2022年06月12日「神を信じる生活とは」

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神を信じる生活とは

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
創世記 22章1節~19節

音声ファイル

聖書の言葉

1これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、2神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」3次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。4三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、5アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」6アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。7イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」8アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。9神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」13アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。15主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。16御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、17あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。18地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」19アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。創世記 22章1節~19節

メッセージ

 ある方が「忍耐について」という本を記しました。その中でこのようなことを言っています。一部を書き抜いてきました。「信仰とはどのような深刻な事態の背後にも神の愛のみ手をみる。人生の苦難の背後にも神の愛の支配を…みるのである。このように現実を透徹した眼をもって見、現象の背後にあるものを透視するものこそ信仰なのである。」「忍耐について」というよりも、「信仰とは何か」ということについての言葉であると言ってもいいでしょう。信仰とは何か?信仰をもって生きるとはどういうことなのか?これらのことを真剣に考える生活の場面というのは、まさに忍耐しなければいけないような深刻な事態に置かれた時なのだと思います。人は苦難を経験する時、神は本当に生きておられるのか?私の人生とは何なのか?をどうしても考えてしまうものです。また、既に信仰に生きている者たちが苦難を経験する場合は、少し意味合いが違ってくると思います。そもそも神から与えられた信仰とは何なのか?これまで「これが確かだ」と信じて生きてきた私の生活は何だったのか?というふうに、もう一度、根本から信仰者としての自分の歩みが問われるような思いになります。キリスト者が味わう苦難というのは、既に神を知っているがゆえに、他の人にはない固有の苦しみというものがあるのではないでしょうか

 忍耐せざるを得ないような深刻な事態を経験する時、その苦しみを乗り越えるためには、文字通り忍耐するしかない。じっと歯を食いしばって、苦しみが去るのを待つしかないというところがあるかもしれません。じっと身を屈めて我慢している間に、それなりの傷を負い、痛みを覚えることもあるかもしれませんが、致命的な傷にならない限りは我慢して耐える他ない。それが忍耐することだと普通は考えるのです。その忍耐と我慢の力を身につけるために、何かの宗教に関心を持ってみたり、神様という遥か高いところにおられるお方に思いを寄せるということもあるでありましょう。そして、何かを信じて生きる生活、信仰生活もまた忍耐を積み重ねながら自らを清め、強い自分に造り上げていく。そういうふうに思っている人は意外と多いのではないかと思います。

 ところが、最初に紹介した本の言葉にありましたように、キリスト教信仰に生きるということはどうもそういうことではないようです。苦難の中で歯を食いしばって、忍耐するというのではないのです。そうではなくて、大切なのは「見る」ということなのだというのです。「苦しい」と言って、大きな石のように屈み込んでじっとすることや目を閉じてしまうことではないのです。目を逸らしたくなるような現実の中で、むしろ、大きく目を見開いて、見るべきものを見るのです。この場合の目というのは、心の目、信仰の目と言ったほうがいいかもしれません。直視できないような悲惨な現実が目の前にあるかもしれません。苦難というのはそういうことです。しかし、心の目だけはそこで大きく開くことができるのです。苦難の時だけではなく、キリスト者はいつも見るべきものを、ある意味でいつものように見るのです。「信仰とはどのような深刻な事態の背後にも神の愛のみ手をみる。人生の苦難の背後にも神の愛の支配を…みるのである。このように現実を透徹した眼をもって見、現象の背後にあるものを透視するものこそ信仰なのである。」神の愛の御手、神の愛の御支配が、このような現実の中にもあるということを見るのです。本を書いた方は、「透徹した眼をもって見る」とか、「現象の背後にあるものを透視する」と言います。どこかテレビに出てくる超能力者を思わせるような言葉ですが、キリスト者は別に超人になるわけではありません。よく考えると、私どもは見る力などないのです。目に見えている現実すら、まともに正しく見ることができないのです。まして、苦難の中で透視する能力など本当はないのかもしれません。しかし、そのような苦難の中で、なお神の愛の御手が見えるというのは、私どもの目の力が強いとか、信仰が立派だとかそういうことではないような気がします。本当は神様御自身が苦難の中にある私ども一人一人の前に立ってくださって、「これがわたしの思いだ」「これがあなたに対するわたし愛だ」というふうに差し出してくださっているからだと思います。私どもが神の愛を見失うことがあっても、神様は私ども見失うことはありません。どれだけ深刻な事態が私を取り囲んでいても、神様はすべてを見通し、私を見出してくださいます。神様の恵みは透き通るように、私どものところに届いてくるのです。だから、この神を信じて、あなたもまた神の愛を見つめて生きていこうというのです。

