2022年06月19日「最も美しいもの」

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聖書の言葉

6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。フィリピの信徒への手紙 2章6節~11節

メッセージ

 八木重吉というキリスト者の詩人がいます。肺結核を患い、29歳という若さで天に召されました。短い生涯のなかで心に響く数々の詩を残した人です。そのなかに、「うつくしいもの」という詩があります。こういう詩です。

  わたしみずからのなかでもいい

  わたしの外の世界でもいい

  どこかに「ほんとうに 美しいもの」は ないのか

  それが敵であっても かまわない

  及びがたくても よい

  ただ 在るということが 分かりさえすれば

  ああ ひさしく これに追うに つかれたこころ

 美しいものを追い求める気持ちと、それをまだ見出すことができない悲しみがこの短い歌のなかで歌われています。八木重吉だけではないでしょう。人は誰でも美しいものに憧れています。美しいものに触れ、美しいものを手にしたいと願う心を持っています。美しい絵を見たり、美しい自然の世界に触れると心が癒されます。美しい音楽を聞くと、心が踊り、豊かになります。本当に美しいものに触れると、自分が生まれ変わったような思いにさえなるのです。

 なぜ人は美しいものを求めるのでしょうか。それはこの世界のなかに「本当の美しい」と言えるものを見出せないからではないでしょうか。見た目に美しいものは、この世にたくさん存在するかもしれません。しかし、人間の思いや人間の力を超えた美しさ、どのようなことがあっても輝きを失わない本当の美しさが、何であるかが分からなくなってしまっているのです。そして、結局は疲れ果てて倒れ込んでしまっている。それが人間の姿ではないでしょうか。

 もし自分の人生を、この世界の姿を正直に描き、そこに色を塗るとしたら、私どもはどのような色をそこに塗ることができるでしょう。塗り絵や絵を書きなさいと言われれば、いくらでも綺麗な色で描くことができるのです。しかし、私自身のこと、この世界の本当の姿を描き、そこに色を塗りなさいと言われると困るのです。本当はカラフルな世界、美しい世界を描きたいと願いつつ、どこか暗い色を選んでしまうかもしれません。なぜなら、自分のなかにも、この世界にも深い闇があることを知っているからです。実際にこの目で見ているからです。感染病が流行り、今も戦争やテロが世界の各地で起こっています。暴力があり、いじめや差別があります。貧困があり、飢餓があります。また、突如、大きな災害や事故に巻き込まれることがあります。終わりが見えない試練や苦難のなかで苦しんでいる人もいるでしょう。そして、最後には死という厳しい現実が誰の人生にも待っているのです。だから、虹のような美しい色でこの世界を描き、まさにバラ色と言えるような鮮やかな色で自分の人生を描きたいと願いつつも、実際は真っ黒に塗り潰したり、薄暗い色になってしまうのではないでしょうか。本当に美しいものとは何なのでしょう。果たしてこの世界に本当に美しいものがあるのでしょうか。死にかかっているような人間がいのちを吹き返し、再び真っ直ぐ立ち上がることができるような、本当に美しいものがこの世界にあるのでしょうか。あるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか。

 私どもが日々、耳を傾けている聖書の御言葉もまた「美しさ」というものを語ります。偽りの美しさ、途中で色褪せてしまうような美しさではありません。神が造り出す美しさです。いや神そのものが美しいのです。その神の美しさに触れる時、私たちの生き方もまた美しいものとされます。先程フィリピの信徒への手紙の御言葉を共に聞きましたが、それに先立って詩編第113編の御言葉を朗読していただきました。先に詩編の御言葉に目を留めたいと思いますので、もう一度開いていただければと思います(旧約954頁)。詩編第113編は、旧約の時代から新約の時代を貫いて、聖書が語る最も美しいものとは何かを語っている御言葉です。ただ一読した限りでは、何か大きく心が揺さぶられるとか、激しく感動するということもないかもしれません。詩編第113編だけでなく、他にもよく知られている詩編はたくさんあります。これこそ神の美しさを映し出している詩編と呼べるものがいくつもあるのではないかと思う人もいるでしょうか。

 この詩編は、「賛美の詩編」と呼ばれます。初めの1節から「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。」と歌い始め、次の2節、3節も主の御名がたたえられるように、賛美されるようにと歌います。最後の9節にも「ハレルヤ」と神を賛美します。詩人が賛美するのは、ただ一点、「主の御名」です。「主の御名」というのは、名は体を表すというように、神様そのもののことですが、具体的には、その神様がお選びになった「イスラエルの民」に顕された神様のお働きであり、御力であるということです。「イスラエルの民」というのは、今日では「新しいイスラエルの民」と呼ばれます。つまり「教会」のことですから、主の御名を賛美するというのは、私たち教会に、教会に連なるお一人お一人に顕された神様の御業です。その神の素晴らしさを私どもは礼拝のなかで賛美しているのです。

