2022年02月20日「恵みの豊かさを見抜く」

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恵みの豊かさを見抜く

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章24節~30節

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聖書の言葉

24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。マルコによる福音書 7章24節~30節

メッセージ

 ある女性が主イエスの足もとにひれ伏しました。幼い娘が悪霊に取り憑かれ苦しんでいたのです。こういう場面は、福音書の中でここにだけ記されている珍しい物語ではありません。病や悪霊に苦しむ者。愛する者を失い、涙を流しながら悲しむ者。また人々から冷たい目から見られ、交わりの中に入れてもらえない者。罪の力に捕らえられて苦しんでいる者。そういった人々の中に、主は入って行かれ、共に交わりを持ち、人々が抱えている様々な苦しみから解き放ってくださいました。聖書に親しむ者たちは、そのような主イエスのお姿をよく知っているのではないでしょうか。だからこそ、私どもは主イエスに心惹かれ、主を信じる信仰へと導かれたという面が確かにあると思うのです。

 しかし、なぜか本日の場面で、主イエスは女の願いに対して、27節にあるように、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」とおっしゃったのです。あとで詳しく説明いたしますが、要するに、女の願いを拒否されたということです。「あなたの娘を救うことはしない」とはっきりおっしゃいました。なぜでしょうか。この物語を聞く私どもの心を困惑させ、下手をすると躓きさえ与えかねない物語だと思います。しかし、私どもをもっと驚かせるのは、救いの御業を拒否された女性の姿かもしれません。最初、主イエスから拒否された彼女は、ついに主イエスを論破し、打ち負かせてしまいました。そして、願いどおり娘を救っていただいたのです。

 第7章の初めにも記されていますが、主イエスはいつもファリサイ派や律法学者たちなど、色んな人たちと議論、論争をなさいました。そして、いつも主はそれらの論争に打ち勝ち、神様の真理を明らかにしてこられました。その主イエスが、ここでは打ち負かされておられるのです。そして、負けたことを喜んでおられるのです。しかも、主を打ち負かしたのはユダヤ人ではありませんでした。信仰の知識を誰よりも持っていた人でもありません。異邦人の名もなき女性でした。ユダヤ人からすれば、汚れた存在であり、神の救いから遠いとされていた異邦人・外国人の女性です。しかし、その彼女の信仰が主イエスの心を動かしたのです。主を打ち負かし、主を喜ばせた彼女の信仰とは、いかなる信仰だったのでしょうか。

 主イエスはこの時、24節にあるように、「ティルスの地方」におられました。もう少し細かく言うと、26節にある「シリア・フェニキア」という地域に属する湾岸都市、それがティルスという町なのです。この場所は、主イエスが伝道活動していたガリラヤから北西に50キロ程離れた所にありました。ここはもうユダヤの町ではなくて、異邦人が住む場所、外国だということです。なぜ、主イエスがわざわざティルスまで足を運ばれたのでしょうか。外国に行って、福音を宣べ伝えるためでしょうか。どうもうそういう理由ではないようです。もう一度、24節をお読みします。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」ティルスに行かれた目的、それは自分の身を、ユダヤの人々から隠すためでした。誰にも気づかれたくなかったのです。御自身の存在と名前を隠すようにして、ティルスに向かわれたのです。

 どうして誰にも知られたくなかったのでしょう。その理由が1〜23節に記されています。ここで、主はファリサイ派、律法学者と議論をしておられます。汚れと清めに関する議論です。しかし、主イエスの言葉は十分に学者たちに届いていないようです。人々の心が鈍くなり、御言葉の真理を悟ることができないのです。形だけ、外見だけの信仰に留まり、神の御心を受け入れようとしない神の民の姿をご覧になり、主は深く失望しておられます。そして、疲れを覚えておられるのです。そこを去って、ティルスに行ったのは、その疲れを癒すためです。しばしの休みを取るためでした。だから、遠くティルスまで行ったのです。誰にも御自分のことを知られたくなかったのです。

