2022年03月27日「健やかな性に生きる」

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健やかな性に生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 夕礼拝では「十戒」の御言葉を順に聞き続けています。2ヶ月ほど間は空きましたが、本日は第七戒の「姦淫してはならない」という御言葉です。第20章14節に当たる言葉です。「姦淫」というのは、婚姻関係にある男女が、配偶者以外の者と肉体的な関係を持つことです。それを禁止しているのが第七戒の御言葉です。このことは結婚している者だけに限られた話ではありません。主イエスも山上の説教の中で、この第七戒が持つ本来の意味をお語りくださったことがありました。主はおっしゃいます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:27-28)そのように、異性を性的な目で見ること自体が、姦淫と同じ罪だというのです。そのように言われますと、既に結婚している者も、まだ未婚の者も決して人事だとは言えなくなってしまいます。つまり、「姦淫してはならない」というのは、夫婦関係に限らず、私たちに与えられている「性」の問題について、正面から取り上げ、その健やかなあり方を語る御言葉だということです。

 しかしながら、性の問題というのは、たいへんデリケートなものであり、教会の中で皆の前で話し合うということは少ないかもしれません。でも、この問題で悩んでいる人たちというのは実に多いのではないでしょうか。特に若い人たちにとっては無視することができないことの一つです。なぜなら、この世の風潮と聖書が語ることは、あまりにもかけ離れ、非現実過ぎて、十戒の言葉どおり生きていたら、異性とまともに付き合うことなどできないと思ってしまうからです。姦淫してはならない。違う言葉で言うと、「不倫」ということです。悪いことだと分かってはいますが、一方で、不倫に陥るまでしてその人を好きになってしまうことを、どこかで正当化したり、美化する人たちもいます。また、婚前交渉や同棲のこともこの社会で批判されることはないでしょう。むしろそういうことを禁じているキリスト教のほうが時代遅れだと言われると思います。そういう環境の中で、当然キリスト者も苦しんでいます。そして、性の問題を一歩間違えると、それこそいのちに関わる大きな問題となります。夫婦関係など、あらゆる人間関係が壊れてしまうだけでなく、神様との関係までもが壊れてしまいます。そして、性における過ちのゆえに、辛いことですが教会生活から離れてしまうということも実際はあるのです。

 しかし、先程申しましたように、そのような悩みを誰にも言えず、一人で抱えてしまっている。キリスト者として、今自分が悩んでいる問題をどう対処し、解決していけばいいかもよく分からないということがあるのです。分からないから自分なりに勝手に都合よく解釈してしまいます。キリスト教会の歴史においても、性という問題は、必ずしも積極的な仕方で受け止められてきたわけではありませんでした。性は汚れたものだと考えられてきたところがあるのです。それゆえに、子どもを産む時だけは肉体関係がゆるされるけれども、それ以外の時に関係を持つのは罪だとか、そもそも性欲を抱くこと自体が罪であると考えた人たちもいたのです。

 私が学生だった時、20年程前ですが、全国学生会修養会で恋愛や結婚や性を主題として取り上げたことがありました。そのとき既に36回目を数える修養会だったわけですが、それまでこのテーマで修養会が行われたことは一度もありませんでした。私は修養会を準備する者の一人でしたが、このテーマを取り上げるに当たり、相当議論を重ね、慎重に準備していたことを今でも思い出します。決して、このテーマは、教会で取り上げてはいけないとか、そういうことではないのです。でも皆が話しにくいテーマなのかもしれません。しかしそれにもかかわらず、実は若い人たちにとっては、一番関心があるテーマだと言っても、過言ではないのです。実際、来年の修養会はどういうテーマで学びたいですかというアンケートに対して、恋愛や結婚ということについて学びたいという答えが多かったからこのテーマで修養会をしようということになったと思います。

