2022年04月24日「盗まず、豊かに生きる」

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盗まず、豊かに生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 夕礼拝では、十戒から神様の言葉に聞いています。本日は第八戒の「盗んではならない」という御言葉です(出エジプト20:15)。「盗んではいけない」という戒めもまた、ある意味、誰もが心得ている常識的な教えであるかもしれません。「人のものを盗んではいけないよ」「人のものをとってはいけないよ」。子どもの頃、親からよく注意されたという経験がある人は多いと思います。「盗んではならない」という教えをきちんと守らなければ、子ども同士であっても、お互いの人間関係に亀裂が生じてしまうということはよく分かるものです。しかし、その当たり前の教えが、大人になっても、当たり前のように守られていない現実があるということを私どもは知っています。形あるものに限らず、目に見えないもの、例えば、自由や思想や時間といったものまでが盗まれる時代です。しかも、気付かない仕方で、巧妙に奪い取られてしまう。そういう現実が今もあるのではないでしょうか。

 そもそも、人はなぜ盗もうとするのでしょうか。盗みたいという思いに駆られるのは、自分に持っていないものを相手が持っているからではないでしょうか。自分は「持っていない」、自分には「ない」という言わば、劣等感のような思いに耐えることができないのです。自分には「ない」ということが恥ずかしい、そんな自分が嫌だ。だから、その欠けを満たすために、どんな悪いことをしてでも満たしたい、手に入れたいと思うのです。あるいは、今、自分が十分に満たされていると思っていたとしても、更に豊かになりたいという思いに捕らわれる時、誰かが貧しくなっても構わない。誰かが困っても、傷ついてもいい。自分が豊かになるためには、他人が犠牲を強いられても、自分の知ったことではない。そう言って、盗みに生きようとするのです。なぜ人は盗むのか。このことはキリスト者であるなしに関わらず、よく考えれば分かることかもしれません。そして、社会全体が、盗まない社会になるということは重要なことでありましょう。その上で、私たちがキリスト者として召されているということ、キリスト者として「盗まない」という神の言葉に生きる意義とは、いったい何なのでしょうか。

 そのことを少し考えたいと思います。「盗んではならない」というのは、「あなたは盗まない」という言葉です。ただ十戒本文では、何を盗んではいけないのか。その具体的なことについては一切記されていません。いったい何を盗んではいけないのでしょうか。この「盗んではならない」という戒めを考える上で必ず取り上げられる御言葉が、同じ出エジプト記第21章16節に記されています。ここは死罪に当たる重罪がどういうものであるのかが記されている箇所です。そこに次のような言葉があるのです。「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。」ここで言われているのは、「誘拐」ということです。「誘拐」という言葉は、「盗む」という言葉と同じなのです。誘拐というのは、人を盗むということです。当時は奴隷制度があったからという理由もあるかもしれませんが、誘拐して、その人を盗むということは、その人の自由や尊厳を奪うことになります。自分が自由になり、豊かになるために、他人の自由を奪ってはいけないのです。

 そして、「盗んではならない」という戒めは、神の民イスラエルに語られた御言葉であるということです。かつては自分たちもエジプトの地で奴隷の身分であり、自由と尊厳を奪われ苦しみを負って生きていたのです。その奴隷であったイスラエルの民をエジプトから救い出し、自由へと導いてくださったのが神様です。それゆえに、イスラエルの民は盗まれること、盗むことがどれだけ重いものであるのか。そのことを身をもって知っていたはずです。すべてを奪われていた自分たちを救い出し、再び、自由と生きる喜びをお与えくださった神様が、「盗んではならない」と命じられます。十戒の前文に、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト20:2)という御言葉がありました。十戒を理解する上で大切な言葉です。今回の第八戒でも、この戒めを語っておられる神様が、私どもにとってどのようなお方であるのかを思い起こす必要があるでしょう。

 そして、ここで言われている「盗むな」というのは、誘拐すること、人を盗むことだけではありません。だから、「人を盗むな」とは言わないのです。人であれ物であれ、目に見える物であれ見えない物であれ、盗んではいけないのです。また、自分はあの人に比べて少しか持っていないからとか、この世は不平等だからという理由で、盗みを正当化してはいけないのです。たとえ人の目を盗むことができても、神の目を盗むこと、神を欺くことはできません。そのように神様の御前にある畏れをもって生きるのです。

 また、私たちが所有するものは、すべて神様のものだからです。だから盗んではいけないのです。盗むことは神の所有を犯すことにもなるからです。イスラエルの民はエジプトの奴隷から解放されました。私どももキリストの十字架の血潮によって、罪の奴隷から解放されたのです。神によって救われた、贖われたというのは、私たちがすべて神様のものとされたということでもあります。それゆえに、私たちが所有する物というのは、すべて神様の物です。神様との交わりの中で、神様がそれぞれに必要な物を備え、与えてくださいます。私どもはそれを正しく管理し、生かし、用いることが求められているのです。第八戒に生きるというのは、「私の人生も私の所有物も、自分のものではありません。神様、あなたのものです」という信仰告白でもあります。

 私どもが十戒について学ぶ時、様々な文献に目を通しながら多くを学ぶことができるでしょう。なかでも、教会の歴史の中で生まれてきた「信仰問答」と呼ばれる文書をとおして、私どもは多くの恵みを学ぶことができます。ここで一つ紹介したいのは、朝の礼拝でも告白していますが、「ハイデルベルク信仰問答」と呼ばれるものです。その第110問でこのように言われています。

 問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。

 答 神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、私たちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとする あらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や 神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。

