2022年02月27日「初めのささやかな日をさげすむな」

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初めのささやかな日をさげすむな

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ゼカリヤ書 4章1節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

1わたしに語りかけた御使いが戻って来て、わたしを起こした。わたしは眠りから揺り起こされた者のようであった。2彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。3その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」4わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに言った。「主よ、これは何でしょうか。」5わたしに語りかけた御使いは答えて、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしが「主よ、分かりません」と言うと、6彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。7大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」8また主の言葉がわたしに臨んだ。9「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたたちに遣わされたことを知るようになる。10誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」11わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」12わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」13彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、14彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。ゼカリヤ書 4章1節~14節

メッセージ

 誰にとっても、何をするにしても、「初めの日」というものが存在します。赤ちゃんや小さな子どもたちと一緒に生活をしていますと、何度も「初めの日」「初めての日」をこの目で見ることができます。初めて立つことができた日、初めて歩くことができた日、初めてお喋りすることができた日、そのように初めの日というのは、大きな喜びに満ちています。その日、初めてできたことが、何日も経ちますと当たり前にできるようになりますが、それでも親はその初めの日のことを忘れることはできないでありましょう。初めの日、それは何かが初めて出来た喜びの日であり、大きな目的に向かって歩み始めた初めの一歩です。子どもが大きくなってからも、自分が大人になってからも何度も経験する「初めの日」というのは、その人の人生を語るうえで大きな意味を持つことでありましょう。

 このことは、個人のことに留まらず、「教会」の歩みを考えるうえでも、同じように言えるのではないでしょうか。千里山教会は今から48年前、赤井長老ご夫妻宅での家庭集会から始まりました。その初めの日は1974年9月6日です。しかし、いったいどれだけの人がこの場所で、神の教会が新たに産声をあげたことを知っていたでしょうか。周りから見れば、いつものように住宅地に建つ一件の家に過ぎません。町の片隅で、いや、世界の片隅で小さく始まった出来事でした。しかし、その初めの日があったからこそ、48年もの間、千里山教会の歩みが守られ、多くの者が神の祝福にあずかることがゆるされてきました。千里山教会だけでなく、私どもが知っているそれぞれの教会がどのような形で初めの日を刻んだのか、色々と調べてみたら、それだけでも多くの恵みに触れることができるのではないかと思います。それぞれの人生においても、教会の歩みにおいても、またこの世界の歴史においても、「初めの日」というのは特別なものがあるのではないでしょうか。

 本日は、旧約聖書・ゼカリヤ書の御言葉を聞きました。旧約聖書の最後のほうに全部で12の預言書が収められています。ただイザヤ書やエレミヤ書などの預言書に比べれば、それぞれがたいへん短いものですから、「十二小預言書」とも呼ばれます。「ゼカリヤ書」は、旧約聖書の終わりから2番目に記されています。全体で14章あり、決して短いものではありませんが、正直あまり読まれることはありません。「ゼカリヤ書の中から知っている御言葉をあげてください」と言われたら、少し困るのではないかと思います。あまりよく知らないということは、説教として語られることもほとんどないということでしょう。しかしだからと言って、あまり大切な御言葉ではないと言うのではなく、あまり読まれないからこそ、実は大切な真理、今こそ耳を傾けるべき真理があるのではないか。そう思うのです。

 私自身、改めてこのゼカリヤ書の御言葉と向き合ったのは、昨年10月の教会修養会の時でした。準備のためにある本を読んでいた時に、目に留まった御言葉がありました。それがゼカリヤ書第4章10節にある御言葉です。「誰が初めのささやかな日をさげすむのか」という短い言葉です。修養会では時間の関係で触れることはできませんでしたが、それ以来、ずっと私の心の中に響いている御言葉の一つでもあります。預言者ゼカリヤもまた「初めの日」ということに注目しています。しかし、その初めの日を「さげすむな!」と呼び掛けています。神の民イスラエルにとって、ここで言われている初めの日というのは、大喜びできるような日ではなかったからです。希望に満ち溢れて、初めの日を刻んだというのではないからです。心のどこかでその初めの日をさげすみたくなるような思いがあったということです。