 本日は、旧約聖書・創世記第22章の御言葉をお読みしました。神様がアブラハムに語り掛ける場面から始まります。1、2節、「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が、『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」そもそもアブラハムとは誰なのか?と、教会に初めて来られた方などはそう思うかもしれませんが、彼のこれまでの物語を全部飛ばして、ここを読んだとしても、神様はここでとても恐ろしいと言いましょうか、残酷な命令をくだしておられるということが分かるのではないでしょうか。アブラハムにはイサクという一人息子がいたのですが、このイサクを焼き尽くす献げ物としてささげるようにと命じるのです。息子を丸焼きにしろということです。事故や病気で死ぬというのではありません。献げ物にするために、イサクに手をくだし、いのちを奪うのは父であるアブラハムです。これを聞くだけで、とても恐ろしいということにすぐに気付きます。神様は御言葉をとおして、「このように生きるように」と今も語り掛けてくださるお方ですが、このアブラハムに対する命令はあまりにも厳し過ぎる。何て過酷な命令なのだと誰もが思うのです。

 少しアブラハムという人について説明しますと、このアブラハムの物語は創世記第12章から始まります。この時も神様の約束の言葉から始まっていたのです。第12章1節、2節、「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」神様は、アブラハムに住み慣れた故郷を離れて、わたしが示す地に行くように命じられたのです。アブラハムは行き先も分からぬまま、ただ神の約束の言葉を信じて、旅立ったのです。この時アブラハムは75歳でした。そして、アブラハムの旅というのは、単なる旅というのではありません。この信仰の旅路にはとても大きな意味がありました。それはアブラハムに子どもが与えられ、さらにその子孫が広がっていき、やがて「大いなる国民」とされるということです。そして、彼らが神の祝福にあずかるという救いの約束です。その祝福の源となるべく、アブラハムは神の言葉に従って信仰の旅路を始めるのです。ただこの時、アブラハムと妻サラの間には子どもがいませんでした。ですから、救いが実現し、全世界の人々が祝福にあずかるためには、どうしても子どもが与えられられなければ何も始まらないのです。しかし、なかなか子どもは与えられません。10年経っても、20年経っても与えられません。その間、アブラハムは神の約束を疑ってしまうということもありましたし、家族が修羅場と化すような悲惨をも経験しました。しかし、その度に神様が御言葉を与えてくださり、「わたしの約束は確かだ」ということを繰り返し語ってくださったのです。そして、約束から25年経った時、つまり、アブラハムが100歳になった時、ついに与えられたのが息子イサクでした。

 ですから、本日の御言葉で神様がアブラハムに対して、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと命じておられるわけですが、この命令があまりにも厳し過ぎるというのはどういう理由からでしょうか。愛する子どもが死んでしまうとか、子どもを自分の手で殺さないといけないとか、待ちに待った子どもがやっと与えられたのにどうして?とか、もちろんそういう理由もあります。しかし、一番理解しがたいのは、神様がここで命じられたことは、かつて神様がアブラハムにお与えになった約束、いつもアブラハムに語ってくださった約束を自ら裏切る行為であるということです。「神様の救いの約束」と「イサクをささげなさいという命令」があまりにも矛盾しているのです。アブラハムが神の約束の言葉に従い、イサクが生まれたことによって、神の祝福が具体的に全世界に広がっていくのです。ですから、イサクには全世界の救い、祝福、そして将来がかかっていました。しかし、もしイサクが死んでしまえば、神様の救いの御計画はここで終わってしまうことになります。それなのになぜ、そのイサクをささげなければいけないのでしょう。神よ、あなたが私に約束してくださったことはいったい何だったのですか?ということになります。神よ、あなたは救いの約束に基づき、ここまで私を導いてこられました。私が幾度、過ちをおかしても、その度に約束の言葉によって立ち上がらせてくださいました。再び神の言葉を信じる者とさせていただきました。それなのに、なぜ御言葉の実現として与えられたイサクをささげなければいけないのでしょうか。アブラハムはそのような気持ちになったのだと思います。自分の過去も現在も未来もすべてが台無しになるようなことを神様はここで命じられたのです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」神様は嘘つきだ。神様がおっしゃっていることは矛盾している。神様は残酷なお方だ。色んな思いがアブラハムの心の中には渦巻いていたことでしょう。父親としての悲しみとともに、それを超えた神様に対する悲しみの思いでいっぱいになったことでしょう。

