2022年03月06日「一人の小さな者のために」

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一人の小さな者のために

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章10節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 マタイによる福音書 18章10節~14節

メッセージ

 主イエスは私どもに問うておられます。「あなたがたはどう思うか」と。そのように主イエスがから直接問われる度に、ある緊張と言いますか、恐れさえ抱くような思いがいたします。しかし、そこで主がお語りくださった一つの物語は、聞く者の心に訴えるだけでなく、深い慰めを覚え、神様の愛の素晴らしさに改めて気付かされるのです。

 もう一度、12節、13節をお読みします。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」百匹いた羊のうち、一匹がいなくなり、羊飼いはその一匹を見つけるまで捜し回ります。そして、ついに見つけたなら、羊飼いは大喜びするのです。この物語は、主イエスがお語りになった物語の中でも、とりわけ印象深い物語として人々の心に刻まれていることでしょう。教会の子どもたちも大好きな聖書物語の一つです。内容が明快であるというのも、愛されている一つの理由かもしれませんが、それだけでなく、主イエスがお語りになる物語の中に子どもたちも自分の姿を見出すからでありましょう。親とどこかに出掛けた先で、はぐれてしまい迷子になるということは珍しいことではありません。たとえ、わずかな時間であっても、親と離れ、知らない場所でひとりぼっちになる寂しさ、恐怖というものを子どもたちは経験として知っています。幼い我が子が急にどこかに行ってしまったなら、親は本当に心騒ぐことでしょう。大袈裟でも何でもなく、最悪のことを考えることさえあるのではないでしょうか。しかし、迷子になった子どもが親と再会することができた時、親も一所懸命どこかに行ってしまった我が子を捜してついに見つけることができた時、これほど嬉しい時はないと思います。恐れも不安も喜びも、この主イエスのお語りになった物語を聞きながら、子どもたちなりに色々と思い起こすのでありましょう。そして、羊飼いと羊の関係が、実はイエス様と私、神様と私との関係であるということを知った時、そこに神様に対する大きな喜びと感謝、また神様への愛と信頼が生まれるのではないかと思います。

 ところで、この「迷い出た一匹の羊」というのは、いったい何を指しているのでしょうか。少し前の10節を見ていただくと、「これらの小さな者を一人でも」とあります。6節にも「わたしを信じるこれらの小さな者の一人を」とありました。さらに遡って見ますと、お読みしませんでしたが、3節、4節、5節に「子供」とあります。ですから順番を辿ると、子供が小さな者たちに、小さな者たちが迷い出た一匹の羊というふうに言い換えられているのです。1節以下にあるように、「天の国で一番偉いのは誰だろうか」と弟子たちが言った時、主イエスは近くにいた子供を呼び寄せて、言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(3〜5節)天の国に入れられる、つまり、救われるためには子供のようになりなさいということです。「心を入れ替えて」子供のようになるというのは、神様に立ち帰り、悔い改めることです。方向転換することです。ですから、子供のように素直になるとか、純粋に生きることではありません。自分の努力で天の国に入るということもでないのです。主イエスは、迷い出た一匹を捜し出すために、一所懸命になり、いのちさえも十字架でささげてくださいました。当時の子供のように、価値がなく、無力な存在であったとしても、ただ主の恵みによって救われるのです。この神の愛を信じることです。この私を見つけ、喜んでくださる神様の喜びに気付くことです。それが心を入れ替えて子供のようになるということでもあります。そういう意味で、変な言い方かもしれませんが、私どももまた迷い出た一匹の羊になることが求められています。迷い出るということ、そのことがどれほど悲惨なことであるのか知りつつ、しかしその私を見つけてくださる主の恵みのゆえに、どれほど私は幸いな者であるのかを知るのです。