 詳しい事情はあとで申しますけれども、この点においても、私どもは人生の中で何度も経験するのではないでしょうか。つまり、初めの日というのは、必ずしもすべての人にとって、喜びと希望に満ちた日ではないということです。初めから大きな失敗をしたり、躓いてしまうことはよくあることではないでしょうか。また初めの日を刻む前に、どれだけの不安と緊張に支配されることでありましょうか。初めの日が刻まれなければ、これから先、何も始まりもしないし、何も起こらないのです。それにもかかわらず、その初めの日をなかなか踏み出せずにいることがあります。それでも何とか勇気を振り絞って、初めの一歩を踏み出します。たとえ、躓き倒れても、そこから立ち上がって、最後には目的に到達することができた。大きな夢をつかむことができたという人もいることでしょう。その場合、初めの日の失敗も記憶から薄れ、むしろ美談に変わることでありましょう。自分が一所懸命努力してつかみ取った成功が、これまでの辛く苦しい歩みを喜びに変えるのです。初めにどんな失敗や過ちを重ねても、そのあとの自分の生き方次第で、どうにでもなるのではと思うことがあるかもしれません。

 しかしここで考えたいのは、預言者ゼカリヤが語る「初めの日」とは、どのような日なのかということです。その「初めの日」をさげすむことなく生きるということは、何を意味するのでしょうか。それらのことを理解するために、簡単にではありますが、預言者ゼカリヤが生きた時代について確認したいと思います。第1章1節を見ますと、「ダレイオスの第二年八月」という具体的な日付が記されています。ダレイオスという人物はペルシア帝国の王です。ダレイオスの2代前の王がキュロスという人物でした。神様はこのペルシアのキュロス王を用いて、神の民イスラエルをバビロン捕囚から救い出したのです。それが紀元前538年の出来事です。かつてバビロンとの戦いに敗れたイスラエルの民は、信仰の拠り所としていたエルサレム神殿を失い、故郷を失いました。そして、敵国バビロンに連れて行かれ、70年にもわたって捕囚の民として生きなければいけませんでした。イスラエルの歴史において、最も暗黒の時代と言われます。しかし、苦しみの時は終わり、ついに故郷である神の都エルサレムに帰ることがゆるされました。この知らせが、どれほどイスラエルの人々に喜びを与えたことでありましょうか。

 預言者ゼカリヤが活動していた時代というのは、捕囚から解放された民がエルサレムに戻って来たあとの時代でした。喜びに満ちた時代が今ここから始まろうとしているのです。しかし、エルサレムに戻り、既に20年ほどの月日が経っていたのです。同じ時代に生きたもう一人の預言者がいます。ゼカリヤ書のすぐ前に記されているハガイとい預言者でした。ハガイもゼカリヤも共通して人々に強く訴えたことがありました。それは、「もう一度、神殿を建て直そう!」「神殿を再建しよう!」ということでした。かつてソロモン王が建てたエルサレム神殿は見た目も立派なものでありましたが、それ以上に大切なのは、そこに神がおられるという信仰の事実でした。だから、ハガイもゼカリヤも神の臨在をはっきりと示す神殿を再建しようと呼び掛けたのです。エルサレムに帰還した人たちのこれからの歩みを考えるうえで、なくてはならない決定的なもの。それが今も生きておられる神と共に歩むことを第一にして生きるということです。

 そもそもバビロン捕囚という悲劇は、戦争に敗れた結果、そうなったというのではありません。神に背を向けたイスラエルの罪のゆえに、神がくだした裁きであるということです。だから、70年の捕囚の時が終わり、故郷エルサレムに帰るというのは、単に地理的に住む場所を移動したというのではないということです。信仰的に理解するならば、エルサレムに戻ることは、もう一度神様のところに戻ることを意味したました。悔い改めをもって、神のもとに帰り、神の赦しの中で新しい歩みを始めていくことが求められたのです。神の臨在を示す神殿を建て直すことをとおして、もう一度、御心にかなう信仰共同体をつくりあげていきたい。預言者はそう願ったのです。暗黒と呼ばれたほどに、長く苦しい生活を強いられました。エルサレムに戻ったあとは、さぞかし、神の民に相応しい信仰に生きたに違いないと誰もが想像します。しかし、実際はそうではありませんでした。エルサレムに戻っても、人々の心は変わらないのです。戻ってから20年近く経っても何も変わらなかったというのです。

