2022年03月20日「もう一度、心から」

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もう一度、心から

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章21節~35節

音声ファイル

聖書の言葉

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」マタイによる福音書 18章21節~35節

メッセージ

 先週、先々週と続けてマタイによる福音書第18章から御言葉に聞いてきました。この箇所は、「教会憲章」と呼ばれることがあるように、「教会とは何か」ということを主イエス御自身がお語りになっているところです。意外な感じがしますが、福音書の中で「教会」という言葉を主イエスが直接用いられるのはたった二箇所しかありません。いずれもマタイによる福音書です。それだけにどういう文脈の中で、主イエスが「教会」という言葉を用いておられるのが気になるところです。「教会とは何か?」と尋ねられて、色んな答え方をすることができるかもしれません。そのような中で、主イエスがとりわけ深い関心を注がれたのは、「罪」の問題であり、その罪の先にある「死」の問題でした。そこからあなたがたを救い出すための戦いを、神様は成し遂げてくださったのです。御子のいのちを十字架の上で献げてまでして、もう一度、私どもを御自分のものとしてくださいました。この天の父なる神様の御心を、この地上の教会において明らかにするために、主イエスは弟子たちに向かって一所懸命心砕きながら、御言葉をお語りになりました。その父なる神様の御心が明らかにされている言葉が第18章14節に記されていました。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」「この父の御心にあなたがたも生きてほしい。」「心を一つにして祈ってほしい。その祈りは必ず聞かれる。その教会の交わり、祈りの交わりの中心にわたしはいる。そこでわたしと出会うだろう。」主はそのように約束してくださいました。迷い出た一匹の羊を見つけ、神のもとに連れ帰るためにどれどけの祈りが必要であるのか。そもそも自分はその兄弟を赦すことができているのか。そのことを思うとき、自らの貧しさを改めて覚えてしまうのですが、なおそこで私たちを祈りへと導き、迷い出た一人の兄弟に思いを集中することができるように、励ましてくださる主イエスの言葉を聞いたのです。

 この主の言葉を聞いていた弟子の一人にペトロという人がいました。そのペトロが次のように主にお尋ねしたという場面から今日の物語は始まります。21節です。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」教会において赦すことが大事だということを。それはよく分かる。けれども、具体的に何回赦せばいいのですか?というのです。主イエスが教会について言及する時、「罪」の問題を大切にされたように、私たちの信仰生活、教会生活においても罪の問題を無視することができません。あるいは、聖書を学びたい。私も洗礼を受けてキリスト者になって新しい人生を始めたいと言って、求道しておられる方も、罪の問題がよく分からないと、結局は主イエスの十字架のことも、救いのこともよく分からないということになります。礼拝などで、「あなたは罪人だ」などと言われても、なるほど本当にそのとおりだとすぐに納得する人もいれば、自分には多少悪いところもあるけれども、そこまで罪に染まった極悪人ではないと言う人もいるでしょう。罪だとか、悔い改めだとか、毎週のように言われるとあまりいい気がしないという人もいるかもしれません。しかしそれは結局のところ、罪のことも赦しのことも分かっているようで、まだ十分には分かっていない部分があるということでしょう。では罪とは何なのでしょうか。説明することはできるかもしれませんが、自分のこととして鋭く迫って来ない。このようなことは、罪だけではなく、十字架や復活など色んなところで同じように言えるかもしれません。

