と歌われているように「いつも」あるということです。つまり、喜びの時も苦難の時も死を前にした時もいつもキリストの真実は貫かれるのです。

 この賛美歌は、洗礼の際に歌われたと申しましたけれども、それだけではなく、迫害や殉教の死を前にした時にも歌われた歌だとも言われています。迫害の中で主イエスを否みそうになるのです。それを必死に耐え忍ぶのです。あまりにも厳しい迫害を前にして、イエス・キリストを否んでしまいたいと思ったことでしょう。そうすればこの苦しみから解放されるのにという誘惑が何度も自分たちを襲ったことでしょう。しかし、そういうところで賛美の歌を歌うことができたのです。共にイエス・キリストを思い起こしたのです。死を超えた望みを生きたのです。「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

 今朝は、先立ってイザヤ書第49章の御言葉を聞きました。第49章14-16節です。この御言葉は、神の民イスラエルの歴史の中で最も暗黒と呼ばれる時代に記されたものです。戦いで敗れた神の民はすべてを失い、異国バビロンに捕囚の民として連れて行かれたのです。私たちは神に捨てられたのではないか。神から忘れられたのではないか。そのような絶望の叫びが止むことがありませんでした。しかし、そこに神の言葉が響き渡ります。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」難しい言葉ではありません。「神はあなたを忘れることなど決してない」と言うのです。私たちが生きる世界はどうでしょうか。自分自身はどうでしょうか。忘れることの多い私どものです。忘れることによって、自分自身も他の人も嫌な思いになります。そういう人間の世界ですけれども、母親だけは違うというのです。母親が自分の乳飲み子を忘れるというのは、あり得ないこと。母が子を憐れまないということはあり得ないということです。あり得ないというのは、これだけは確かだということでしょう。私どもも母と子の関係のように、それぞれに「これだけは確かだ」と言えるものを見出したいのです。周りも自分も不確かであるこの世界にあって、いつも安心して頼ることができるものを手に入れたいと願うのです。しかし、私どもの不幸は、その「確かだ」と思った現実が突如崩れ、「あり得ない」と思っていたことが本当に起こるということです。母親が乳飲み子を忘れ、愛することを放棄することが起こってしまうのだということです。そのような悲惨というものが、私どもが生きる世界の中に、一人一人の人生の中に起こるのだということです。忘れること、思い起こすことができなくなるというのも、その一つです。その時、私どもは平気で立っていることなどできません。深く傷つき、倒れ伏す他ないのです。

 どうしたらもう一度立ち上がることができるのでしょうか。それは、神様にこの私のことを覚えてもらう他ないのです。自分が自分でなくなってしまう、自分を見失ってしまう。そのような悲惨の中で、「わたしはあなたと共にいる」「あなたを忘れることはない」と告げてくださる神の言葉を聞くのです。そこに、「ああ、私は生きていて良いのだ」「私はこれでも生きていける」という安心が与えられるのです。

 では、神様はどのようにして私どものことを覚えようとしてくださったのでしょうか。神様はおっしゃいます。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。」手のひらに刻みつけるというのです。当然、そこには傷や痛みが生じることでしょう。神に対して誠実であることができない私どもの罪の傷をはじめ、様々な傷を負う私たちを丸ごと手のひらに刻んでくださるのです。「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」。この言葉の背後にイエス・キリストの「十字架」が浮かび上がってきます。あるドイツ神学者はこのようなことを言いました。私どもが神の言葉を忘れるのは記憶力の問題ではないのだ。私という人間全体の問題であると。つまり、私の心の問題であり、罪の問題であるということです。イスラエルの人々がバビロンに連れて行かれたのも元を辿れば、彼の罪の問題がありました。しかし、神様は愛ゆえにそのような私どもを忘れることはありません。ご自分がお選びになった者を捨てるはずなどないのです。「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる」のです。私ども一人一人も私たち教会も、このような忘却を阻止する神様の真実な愛に支えられているのです。だからいつもイエス・キリストのことを思い起こし、賛美することができるのです。

 先週は、望月先生がヨハネによる福音書第20章から御言葉を語ってくださいました。復活の主が弟子たちの前に現れる場面です。「平和があるように」と告げてくださった主イエスは、御自身の手と脇腹をお見せになりました。十字架で負った傷を見せたということです。復活の主イエスのお体は、傷一つない綺麗な体ではありません。十字架で負われた深い傷跡が残っていました。私ども罪人を救うために負われた十字架の傷です。しかし、復活の主は深い傷を手のひらや体に刻みながら、しかし、弱々しく立っているというのではありませんでした。死に勝利したまことのいのちによって力強く立っておられるのです。その復活の主が私どもの交わりの真ん中に立ち、今日も平和を告げてくださいます。そして、主イエスに結ばれて生きる私どもも同じように甦りのいのちに立つことができるのです。この地上の歩みにおいてたくさんの傷を負うこともあるでしょう。大切なことを忘れ、嫌な思いをしたり、誰かに迷惑を掛けることもあるでしょう。死を前にして、今までのすべてが消え去ってしまう恐怖を覚えることもあるでしょう。でも、そこで、イエス・キリストを思い起こしたらよいのです。いや、思い出すことができないほどに、弱り果てるということがあったとしても、あなたに対するキリストの真実は変わりません。このキリストの真実を信じることこそが私どもに与えられた信仰であり、神の救いです。神様は私どもに告げてくださいます。「わたしがあなたを忘れること決してない。わたしはあなたを愛している。この手にあなたの名が刻まれている。」この神の言葉は消えることも、鎖につながれることもありません。いつも私どもの中に響いているいのちの言葉です。

 今から聖餐を祝います。わたしが再びあなたがたのところ来る時まで、わたしを「記念して」行うようにと、主が私どもに命じられたものです。「記念する」というのは、「思い起こす」ということです。それは、ただ思い出に浸るという話ではなく、今ここに復活の主が共にいてくださるという恵みの事実を思い起こし、キリストと共にある交わりを喜び、感謝するのです。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる 耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」イエス・キリストのことを思い起こしなさい!お祈りをいたします。

 様々な思いに捕らわれ、思うように生きることができない苦しみがあります。しかし、そこでイエス・キリストをいつも思う心をいつもお与えください。死に勝利したまことのいのちに生かされているがゆえに、忍耐しつつも、望みをもって、軽やかに生きる道が与えられていることを知ることができますように。キリストの愛の真実が、私どもの不誠実に打ち勝ってくださった恵みの中をこれからも喜び、感謝しつつ歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。