2020年07月26日「なおも望みを抱いて」

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なおも望みを抱いて

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

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聖書の言葉

18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫は このようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。19 そのころ彼は、 およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せない と知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20 彼は不信仰に陥って神の約束を 疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束し たことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22 だからまた、それが 彼の義と認められたわけです。23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、 アブラハムのためだけに記されているのでなく、24 わたしたちのためにも記されているの です。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と 認められます。25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされ るために復活させられたのです。
ローマの信徒への手紙 4章18節~25節

メッセージ

 人はそれぞれの人生に何を求めているのでしょうか。人によって、考え方も違うとは思 いますが、いずれのものもおそらく共通して言えることは「確かさ」ということではない でしょうか。お金や仕事が大事だと言う人も、家族や友人が大事だと言う人も、どこかに 「確かさ」というものを求めているのだと思います。やはり、私どもは「これだ!」と言 えるもの、「これこそ確かだ!」と言えるものを持っていたいのだと思います。安定した良 い仕事に就き、たくさんのお金を稼ぐことができれば、人生を有意義に楽しむことができ るかもしれません。あるいは、それほど裕福でなかったとしても、共に暮らす家族との関 係が良いものならば、支え合って生きていくこともできるでしょう。他にも友人や恩師な ど、人生において掛け替えのない出会いが、私の歩みを確かなものにしてくれるでしょう。 やはり、私どもは明日どうなるか分からないような不安な生活はしたくないのだと思いま す。とは言いつつも、人生には不安や悩みは付き物ですが、それでも、「これがあれば大丈 夫だ」というものを持ちたいのではないでしょうか。

 そして、信仰に生きるということも、私どもの歩みを確かなものとしてくれる最たるも のと言うことができるでしょう。「あなたの生き方は正しい」「あなたの今は確かな歩みを している」と神様におっしゃっていただけるならば、これほど嬉しいことはありません。 私どもは、この確かなこと、正しいことを求めて、求道の歩み、信仰の歩みを始めたのだ と思います。その歩みの中で、聖書が教えるこのことは本当に正しいのだろうか。このこ とは信じるに値する確かさなのだろうか。そのように疑うことがあるかもしれません。で もそれは裏を返せば、自分を支え、自分を包み込む確かさによって、本当に心から安心し た人生を送りたいということでもあると私は思います。

 信仰に確かさを求めること。それは決して不信仰でも何でもありません。問題は、どこ に確かさを求めるのかということです。私どもが陥りやすい過ちは、目に見えるしるし、 目に見えるものに信仰の確かさを求めてしまうということでしょう。でも、聖書はそうで はないと語ります。ヘブライ人への手紙第11章1節に次のような御言葉があります。「信 仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」「見えない事実を 確認し」とありますように、信仰というのは目に見えることだけでなく、目に見えない事 柄にも深くかかわってくるということです。しかし、中々、そのことを理解することがで きないのです。目に見えるしるしに心が向き、そこに確かさを求めてしまう思いがありま す。このことは、生まれたばかりの教会においても、たいへん大きな問題となっていまし た。特に、旧約のイスラエルの民にとって、一つの誇りとなっていたことは、自分たちが 「割礼」を受けていているということでした。割礼というのは、生まれた男の子の性器の 包皮を切り取る行為です。そのことが、自分は神の民の一員であることの大切なしるしと なったのです。しかし、この割礼の有無が、多くの教会を混乱に陥れ、この手紙を書いた パウロもまた真剣に向き合わざる得なくなりました。ローマの信徒への手紙の中でも、第 2章、第3章で、パウロは信仰と割礼の問題を論じています。当時のキリスト者の中には、 主イエスをとおして神から与えられる救いの恵みだけでは足りないのではないか。どうし ても自分たちは割礼を受けているというしるしが必要なのだと言い出した人たちがいたの です。今日のキリスト者たちはどうでしょうか。割礼という問題はないにしても、目に見 えているものや自分が所有しているものをつい頼りにしているところがあるのかもしれま せん。信仰生活の長さであるとか、教会の中でよく奉仕をしているとか、周りから認めて もらえるような働きをしているとか、知らず知らずうちに自分の中にある何かに寄り頼ん でいるということがあるのだと思います。

 パウロがこの手紙の中で、心を込めて繰り返し語りますことは、私どもは「信仰によっ て義とされる」ということです。つまり、私どもが何か良いこと立派なことをしたらか、 神様に認めていただき、救っていただいのではないのです。救いというのは、自分が何か をしたらからというのではなく、ただ神様の恵みによって、キリストをとおして救ってい ただいたということです。ただ先程申しましたように、割礼の問題、これを「律法」の問 題とも言いますけれども、救いの拠り所を自分の中に見出そうとする思いが、教会の人た ちの中にも残り続けています。パウロはこの問題と徹底的に戦い続けました。なぜなら、キリストが十字架についてくださったことが無駄になってしまうからです。救いの根幹に 関わる問題であったからです。