 聖書における美しさとは、いかなる美しさなのでしょうか?新約の時代に大きく影響を及ぼしたギリシア世界においては、姿や形の美しさが評価されました。美しさとは、明確な形式ないし形相を指すそうです。姿・形がはっきりしているということです。ダビデ像などがその典型的なものであるかもしれません。そのはっきりした姿・形を観賞して、そこに耽ける、魅了されるのです。あるいは、芸術作品のように見た目の美しさというよりも、人間そのものの中にある美しさを求めている人もいるでしょう。例えば、誰にも言えない苦しみがあったとします。しかし、その苦しみを乗り越えたところで、初めて見えてくる清らかな世界に美しさを見出すという人もいるでしょう。そのような人の一所懸命に生きる姿に心惹かれる部分は確かにあると思います。しかし、聖書が語る美しさというのは、どうもそういうことそうではないようです。聖書も私ども人間一人一人が、誰にも言えない苦しみを引きずりながら生きているということ。そういう人間の姿を幾度も映し出します。聖書が語る美しさというのは、その苦しみの世界のなかに、私どもの現実のなかに神様御自身が下って来てくださる。その動き、その神の行動に本当の美しさを見るのです。聖書の美しさというのは、行動する美しさであるということです。

 詩編第113編の後半、4〜6節をご覧ください。「主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる。」ここには「高く」という言葉が、2回使われています。4節の「天を超えて」という言葉は、「天よりも高く」というふうに訳せますから、そうしますと、「高く」「高く」「高く」というふうに、神様というおかたは私どもを遥かに超えて、天高くにおられるお方であるということが強調されていることが分かります。その遥か高いところにおられる神が何をしてくださったか。そのことが6節で語られるのです。「なお、低く下って天と地を御覧になる。」こここに「低く下って」とありました。神の美しさとは何であるかを語る大切な言葉です。ずいぶん前の文語訳聖書では、「己を卑しくして」と訳されていました。「己を卑しくして天と地をかへりみたもう。」「低く下って」「己を卑しくする」。この言葉は他の詩編のなかでも用いられています。詩編第147編6節です。「主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」「倒される」というのが、低く下るということです。他にも、「地に投げ捨てられる」とか、「地面に引き降ろされる」と訳されているものもあります。倒されるのも、投げ捨てられるのもずいぶん激しい動きです。痛みや傷を負うような激しさです。詩編第147編では、悪い者を神がそのように投げ捨てられるというのです。神の裁きの激しさを表すものですが、本日の詩編第113編ではそうではないのです。神様御自身が己を卑しくするというのです。神様御自身が投げ捨てられ、引き倒されるような激しい経験をなさるというのです。聖書が語る神は、御自身を投げ捨て、低きに下る神であるということです。ここに神の美しさがあり、その美しさをたたえて、神を賛美するというのです。

 また、「低く下って」という言葉は、ある一定方向に向かう行動を示す時に用いられる言葉です。神はどこに向かって、具体的に下って行かれるのでしょうか。そのことが、7〜9節に記されています。「弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」つまり、「弱い者」「乏しい者」「子のない女」に向けて、神様は行動を起こされるということです。「弱い者」「乏しい者」「子のない女」という人たちは、当時の社会においては生きる意味のない人間、名もなき人間と見做されていたところがありました。天よりも高いお方が、つまり、私どもの想像を絶する高さにおられるお方が、自らを投げ捨てて、低く下って来てくださったのです。なぜなら、私ども一人一人が、誰の助けも借りることができない苦しい現実、孤独な現実を抱えていたからです。それらの苦しみや悲しみを引きずらなければ、生きていくことができないという悲惨な現実があるからです。美しいカラフルな世界を、そして美しい人生を描きたいのに、目の前の現実はどう見ても真っ暗なのです。いや、深い闇に覆われていることにすら気付かず、表向きは明るく生きているのかもしれません。しかし、この人間の闇のなかに神様が下りて来てくださいました。自らを投げ捨ててくだったのです。これが聖書の語る本当の美しさであり、神の美しさなのです。