 神に造られ、いのちを与えられ、そして、罪から救われキリストのものとされた私どもが、神様の前で具体的にどのように生きていくのか。具体的にどのように神の栄光をあらわし、神を喜ぶのか。このことを真剣に問うならば、第七戒もまた無視することができない大切な御言葉です。夫婦関係に留まらず、性に関わるあらゆる問題を健全に考え、このことを神様からの祝福として感謝して受け止めるために、絶えず耳を傾けなければいけない御言葉がここにあるのです。

 「姦淫してはならない」。これは積極的に理解しますと、健やかな夫婦関係とはいかなるものなのかを教えてくれる戒めです。夫婦とは何なのでしょうか。男女とは、結婚とは何なのでしょうか。これらのことを考える上で、どうしても聞かなければいけないもう一つの旧約聖書の御言葉があります。それが創世記の初めに記されている天地創造の物語です。その最後に、私ども人間の創造について言及されています。いくつか創世記の御言葉に目を留めたいと思います。一つは、創世記第1章26〜28節の御言葉です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」人間の創造について語られているこの箇所ですが、ここには人間がどういう仕方で誕生したのかということよりも、人間とは何であるのか?あなたがたは如何なる存在であるのか?という根本的なことが語られるのです。そして、26節、27節、28節とそれぞれ段階を重ねながら、私たち人間のことについて語るのです。段階があるというのは、秩序があるということです。

 その中で、特に重要なのが26節の御言葉です。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とあります。我々に「かたどり」とか、「似せて」とあります。これは「神のかたち」とか「神の似像」と呼ばれることがあります。この関連で、第2章7節を見ますとこのようにあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」つまり、私ども人間が神のかたちに創造されたというのは、神様が吹き入れてくださったいのちの息を呼吸すること。呼吸し合う存在として生きるということです。別の言い方をすると、神様を礼拝し、神様との交わりに生きる存在だということです。それが生きるということであり、いのちということなのです。このことが、実は結婚生活や男女関係を考えるうえで、また第七戒を理解するうえで非常に重要なものとなってきます。

 なぜなら、創世記第1章26節を受けて、次の27節の御言葉があるからです。27節の初めにも同じように、神様が御自分にかたどって人を創造されたということが記されています。そして、その次に「男と女が創造された」という言葉が続くのです。そしてその後に、28節の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福の言葉が語られていきます。これらの事柄は、ばらばらに理解すべき言葉ではありません。神のかたちである人間という大前提がまずあって、その大前提のもとに男と女が造られたということです。そして、男と女というのは、第2章18節に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ありますように、助け合う関係に生きる存在であるということです。決して、男に従うものとして女が造られたのではありません。「彼に合う助ける者を造ろう」とありますが、この「助ける」というのは、その人に面して、とか、その人と向かい合ってという意味の言葉です。分かりやすく申しますと、お互いパートナーであるということです。そのように神様の御前で助け合いながら、この世界で神の栄光をあらわしていくのです。

 そして、この創世記の御言葉は、結婚ということを考える上でも大切な御言葉の一つになります。第2章23節では、「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。」と言って、喜びの叫びを上げていますが、男と女という、お互い性の違いがありつつも、神によって結ばれ、一つとなるということ。「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と言うことができるほどに、親密な関係にあるということ。この喜びを聖書は語るわけです。そこには、「二人は一体となる」とあるように、肉体的な関係における祝福も含まれているのです。しかし、ここで見つめられている大切なことは、神のかたちに造られ、神様の御前でお互い助け合って生きている男女であるということ。つまり、婚姻関係にある男女であるということです。この男女の関係、夫婦の関係に生きるということは、神様との交わりの中で共に生きるということと一つのことなのです。

 また別の言い方をしますと、神様と私どもの関係は、神様の愛による契約関係にあると言われます。そのことがそのまま、男女の関係においても映し出されるのです。男女の関係というのは、神様の愛を映し出す関係だということです。ですから、愛における一体的な交わりにおいても、神様の前にある男と女、つまり、婚姻関係にある男女において初めて意味を持つものとなり、祝福されるということです。男女の関係というのは、動物のように単なるオスとメスの関係ではありません。それ以上のものです。神のかたちに造られた人間、神に似るものとして造られた男女として、神様の前でお互い助け合って生きていく。そのようにして、神様の御栄えと愛をこの世界にあらわす者として生きていく。そこに神に造られた人間、あるいは、男女の祝福があるのだと聖書は語るのです。

