2022年05月22日「真実を口にして生きる」

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真実を口にして生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 月に一度、十戒の言葉に聞き続けて、もうすぐ1年になります。本日は第九戒の「隣人に関して偽証してはならない」という御言葉です(出エジプト記20:16)十戒の前半は神様との正しい関わりに生きるための戒め、後半は隣人との正しい関わりに生きるための戒めだと言われます。正しく関わるというのは、「愛する」ということでもあります。神を愛し、隣人を愛して生きるために、私どもに何が必要なのかということです。第九戒において、「偽証してはならない」と命じられています。噛み砕いて言えば、「嘘を付いてはいけない」ということもできるでしょう。「相手に対して、いつも真実を語りなさい」ということです。つまり、私どもが普段、口にする言葉がここで問われているということです。お互いに真実を語り合う関係を築いていくこと。そこに良き人間関係、良き愛の交わりが形成されていくのです。

 このこともある意味では、すぐに納得できる教えではなかと思います。しかし、実際に生活の中で、私どもが隣人に対して、いつも真実を語っているかどうかは定かではありません。相手をおとしめるために、わざと偽りを語ることもあるかもしれません。反対に、相手を守るために、かばうために真実を語らないということもあるでしょう。あるいは、「何でも正直に語ることはいいことだ」と信じて語ったものの、結果としてただ相手を傷付けるだけで終わってしまった。本当に救いようのない言葉を語ったために、その人との関係が気まずくなったということもあるのではないでしょうか。意図的に偽りを語るのはもちろんいけないことですが、意図しなくても相手の心を傷付けてしまって、愛の関係を築き上げることができない。そして、その罪を神様の前で問われてしまう。これは本当に厳しいことであると言えるでしょう。

 ところで、この十戒における「偽証してはならない」という戒めですが、元々は裁判や法廷における「証人」に対しての教えであるということです。神の民イスラエルは約束の地に向かって旅を続けました。しかも10人、20人という数ではありません。男性だけで60万人いたと言われています。女性・子どもを合わせると180万人くらいいたのかもしれません。その中で、如何に信仰共同体をつくるのか。信仰共同体の交わりを形成していくのか。その交わりの秩序を整え、正していくのか。そのことがとても大きな課題でした。共同体の中で何か問題が起こりますと、これまではずっと民の指導者モーセが裁判官のような働きをしていました。しかし、モーセひとりで裁くことが困難になってきました。それで出エジプト記第18章を見ると分かるのですが、モーセのしゅうとであるエトロという人の助言によって、裁判における手続きを整えることになるわけです。十戒を授かる少し前の話です。

 今日、私どもが証人として裁判に呼ばれることは極めて稀だと思います。裁判員制度というものもありますが、頻繁に選ばれるわけではないでしょう。まして証人として発言する機会というのは、一生の内あるかないかという話になります。しかし、当時の人々にとっては、裁判というのは日常的に起こっていたことでした。それゆえ、証人として立たされることもよくあったのです。今の時代のように、何か問題や事件があったら、すぐに警察が来て、科学的な捜査をして、ありとあらゆるところから証拠を集めるなどということができる時代ではありません。頼りになるのは、その問題や事件の現場にいた人間です。その人が裁判の席で証人として証言する。そこに真実がかかっていたのです。証人の言葉がそのまま原告や被告人の運命を決定付ける言葉にもなりました。もし、そこで証人が偽証をするとどうなるでしょうか。最悪、被告人のいのちが奪われてしまうということにも成り兼ねません。裁判そのものに対する信頼も失われ、社会も、信仰共同体も崩壊してしまいす。偽証されたほうの人は深い傷を負います。その人の周りいる家族も大きな痛みを負うことでしょう。「偽証」という罪によって、一人の人を、その周りの人を、そして、社会全体をも大きく狂わせてしまうのです。だから、相手をおとしめるために、自分が利益を優先するために偽証してはいけないのです。隣人との健やかな関係性を築くことなど決してできないからです。