 第1章2節以下を見ますと、次のような言葉があります。「主はあなたたちの先祖に向かって激しく怒られた。あなたは彼らに言いなさい。万軍の主はこう言われる。わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに/立ち帰る、と万軍の主は言われる。あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる。…」神様はゼカリヤをとおして、エルサレムに帰って来た民に語り掛けます。何度も繰り返し語られている言葉に気付かされます。それが「立ち帰れ」という言葉です。「わたしのところに帰って来なさい」「悔い改めなさい」と主なる神様はおっしゃるのです。それは、まだ帰還した民の心が完全に神様のほうに向いていなかったことを意味します。依然として、かつての先祖たちのように、心が神様から離れていたのです。それにしても、捕囚解放の出来事をとおして、神様の御業の素晴らしさを改めて知ったはずにもかかわらず、なぜ人々の心は神様のほうに完全に向かなかったのでしょうか。

 何の理由もなかったわけではないのです。心が神に向かない理由、心を神に向けたくても向けることができない理由が彼らの中にあったのです。一つは、エルサレムの町の変わり果てた姿です。町も家も神殿も戦いによって崩壊し、瓦礫の山になっています。帰ってきた人々の中には、かつての栄光を知る人々が少なからずいたことでしょう。しかし、もうその美しく壮大な姿はそこにありません。また、帰還した人のほとんどはバビロンの地で生まれ育った人です。彼らにとっては、初めて見るエルサレムです。しかし、目に映る現実は「神の都」と呼ぶには程遠い悲惨な姿でした。こうなったのは、自分たちの罪に原因があると言えばそうなのですが、想像を超えた悲惨を前にして、言葉を失い、バビロンにいた時のような虚しさ、あるいは、期待していただけに、それ以上の虚しさに捕らわれたのです。「さあ、ここからもう一度、町を造ろう!」「神殿を建てよう!」そう呼び掛けても、まったくと言っていいほどやる気が起こりません。立ち上がる気力すらなかったのです。

 実際は、神殿再建に立ち上がるわけですが、そこでも色んな壁にぶつかり、思うように工事が前に進みませんでした。一から建て直すというのは、あまりにも途方もない作業だと思ったのでしょう。瓦礫の片付け、石を精製し、一つずつ石を積み上げていかなければいけません。他にも、人々の経済的な理由がありました。生活が苦しく、神殿を建てるどころではありませんでした。自分たちの生活に余裕ができた時に、神殿を建てたらいいではないかと思うようになりました。自分たちの生活も大切かもしれません。しかしその心の根っこにあったのは、神よりも自分たちの生活を優先させることにありました。また、サマリア人との確執などもあり、一向に工事は進まず、途中で中断してしまうのです。

 「思うようにいかない」ということは、私どもの人生においても経験することです。教会生活、信仰生活においても同じです。それは期待して信仰の歩みを始めたけれども、目の前の現実が相変わらず厳しく見えるとか、思わぬ力が邪魔をして行く手を阻んでいるとか、原因を色々とあげることができるかもしれません。しかし、せっかく豊かな恵みを神様からいただきながら、それでも、生きる姿勢を神様に向けることができないのは、私どもの弱さと言うよりも、はっきりと「罪」と言うべき問題ではないかと思います。そして、人間はそう簡単に変わることはできないのということです。キリスト者として成長するためには、どうしても時間が掛かるのです。そのことは自分自身がよく知っていることかもしれません。

 本日、共に聞きましたゼカリヤ書第4章は、ゼカリヤが「夜」に見た幻です。第1章から6章まで全部で八つの幻が記されています。第4章にはその第五番目の幻に当たります。夜、与えられた幻をとおして、捕囚から帰って来た人々に何が起ころうとしているか語ろうとしています。「夜」は苦悩の象徴です。しかし、神が与えられた幻は、死を滅びといった裁きを語るものではありません。夜が去り、夜明けと共に朝日が射し込むように、人々に慰めと励ましを与えるものでした。2節、3節にゼカリヤが見た第五幻の光景が記されています。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」ゼカリヤはこの幻が何を意味するのか分かりませんでした。日本語で読んでも、イメージしづらい描写になっていますが、一つ鍵になるのは「燭台」ということです。しかも、すべてが金でできており、それだけでもまばゆいですが、そこからさらに七つに「ともし火皿」があり、そこから七つの「管」が付いているというのです。ですから、七の七倍、計・四十九ものともし火が燭台から明るい光を放っています。この燭台というのは、神が共におられることを示す光であり、その神の栄光によって照らし出されている神の民の姿です。