 ところで、この迷い出た一匹の羊の譬えを知る者は、もう一つ別の聖書箇所で同じような話が記されていたということを思い起こすのではないでしょうか。ルカによる福音書第15章3〜7節に記されている内容です。おそらくルカによる福音書のほうがよく知られていると思います。ルカでは、失われた羊に続いて、失われた銀貨、失われた息子の譬え話が続いています。いずれもいなくなったもの、失われた者が見つかった喜びが語られます。譬え話自体の内容は、マタイもルカも同じです。しかし、置かれている文脈が違うと、当然その意味合いも変わってきます。ルカは、失ったものを見つけた神の大きな喜びに焦点が当てられています。一方、マタイは10節にあるように、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」この文脈の中で、譬え話が語られていきます。御自分の弟子たちに向かって、つまり、教会に向かって「小さな者の一人を軽んじないように」と語られるのです。少し言い換えると、キリスト者の集まりである教会とは何であるのか?そのことを私どもに教える文脈の中で、小さな者の一人について、迷い出た一匹の羊について語られるのです。

 このマタイによる福音書第18章は、「教会憲章」と言われることがあります。教会とは何であるのか。教会において大切な教え、教会においてなくてはならないものは何であるか。教会に生きる者すべてが重んじるべき教えとは何か。そのことをこの第18章は教えているのです。来週、再来週も続けて第18章の御言葉に聞きたいと願います。主イエスは、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」そのようにおっしゃいました。「小さな者」とはいったい誰のことでしょうか。例えば、15節以下に記されているように、罪をおかした人と言うことができるかと思いますが、必ずしも罪人だけのことを意味しません。他にも具体的に、子どもや女性、やもめや奴隷と言った社会的に立場が低い人たち。あるいは、貧しさや病の中にある者。そういった人たちも、社会においては小さな者でした。生まれたばかりの教会にも色んな立場、色んな状況に置かれた人たちが教会に集まっていたことでしょう。

 ただ、ここで主イエスがおっしゃっている「これらの小さな者」というのは、具体的にこういう立場の人たちのことであると、限定していないということです。「小さい者」というのは、要するに、私どもが小さく扱っている者たちのことです。「あの人は小さい存在」と言って、見下げている人のことです。そのように、相手を小さく見ることによって、自分が大きくなろうとしているのです。しかし、小さな者を一人でも軽んじることは、天の父なる神の御心ではないのです。だから、あなたがたもまた、父なる神の御心にもう一度生きてほしい。小さな者の一人を重んじてほしい。そのような思いを込めて、主は迷い出た羊の譬え話をしてくださいました。

 譬え話に登場する羊たちですが、普通は、「迷い出た一匹の羊」こそ、「この私」のことであると理解します。説教の最初で申しましたとおり、そのとおりでありまして、その迷い出た私を主イエスが見つけてくださった。このことが救われるということであり、この救いの恵みを知る時、そこに大きな喜びが生まれます。しかし、このマタイによる福音書においては、どうもそれだけではないのです。さらに求められていることがあるのです。それは、山に残った「九十九匹の羊」こそが、実は私たちのことであるということです。つまり、九十九匹の羊というのは「教会」のことであるということです。さらに言われていることは、一匹が迷い出たのは、九十九匹の責任もあるのではないかということです。そして、迷い出た一匹の羊の回復を九十九匹に属する私たち教会がどれだけ真剣に願い求めているか。そのことが問われているのです。迷い出た一匹の羊は自分自身のことではなく、誰か他の人のことを指します。「これらの小さな者」のことです。主イエスは、「あなたがたはその小さな者をどう思うか」と問うておられるのです。

 天の父なる神様は、小さな者の一人のことをいつも心に留めてくださるお方です。たとえ、自分の罪という問題でつまずいたとしても、その人が他の九十九匹に迷惑を掛けて、神は小さなひとりをいつも愛のまなざしで見つめていてくださいます。例えば、10節の後半にこういう言葉がありました。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」ここに天使たちが登場します。「彼らの天使たちは」とあるように、小さな者、迷い出た一匹の羊のための天使です。この御言葉から私たち一人一人を守る天使、いわゆる、「守護天使」が存在し、教会の歴史においては崇められる対象にすらなったことがありました。しかし、主イエスがここで語っておられる天使たちは小さな者を守ってくださる。だから大丈夫という話ではありません。天使たちが、天においてしていることは何でしょうか。それは小さな者の代わりに天の父の御顔を仰いでいるということです。そして、神もまた小さな者の側にいる天使たちを見つめているのです。そのように、天の父なる神様は小さな者のことをいつも気に掛けていてくださいます。慈しみのまなざしで小さな者のことを見ていてくださるのです。