 私どもは、証人として裁判の席に立つことは滅多にないかもしれません。しかし、第九戒の戒めは、今を生きる私どもにはまったく関係のない教えなのでしょうか。「隣人に関して偽証してはならない」というのは、「裁判」という限定された場所においてだけ意味を持つ言葉ではないということです。裁判以外の場所なら、人に何を語ってもいいということにはならないからです。第九戒にある「隣人に関して」というのは、裁判だけではなく、いつの時代の日常においても存在します。つまり、私どもは普段の生活の中で隣人を評価したり、判断したりすることがたくさんあるということです。そして、隣人を評価・判断する際に、私どもは言葉を用います。言葉を口にします。その時、どのような言葉を語っているのでしょうか。第九戒は、私どもの日常生活の言葉が真実であるかどうかを問う教えでもあります。

 ハイデルベルク信仰問答と呼ばれる信仰問答書があります。問いと答えを重ねながら、神の救いについて、信仰生活について教えるものです。その中で、十戒の第九戒についてこのように教えています(問112)。「第九戒では、何が求められていますか。」と問うて、次のように答えています。その前半部分をお読みます。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。」つまり、陰口や悪口を言わないこと。また、この後には、あらゆる嘘やごまかすようなことをしないこと。それらは悪魔の業そのものだからと警告するのです。

 また、旧約聖書の箴言には次のような言葉があります。「陰口は食べ物のように呑み込まれ/腹の隅々に下って行く。」(箴言18:8)毎日、陰口を美味しい食物のように飲み込み、自分の腹を満たすのだというのです。キリスト者は普段何によって、自らを満たすのでしょうか。何が私を満たしてくれるのでしょうか。それは何よりも神様の恵みの言葉であるはずです。御言葉をとおして救いの恵みを味わいます。救いの恵みは美味しいということは知っているのです。そうしますと、私どもの口から溢れ出る言葉も、自然と神様への感謝と賛美の言葉となります。そして、それに留まらず、私どもは隣人を励まし、互いに良い関係を築き上げるために、心からの言葉を語ることに務めるはずではないでしょうか。しかし、再び、人は陰口の味わいを覚えてしまうのです。新約聖書・ヤコブの手紙の中で、伝道者ヤコブはこう言います。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(ヤコブ3:9-10)「賛美と呪い」、このふたつは相反することであり、決して、一つに交わることはないはずです。しかし、自分の同じ一つの口から、神を賛美する言葉が出たと思ったら、今度は人を呪う言葉、陰口や悪口が出てくるというのです。神に救われた人間として、本来あり得ない姿であり、あり得ないことがあなたの中で起こっている。その危機に早く気付くように。もう一度、真実の言葉を取り戻すように戒め、励ましているのです。

 十戒の言葉は、今回の第九戒めに限らず、「〜してはならない」という禁止命令が多くあります。その十戒の言葉の言葉どおりに、〜しないということ。つまり、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しないということをとおして、より良い人間関係を築き上げていくことができるということです。ただ、十戒を理解する上で、これまでもそうでしたが、文字どおり「〜しない」というだけでなく、積極的な意味として理解することがとても重要でした。「殺してはならない」というのは、その人が健やかないのちに生きることができるために何をしたらいいのかということでした。「姦淫してはならない」というのは、神様が賜物として与えてくださった結婚、夫婦の関係が如何に祝福されたものであるかを見直すことでもありました。では、今回の第九戒「隣人に関して偽証してはならない」という戒めを積極的に理解するとどういうことになるのでしょうか。それは既に説教の中で触れたことでもありますが、隣人に対して、真実を語るということです。そして、人を建て上げ、造り上げる言葉を語るということです。先程のハイデルベルク信仰問答の中でも、「さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する、ということです」というふうに、第九戒を積極的に捉え直しています。自分の利益を優先するために、隣人に対して偽証するのではなく、反対に隣人の栄誉と威信とを力ある限り守ってあげることに努めなければいけません。それゆえに、悪口を言ったり、陰口を言って、相手の評価を下げるようなことを言ってはいけないのです。

 使徒パウロはエフェソの教会の人たちに向かって語ります。神によって新しく造られた人間、つまり、キリストによって救われた人間はどのような生活をするのかということです。エフェソの信徒への手紙第4章25節です(新約357頁)。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」さらに29節、30節でこう言います。