 また3節にある「二本のオリーブの木」とは、「ゼルバベル」と「ヨシュア」という二人の人物を指しています。ゼルバベルという人は、いわゆる政治家と言ったらいいでしょうか。彼の祖父は南ユダ王国の王・ヨヤキンでありました。捕囚の際、バビロンに連れて行かれた人物ですが、イスラエルの王・ダビデの血を引く人物でもあります。また、ヨシュアのことについては第三の幻の中に記されています。彼は大祭司の出身でもあります。二人は王と大祭司の系統を引く人物です。二人とも捕囚時代にバビロンで生まれ、そのバビロンからエルサレムに初めてやって来たのです。二人ともまだ若者でありました。この若い二人を、神はお選びになり、油を注がれました。若い二人に神の民の再建を託されたのです。

 本日の第4章は、預言者をとおしてゼルバベルに向けて語られた言葉です。6節、7節をご覧ください。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」神殿の再建を最後まで導くものとは何でしょうか。何が神殿に生きる者たちを形づくるのでしょうか。神様はおっしゃいます。「武力によらず、権力によらず、ただわが神の霊によって!」つまり、人間の力ではなく、神の霊の力によって、神殿を建てるようにおっしゃいます。神殿の工事に携わるのは人間です。しかし、彼らをとおして真実に働いておられるのは、主なる神様です。神の霊によって、神殿とそこに集う信仰共同体が形づくられているのです。武力や権力によらず、つまり、「人間の力によらず」とわざわざ付け加えているのは、どうしても武力や権力によらなければ、国も信仰共同体建て上げることができないという誘惑が絶えずあったからでしょう。あるいは、「人間の力」と言う場合、必ずしも、既に持っている「強さ」ではなく、まだ与えられていない「弱さ」に心が奪われている状態を表しているのではないでしょうか。だから、「今の自分たちの力で何ができるというのか。この状態からどうやって、神殿を建て直せというのか。無理な話だ。神殿再建の大切さは分かるが、自分たちにはその力がない。その力を再び蓄えるまでは中断しよう」という話になるのです。自分たちの弱さを嘆きつつ、そこで求めているのは人間的な強さであり、力であることに変わりないのです。

 しかし、強いにせよ、弱いにせよ、人間の力に終始心奪われることは神の御心ではありません。ただ神の霊によって、神殿再建の業がなされるからです。私どもキリスト者は、神の道具、聖霊の道具です。神が私どもを御自身の道具、器として用いてくださいます。そのようにして、神殿、つまり、キリストの体なる教会を建て上げられ、御国の完成へと導かれていくのです。だから私どもは神の道具に徹します。私をとおして、教会をとおして、神が豊かに働いてくださることを願います。神様のために何ができるか分からない部分も多いかもしれません。何かを成し遂げる自信もないかもしれません。しかし、それでも精一杯、神様と教会のために献げて歩んでいくことです。そこに神が豊かに働いてくださるからです。

 そのように、教会の歩みが、ただ神の霊によって導かれていく時、そこに何があるのでしょうか。7節に「大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる」とありました。「大いなる山」というのは目の前にある障害です。この時で言うならば、神殿再建を妨げる様々なものです。かつて建っていた壮大な神殿の瓦礫の山、経済的な問題、工事の進行を妨げようとする人々などです。それらが「平らにされる」。つまり、妨げがなくなるという約束です。そして、神殿が完成するその一番最後に「親石」が置かれ、人々の歓喜の声で満ち溢れるだろうと言うのです。神が働いてくださるならば、目の前の山は消えて平らになります。本当に奇跡としか言いようのないことです。この恵みの中に、私どもは皆、招かれています。私たち一人一人も、教会もその歩みと歴史の中で、思うように行かず、働く手を止めて、しばらく中断したいという思いに捕らわれることもあります。良くもわるくも、一度歩みを中断して、今は何もしたくないという思いで心がいっぱいになることもあると思うのです。しかし、改めて御言葉から教えられるのは、いつの時代も私どもの歩みを形づくり、完成に導くのは、ただ神の力によるということです。そのことを知るならば、たとえ目の前の現実が厳しいものであっても、すべてを神様にお委ねして、神様にお献げしながら、前に歩みを進めて行くことができます。自分の思いどおりでなかったとしても、神様が目の前の大きな山を平らな道に変えてくださったという恵みを覚えつつ、歩んでいくことができるのではないでしょうか。