 しかし、主は御自分のことを隠しとおすことができませんでした。主イエスがやって来られたという噂が町中に広まっていたのです。第3章にも「ティルス」から群衆が押し寄せたということが記されていますから、既に外国にまで主イエスのことが知れ渡っていたと思われます。そこにやって来たのは、あの一人の女性でありました。彼女はギリシア人でした。ギリシア人というのは、ギリシア語を話すことができる人という意味でもありますが、合わせて主イエスが話しておられたアラム語も両方話すことができた人ではないかとも言われます。いずれにせよ、ユダヤ人ではなく、異邦人の女性であるということです。主イエスは、ゆっくりと心と体を休め、この後の福音宣教の備えのために、わざわざティルスにまで行かれたのです。誰にも気付かれたくなかったのです。しかし、その計画はある意味で失敗に終わりました。隠れることができなかったのです。なぜなら、一人の女性が、悪霊に取り憑かれた娘の救いを願って、やって来たからです。「出会い」と言えば、出会いですが、主イエスからすれば決して、御自分で望んだ願いではなく、まさに思いがけない出会いでした。

 そして、娘の救いを願った彼女に向けて語られた主の言葉は、初めに申しましたように思い掛けない言葉、耳を疑うような言葉でした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ここで言われている「子供」というのは神の民であるイスラエルのことです。ユダヤ人のことです。一方で、「小犬」というのは、異邦人のことを意味する言葉です。異邦人のことを「犬」と呼んだのは、主イエスが初めてというのではなく、当時、ユダヤ人もよくそう呼んでいたのです。しかし、「犬」と呼ぶのは、明らかに蔑称です。つまり、異邦人は私たちユダヤ人と違って罪深く汚れている。救いから遠い人間たちだ。だから、お前たちは「犬」に過ぎないのだというのです。主イエスは、ここで「犬」ではなく、「小犬」と呼んでおられます。これは愛称と言えばそうかもしれません。主は多少言葉をやわらげておられます。日本語で言えば、「ワンちゃん」といったところでしょうか。

 ただ犬であっても小犬であっても、「犬」呼ばわりされることは嫌なことです。差別とも言えるような言葉でもあると思います。主イエスははっきりおっしゃるのです。「子供であるイスラエルの民に与える救いを、あなたがた犬のような異邦人に与えるわけにはいかない」と。これはこの女性にとってだけではなく、私どもにとってもたいへん厳しい言葉です。どうして、主イエスはそのようなことをおっしゃったのでしょうか。いつも愛と憐れみに満ちておられる主イエスが、「犬」などというまったく相応しくない言葉を口にされ、女性の願いを拒否するようなことをおっしゃったのでしょうか。このことはそう簡単に理解できないと思います。それこそ、「私のことを“犬”呼ばわりするなんて、イエス様といえども見損ないました」と言って、主の言葉に腹を立て、その場から立ち去ってもおかしくありません。

 しかし、この後、物語は驚くべき方向に進んでいきます。主イエス御自身も、「あなたの娘を救うことはしない」とおっしゃいましたから、すぐに諦めてどこかに行くだろうと思ったことでありましょう。しかし、彼女は主の前から離れようとはしませんでした。また、彼女は主イエスに対して、腹を立て、反論したわけでもないのです。「今の言葉は何ですか!それでもあなたは救い主ですか!?」そのように言ったわけでもないのです。なぜか、彼女はとても落ち着いているのです。主イエスと対話を続けようとするのです。彼女はこう言います。28節です。「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」日本語では上手く訳されていませんが、「主よ、しかし」という部分は、「主よ、はいそのとおりです」という意味の言葉です。「主よ、あなたのおっしゃることは本当です。いかにもそのとおりです。」と言ったのです。これはどういうことかと申しますと、「あなたは犬だ。だからあなたの娘を救うことはしない」とおっしゃった主イエスの言葉、自分の願いを拒否する主の言葉を、彼女はそのまま受け入れたということです。

 それだけでも驚くべきことかもしれませんが、さらに彼女は主がお語りくださった言葉の中に響いている神の救いの恵みを見出したのです。主は、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」とおっしゃいました。女性が注目した、一つのことは、「まず」という小さな言葉です。「まず」ということは、その「次」がある。ちゃんと順番があるということです。一番目は、ユダヤ人に対する救いかもしれないけれども、主の救いというのは、ユダヤ人で終わるものではない。その次に異邦人である私たちも必ず与えられるに違いない。主イエスは恵みによって、異邦人への救いをちゃんと残していてくださるはずだ。私たちは決して救いの対象外ではないないのだ。彼女はそのような豊かな救いの恵みを、主イエスの言葉の中に見出したのです。「主よ、あなたのおっしゃるとおりです。私は神の民であるイスラエルに対する救い、ユダヤ人に与えられる救いを遮ってまで救ってほしいなどとは思いません。ユダヤ人の次でいいのです。2番目でもいいのです。それで十分救われるのですから…。」そのように彼女は主に向かって言ったのです。