 しかしながら、「罪がよく分からない」という人も、ペトロが言った「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」という場面に直面する時、つまり、自分が誰から罪を犯された時、自分が誰かから深く傷つけられた時、罪の正体というのがどのようなものであるかがよく分かるのではないでしょうか。罪というのはこんなにも腹立たしいものであり、心痛むことであり、悲惨なことであるということがよく分かるのだと思います。「ああ、罪の力に呑み込まれてしまうというのは、こんなにも辛く、こんなにも悲しいことなのか…」というふうに。そこで自分もこれから気を付けよう。教会の仲間や隣人を、何よりも神様を悲しませないために、信仰の姿勢を整えて歩もう。そのように思い直すことができたらいいのですが、一方で、これほど辛い思いをさせられておいて、まだ「赦せ」とおっしゃるのですか。何とか1回赦しましたけれども、また同じ目に遭わされました。いったい何回赦したらよいのでしょうか。弟子のペトロの中にも同じ思いがありました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。…」ペトロが提案した数字が「7回」という数字でした。当時、ユダヤ教のラビ(教師)の中では、3回までは赦すようにという教えがありました。「仏の顔も三度まで」という言葉もありますね。そういう意味で申しますと、「7回」というのは、ペトロの中ではずいぶん思い切った数字を言ったつもりでした。3の2倍以上の「7」という数字を提示したのです。また7という数字は完全数を意味する数字です。ペトロの中でも、7回も赦せば十分だろうという思いがあったはずです。主イエスから「さすがわたしの一番弟子だ」と褒めてもらえると思ったかもしれません。

 しかし、主イエスはこうお答えになったのです。22節です。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七の七十倍、つまり、490回赦すように主はおっしゃったのです。490という回数は、文字通り理解すべき数字ではありません。文字通り理解してしまうと、490回までは赦すけれども、491回目の時は容赦しないということになります。490回というのは、要するに、何回赦したかなどということを数えないように。無限に赦し続けてあげなさいということです。ペトロが先に言った「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」というのもまた、7回までは何とか我慢して赦してあげることができたけれども、8回目に、私に何か罪を犯したならば絶対に赦さない。どうなっても知らないぞということです。いわゆる「堪忍袋の緒が切れた」ということです。ペトロにとって赦すことは、如何に、相手の罪に対して自分が我慢できるかということに過ぎませんでした。また、何回も赦し続けていたら、相手がつけあがってしまうかもしれないし、甘やかせてしまうだけだ。それに何回も赦しを乞いに来るということは、その人が毎回心から悔い改めていない証拠ではないか。赦す側の自分も、相手の罪に鈍感であるということにもなってしまう。主イエスは、私たちに赦す忍耐力を求めておられるのだろうか。でも、忍耐にも我慢にも限度がある。だから、何回までですか?と尋ねたのです。

 しかし、主イエスにとって、赦しというのは回数を数えることではありません。数えている限り、その人を本当に赦しているとは言えないのです。確かに、罪を赦すという時に、ペトロのように我慢をしたり、自己犠牲を払ったりということはあると思います。ただその我慢する心が本当に赦しの心となっているのか。主イエスはそのことを問われるのです。赦すというのは、絶対的に赦すということです。それが赦しの本質なのです。

 そこで主イエスは一つの譬え話をお語りくださいました。それが23節以下の物語です。王様のもとに家来がおりました。王様はその家来にお金を貸していたのです。ある時、貸したお金の決済をしようとしました。数えてみると全部で一万タラントも貸していたことが明らかになりました。それでその家来が王様の前に連れて来られまして、すぐに返すように迫られるのです。自分も妻も子も、つまり、身売りしてまでしてお金を集めて、返すように厳しく命じました。家来はひれ伏してしきりにお願いします。「どうか待ってください。きっと全部お返しします。…」

 ところで、家来が借金していた「一万タラントン」という額ですが、いったいどれくらいの額になるのでしょうか。一タラントンが6千デナリオンに当たります。デナリオンという単位は、一日の日給です。分かりやすく一日一万円で計算すると、6千万円。その一万倍ですから、この家来は王様から約6千億円もの借金をしていたというのです。なぜこれほどまでの額を借金したのかは分かりませんが、一生働いたとしても到底返済できるような額ではありません。それなのに、家来は「どうか待ってください。全部お返ししますから」などと、何の根拠もない言葉を口にします。急に返済を迫られ、思わず愚かなことを口にしてしまったのかもしれません。しかし、家来も、そして、王様も知っているのです。一万タラントンの借金を返済できるはずなどないということを。家来にできることと言えば、ただ赦しを乞う以外にありませんでした。そのしきりに願う様子を見て、王様は憐れに思ったというのです。ただ可哀想だからという理由で、家来を赦し、借金をすべて帳消しにしてあげたのです。仕方ないからこれだけ免除してあげるというのではありません。一円も返さなくていいというのです。しかし、王様にとっては、6千億円分の損失、痛みを意味することでもありました。