 当然、すぐに心の整理がつくはずはありません。しかし聖書を読みますと、私どもの思いに反して、アブラハムは神の言葉に従おうとする様子を見ることができます。3節に「次の朝早く」とありますようにすぐに山に向かう準備をするのです。何日も考え悩み抜いた上で、神様に従おうということではないのです。また、「次の朝早く」ということは、神の命令を真夜中に聞いたということが分かります。夢の中で聞いたのかもしれません。そうしますと、朝、目を覚ました時に、「私は悪夢を見た。神が私を試すなどというようなことはなさらないし、『イサクをささげろ』などという恐ろしい命令をするはずはない。やっぱりあれは夢だったのだ。」そう言って、神の命令を無視することもできたいと思うのです。しかし、アブラハムは言い訳を一切考えることもなく、命じられたとおり神の言葉に従おうとするのです。

 今日の御言葉にはアブラハム自身の言葉がそれほど多くはありません。しかも、イサクをささげるようにという神の命令を聞いて、自分がどれだけ悩んだとか苦しんだとかそういうアブラハムの心の声を表す言葉というものが一切ないのです。ただアブラハムは神様に命じられたとおりのことをしようとしました。しかし、アブラハムの心の声がないというのは、実は何も悩んでいなかったとか、神様のためなら息子のいのちを奪うことなど平気だということではありません。心の声がないというのは、無言であるということです。言葉を失っているということです。それだけ深いショックを受けているのです。これまで信じてきた神様とはまったく違う神様の姿を、ここで初めて見たからです。

 「神様とはこのようなお方である」「信仰生活とはこのように生きることだ」。私どもも信仰生活が長ければ長いほど、ある決まり切った信仰の型というものが出来上がってくると思うのです。しかし、ある時、その形が崩れるということがあるのです。神様は神様だけれども、今まで出会ったことのない神様に出会うことがあるのです。あるいは、ずっと聞いてきた御言葉が、苦難の中で突如違う響きを立てて迫って来ることがあるのです。慰めとして聞こえてくればいいのですが、厳しい言葉として聞こえてくることがあるのです。そして、神様のことも自分のこともよく分からなくなることがあるのです。アブラハムも同じでした。しかし、彼はそれでも従ったのです。神様のことが分からなくなって、言葉を失いながら、しかし静かに従うのです。「分からない」と言って立ち止まるのではなく、そこでなお神に従うことができるのだと聖書は語ります。神様に「従う」とか、「服従する」ということを聞きますと、従っている人は積極的に従っている姿を普通は想像します。自分を苦しめる者ではなく、神様に従うというのですから、嫌々従うというのはおかしな話です。喜んで、希望をもって従う。それが神に従うことなのだと誰もが思うのです。しかし、神に従うというのは、それだけがすべてではないというのです。この時のアブラハムのように、言葉を失い、何も分からないという中でも、神に従う道があるのだというのです。それが信仰に生きるということなのです。そして、神はそのような私どもの歩みを、決して軽んじたりなさらないのです。