 本日の第4章は、救いというのは信仰によるのか。それとも、律法(行い)によるのか。 そのことを語る結びの部分に当たります。そして、パウロは第4章のはじめから、旧約聖 書・創世記に登場しますアブラハムの物語に言及しながら、私どもに与えられている信仰、 その特質とは何であるかを丁寧に論じていきます。18節でこのようにパウロは言います。 「彼は(彼というのは「アブラハム」のことです)希望するすべもなかったときに、なお も望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多く の民の父となりました。」ここにたいへん興味深い言葉が出て来ます。「希望するすべもな かったときに、なおも望みを抱いて」という言葉です。以前の翻訳では、「望み得ないのに、 望みつつ信じた」と訳されていました。「望み得ないのに」という言葉を、「自分の中には 望みが死んでしまったのに」とか、「望むべきものは何もないのに」と言い換えている人も います。ギリシア語のニュアンスでそのまま訳すと、「望みに反し、望みに基づき」となり ます。聖書の中でも他に例を見ない独特の言い回しです。「希望するすべもなかったときに、 なおも望みを抱いて」...。とても不思議な言葉であり、しかし、私どもの心を捕らえる言 葉ではないでしょうか。

 パウロは、「希望するすべもなかったときに」と言いました。そこで言われている「希望」 というのは、アブラハムの中にある希望。人間的な希望のことを意味します。どれだけ、 自分の知恵を振り絞って考えても、あるいは、ありとあらゆる努力をしてみたとしても、 希望を持つことはできない。もうお手上げだということです。望みの根拠は自分の中にこ れっぽっちもない。そのことを十分に承知したうえで、なお望みを抱くということです。 よく分かるようで、分かりづらい言葉かもしれません。「希望するすべもない」というのは、 私たち人間のことです。その人間が「なおも望みを抱く」と言う時の「望み」というのは、 神様の望みのことを意味します。神様を信じるということは、自分ではなく、神にのみ望 みを置くことに他なりません。

 そして、神の希望というのは、「神の約束」と言い換えることができます。信じるという のは、神様の約束を信じるということです。アブラハムはまさに神の約束だけを信じ、神 が示される新しい場所に向かって、信仰の旅路を始めたのです。その様子が創世記第12 章以下に詳しく記されています。この時、アブラハムは75歳。妻のサラは65歳でした。 このアブラハムは後に、「信仰の父」と呼ばれますが、それは彼が欠け一つない完璧な信仰 者であったということではありません。「父」と呼ばれるゆえんは、アブラハムが「祝福の 源」となるという意味です。この祝福が、アブラハムだけでなく、彼の子どもに、孫に、 そしてイスラエルに、世界に広がっていく。これが神様の救いのご計画でした。その計画 の最初の一歩を担うべく、アブラハムが選ばれたのです。しかし、まだこの時は、アブラ ハムとサラの間に子どもは与えられていませんでした。でも、救いのご計画が一歩前進す るためには、どうしても子どもが与えられる必要があったのです。

 アブラハムもサラも「老い」という現実を抱えていました。子どもを産みたくても、産 めないという現実があったのです。まさに、人間的な望みは完全に絶たれていました。し かし、それでもアブラハムは神の約束を信じ、歩んでいたのです。でも、何年経っても、 子どもが与えられませんでした。ついにアブラハムは待ち続けることができなかったので しょう。「エリエゼル」という人物を養子縁組に迎えることを決意するのです。血のつなが った子どもではありませんが、法的には息子ですから、これで約束は実現したと考えたの です。つまり、自分の考え、自分の力、自分の中にある可能性を用いて、神様のおっしゃ っていることは、きっとこういうことに違いないと、勝手に解釈をしたということです(創 世記15章)。