 また、彼女は主の言葉を聞いて、「主よ、しかし」と言いました。「しかし」と言って、主に反論しているように思われるかもしれません。あるいは、主に脅しをかけているのではないかと思う人もいるでしょう。「私の願いを聞いてくださらなければ、神を信じませんよ!」というふうに。けれども、彼女は、決して、主に反論するつもりなどないのです。本当にそのまま、主の御言葉をすべて受け入れているのです。異邦人でありながら、神を神として生きることを知っていた人でした。その上で、「しかし」と言って、自分の言葉を続けるのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。…」

 彼女は、主から「犬」と呼ばれました。でも、そのことさえも受け入れているのです。つまり、自分が救いの恵みをいただくのに、まったく相応しくない存在であることを認めているのです。

けれども、主イエスは単に「犬」と呼ばれたのではなく、「小犬」と呼んでくださいました。「小犬」というのは愛称ですが、それでも「犬」呼ばわりされるのは嫌なものです。しかし、彼女は「犬」と呼ばれてもおかしくないほどに、自分が神の御前に相応しくないことをちゃんと認めたのです。そして、そのようにして主の言葉を受け入れる時に、そこで初めて見えてきた恵みの事実がありました。「小犬」というのは、愛称ですが、同時に家で飼われている犬のことを意味するということです。主人に愛され、主人の家でかわいがれているペットとしての犬です。そして、さらに豊かな想像力を働かせ、主人の食卓の光景を思い浮かべるのです。主人とその家族、子どもたちが一緒に食事の席についています。その食卓を囲む部屋に小犬も一緒にいるのです。まるで家族の一員のようです。子どもがパン屑を下に落としてしまいました。もしかしたら、子どもが小犬にパンを少しとって分け与えたのかもしれません。そのパンを小犬は美味しそうに食べています。人間にとっては床に落ちたパン屑であっても、小犬にとってはいのちの糧そのものでした。

 女性は、主の言葉を聞きながら気付かされるのです。一見、冷たく厳しい主の言葉、私を拒否するような主の言葉の中にも、実は私を救いに招こうとしておられるのだということに。主イエスは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」とおっしゃいました。だから、犬である異邦人に救いを与えるわけにはいかないのだと。この主の言葉は、聞く者には厳しく、誤解を与えかねない言葉です。ただこの主イエスのお言葉は、御自分の感情や気分に任せて、おっしゃった言葉ではないということです。「疲れているのに、せっかくの休みなのに、いちいちわたしに関わってくるな」とか、「お前は異邦人だから、その時点で救われることはない」とかそういうことをおっしゃりたかったわけではありません。まず、子供たちに十分食べさせるというのは、旧約の時代から明らかにされている神様の救いの御計画です。一番弱く、一番罪深いイスラエルの民を神はまずお選びになりました。彼らが救われることによって、神がいかに憐れみ深い方であるかが示されます。そのことによって、イスラエルだけでなく、異邦人にも、つまり世界中に救いが広がり、その恵みにあずかることができる。それが父なる神様の救いの御計画であり、主イエスもまたその父の御心に従って歩んでおられたのです。

 異邦人の女性は、この神の御計画そのものを否定していません。「そのとおりです」と言って、受け入れているのです。否定はしていないのです。否定ではなく、主が本当におっしゃりたいこと、主がここではあからさまになさらなかった事実を補うような言葉を口にしたと言ったほうがよいでありましょう。腹を立てることなく、冷静に、「イエス様がおっしゃりたいことは、本当はこういうことですよね…。」そう言ったのです。彼女は、主人の食卓の様子を思い浮かべなら言うのです。「主よ、あなたは落ちたパン屑までも、小犬から取り上げたりはなさいませんよね。私も落ちた余り物、おこぼれでもいいですから、そのパン屑をいただいてもよろしいでしょうか。余って、こぼれ出るおこぼれの恵みでいいですからあずかりたいのです。主よ、あなたの恵みはユダヤ人に留まらず、そこから溢れ出るほどに豊かなものなのです。どうか、その恵みの中に私を加えていただけないでしょうか。それで十分に私は生きていくことができます!おこぼれの中にも私を真実に生かすいのちがあります。ここに私の救いがあるのです!」