 これまでに経験したことのない苦難の中にあるアブラハムですが、そんなアブラハムが受け止めていた確かな事実がありました。それはどのようなことがあっても、神は私の神でいてくださるということです。ここでの神様とアブラハムの対話はとても短いものです。1節、あるいは11節にあるように、「アブラハムよ」と語り掛け、「はい」と答えるだけのものです。この「はい」と訳されています言葉は、「私はここにいます」「私はここに控えています」という意味の言葉です。神よ、私は逃げも隠れもいたしません。いつもここにいます。あなたの前にいます。アブラハムは、私の神であるあなたと真剣に向き合って生きていきたいという思いをいつも持って歩んでいました。そのような普段の信仰の姿勢が、実は苦難の中で大きな意味を持つのです。神様が分からなくなるということがあっても、その神様と向き合って生きていくことができるように導かれるのです。

 さて、アブラハムと息子イサクは途中から二人だけになり、モリヤの地にある山に向かいます。

三日間の道のりです。どれだけの距離になるのでしょうか。80キロ、あるいは100キロくらいでしょうか。体力とともに精神的な疲れによって、足取りは重かったことでしょう。イサクをささげるために山に向かいますが、イサク自身、まさか自分が犠牲なるなどとは思っていません。薪はあり、火と刃物はあるのに、肝心の献げ物である小羊がいないことを不思議に思ったのでしょう。ついにイサクが口を開きます。「わたしのお父さん」。一気に緊張が広がります。イサクは父に言います。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」

 何気ない親子の会話のように聞こえるかもしれません。そして、8節の「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」というアブラハムの言葉は、イサクにバレないように何とか誤魔化そうとしている言葉。真実を明かすまでの時間稼ぎをしている言葉に聞こえるかもしれません。しかし、この8節の御言葉は本日の物語の中で、極めて重要になってくる御言葉です。アブラハムは、もし息子に「お前が焼き尽くす献げ物の犠牲になるのだ」「お前が小羊の代わりだ」などと言ったら、ショックを受ける、パニックなる。だから、イサクを落ち着かせるためにも、「神様がそのうち備えてくださるだろう。どっかに小羊はいるはずだ。だから気にするな。」そういう気持ちで言ったのでしょうか。決してそうではありません。

 「神が備えてくださる」という言葉。これはアブラハムにとってもそうですが、私どもキリスト者にとってとても大切な信仰の言葉です。この「備える」という言葉ですが、元々これは「見る」という意味の言葉です。英語で言うと、”provide”とか”providence”という言葉です。見ることに違いないのですが、「前もって見る」「あらかじめ見る」ということです。神様が私どもに先立って見ているものを見るということです。神様が私どものために見つけ出してくださったものを見るのです。神様が私どものために備えてくださっているものを見るのです。私どもを取り囲んでいる現実があります。目に見える様々な現実、心苦しくなるような現実があります。しかし、キリスト者は肉の目に見えている現象のその先を見るのです。何を見るかと言うと、そこで私の前方にある神様の備えを見るのです。しっかりと見据えるのです。この確信を抱いて、神様と共に歩んで行くこと。これが信仰の歩みです。

 この時のアブラハムにとって、目の前の現実の先にあるもの、神様が備えてくださるものは献げ物の小羊のことです。この時点ではまだ小羊の姿は見えていません。しかし、神が見つけてくださる、神の備えてくださる。このことを信じて歩み出して行くのです。8節の終わりに、「二人は一緒に歩いて行った」という言葉が終わりにありました。6節にも同じ言葉がありました。同じ「二人は一緒に歩いて行った」というのですけれども、明らかに6節と8節とでは足取りが違うと思うのです。6節の「二人は一緒に歩いて行った」というのは、とても足取りが重かったと思います。しかし、8節では明らかに足取りが軽いのです。なぜなら、神様が備えてくださるという信仰の事実を見ているからです。また、説教の最初にも申しましたように、深刻な事態の中に、神の愛の御手と御支配を見ているからです。苦しい現実に目をつむっているのでも、じっと我慢しているのでもありません。心の目を開いていただいて、苦しい現実の中に神の備えがあることを信じて二人は一緒に歩み出すのです。

 そして、普通に考えれば恐ろしいことなのですが、淡々と祭壇を築き、献げ物をささげる準備をします。神の備えがあることを信じているからこそできることです。イサクが縛られ、刃物によって父アブラハムの手で屠られるというまさにその時に、天から、主の御使いが呼び掛けます。「アブラハム、アブラハム…その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」イサクのいのちは助かったのです。そして、13節にあるように、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのです。この雄羊は神様がアブラハムのために備えていてくだったものです。そしてアブラハムがその神の備えを信じ、見つめていたものです。