 しかし、神様はアブラハムに対して、あなたとサラの間に産まれる子どもが、あなたの 跡を継ぐのだと、改めてはっきりとおっしゃったのです。アブラハムはもう一度、神様の 約束を信じて、待ち続けます。でもやはり、子どもが与えられないものですから、アブラ ハムはエジプト女奴隷ハガルと関係をもち、子どもをもうけたのです。当時、子孫を絶や さないために許されていた行為とは言え、妻のサラにとっては辛いことだったでしょう。 ただアブラハムの目論見は成功しまして、ハガルは子どもを身ごもります。しかし、子ど もを身ごもったことが分かった途端に、ハガルはサラを見下すようになりました。サラも 負けじとはガルに対して、必要以上に冷たく当たるようになりました。アブラハムの家庭 は大混乱に陥り、ハガルは身ごもったまま、飛び出したのです(創世記16章)。このハガ ルとの間に生まれた子が、「イシュマエル」という名前です。アブラハムがここで試みたこ とは、別に悪気があって、意図してやったことではないと思います。神様の約束の言葉を 疑ったのかもしれませんが、でも、どこかで信じたいという思いはあったに違いありませ ん。だから、彼なりに、神様の約束が実現するというのは、きっとこういうことだと、こ こでも一所懸命考え、自分でできることを彼なりに精一杯行ったのです。でも、そこに喜 びは生まれませんでした。むしろ家庭が崩壊しかねない危機を経験したのです。この時、 アブラハムは86歳でした。神の約束を聞いてから、既に11年が経っています。

 さらに13年の月日が経ち、やがて、アブラハムは99歳、妻のサラは89歳になりま した。その時、天の使いがアブラハムのところにやって来て、「来年の今頃には子どもが与 えられているだろう」とアブラハムに告げたのです。それを聞いてアブラハムもサラも笑 いました。あまりにもおかしな話に思えたのでしょう。でも、神様は、「なぜ笑ったのか。 なぜ神に不可能なことがあろうか」とたしなめたのです(創世記18章)。人間にとっては 笑えるような話であっても、神様はいたって真剣なのです。罪に陥った人間を救うという ことは、神様にとってとても真剣な問題でした。

 さて、このようにアブラハムの生涯を簡単に振り返ってみましたが、アブラハムの信仰 生活は、決して順風満帆というのではありませんでした。自分が思い描いたような、理想 的な生き方をすることができなかったのです。神の約束の言葉を信じつつも、この御言葉 は何を意味するのだろうかと、独りで格闘し、自分で答えを出しては、上手くいかない。 失敗をする。その連続でした。自分の可能性を最大限に用いて、前に進もうという思いは、すべて打ち砕かれて行ったのです。しかし、神様の約束だけが実現し、言葉どおり、つい に息子イサクが与えられたのです。

 ローマの信徒への手紙の中で取り上げられるアブラハムの姿はどこか高く持ち上げられ ている印象を受けるかもしれません。今述べたようなアブラハムの失敗や罪について直接 語られることはありません。でも、パウロは創世記に記されているアブラハムのことをよ く知っていたと思いますし、彼の信仰を称賛して、彼は立派だから、神に義と認められた。 神に救われたのだということを言おうとしているのではないでしょう。そんなことを言っ てしまったならば、これまでパウロが一所懸命論じてきた、「信仰によって義とされる」と いうことが嘘になってしまうからです。アブラハムは神様の約束を確信することができた 時もありましたが、時に不信仰に陥りましたし、疑いの思いに捕らわれることもよくあっ たのです。にもかかわらず、20節で「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことは なく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」と言い切っています。このこと に矛盾を覚えるかもしれません。でも、そこで「いや矛盾ではない」と言うことができる のはどういうことなのでしょうか。最終的には、アブラハムの中にある力や強さによって、 疑いを乗り越えることができたということなのでしょうか。そうではないと思います。自 分たち人間の中にある可能性だけを見つめ、どう考えても希望を持つことができないと言 って、不信仰に陥る者を救ってくださる。これが神の救いであり、約束です。「希望するす べもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ(るということ)」、これが神がお与えに なった救いの道を生きるということです。

 そして、このアブラハムに起こった出来事は、彼一人のために起こった出来事ではなく、 23節以下に記されていますように、私たちにも与えられているということです。私ども もまた、イエス・キリストによって、救われ、神様の前に義と認めていただいた存在であ るからです。もう一度、23〜25節をお読みします。「しかし、『それが彼の義と認めら れた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのため にも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、 わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたし たちが義とされるために復活させられたのです。」パウロは、イエス・キリストをとおして 与えられる救いということを語る時に、ここでは、特に「復活」ということに焦点を当て て語ります。アブラハムにおいても、私どもにとりましても、共通するのは「死」という 問題であるということを言いたいからだと思います。ただアブラハムあるいは妻のサラの 場合は、いわゆる私どもが普通考える「死」ということではないようです。19節をもう 一度見ていただきますと、100歳になっていたアブラハムの「体が衰え」、サラの体も「子 を宿せない」とあります。この「衰える」とか「子を宿せない」という言葉は、「死んでい る」と訳せる言葉なのです。もう年老いて、子を産むことができない。そういう意味で、 二人は死んでいるということなのです。