 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」多くの説教者たちは語ります。この彼女の言葉は、実にユーモアに満ちていると!品が良く、優雅でもあると言うのです。決して、下品な言葉、失礼な言葉、皮肉を込めた言葉ではありません。品があるのです。ウイットに富んでいるのです。だから、主イエスの冷たく聞こえるような言葉を聞いた時、彼女は微笑んだのではないだろうか。主の言葉を聞いて、彼女の目はキラッと輝いたのではないだろうか。そのように想像する人もいるのです。主の言葉を聞き、救いの御計画の中に置かれている自分の姿を思い浮かべることができたからです。彼女は、「おこぼれにあずかろうとする私に、『あっちへ行け』とまでは言わないでしょ?」たったそれだけの言葉で主を打ち負かしたのです。主の恵みの豊かさを見抜くことができたからです。

 また、彼女は「主よ!」と言って、信仰を言い表しました。意外に思われるかもしれませんが、マルコによる福音書の中で、人々が「主よ!」とイエス様に対して呼び掛けているのは、ここだけです。他のところでは、「先生」と呼んでいるのです。主イエスに対する信仰告白をしたのは、神の民であるユダヤ人ではありませんでした。神の救いから遠い存在であった異邦人の名もなき女性だったのです。主はこのことをたいへんお喜びになったに違いありません。まことの信仰に生きるべき神の民の心は頑なになり、主イエスを失望させました。だから異邦の地であるティルスまで来て、休みたかったのです。しかし、そこで思いがけない出会いがありました。そこで主イエスが探しておられた信仰を見出すことができました。それが彼女のような信仰に生きることだったのです。

 ところで、私どもがこの物語を聞きながら、また、主イエスの言葉を聞きながら、そこに戸惑いを覚えたり、心に引っ掛かりを覚えるのはどうしてでしょうか。「イエス様らしくない」とどこかで思ってしまうのはなぜなのでしょうか。また、私どもも時に、主のおっしゃる言葉に抵抗を覚えたり、反論するということもあるかもしれません。しかし、その反論の仕方がこの女性のような信仰の言葉になっているかどうか。そのことを改めて考えてみる必要があるのではないかと思わされます。この女性とは違う信仰になっているから、私どもはここに登場する主イエスの姿に戸惑いを覚えてしまうのかもしれません。私どもも口では、「神の恵みに相応しくない罪人です」と言って、神様の御前にへりくだることができるでありましょう。しかし、恵みが見えなくなると、たちまち文句を言ってしまうことがあるのです。どこかで神様は恵みを与えて当然だと思っているのです。私どもは神の恵みを当然の権利として要求できると思っているのです。そして、あなたが神としての義務を果たすならば、私は神を信じるという態度を取ってしまっているのです。そのように、心のどこかにプライドというものがしっかりと残っていて、その虜になってしまっているのです。心が頑なになり、心の柔らかさを失ってしまいます。だから、主の言葉を表面的にしか理解できないのです。苦しみの中で、柔らかくユーモアな心に生きることがなかなかできないのです。

 私どもも、この女性のようにどうしても主イエスに聞いていただきたい願いや祈りがあります。自分のことはともかく、愛する者が苦しんでいるならば、すぐでも助けてほしいと願うことは当然のことです。しかし、なかなか祈りが聞かれないということがあります。聖書の言葉に耳を傾けても、今の自分の心には響いてこない。まして、目の前の苦しい現実は何も変わっていない。そのような経験をすることがあるのです。どうして、そこで微笑んでなどいられるというのでしょうか。主がお語りになる言葉をユーモアをもって聞けるというのでしょうか。どうして、自分を冷静に保つことができるというのでしょうか。そのような心の余裕などどこにもないのです。だから、いつまでも平安でいることなどできない。怒りや苛立ちに心を支配されてしまう。そう言って諦めてしまうのです。この女性にはできても、私には無理だと思ってしまうのです。