 主イエスがお語りになった譬え話はまだ続きがあります。王様に赦された男のその後のことです。そのことが28節以下に記されています。赦された家来は、晴れ晴れとした思いで外を歩いていたのでしょう。すると仲間に出会ったのです。家来はその仲間にお金を貸していました。百デナリオンです。約百万円です。決して小さなお金ではりません。むしろ大金です。家来はお金を貸している仲間を見つけるやいなや、「借金を返せ」と迫ります。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに願いました。先程、家来自身も王様に対して、同じように赦しを乞うたばかりです。その場面とまったく同じです。しかし、家来は仲間を赦すことなく、捕まえて借金を返すまで牢に閉じ込めたのです。この様子を見ていたのが他の仲間たちでした。心を痛めながら、この出来事を王様に報告します。王様はこの家来を連れて来て、「なぜ私のように、憐れんであげることができなかったのか」と怒り、牢に入れたというのです。

 それにしてもなぜ、家来は仲間を赦し、借金を帳消しにしてあげなかったのでしょうか。百デナリオンというのは確かに大金です。しかし、家来が王様に借りていた6千億円に比べれば60万分の一に過ぎません。そもそも仲間に貸していた百デナリオンというのも、王様から借りていて一万タラントンの一部だったのではないでしょうか。そして、もっと大きな問題は家来が王様によって赦され、借金を帳消しにしていただいた時、自分の身にいったい何が起こったのかをまったく理解できていなかったということです。どれほど重大なことが自分の身に起こったのかを捉え損ねてしまったということです。家来は借金が帳消しになったことを知った時、上手くやり過ごせたと思ったのかもしれません。王様を同情させるだけで返済が免除されるとは。そう思ったのかもしれません。赦されるとはどういうことなのか。赦すということにおいて、王様がどれだけ心を痛め、大きな損害を負わなければいけなかったのか。その赦しの重みというものを家来は知りませんでした。

 王様は、仲間を赦すことができなかった家来に対して、32節で「不届きな家来」「わたしに背いた悪い家来」だと言いました。1万タラントン借金していた時にも、「不届き者」などとは言われませんでした。王様にとってこの家来の大きな問題は、多くを赦されたにもかかわらず、家来が仲間を赦すことができなかったということです。王様に憐れんでいただいたにもかかわらず、仲間を憐れみ、思いやることができなかったということです。だから、借金を返し終わるまで、つまり、赦されているということが本当に分かるまで、牢に閉じ込められることになったのです。

 主イエスがお語りになった譬え話は比較的分かりやすい話ではないかと思います。仲間を赦さなかったこの家来の姿を見て、何て酷い人間なのだと誰もが思うことでありましょう。しかし、問題はこの物語は、あなたがたの物語でもあるということです。主イエスは最後におっしゃいました。35節です。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」この譬え話に登場する王様というのは、天の父なる神様のことです。家来というのは、私たち人間のことです。丁寧に言うと、罪人のことです。そして、一万タラントンという返済不可能な借金というのは、神様の前にある私たちの罪のことです。罪というのは、もう人間自身の力ではどうしようもありません。それに神の前にある借金としての罪というのは、減るどころか、その額は日毎に増え続けるのです。それが罪というものです。けれども、神様が家来の借金を帳消しにてくださったように、私どもの罪を全部帳消しにし、赦してくださいました。そのことが救われるということでもあります。そして救われた者たち、つまり、キリスト者は、教会に生きる者は、今度は兄弟姉妹を赦し、愛し合って教会を建て上げ、歩んでいくのです。主イエスがこの譬え話でお語りになった救いに至る道筋、そして、救われた者の生活というものが、どういうものであるのか。少なくともキリスト者の人たちは、そのことをよく知っているはずだと思います。