 一方で、私たちが経験する「死」というのはどういうものなのでしょうか。もちろん、 歳を重ねれば、子どもを産むことはできないでしょう。でも、パウロが言っている今の私どもの死というのは、私たちが本当に死んでしまうということです。それも病気や事故で 死ぬとか、老いて死ぬとか、そういうことではなくて、最後の25節にありますように、 「罪」のゆえに死ななければいけない存在だということです。私ども人間にとりまして、 歳を重ね、これまで当たり前に出来ていたことが出来なくなること、老いとともに、自分 の中にあった希望、可能性が段々となくなっていく。そのことを受け止めなければいけな いということは、たいへん辛いことです。しかし、最後には死んでしまうということ、し かも、罪の報いとして死ななければいけないこと。これは、ある意味、アブラハムが抱え ていた「老い」という問題よりも深いものがあると思います。

 しかし、神は私どもを憐れみ、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そし て、十字架についてくださり、御自身のいのちをもって、私どもを贖い、救い出してくだ さったのです。神様の御業には、様々な奇跡と呼べる出来事があります。アブラハムとサ ラの間に、子どもが産まれたというのも奇跡です。でも、奇跡の中の奇跡と呼べる出来事 が、キリストによって罪を赦していただくということ、そして、主の復活のいのちにあず かることではないでしょうか。アブラハムに子どもが与えられたという奇跡は、ひたすら 救い主イエス・キリストを目指すものであったらからです。これ以上にない神の大きな奇 跡に生かされ、今日の私どもがあるのです。

 新約聖書に先立って読んでいただきました創世記第15章は、アブラハムが神様の約束 を待ち切れずに、エリエゼルを養子に迎えようとした時に、神様がアブラハムに語り掛け た場面です。神はアブラハムを外に連れ出し、「天を仰いでみなさい。」「そして、夜空の星 を数えてみなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と、もう一度約束してくださったの です。アブラハムは一所懸命、神の約束がどのように実現するかを考えました。自分たち に子どもが与えられなければ、何も始まらないのですから、子どもが与えられるというの はどういうことかをいつも考えていたのだと思います。ある説教者は、アブラハムは自分 の「家の中」の問題を一所懸命考えていた人だと言いました。私ども、家の中に、あるい は自分自身の中に、色々と問題を抱えながら生活をしています。でも、神様は、アブラハ ムを「外」に連れ出したように、私どもを同じように「外」に連れ出してくださるのです。 自分の中、自分の内側にある問題、それは当然無視することはできないのですけれども、 自分にこだわり続けていても、本当の意味で何の解決にもならないのです。神様によって 外に連れ出していただかなければ、どうしようもないのです。

 そして、神様がアブラハムを外に連れ出し、夜空の星を見せてくださったというのは、 何か美しい自然の姿を見て、硬くなっていた心が和んだとかそういう話ではありません。 神が外に連れ出す理由は、御自身の約束の言葉をもう一度聞かせてくださるということで す。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこ のようになる。」(創世記15章5節)。アブラハムは、この神様の約束を信じ、義とされた のです。

 そして、神様が私どもを「外」に連れ出してくださるという時、それは主の日毎に、こうして神様によって招いていただく「礼拝」のことではないでしょうか。それは、単なる 気休めというものではなく、神様を神様として礼拝し、賛美し、御言葉に聞くところでは じめて与えられる恵みです。自分の中には何の希望もないかもしれません。見えてくるの は、弱さであったり、ドロドロした思いであったり、どうすることもできない問題であっ たりすることと思います。でもそういうところで、なおも望みを抱いて、信じることがで きるように、神様が今朝もここに招いてくださいました。イエス・キリストをとおして、 神様が成し遂げてくださった救いの御業を、信仰をもって受け入れたいと思います。その 時に、神様は私どものことを義と認めてくださるのです。私どもの歩みを確かにする神の 恵みがここにあるのです。お祈りをいたします。

 罪と死というまったく望みなき場所に座り込んでいた私どもを救うために、神よ、あな たは御子をこの世界に遣わし、救い出してくださいました。私どもの中に、希望するすべ がなくても、あなたの中に希望があるからこそ、なおそこで望みをもって生きる道を、こ こに拓いてくださいました。感謝をいたします。私どもの生活には様々なことが起こりま す。その度に、心が揺らぎ、神様の恵みを疑ったり、小さく見積もってしまう罪がありま す。しかし、神様、あなたに望みを置くことができますように。そして、あなたが与えて くださるキリストの恵みによって、義とされている幸いの中に立ち続けることができます ように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。