 まことの羊飼いであられるイエス・キリストをとおして、私どもは神の愛を知りました。その者たちが集められ、キリストの体である教会を形づくります。そこに天の国の交わりが地上に映し出されます。しかし、その教会の中で問題が起こるのです。だからこそに迷い出る小さな者が出てくるのです。6節に「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」とあるように、主イエスは教会の中にあるつまずきをはっきりと見ておられます。「教会には何も問題がない」などとは言いません。教会は素晴らしいと所に違いありませんが、だからと言って、何も問題がないわけではないのです。「つまずきは避けられない」とさえ主はおっしゃいます。これから誕生する教会において、「つまずく」という問題が必ず生じるということを、主は心痛めつつお語りになります。主の弟子たちも一時、交わりから離れたことがありました。最後まで十字架の主にお従いすることができず、最後に主を見捨てて逃げたのです。後に教会が誕生しますが、洗礼を受けた後、教会を離れる者も多くいました。教会にとって受洗者が与えられるほど大きな喜びはありません。しかし、その人たちがつまずきを覚えて、教会から去ってしまう時ほど深い悲しみ、痛みはありません。主は私どもが知っているその痛みを先取りするようにお語りになるのです。「つまずきは避けられない」。教会でつまずいた者が迷い出てしまいます。一匹の羊が迷い出たのです。私ども九十九匹は教会に残っているのです。「そこであなたがたはどうするか」と主イエスは問われます。まさに教会が試される時です。教会の問題、教会の罪というのは色々あるかもしれませんが、一番はっきりと表れるのは、小さな者とどのように向き合うかということです。教会から離れた者とどのように向き合っていくのか。この問題はいつの時代も教会にとって重要な問題です。

 一匹が迷い出たのは誰のせいなのでしょうか。あとで申しますが、一つは教会自身の問題でもあるということです。教会がその人にとってつまずきとなってしまうのです。ただそれだけがすべてではありません。15節以下に、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあるように、その人自身の罪がつまずきとなり、教会を離れてしまうということもあるのです。自分の罪は誰のせいにすることもできません。その人自身の問題です。しかし、そのことをあなたはどう思うのかと主は問われるのです。自分の罪のことで教会を離れた兄弟のこと、小さな者の一人のことをあなたがたはどう思うのか。

 また7節では、「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。」と主はおっしゃいました。本人ではなく、教会が、つまずきをその人に与えてしまうということです。主イエスを信じ続けることができなくなってしまうこと、その人が教会から離れてしまう原因をつくってしまうことです。これ以上の不幸はありません。だからつまずかせる者は、「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(6節)「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」(7節)主イエスはずいぶん激しい言葉をお語りになります。つまずくことが、どれほどのことなのかを主はよく知っておられるからです。つまずき倒れても、再び立ち上がることができるだろうという呑気な話ではないからです。つまずきは滅びに至るのです。いのちにかかわる問題なのです。だから、片手片足になっても、片目だけになってもいのちにあずかるほうが、滅びるよりましだとおっしゃるのです。

 どうして、つまずかせることも、つまずくこともいのちとか滅びに関わる大きな問題となるのでしょうか。それは「罪」の問題と深く関わってくるからです。「つまずく」という元になったギリシア語は、獣を捕まえる「罠」を意味する言葉です。英語の「スキャンダル」の元になった言葉です。私どもが誰かにつまずきを与えてしまうというのは、その人を罠にはめるということです。つまり、その人を罪へと誘惑するということです。罠にかかったり、つまずいたら誰でも腹を立てます。自分をつまずかせた小石を蹴るくらいならまだしも、怒りの思いに支配され、罪をおかし、周りを不愉快にさせてしまうということもあるのではないでしょうか。

 私どもが兄弟に与えてしまうつまずきの原因はどこにあるのでしょうか。小さい者というのは、その人が置かれている立場や状況のことではなく、私たち自身がその人のことを小さくしている、軽んじていると先に申しました。だから、その人が小さい者となるのです。私どもは教会の中で、兄弟姉妹と対話をします。色んな話し合いをし、意見を交わします。いつも思いが一つになるわけではないでしょう。そこで嫌な思いをしたり、逆に嫌な思いをさせてしまったりということもしばしばあります。あの時、ああゆうふうに言っていたらと、自分の言葉の足りなさを痛感することがあります。あるいは、行いという面においても、兄弟姉妹に対してなすべきことが十分にできていなかったと反省することもあるでしょう。その度に、自らの弱さや罪を見つめ、改善することに務めます。しかし、問題は自分の弱さ、不十分さではありません。もっと深い問題は、目の前にいる兄弟姉妹を根本的なところで受け入れているかどうかということです。心から受け入れていないから、兄弟姉妹を軽んじ、小さい者としてしまっているのです。