 しかし、「低く下る」というのですけれども、想像を絶する高いところから己を投げ捨てるとどうなるのでしょうか。それは、「美の破れ」というものが起こるのではないでしょうか。美が破れてしまったならば、もはや「美」とは呼べません。聖書の美というのは、美が破れ果てた美しさであるということです。それほどに激しい美しさであり、バラバラに破れ果て、粉々になり、深く傷ついた美しさであるということです。生きる価値などないと社会からそのように思われ、自分でもいのちの価値を見出せず絶望している者。罪やあらゆる苦しみを背負って一歩も歩くことができず、倒れ込んでいる者を救うために、神様は低く下って来てくださいました。「あなたは神に受け入れられている。神から愛されている価値ある者」であるということを明らかにするために、神様は自らを投げ捨ててくださいました。闇に覆われ、醜さや惨めさしかないようなこの世界に、天の高いところから下って来てくださいました。

 そして、この出来事こそ、まことの神であられるイエス・キリストが、まことの人としてこの世界にお生まれになったクリスマスの出来事です。天から低く下って、この地上に来てくださったこと。それだけで十分に激しいことですが、主イエスの地上の歩みはいったいどこに向かっていくものであったのでしょうか。私どもを救うために、何を目指して進まれたのでしょうか。それが「十字架」です。主イエスは、神の呪いと裁きを意味する十字架について死んでくださいました。神の御子が、少し痛みや傷を負ったというのではなく、御自分のいのちをすべて差し出し、犠牲にならなければいけませんでした。美しいものが、美しい神のいのちそのものが破れ果てる出来事、それがイエス・キリストの十字架です。主イエスの十字架をとおして神様は私どもに今も語りかけておられます。「あなたは神に見捨てられて滅びるようなことがあってはいけない。あなたではなく、わたしの御子があなたの惨めさも、闇も、罪もすべて背負って十字架で死ぬ。だからあなたは救われる。あなたはわたしに愛されている神の子なのだから!」その神の御心に従って、御子イエス・キリストは従順に歩まれ、十字架についてくださったのです。ここに本当の美しさがあるのです。

 私どもは自分の価値を見出すのに、誰よりも努力したり、誰よりも苦しんだり、そういうことによって、自分の価値や幸いを手に入れるのではないのです。誰よりもお金を払って、最高の価値を手にするのでもありません。八木重吉の詩にもありましたように、私どもはこの世のもの、この世にある美しさを求めてあちこちと探し回るのですが、結局は疲れ果てて終わってしまうのです。しかし、本当の美しさというのは天のほうからやって来るのです。神様にしか与えることができない救いを与えるために、神様は御自分の御子を私どもに差し出してくださいました。それも救いというのは、ただ神の恵みによって与えられるもの、神から無償で与えられるものです。

 この本当の美しさに触れる時、つまり、主イエスと真実にお会いする時、私どもの歩みは変えられます。新しい生活が始まります。神様が与えてくださった美しさ、人間が本来持っている美しさに生きることができるようになります。それが詩編の詩人がしていましたように、神を賛美して生きる生活です。洗礼を受けてキリスト者になるということはどういうことでしょうか。それは賛美を歌う人間になるということです。賛美というのは、人間の根幹に関わることです。人間とは何か?と問われれば、それは神を賛美する人間と答えることができます。そして、神を賛美するというのは、何か漠然としたことではなく、例えば、具体的に礼拝で歌っているような賛美歌を日曜日だけではもちろん、普段の生活の中でも口ずさむ人間となるということです。別に声に出さなくても、心の中だったらいくらでも歌うことができます。キリスト者というのは、歌う存在であり、生きることは歌をうたうことを一つのことです。

 十字架で死んだ主イエスがお甦りなり、聖霊によってキリスト教会が誕生しました。礼拝の中でキリスト者たちは賛美を歌い続けました。先程の詩編もまた、彼らの賛美の歌となりましたし、教会の中でも多くの賛美の歌が生まれ、歌われ続けていました。使徒パウロがフィリピの教会に宛てた手紙を読みました。第2章6〜11節の御言葉は、「キリスト賛歌」と呼ばれるものです。パウロがつくった賛美歌ではありません。教会が以前から歌い続けた歌です。

 パウロがここで賛美しているのはひたすらイエス・キリストのことです。キリストとは誰であるのか。キリストに何が起こったのか。そして、救いがどのようにして起こったかを歌うのです。私どもは自分の心や自分が置かれている環境といったふうに、自分の中にあるものどうしても歌いがちです。だから、歌う気分にならないと歌えないということになるのです。しかし、パウロは違います。自分の思いや感情の外にあるもの歌います。自分の外で起こっていることを歌うのです。つまり、イエス・キリストが自分のために何をしてくださったかを歌うのです。ひたすら思いをキリストに向け、キリストをたたえます。私どもの心はいつも揺らいでしまいます。そのような自分の心を頼りにしていたら、賛美を歌うことはできません。しかし、神様がキリストをとおして、私どものためにしてくださったことは揺らがないのです。そこに賛美の歌が生まれます。