 「神が備えてくださる」という信仰。これを別の言葉で「摂理の信仰」と言います。あるいは、「神の摂理」と呼びます。この神の摂理を信じる信仰と、正反対にあるものが「運命」と呼ばれるものです。神の摂理と運命というのは、まったく違うものです。まったく正反対のものです。だから、13節の山にいた雄羊というのは、「偶然」その辺りをうろついていて、丁度いいタイミングでアブラハムの前に現れたというのではないのです。運命も偶然もいい方向に転べば、その人に幸運をもたらすということになるかもしれませんが、いつも都合よく運が転がり込んでくるわけではないでしょう。苦難の時、人は奇跡が起こればと願います。幸運が起こればと願いたくなることでしょう。そして、時に本当に人間の思いを超えた出来事、人間の言葉では説明できない出来事が起こることがあります。しかし、一方で事態が何も良くならないということがあります。最悪の事態をもたらすこともあります。その時に、「ああ本当に運が悪かった。私は運命の星に見放された人間だ。」そのように自分に言い聞かせつつ、実は何の解決にも慰めにもなっていないということがあるのではないでしょうか。そして、偶然いいことが起こったと喜んだ人も、次は何が起こるかわからないのです。今はたまたま良かったと言うことができたとしても、将来は不安でしかないのです。しかし、神の摂理を信じ、神の備えがこのどうしようもない現実の中にもあるという事実を信仰の目で見ることができるならば、私どもは希望を捨てずに生きることができます。期待したような奇跡が起こらなかったということもあるかもしれません。しかし、そういう悲しみの中にも神様が生きておられるという事実を信じて生きることができるのです。神様のことも自分のこともよく分からないという苦しみの中にあっても、なぜか神様は私を見捨てることなく愛の御手を差し伸べてくださっていたということを知るのです。それが神の摂理を信じるということです。

 アブラハムは神様の摂理の御業を経験した、この山がある場所を記念しました。14節にこうあります。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」「主の山に、備えあり!」多くのキリスト者を慰め、励ましてきた御言葉です。ここで考えたいのは、アブラハムが感謝をもって呼んでいる「主の山」とはどのような山なのかということです。それは2節にあるように「モリヤの地」にある山のことに違いないのですが、ここでは地名のことではなくて、信仰的な意味で「主の山とは何を指すのか」ということです。まず山というのは、2節、3節、そして9節にあるように神様から「行くように」と命じられた山であるということです。そして、イサクを「ささげよ」と命じられた場所であるということです。そして、このことは最初の1節にあるように、神様によって試みられ、神様によってイサクのいのちが奪われてしまうかもしれない、そのような場所でもあったということです。しかし、アブラハムはその場所で神の備えを知ったのです。つまり、私を試みる山が、実は同時に備えの山であったということです。この信仰の事実をはっきりと見ることができるのは、神様が命じられる場所に向かう、その道においてでした。試みに遭いながらも、神様から離れることなく従って行く時に、私を試みる山は、私のために神様が備えていてくださる山でもあるという恵みを見出したのです。試練の中にも、神は確かに生きておられること。苦難の中でも、神は確かに私を愛してくださっていることを知ったのです。

 私どもにとっても同じです。「主の山に、備えあり」というのは、この山に行けばすべての必要があるから安心だという話ではありません。そうではなくて、「もうどうしようもない」という試みの中で、実は神様が私のために備えを用意してくださっていたという驚くべき恵みを経験したということです。あるいは、神様のお姿を隠してしまうような、分厚くて大きな苦難の壁に取り囲まれてしまうことがあるかもしれません。しかし、神様の愛の御支配がそれらの分厚い壁を打ち壊すと言いましょうか、透き通るようにして真っ直ぐ私のところに届けられたという圧倒的な経験したということです。だから、これからどのようなことがあっても、主の備えがあることを信じて、希望をもって生きていくことができる。それが、「主の山に、備えあり」という信仰の告白なのです。