 「自分は軽んじられている」「誰からも受け入れられていない」という思いが、つまずきとなってしまう時、そこで何が起こるのでしょう。人は自分が軽んじられたと思う時、いとも簡単に罪に誘惑されてしまうことでしょう。そのおかした罪に対しても、自分を正当化します。あいつが自分を軽んじたから殺したのだとか、夫婦なのにあの人が私を無視するから、私は他の人を好きになったのだというふうに…。つまずかせたほうも、つまずいて罪をおかした者の主イエスにとって、そのことがどれだけ心痛むことでありましょうか。

 自分が他者から軽んじられること、小さい者とされること。そのようなつまずきや罠から救われる道はただ一つです。「自分は条件なしに受け入れられている」という絶対的な愛に立たなければ、罪から解き放たれ、救われることもありません。そのために主イエスは痛みを覚えつつ、しかし、心からの愛をもって、迷い出た一匹の羊の譬えをお語りくださいました。また、5節で主はこうおっしゃっています。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」「子供」とは小さな者です。つまずいた者です。迷い出た一匹の羊です。そのような者を受け入れなさい。なぜでしょうか。主イエスは「わたしの名のために」とおっしゃいました。「わたしに免じて」ということです。迷い出た一匹を捜し出し、神のもとに連れ帰るために、十字架でいのちを献げてくださった主イエスの名に免じて、あなたがたもまた小さな者の一人のために心を砕いてほしいというのです。つまずきは避けられないかもしれません。しかし、自分自身が小さい者であったことを忘れ、兄弟をつまずかせてはいけないのです。つまずきは避けられないかもしれませんが、そのつまずきの石を取り除くことに務め、教会を離れた者が戻って来るためのあらゆる努力をすることが求められます。それが教会が教会であるということです。

 「あなたがたはどう思うか。」主イエスは私どもに問われました。迷い出た一匹の羊を見つけるまで捜し出し、再び神のもとに連れ帰ってくださる主イエスのなさりようを、あなたがたは受け入れることができるか?それとも受け入れないのか?もちろん、受け入れる他ないのです。主の愛のありようを受け入れたからこそ、私どもも救われたからです。そして、この主の愛を知る時、私どもも小さな者を心から受け入れる者へと変えられていきます。小さな者を探し出してくださる神の愛と憐れみによって、御許に集められた小さな者たちの群れが教会です。主の愛を担う九十九匹の羊の姿が教会の姿です。それゆえに、私どもも小さな者の一人を軽んじてはいけないのです。それは迷い出た一匹の羊をどこまでも捜し求めておられる主の御心を無にしてしまうことになるからです。この恵みを無にしてしまったら、自分自身の救いも否定してしまうことになります。私ども一人一人もまた小さい者であるがゆえに神様から大切にされていることを思い、主の御心に従っていきます。教会の交わりの中心にある父の御心は、御自分の羊たちを最後まで主イエスのもとで養うことです。

 今から聖餐の恵みにあずかります。つまずきを取り除き、一人の小さな者を救うために、十字架でいのちを注いでくださった主イエスは、今も御自分の体である教会のことを心に掛けていてくださいます。その恵みに生かされ、私どももまた小さな者を心から受け入れることができる教会として成長していきたいと願います。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、あなたの前に誰もが小さな者です。そのような私どもを、御子を与えてまでして捜し出してくださいました。キリストに表された愛によって、私どもが教会を建て上げていくことができますように。自分がつまずいたり、つまずきを与えたりと、本当に私どもの歩みはよく揺らぎ、罪に苦しむことがあります。それでも私どもはあなたの愛する子であることに変わりありません。どうかあなたの真実に支えられ、御心を映し出す教会として成長していくことができますように。小さな者、迷い出る者を心から受け入れることができるように、主にあって心を一つにすることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。