 さて、再び神様の言葉が臨みます。9節、10節です。「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。こうして、あなたは万軍の主がわたしを/あなたたちに遣わされたことを知るようになる。誰が初めのささやかな日をさげすむのか。ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て/喜び祝うべきである。その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である。」「ゼルバベルの手が」とありますが、これはゼルバベルが神殿再建工事のリーダーとなって、ということです。そして、説教の最初にも申しましたように、「誰が初めのささやかな日をさげすむのか」という言葉が続きます。「ささやかな日」と訳されている言葉は、「小ささ」を表す言葉です。今の状態から再び神殿を建て上げるということ。このことはまさに途方に暮れるようなことでした。作業のたいへんさもあったと思いますが、自分たちのような小さな者が神の臨在と栄光をあらわす神殿を建てることが果たしてできるのだろうかという思いもあったことでしょう。彼らにとっての「初めの日」というのは喜びと希望に満ちたものではなく、みすぼらしく、無意味とも思える小さな日でした。取るに足りない小さな日でありました。

 しかし、神様はおっしゃいます。「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。」「初めのささやかな日をさげすむな。」初めの日をさげすむこと、それは結局のところ、神の霊の力ではなく、人間の力に依り頼んでいることに過ぎないからです。頼るべきは、ただ神の霊です。たとえ初めの日に希望を抱くことができなかったとしても、たとえ瓦礫をどけるだけでのような単純作業の繰り返しであっても、たとえ初めの日に大きく躓いたとしても、その初めの日をさげすんではいけない。その小さな日、無意味とも思えるような日であっても、神様のために身と心を献げて生きることがゆるされていることに感謝しなさいというのです。ただ神の霊によって、自分自身を、そして、神の神殿である教会を造りあげていくということ。それは、その完成に至る道のりにおいて、常に神が共におられるということでもあります。私どもは教会を建て上げ、御国の前進のために、共に仕えて歩んでいます。教会の中だけではなく、それぞれが遣わされている生活の場にあって、神と隣人に仕えて生きています。しかし、そこで自らの小ささ、貧しさ、罪を覚えます。キリスト者としての今日の歩みは何なのか。いや私自身の歩みにいったい何の意味があるのか。私の存在が誰の何の役に立っているのか。そう言って、落ち込むこともあると思うのです。けれども、神の力によって生かされている自分を知るならば、初めのささやかな日をさげすまなくてもよいのです。初めの日も、そのあとに続く人生の日々も、神様に感謝し、喜びをもって歩むことがゆるされるのです。

 神殿再建のため、神は王の系統をゼルバベルと大祭司の系統を引くヨシュアを選ばれました。14節に「これは…二人の油注がれた人たちである」とあります。油注ぎというのは、神のために特別に働く預言者・祭司・王が任職される際に行われたものです。神に選ばれ、聖別された者であることを意味しました。また、「油注がれた者」というのは、メシア(救い主)を意味する言葉となったのです。10節にあるように、神はゼルバベルの手によって、「選び抜かれた石」を既に用意しておられました。これは神殿の土台を固めるために敷かれた石のことです。では、ゼカリヤが預言した「ゼルバベルの手にある選び抜かれた石(土台)」というのは、今日の私どもにとって、またキリスト教会にとって何を意味するのでしょうか。