 ただ現実は上手くいかないということです。赦すことができないのです。1回、2回は赦せても、限界があります。ずっと我慢することなどできません。無限に赦すことも、490回赦すことも絶対に無理です。7回でも無理なのです。いや本当は1回でさえ赦しに生きることができないのです。神様はおっしゃいます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そのとおりだと私どもは思うのです。キリスト者は憐れみに生きるべきだとか、赦しに生きるべきだとか、そういうキリスト者としての義務というよりも、あれほどの負債をすべて免除していただいたのですから、その神の憐れみに生かされている者は、自然と兄弟に対しても憐れみと赦しに生きるのです。これ以外に道はないのです。このことは特別な恵みですけれども、神に罪赦された人間として実に自然な生き方です。赦すというのは、神から赦されていることの結果であり、証拠なのです。けれども、家来は明らかに不自然な生き方をしました。私どもはどうでしょうか…。

 王様が家来を赦し、借金を帳消しにしたのは、「憐れに思った」からとありました。「全部返済します」という家来の約束を信じたからではありません。「憐れに思う」というのは、単に可哀想だということではないのです。「憐れに思う」というのは、日本語に翻訳するのは不可能ではないかと言われることもありますが、この言葉は内臓、腸を意味する言葉です。腸がちぎれるような痛みを覚えるということです。そして、聖書においては、神様が主語となり、神様の感情を表す場合にだけ用いられる言葉となりました。家来の姿を見て、つまり、罪にまみれ自分ではどうすることもできず、ただ赦しを乞うだけでの人間の姿を、神様はご覧になって、たいへん激しく心を動かされたのです。

 そして、なぜ王様は家来を赦したのでしょうか。憐れに思うその先にあるものとは何なのでしょうか。それは王様と家来の「関係」です。神様と私たちの関係です。この関係、あるいは、絆を王である神様はどうしても失いたくありませんでした。自分がどれだけ心痛めようが、一万タラントンという額が表しているように、どれだけ大きな損失を被ろうが、あなたとの関係は絶対に壊したくない。あなたとの関係が正しく保たれるならば、どんな痛みをも、どんな損失をもいとわないというのです。だから、この神の憐れみがはっきりと現されたのは、今、この譬え話をお語りくださっている主イエスにおいてでありました。主が十字架で、御自分のいのちを代価として献げてくださらなければ、決して、私どもは神様の前にある罪という莫大な借金から解放されることはなかったのです。

 ところで23節以下の譬え話は、最初の21節で弟子のペトロが主イエスに対して、「何回赦すべきでしょうか」という問いを受けて語られたものです。その前に、主は「七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃいました。しかし、実際語られた譬え話そのものは、490回赦すとはどういうことであるのか。回数を数えることをやめて無限に赦すということは具体的にどういうことなのか。その説明として、譬え話が語られたわけではないということです。主が語られたのは、あなたがどれだけ神に愛され、あなたがどれだけ罪赦されているかということです。赦すこと、しかも無限に赦すというのは、ひたすら我慢することではありません。もし神様にとって、私どもの罪を赦すということが我慢することと同じであったならば、主イエスの十字架もまた神様の我慢の果てに与えられたものということになってしまいます。神の民の歴史を振り返る時、確かに神様は多くの忍耐をしてこられました。しかし、我慢するという思いを越えて、今、神様は憐れみと愛をお示しになったのです。十字架は神様の我慢のしるしではなく、愛と憐れみのしるしです。十字架の言葉が私どもに告げることは、「わたしがどれだけあなたのために忍耐し、怒りを抑え続けなければいけなかったのか、その気持ちが分かるか」ということではないのです。そうではなくて、「わたしはあなたのことを愛してやまないし、これからもあなたを愛し続け、あなたとの良き関係の中を共に歩んでいきたい。そのために、わたしはどんな損失を負ってもいい。御子イエス・キリストのいのちに増して、わたしにとっての一番の損失はあなたとの交わりが失われることなのだ。それほどにあなたは値高い存在なのだ。」神様は主イエスの十字架をとおして、そのような驚くべきことをお語りになるのです。「心からあなたを赦すことによって、あなたをもう一度取り戻すことができるならば、これほど嬉しいことはない。だからわたしはあなたを赦し続ける。」そう告げてくださるのです。