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。…」29節の「悪い言葉」というのは、「腐った言葉」と言い換えることもできます。自分の口から出る言葉が悪臭を放つのです。その言葉を聞いたすべての者が、顔をしかめたくなる臭い匂いが、信仰共同体の中に、社会全体の中に充満するのです。しかし、あなたがたはそうであってはいけないとパウロは言います。まさにキリストの香りが教会をはじめ、共に生きる交わりの中でいっぱいになるように。そのために、あなたがたは真実を語りなさい。恵みの言葉を、人を造り上げる言葉を、そして、その人の役に立つ言葉を語りなさいと言うのです。

 しかしながら、人を造り上げるための言葉、役に立つ言葉を語ることが如何に難しいか。その大きな壁の前に立たされることが何度もあります。反対に悪い言葉であるならば、何も吟味せずに、すらすらと口にできてしまう自分に、恐ろしい思いと言いましょうか、絶望に近い思いさえ抱くことがあります。もちろん、私には隣人に対して、真実など語れないと諦めるのではなく、御言葉に従って、真実な言葉を口にして生きていきたいと皆願っていると思います。しかし、「偽証してはならない」という御言葉に生きることもまた、私どもの努力や修練で何とかなるような問題ではないということをいつも覚える必要があるでしょう。それは同時に、主イエスの救いの恵みを思い起こすことと一つのことです。

 十戒について解説しているほとんどの書物の中で、触れられている一つの出来事があります。それは、主イエスの裁判の様子です。なぜ主イエスが十字架につけられたのか。様々な角度から説明することが可能ですが、本日の御言葉との関わりから理解するならば、主イエスは人々の偽りの証言によって「罪人」とされ、十字架につけられたということです。十字架の死に値する罪など主イエスの中に一切ないということを分かっていながら、人々はその真実を捻じ曲げました。何としてもイエスを殺したいという思いで心が一杯になった時、真実に畏れるべきお方である神のお姿さえも見えなくなってしまいました。しかも、主イエスを捕らえ、主イエスを殺そうとしたのは、ユダヤの指導者たちです。人々の信仰を正しく導く者たちでした。そして、真実が明らかにされるはずの裁判の席で、彼らは平気で偽りの証言をしました。十戒の言葉などまるで知らないかのように、自分たちの益のために、真実の証言を偽り、主イエスを十字架につけたのです。

 そして、この裁判の場面で、御言葉を聞く度に不思議に思うのは、御自分について偽りの証言がずっと語られながらも、主イエスはひたすら沈黙を貫かれたということです。いくらでも自分の無実を主張し、あなたがたが如何に間違っているかを容易に指摘し、相手を打ちのめすこともできたでありましょう。しかし、主イエスはそれをなさらなかったのです。不気味なくらい沈黙を貫かれたのです。「お前はメシアなのか?」と問われて、「そうです」とお答えになっただけです。人々の偽りの証言を聞きながら、沈黙なさったのはなぜでしょうか。それは、主が真っ直ぐに十字架の道を最後まで歩む抜かれるためでした。偽りの証言をしてまでして、神の子である主イエスのいのちを奪いたいと願う人間の罪、神の御心など私の人生には邪魔だと思ってしまう人間の罪を、主イエスは十字架の上ですべて引き受けてくださいました。十字架の上においても、主は人々から侮辱されながらも、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と言って、赦しを神に願う言葉、祝福の言葉を口にされたのです。

 このことは、当時、主イエスを十字架につけることを企んだ指導者だけの話ではありません。すべての時代の人々、今日を生きる私どもにも決定的な意味を持つ出来事であるということを知っています。この主イエスの十字架の御業によって、私どもは罪から救っていただきました。真実を偽ってまでして、神様との関係を拒もうとする私どもの罪がどれほど恐ろしいことなのか。そのことにすら気付いていない私どもに代わって、主は十字架の上でいのちを献げてくださったのです。キリスト者の新しい歩みはすべて、真実の救い主である主イエス・キリストの恵みによります。この主イエスをとおして与えられている豊かな祝福の中で、私どももまた人を造り上げる真実な言葉を口にして生きていくのです。お祈りをいたします。

 偽りの思いで満ちているこの世界を憐れんでください。人の言葉によって自分が傷付くだけでなく、自分もまた隣人を傷付けてしまいます。私どもの言葉が隣人や自分自身だけでなく、何よりも神様を喜ばす言葉を口にすることができますように。キリストの真実によって生かされている私ども言葉が、日々、真実なものとなりますように御霊をもって清めてください。主の御名によって祈ります。アーメン。