 パウロがこの歌のなかで強調していることは、6節にあるように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わ(なかった)」ということです。固執するという言葉の元の意味は、「獲得する」ということです。「固執する」ことと「獲得する」ことがどう結びつくのか、少し分かりにくいかもしれません。しかし、私どもそうですが、獲得するというのは、要するに、手に入れるということです。そして、やっとの思いで手に入れることができたならば、当然それを大事にして手放すことがありません。誰にも渡しません。まさに、獲得したものに固執するということが起こります。それこそ、私ども人間の場合、欲望の虜になりますと、がむしゃらに、なりふり構わず、それを手に入れようとするところがあるのではないでしょうか。どう猛な獣が獲物に飛びかかるようにして、何がなんでも捕まえる。そして捕まえたら、足で押さえつけ、誰にも譲らないのです。固執するというのは、罪ある人間の姿を表しているような言葉です。

 しかし、主イエスはそのような人間の罪を打ち砕き、滅びのなかから救い出すために、天から身を投げ捨てて降りて来られました。わたしは神であるという、その身分に固執することなく、むしろそれを7節にあるように、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ(た)」というのです。「かえって自分を無にして」というのは、キリストが神であられることをおやめになるということではありません。主イエスというお方は、半分神で半分人間というのでもありません。また、人間の姿を装っているだけというのでもないのです。「無にする」というのは、注ぎ出すということです。容器や入れ物に入れて保存していたものを全部、空っぽにすることです。自分を無にするほどに、完全に注ぎ出すことをいたしませんと、本当の意味で人間になることはできないからです。神はまことの神でありながら、まことの人であられるお方です。

 そして、キリストは私どもと同じ人間というのですけれども、それは何か強い権力を持ち、豊かな財産を持つ立派な人間というのでなくて、人間は人間でも「僕」の身分になられたというのです。「僕」というのは「奴隷」ということです。主人や他の人間に無報酬で仕える人間です。同時にそれはひたすら父なる神の御心に従順に仕える歩みであることをも意味しました。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。パウロが強調したかったのも、主イエスが「十字架の死に至るまで」従順であったということです。「それも十字架の死に至るまで」という一文は元々の賛美歌にはなかったのではないか、あとでパウロが付け加えたものではないかと今では言われています。第3章を読むと分かるのですが、どうも十字架に敵対する者が教会にいたというのです。十字架につけられたキリストのことを忘れて、自分の正しさ、自分の欲望のままに再び生きようとした者がいたのです。だから、ただへりくだって、ただ従順でということだけでなく、「それも十字架の死に至るまで」という言葉を付け加えて、十字架のキリストに心をもう一度向け直してほしいと願ったのです。遥か天高くにおられる神が身を投げ出して、低く下って来てくださいました。ここに神の愛の美しさがあります。しかもそれは破れ果てた美しさです。その主イエスに表された神の愛が最も美しく輝く場所こそが十字架なのです。十字架は、極悪人を処刑するための残酷なものですが、それよりも大きなことは神の呪いを意味したということです。神に呪われ、見捨てられる死であったということです。いのちの輝きなど何一つ見ることができないキリストの十字架のなかに、実は神の愛の美しさがあるのです。

 どうしてでしょうか。この世において、誰かのために死ぬということが時にあるかもしれません。そのような死を、周りの者は痛みを覚えつつも、誇りに思うことでしょう。「本当に立派な死を遂げた」「本当に美しい死だ」と言って、その人を「英雄」と呼ぶかもしれません。誰かのために死ぬというのは、自分のすべてを犠牲にすること、一度しかできない尊いことだからです。しかし、キリストが私どものために死んでくださったというのは、罪人である人間のために死んでくださったということです。この世の中で、罪人のために喜んで自分のいのちを差し出す人がいるでしょうか。罪人のために死ぬことを誇りに思う人がいるでしょうか。誰もいないと思います。こんな無駄な死に方はないと、誰もが思うのです。しかし、父なる神は、激しい痛みを覚えながらも、御子のいのちを惜しみなく私どものために差し出してくださいました。主イエス御自身も十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたのです。私どもを救うための叫びです。

 パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で次のような言葉を語ります。今日の御言葉とも重なり合う言葉です。「あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。」(コリント二8:9)十字架の死に至るまでの徹底したヘリくだり、そしてその貧しい歩みが、私どもを豊かにしました。それは、自分を誇るための豊かさでないことは明らかです。人間の本当の豊かさとは何でしょうか。人間の本当の美しさとは何でしょうか。それは第2章の3節や4節にあるように、利己心や虚栄心から解放されて、相手のことを自分のことのように大切に思うことではないでしょうか。他人と比べて、私はあの人よりも優れているとか、劣っているとか、そんなことでいちいち思い煩うのではなく、お互い優れた者と考えて、神様に喜ばれる群れをつくりあげていくことではないでしょうか。そして、そのような豊かな人間として、私どもを新しく造ってくださった神を礼拝し、賛美すること。ここに私ども人間の本当の美しさがあるのです。

 さて、9節以下の御言葉は、賛美歌でいうと2番目の歌詞ということになります。ここでは、主語が「キリスト」から「神」に変わっています。神が十字架で死んだ主イエスを甦らせてくださり、天高くまで引き上げてくださいました。そして、すべての者がキリストの前でひざまずき礼拝する姿を歌います。また、11節では、「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて」(11節)とあるように、賛美の言葉と、自分たちに与えられた信仰を言い表す言葉が重なっています。信仰というのは、心の中でぼんやりと思っているだけでは分からないことがあるのです。口ではっきりと言い表さないと信仰は生きてこないのです。神様から与えられた信仰が、本当にあなたの中で生きたものとなるためには、公に言い表すことなのです。

 キリストについて、また神について賛美し、告白すべき言葉はたくさんあります。でもここでは一つのことが言われています。「イエス・キリストは主である」ということです。生まれたばかりの教会が大事にしていた信仰告白の言葉でした。「主」というのは、私ども「主人」ということです。考えてみると、自分を支配しているものはたくさんあります。知らず知らずのうちに、色んなことに捕らわれてしまうということがあります。何よりも問題は、自分自身を自分の主人にしてしまうということでしょう。そこで私どもは解き放たれているのでしょうか。自由になっているのでしょうか。そうではなくて、奴隷のようになってしまっているのかもしれません。しかし、キリストが罪の奴隷から解き放って、自由にしてくださいました。だから、自分にこだわり続けなくてもいいのです。従うべきお方は、イエス・キリストただおひとりだからです。

 ある説教者が、説教の中でこのような例話を紹介していました。第二次世界大戦の時、ヨーロッパのある兵士が飛行機に乗っていたら、敵の飛行機に囲まれて、追撃されそうになったのです。それで、とうとう落下傘(パラシュート)で飛び降りたのだそうです。実はこの兵士はこれまでパラシュートを開いたことが一度もなくて、この時も飛び降りたのはいいものの恐くて中々紐を引くことができませんでした。でも、やっと紐を引くことができていのちが助かったのです。この話を聞いた他の人たちは、「初めてなのにたいしたものだ」と感心したそうです。そうしたら、その人は「自分は、この紐を引っ張る以外には、望みはないと思ったらから、夢中になって引っ張ったのだ」と答えたのだそうです。

 この例話を紹介した後に、その説教者は次のように言いました。「私たちは信仰生活をしていて、この紐を引っ張らなければ、自分は生きられない。だから、これに頼る以外はないと、切実な思いをキリストに対して持っていないとすると、キリストはあらゆる名に勝る名を与えられたとか、謙遜になられたとか、キリストが甦えられたとか言ってみても、それは力にはならないのです。この世の中に、これ以外に、われわれに救いがなかったということを知るほかないのです。」「イエス・キリストを主」と告白することは、「イエス・キリスト以外に救いはない」と切実な思いで告白し、救いの紐を引っ張ることです。教会は「イエス・キリストを主」と告白する信仰共同体です。キリストの名のもとに集まり、キリストの前にひざまずき礼拝をささげます。賛美の歌をうたい、キリストの信仰を告白します。本当に美しいものと出会うために、私どもはここで十字架の言葉を聞き続けるのです。お祈りをいたします。

 真っ黒に塗りつぶしたくなるような惨めさがこの世界を覆っています。自分自身の中にも目を覆いたくなるような闇があることにふと気付かされ、怖くなることがあります。しかし、主よ、あなたはこのような世界に低く下って来てくださいました。キリストが私どものために十字架についてくださいました。主の十字架に神の愛が示されています。私どもが求めていた本当の美しさがここにあります。疲れ果てることがあっても、そのような私ども御前に招いてくださる主の御声によって魂を生き返らせてください。私どもの歩みがひたすら神を賛美する歩みとなりますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。