 主の十字架の言葉によって、私どもは赦す回数を数えるのではなく、兄弟を心から真実に赦す者とされていくのです。もし兄弟の罪の負債を、自分の心の手帳に記録し続けている間は、真実に赦すことなど絶対にできないでしょう。例えば、自分は誰にいくらの貸しがあるかとか、どうやって返してもらおうかとか、どうやって権利を主張しようかとか、どうやってこれ以上損害を防ごうかとか。そういうことばかりに時間を費やす限りは、兄弟を赦すことができないのです。35節に、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら」とありますように、主イエスが求めておられることは「心からの赦す」ということです。私どもが誰かを赦すという時に、そこにある現実はどのようなものなのでしょうか。なかなか「心から」というところにまで行くことが難しい場合が多いのではないでしょうか。兄弟の罪を見て見ぬ振りをすることがあるかもしれません。弁解や争い事を避けるために、自分の感情を隠そうとしてしまうかもしれません。しかしそれはその人に対して無関心であるということに過ぎないのです。そのような偽りの赦しによって、私どもは自分の中からその人を追い出してしまっているのです。徐々に関係が薄まっていくだけで、もう一度、兄弟を獲得するということにはなっていないのです。

 「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」改めて問わずにはおれません。一人、頭の中で考えるのではなく、祈るような思いで、しかも小さな一人の兄弟を赦すことができずにいる自らの罪を深く嘆きつつ、主の言葉に耳を傾けます。どうしたら心から赦すことができるのでしょうか。兄弟を心から赦さなければ自分も痛い目に遭ってしまう。その恐怖から免れるために兄弟を赦すということではありません。心から赦すことによって、もう一度兄弟を得ることができるということこと。それゆえに、赦すことは「喜び」でもあるということです。もう一度、第18章14節の御言葉に目を留めます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」そうであるがゆえに、迷い出た一匹の羊が見出され、羊飼いである神様のところに戻ってくるということが、どれほどの喜びでしょうか。神様にとって、私どもの罪を赦すことが喜びであったように、私どももまた神様に対する恐れからではなく、救われた喜びと感謝のゆえに、兄弟を心から愛し、赦す生き方へと導かれていきます。

 そして、とても単純なことかもしれませんが、私どもが兄弟を心から赦して生きることができるようになるためには、神様がどれほど大きな憐れみを、まずこの私に注いてくださったか、このことにいつも心を留めるということです。自分ではもうどうすることもできなかった莫大な罪が、御子イエス・キリストによって完全に贖われたこと。主が十字架の上で、この私のために御自分のいのちを代価として献げてくださり、罪と滅びから救い出してくださったということ。このことを知識や理屈ではなく、この私こととして本当に心から信じているかどうかということです。主の十字架によって、今、神様によって心から赦され、心から受け入れられているということを本当に信じているかどうかということです。神様に罪赦されなければ、私は片時も生きていくことができない存在であるということを、本当に知っているかどうかということです。もしそのことを知らなければ、それは空しいのです。ここに私が立ち帰るべき原点があり、教会の原点があるからです。ここに兄弟の赦しがかかっているのです。

 イスラエルの王であったダビデは自らの罪を告白する祈りの中でこう祈りました。「神よ、わたしのうちに清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」(詩編51:12)ダビデが祈りましたように、神に罪赦されると言うことは、まったく心が新しくされることです。そして、心から兄弟を赦すというのもまた私どもが我慢強いからできるとか、心が寛容だからできるとか、そういう話ではないのです。私どもの心そのものが、もう一度神によって創造されて、新しく造り変えられなければいけないということ。ここにすべてがかかっているのです。そして、神様はこの祈りに、御子イエス・キリストをとおして応えてくださいました。主によって、身も心も神のものとされ、まったく新しいものとされたのです。このことをいつも忘れてはいけません。

 神様は御子イエス・キリストにおいて、心から兄弟を赦す心を、既に私どもに与えていてくださっています。そのことを一番よく知っているのがキリスト者なのではないでしょうか。周りに目を向けると、神の憐れみを知らない現実が今も世界には満ちています。いや、一番よく知っているはずのキリスト者でさえ、譬え話に出てきたあの家来のように神の御心から離れて生きようとしてしまう思いに捕らわれることがあります。しかし、主イエスは来てくださいました。神の赦しの歴史は既に始まっているのです。私どもの歴史は、もはや罪を積み重ね続ける歴史ではありません。神の憐れみと赦しによって新しく始まった歩みであるということです。