 このように、人間とは何であるか?男女の関係とはそもそも何であるのか、このことを創世記の御言葉を中心にして、ちゃんと確認するということをしませんと、人間というのはいくらでも自分自身のことを含め、男女の関係において、好きなように理解するのです。いや、キリスト者であっても最初に申しましたように、様々な解釈の広がりが生まれ、また、消極的な理解が生まれてきたのです。創造の御業の後に神様が、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)とおっしゃられたように、お互いのパートナーのことも、肉体関係のことも、これらはすべて良いものです。神からの良き賜物であり、感謝して正しく受け取るなら、そこには祝福があります。性的な関係もまた、結婚関係においてのみ祝福されるのです。

 しかし、間違えて受け取ってしまうとどうなるのでしょうか。つまり、本来祝福されている世界の中に、罪という問題が入り込む時どうなってしまうのでしょうか。それが第七戒にあるように、「姦淫」という罪をはじめ、男女の関係が呪われたものとなってしまうということです。姦淫の罪というのは、夫婦間の関係を壊してしまうことはもちろん、子どもとの関係、家族など周りの人々との関係さえも一瞬にして壊してしまいます。「姦淫してはならない」という戒めは、前の「殺してはならない」という戒めの次に置かれています。姦淫というのは、互いの関係を破壊し、相手を殺すことと同じだということです。人を殺し、いのちを奪うほどの罪の重さが、「姦淫」という戒めの中には込められているのです。さらにもっと深い問題は、私どもを御自分のかたちにお造りになり、結婚へと導いてくださった神様の御心を踏みにじる行為であるということです。

 性の問題に限ったことではないかもしれませんが、この世の物の考え方からすれば、こちらのほうが自然だ。こちらのほうが現実的だと言って、男女の関係についても自分の中で正当化しまう誘惑は絶えずあります。愛し合うということは、美しく、喜びに満ちたことであるに違いありませんが、しかし、それゆえに自分の思い、あるいは周りの価値観に大きく左右されるということがあるのです。この愛のあり方は「正しい」と言いながら、「美しい」と言いながら、しかし、実際はそこで誰かが深く傷つき、愛されていると信じていた者から見捨てられるという悲惨が、人間の歴史の中で繰り返し起こってきました。今も起こり続けています。

 教会としても悔い改めるべき点ですが、性についての学びというのは、それほど教会の中で積極的になされていませんでした。それだけに私も学生の時、初めて聖書から結婚や恋愛のことについて学んだ時は、とても新鮮な思いがいたしました。そして、その時にも、性に関わる具体的な話に言及する前に、創世記の御言葉をとおして、人間とは何か。男女の関係とは何かということを丁寧に学びました。おそらく、若い人たちの問題は、そういった聖書的・神学的な細かい話というよりも、実際に今悩んでいる具体的な問題、あるいは、今自分がしている行為が正しいのか間違っているのか。あるいは、おそらく、これはいけないことなのだけれども、どこかで自分の思いや行動を認めてほしい。そういうところに何か明確な答えであるとか、励ましといったものがほしかったのだと思います。それらのことも無視できる問題ではありません。一回の説教の中でというよりも、ゆっくりと時間を掛けてでも学ぶできテーマであると思います。しかし、そのような個別的、具体的な性の問題の前提にあるのは、繰り返し申しますが、この私も、私のパートナーも、男女の関係も、神様の前に生きる人間であるということを忘れてはいけません。いくらお互い惹かれ合うところがあったとしても、単なるオスとメスの関係ではないのです。相手を自分の性を満足させる対象、道具としてはいけないのです。そのような罪の誘惑に陥りそうになるところで、私は神のかたちに造られ、神様の御前に生きる人間であるということを、思い起こさなければいけないのです。