 盗むとはどういうことなのでしょうか。それは何か物を盗むとか、法律で定められているようなことだけではないということです。興味深いことに、「不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息」といった商売に関する言葉がいくつも並べられているということです。商売して儲けることがいけないわけではありません。しかし、不正な仕方で必要以上に儲けようとする。それは人の財産を盗んでいることと同じだというのです。悪徳商法や詐欺といったことを思い浮かべることもできるかと思いますが、その心の根っこにある貪欲の罪というものをしっかりと見つめなければいけません。あるいは、「不必要な浪費」も盗むことと同じであって、禁じられているのです。物資的に豊かな国ほど、無駄な浪費をしてしまいがちです。国が豊かになるというのは、手放しに喜べることではありません。その豊かさの背後で多くの人たちが犠牲になり、貧困が生まれています。神様がお造りになった自然も、人間の浪費のゆえに破壊されてしまっています。

 人はどうしたら盗みをやめることができるのでしょうか。はっきりしているのは、私どもと神様の関係が正しいものとされることです。2節に記されていた十戒の前文にもあったように、私どもの神様がどのような神様であるかを、繰り返し思い起こし、その救いの恵みを刻みながら生きることです。その時に、第八戒の戒めを「盗んではならない」という消極的な言葉でなく、より積極的な意味で捉えることができます。

 この点においても、先程のハイデルベルク信仰問答から多くを教えられます。続けてこのようにも言うのです。第111問です。

 問111 それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか。

 答 わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。

 いくつかのことが言われているのですが、「盗んではならない」という戒めを守って生きるというのは、「誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けること」だというのです。盗まないことと、誠実に働くことと、どう関係するのでしょうか。この関連で、思い起こされる御言葉があります。エフェソの信徒への手紙第4章28節の御言葉です。新約聖書357ページです。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」この手紙を書いたパウロは、「盗みを働いていた者は」と言うのです。実際、教会の中に盗みを働いた者がいたのかどうかは分かりません。実際、盗みを働かなくても、貪欲の思いに支配されているそういう罪深さを見抜いていたのかもしれません。

 普通、盗みを働いていた者に対して、私どもはどのように戒めるでしょうか。「もう盗むなどという恥ずかしいことをするな!自分の分は自分で稼げ!」と指導するのではないでしょうか。しかし、パウロは盗みの罪を戒め、誠実に働くように言うのですけれども、それで終わりではないのです。問題は何のために働き、収入を得るのでしょうか。もちろん、自分の生活のためではありますが、そこで留まっていてはいけないというのです。自分のために働いているだけでは、まだ盗みの罪に留まっていることと同じだ、といわんばかりです。何のために、私どもは働き、収入を得るのでしょうか。それは、「困っている人々に分け与えるため」だというのです。仕事ということだけではなく、私どもの生き方そのものものが、自分のためでなく、困っている人々を助けるために召されているのです。主イエスも、「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒20:35)とおっしゃいました。「与えて生きる」という主イエスの御心に生きること。盗まずに生きる道なのです。

 先程のハイデルベルク信仰問答の中では、山上の説教の中でお語りになった主の言葉が引用されていました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)「黄金律」(掟の中の掟)と呼ばれるほど有名な主イエスの言葉です。特徴的なのは、「人からしてもらいたくないことを、人にするな」という消極的な教えではないということです。「盗まれるのが嫌だから、私も人のものは盗みません」ということではないのです。そうではなくて、主イエスは、「人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい」という積極的な教えとして語り直されたのです。

 主イエスの御心は、誰かのものを盗んだり、奪うことによって豊かになる道ではありません。自分たちのものを与えることによって、また、他者を助けることによって豊かになることです。そのために、主はこの世界に来てくださいました。主イエスは豊かなお方でしたが、私どものために貧しくなってくださいました。それは私どもが救われ、豊かになるためです。イエス・キリストは、私どもが抱える本当の貧しさ、困窮から救ってくださいました。それも、自らのいのちを十字架で献げてまでして、私どもを罪から救ってくださったのです。ここに私どもキリスト者の原点があります。主イエスが御自分の豊かさを分け与えてくださったからこそ、今の私どもがあります。それゆえに、キリストから与えられた豊かさを人々に分け与え、困った者を助けるために生きていくのです。貧しい人々を助けるために働くのです。キリストの愛に基づいて、私どもも隣人を助け、隣人を愛して生きていきます。

 この生き方は、すべてのキリスト者に与えられている尊い生き方です。お金や時間がある人、あるいは、特別な賜物がある人だけが、率先して、貧しい者たちのために働けばいいというのではないのです。たとえ、収入が少なくても、キリストのゆえに、与えて生きる幸いに召されているのです。パウロは、「自分の手」で正当な収入を得るように勧めました。誰かの手ではなく、自分の手で働きに参与するのです。また、ハイデルベルク信仰問答の中では、「わたしが、自分にでき、または、してもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し」とありました。自分の手でできることは、誰でもそうですが、限界というものがあります。けれども、そのことを私どもは恥ずかしく思う必要はありませんし、自分は何もできないと言って、働きをやめる必要もないのです。できる範囲で、してもよい範囲で、誠実に働いたらよいのです。自分のものを与えることをとおして、人を助け、豊かにする道が、そこに拓かれていくのです。お祈りをいたします。

 私たちが生きている世界は、盗まなければ生きていくことができないほどの貧しさがあり、悲惨があります。どれだけ豊かになったと思っても、満たされることなく、悪と不正と働いてまでして、満たされたいという欲望に満ちています。だからこそ、イエス・キリストが貧しくなり、私たちの罪を背負って死んでくださいました。主の救いの豊かさにあずかっている私たちが、自分のためではなく、困っている者のために、率先して、助けの手を差し伸べることができますように。受けるよりも与える幸いに生かしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。