 神様が毎週私どものために備えてくださり、「ここでわたしと会おう」と約束してくださるこの主の日に、教会に集まります。神を礼拝するために繰り返しここに集まるのです。それは主イエス・キリストの十字架によって、私どもが本当に罪赦されているという信仰の事実を何度も確かにするためです。だからこそ、ここに集う度に、心から兄弟を赦し、受け入れようという思いが与えられていくのではないでしょうか。もし主の招きがなければ、もしこの日がなければ、私どもは簡単に神様のことを忘れてしまうことでありましょう。神様が心痛めておられる現実よりも、自分のことで心がいっぱいになってしまうことでしょう。

 礼拝というのは、神様の御前で自らの罪を覚える時でもあります。そこで自分の罪や負い目を思い起こし、忘れないようにして生きることは、どこか堅苦しい感じに思えてしまうかもしれません。しかし、自らの罪に目を留めるというのは、決して、息苦しくなって、そこで終わってしまうというようなことではないということです。なぜなら、既に過去の罪も今の罪も主にあって本当に赦されているということを思い起こすことだからです。だから、「自分は罪人だ。もう絶望だ」と言って、暗い所に追い込まれことはありません。罪を知るということは、罪という借金がすべて赦され、神様の前に実に素晴らしい値打ちをもって生き始めているという、その恵みを知ることでもあるからです。

 また、罪というのは、一つの言い方をすると、いつも神のほうを向いていないということです。自分ばかり見ているのです。あるいは、他人ばかり見ているのです。だから誰が一番偉いかが気になったり、一人の小さい者を軽んじてしまったり、兄弟の罪を心から赦すことができないのです。けれども、私どもは礼拝において、神様の御顔の前に立ちます。この一週間どれだけ、神様を見つめて歩むことができたことでしょうか。神様以上に他のものに目を奪われていたのかもしれません。しかし、主の日の礼拝において、もう一度、心を天におられる父に高く上げることができます。そこで天の父の御心をいつも思い出すことができます。神様にとって私どもを赦すことは、喜びであり、私どもへの愛の表れ以外の何ものでもありません。神様との壊れた絆を回復するために遣わされた主イエスがお語りになったこの物語が、教会の中で、そして、この世界の中で現実になるために、主は十字架でいのちを献げてくださいました。ここに神の愛の御心が成就したのです。この神の喜び、神の愛の成就の中に私どもは立つのです。神が私どもを憐れんでくださったように、私どももまた神の憐れみの思いに生き始める者とされていくのです。神様に罪をすべて赦していただいたように、私どもも祈りつつ兄弟を心から赦す生き方を、真剣に歩み始めていくのです。それは何も教会の中だけの話だけであって、一歩、外に出れば自分勝手に振舞っていいなどという愚かな考えをする人はいないでしょう。神の赦しと平和が教会からこの世へと広がっていくために、私どもはそれぞれの生活の場に遣わされているのです。

 真実の赦しを与えることができない自分の愛の貧しさを思い、途方に暮れながらも、神の憐れみのゆえに、心からの赦しに生きる者とならせていただきたいと願います。私たちにできることと言えば、ただ天の父なる神様に、赦しを願うことであり、心から兄弟を赦すことができるように祈り求める以外にありません。しかし、その祈りがどれだけ確かなものであるのか。そのことをも主イエスは約束してくださいました。「わたしはその祈りの交わりの真ん中にいる。必ずその祈りは聞かれる。あなたがたもまた赦されるだけではなく、兄弟を心から赦す恵みに生きることができる。」この日もそのように約束し、励ましてくださる主イエスが共にいてくださいます。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、あなたの御心をこの地上で映し出す教会として、私どもの歩みを祝福してください。神様の御前にあって、言い訳をするのではなく、心から悔い改めることができますように。そして、主イエスの十字架のゆえに、罪赦されている喜びの中にいつも立たせてください。あなたの憐れみの心を忘れることなく、私どももまた兄弟や隣人を心から赦し、受け入れることができるようにいつも励ましてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。