 旧約聖書を読みますと、神様とイスラエルの民の関係が婚姻関係に譬えられることがよくあります。そして、神様に対して罪をおかすことは、まさに姦淫の罪をおかすことだというのです。まことの神でなく、他の偶像の神々に心惹かれ、それらの神を自分の神としてしまうこと。このことは、私たち人間をお造りになり、どこまでも共に生きようとおっしゃってくださった神様の契約を破り、裏切ったことと同じだというのです。姦淫の罪をおかしたことと同じだというのです。

 しかし、そのような罪の現実の中に主イエスが来てくださったということです。ヨハネによる福音書第8章を見ますと、姦淫の罪をおかした女性に向かって、「行きなさい。これからはもう罪をおかしてはならない」と告げられました。主の十字架の赦しの中で、神様の御前に正しく生きるように、男性との関係においても正しくあるようにと、おっしゃったのです。また、使徒パウロが言いましたように、私たちの体というのは、キリストのものとされた体であり、「聖霊が宿る宮」です(一コリント6:19-20)。その神のものとされた体を、自分の欲望のために汚すようなことはあってはいけないのです。結婚していている者も、独身の者もその点においては同じです。

 さて、最後に心に留めたい御言葉があります。使徒パウロがエフェソの教会に宛てた手紙の中で記した言葉です。結婚式の際は必ず朗読される大切な御言葉です。エフェソの信徒への手紙第5章21節以下です(新約358頁)。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」まだ言葉は続いていきます。ただここは誤解されやすい御言葉かもしれません。夫は妻の頭だから、妻は夫に仕えなければいけないというふうに、読んでしまう人もいると思うのです。何か夫のほうが妻よりも偉いと言っているようで、こんな御言葉は結婚式で読むべきではないという人もいます。しかし、ちゃんと読めば、そんなことをパウロは言ってなどいないのです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」とまず初めに語られているように、キリストのゆえに、神様の御前に生きるものとされている畏れと喜びをもって生きること。互いに仕え合うこと。これが夫婦において大切な生き方です。

 また注目すべきは、25節で「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように」と言われていることです。イエス・キリストと私たち教会における愛の関係が、夫と妻の関係に譬えられているということです。キリストは、十字架でいのちを献げるほどの大きな愛をもって、私どもを救い、御自身の体である教会を建ててくださいました。それほどの深い愛をもって、あなたもまた自分の存在を掛けて、「夫よ、あなたは自分の妻を愛するように」とパウロは命じるのです。しかしながら、この御言葉を前にして、何も言い訳できないような思いがいたしますし、やっぱりそのような愛に私は生きることはできないと、どこかで思ってしまうことがあります。キリストが教会を愛したように、私は妻を愛しているだろうか問われたら、本当に深い畏れを覚える他ありません。

 しかし、それは見方を変えれば、神様の前にある夫婦というのは、その関係というのは、イエス・キリストに示されたあの大きな愛によって、実は形づくられているということです。それほどに神様の前にある夫婦関係は尊いものだというということです。これほど嬉しいこと、喜ばしいことはありませんし、その喜びをいつまでも忘れてはいけないと思います。だから、夫婦は、結婚式で誓約したように、キリストに対する畏れをもって、互いに愛し合って生きていきます。このことは特別なことに違いありませんが、神様の御前に生きる人間として、男女として極めて自然な生き方です。だから姦淫の罪などおかさないのです。そして、そのように神様の前で互いに愛し合い、仕え合って生きる夫婦の姿が、今、この世においてもとても大きな証しになるのではないでしょうか。自分のことも、男女のあり方も、よく分からなくなっているこの世界において、神様の御前で畏れを抱き、愛し合って生きる夫婦の姿をとおして、この世に神様の愛が映し出されていきます。そこに神様の栄光があらわされるのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたは私どもを御自分のかたちに造られただけでなく、結婚の祝福をもお与えくださいました。あなたの前に立つ男女が、お互い助け合いながら、あなたの御栄えをこの世界であらわして生きる喜びを与えてくださいました。結婚している者も独身の者も、あなたから与えられている性の祝福を感謝し、これからも正しく受け取ることができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。