 また、「主の山に、備えあり」という有名な御言葉ですが、ヘブライ語の細いニュアンスを含めて訳しますと、「備える」というのは「備えられる」という受身の言葉になります。また、「備える」という言葉は「見る」という意味でしたから、「見られる」という訳になります。つまり、「主なる神様は山で私どもに見られる」ということです。神は私どもを見つめておられるとともに、私どもに見られる神であるということです。分かりやすく申しますと、神様は私たちの前に現れてくださるお方だということです。だから、私どもは神を見ることができます。どのような時も私を愛してくださる神とお会いすることができるのです。そして、神が備えてくださったものをしっかりと見ながら歩んで行くことができる信仰が与えられていくのです。その場所が主の山なのです。神様と真実に出会うまでの道のりの中で、試練や悩み、葛藤を経験します。しかし、そのような私たちを神様は見捨てることなく導かれます。私どもの歩みを見守り、備えを与え、最後には出会ってくださる。このことは既に信仰に生きている人にも言えることです。神様の御言葉を聞き、それを受け止めて歩いて行きます。たとえすぐ理解できなくても、私に向かってくる言葉をしっかりと受け取って、静かに歩き続けるのです。そこで生きておられる神様との出会いが与えられるのです。

 私どもはこれからも様々な苦難や試練を経験することでありましょう。その度に、神様の備えがあることでありましょう。では、神様が私どものために備えてくださる最上のものとは何かということです。そのことを最後に考えたいのです。本日は創世記と併せて、ローマの信徒への手紙第8章の御言葉を朗読していただきました。その32節にこのようにありました。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」つまり、神様が苦難の中にある私どものために備えてくださる最も素晴らしいもの。それはイエス・キリストだということです。アブラハムの物語において、神様は雄羊を備えてくださっていましたが、実はそのもっと先に、「神の小羊」と呼ばれる御子イエス・キリストを備えていてくださったのです。そして、神は愛する独り子であられる御子イエスを惜しむことなく、十字架の死に引き渡してくださいました。イサクのいのちは助かりましたが、主イエスは十字架で死なれました。私どもの贖いとなってくださるためです。神の摂理の御業が確かであると言うことができるのは、キリストの十字架のゆえです。だから、試みに遭う中にあっても、そこにイエス・キリストが備えられているという事実を見ることができます。苦難の中でキリストに出会うことができます。キリストのゆえに、ますます神様に信頼し、神様に期待をして歩んで行きます。

 そして、「主の山」ということについて考える時、私どもがこうして主の日ごとに集う「教会」という場所こそが、まさに主の山なのではないでしょうか。「主の山に、備えあり」という告白と賛美をささげることができる場所、神とお会いできる場所がここにあるのです。私どもはここで小羊の犠牲をささげる必要はありません。キリストが私どもの罪を赦し、神のものとしてくださるために十字架で死んでくださったからです。御子さえも惜しみなく与えてくださる神は、主イエスを墓の中から甦らせてくださる神であるということを、私どもは礼拝の度に思い起こします。まことのいのちに生かされ、私どもは神の平安の中を歩んで行きます。苦難に遭っても、そこで偶然や幸運を期待する必要などありません。目を伏せて、しゃがみ込み、諦めに支配される必要もないのです。私どもの神は、イエス・キリストを与えてくださった神です。愛に満ちた神です。あなたのために先に良きものを備えてくださる神です。そして、その神御自身があなたの歩みの中に共にいてくださいます。神様が共にあり、今も生きておられるということをしっかりと見つめることができるように、私どもはここで神の御前に共に立ち、神の言葉を聞くのです。お祈りをいたします。

 神よ、私どもの人生には多くの苦しみがあります。苦しみの中で、あなたの助けを必要とし、あなたに愛されたいと願いながらも、その神様のことがよく分からなくなってしまうことがあります。しかし、あなたは御子をお与えくださるほどに私ども愛してくださいました。そのあなたが私どものために備えていてくださる良きものを見つめ、望みをもって歩むことができるように導いてください。また私たち教会もまた、この場所にあって、人々に生きる喜びを希望を指し示す存在として立ち続けていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。