 本日はゼカリヤ書に合わせて、主イエスの弟子であったペトロが記した手紙の一部をお読みしました。ペトロの手紙一第2章4節、5節に次のようにあります(新約p249)。「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」ペトロは言います。選び抜かれた石、それは主イエス・キリストのことであると。神殿、つまり教会の土台となり、私ども人生の土台となってくださったのは、主イエス・キリストなのだと。ペトロは旧約聖書・詩編の御言葉を引用して、「隅の親石」ということを語りました。隅の親石というのは、その建物を建てるうえで大切な要となる石です。しかし、教会を建てるために与えられた主イエスを、人々は「要らない」と言って、捨てたのだというのです。つまり、私ども一人一人を真実に支え生かしてくださる主イエスのことを十字架につけたのです。十字架の主に向かって石を投げつけたのです。しかし、ここに驚くべき救いの出来事が起こりました。神は人々が捨てた石を甦らせ、神の教会のために生きた隅の親石として据えられました。私どもは瓦礫の石ころに過ぎない存在です。それにもかかわらず、神様はこのような瓦礫の石ころを拾い上げ、主イエス・キリストという隅の親石に組み込んでくださり、生きた石として用いてくださるのです。このことが主によって救われるということであり、同時に、教会に生きるということでもあります。

 洗礼を受け、霊が注がれた私どもに、神は使命を与えてくださいました。同じ第一ペトロ2章9節です。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」キリスト者は、「王」として神以外のものにはひざまずかず、御言葉の権威によって罪と悪、死の力と戦います。また、「祭司」として、自らを生きた感謝の献げ物として神に献げ、この世に生きる人々のために、遣わされた場で共に生きる者たちのために執り成しの祈りをささげます。人々と寄り添い、泣く者と共に泣きながら(ローマ12:15)、執り成しに生きる時、そこに私どもの思いを超えた祝福が広がっていきます。

 この季節になると、いつも東日本大震災のことを思い起こします。震災によって、多くの人々のいのちが失われました。津波によって町も瓦礫の山となり、ここからどのようにして歩み出したらいいのか。人々は途方に暮れたことでありましょうか。日本のキリスト教会もまた、「教会とは何か」ということを深く問われたのではないでしょうか。その時に、もう一度新しい視点で見つめ直したのが、ペトロが語る「祭司」としての教会の姿でした。私どもが生きる千里山教会は直接被災したわけではありませんが、この地域に立つ教会として、震災をとおして教えられたことはいくつもあるのではないかと思います。新しい教会堂が与えられて、新しいことを始めたいと願いつつ、コロナ禍などの理由で、その初めの日をなかなか踏み出せないもどかしさはあるかもしれません。しかし、「初めの日」というのは、必ずしも「その日、一日だけ」に限定されたものではありません。私どもが刻む一日一日は、主の恵みによって生かされているがゆえに尊いのです。教会の歩みにおいても同じです。無駄な一日などというのは、主の前に存在しません。いつもと何ら変わらない平凡な一日であっても、思いどおり過ごすことができなかった一日であっても、過ちや失敗をしてしまっても、その歩みの中に主イエスがいつもおられるからこそ「尊い」と言うことができるのです。神様に感謝できるのです。悔い改めて、何度でも赦しの恵みの中を歩むことができるのです。

 預言者は語りました。「誰が初めのささやかな日をさげすむのか。」しかし、私どもは主イエス・キリストのゆえに、どんなささやかな日であっても、さげすんで生きなくてもよくなりました。小さくささやかな日においてさえ、すべてを神様の前に注ぎ出して生きる尊い生き方を教えていただいたからです。今日は「主の日」であり、新しい一週間の「初めの日」でもあります。甦りの主の光が、私どもの一日一日の歩みを照らし出します。ささやかな一日であっても、復活の主のゆえに、死に勝利したいのちの歩みを今週も刻んでいきます。皆様の日々の生活と働きが、主の平安の中で守られ、祝福が豊かにありますように。お祈りをいたします。

 私ども一人一人の歩み、また教会の歩みをこれまで守り導いてくださり感謝します。私どもの思いを遥かに超えた主の大きな御計画、また御心を前に自らの貧しさ、小ささを思う者です。時に言い訳を繰り返しながら、生きることの虚しさの虜になってしまいます。そのような罪深い私どもですが、既に救い主イエス・キリストのゆえに、赦され、愛されている者であることをいつも思い起こすことができますように。ささいなこと、小さなことであっても、主の甦りのいのちに生かされているがゆえに、感謝して、これからも神と教会に仕えていくことができるようにしてください。そのために御言葉と御霊をお与えください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。