 しかし、主イエスがここで明らかに求めておられることは、この女性のような信仰にあなたもまた生きてほしいということです。「あなたもまた彼女のように生きることができる!」という主の励ましが、この物語には込められているのです。主イエスは彼女の言葉を聞いてこうおっしゃいました。29節です。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」「それほど言うなら、よろしい」という言葉は、以前の翻訳では、「その言葉で十分である」となっていました。直訳すると「その言葉によって行け」となります。もう少し補いますと、「あなたの語ったその言葉に示されている“信仰”によって、あなたはこの先、歩んで行くことができる」ということです。あなたが語ったその言葉のゆえに、既に救いが起こっているというのです。そして、本当に悪霊は娘から出て行き、救われたのです。彼女が語った言葉の中に、彼女の信仰があります。それは、主の恵みの豊かさを見抜く信仰でした。主の言葉を柔らかな心で、ユーモアをもって聞くことができる信仰でした。

 そして、この信仰が果たしてどこから生まれるのかということを、さらに見ていきたいと思います。彼女は、主イエスの言葉をそのまま受け入れました。「犬」という言葉を聞いても、腹を立てず、「本当におっしゃるとおりです」と言ったのです。それは、彼女が本当に自分を低くし、心から「へりくだった」信仰の姿勢に生きていたからです。口先だけで、「私はあなたの恵みに値しない者です」などとは言わないのです。神様の御前にある自分の貧しさを本当によく知っていたのです。

 そのように、神様の前にへりくだる信仰に生きていたからこそ、彼女は当然の権利として、「救ってください」とは言うことはありませんでした。あるいは、ユダヤ人を押しのけてまでして、私を救ってくださいと主張するのでもないのです。「私に恵みを与えてくださるのも、拒否なさるのも、主よ、あなたの自由です」と言うのです。そもそも救いの恵みというのは、ただ主の憐れみによって与えられるものです。だから、「主よ、あなたの御心が自分に向かないことがあっても構わない」ということです。これは本当に驚くべき信仰だと思います。

 この主の前にへりくだる信仰の姿勢が、さらに「大胆さ」をも生み出しました。だからこそ、「主よ、しかし…」と言うことができたのです。これは決して「傲慢」であるということではありません。神に対して傲慢であるというのは、先程も申しましたが、私にはあなたから恵みをいただく権利があるのだから、それを手に入れるまで、断固として要求するということです。私には恵みをいただく資格や権利が十分にある。あなたは神なのだから、私を祝福して当然ではないかと言い張ることです。しかし、彼女は主の憐れみによって、恵みの端っこに加えてくださることを信じ、その恵みに寄りすがったのです。まったく自由に、主が自分見つめてくださることを期待したのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます…」そこに、真実の主との出会いが与えられ、彼女の願いは聞き入れられたのです。

 最後にまだ詳しく触れていませんでしたが、彼女の信仰を語るうえでとても大切な言葉がありました。それは主イエスのところに来た時に既に記されているものでした。25節です。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」「足もとにひれ伏した」とあります。「ひれ伏す」というのは、神を礼拝する姿勢を表す言葉ですが、ここでは文字通り、女性は主の足もとにひれ伏し、うずくまっているのです。うずくまったまま彼女は主に願っています。途中で立つこともしません。そして、主はひれ伏している彼女に向かって、たいへん厳しい言葉をお語りになりました。その言葉を、彼女はひれ伏したまま聞いているのです。彼女はその主の言葉を聞いた時、初めて主イエスの顔をひれ伏したまま見上げたのではないでしょうか。そして、「主よ、しかし…」と信仰を言い表したのです。

 ひれ伏すところで、初めて、主の言葉の中に込められている救いの招きを聞き取ることができました。ひれ伏しつつ、主を仰ぎ見るところで、初めて、知ることができる恵みがあるのです。主の前にひれ伏すところで、初めて、与えられるユーモアをもって目の前にある厳しさと向き合い、戦っていくことができるのです。私どものそれぞれの歩みにおいて、大きな苦しみを経験する時、それこそ椅子に腰をかけたまま祈ることなどできないかもしれません。椅子から滑り落ちるようにして、ひざまずきながら神の前に祈りをささげるということも、実際はあることでしょう。たとえ、そうでなかったとしても、私どもはいつも魂において、主の前にひれ伏し、ひざまずく信仰を決して忘れてはいけません。そして、主の日の礼拝において、神の前にひれ伏す信仰の姿勢をいつも新たにされたいと心から願わずにはおれないのです。

 今朝は、マルコによる福音書と合わせて、先に旧約聖書・哀歌の御言葉を朗読していただきました。神の民イスラエルがバビロン帝国との戦いに敗れ、エルサレム神殿も故郷もすべてを失い、バビロンに連れて行かれたのです。神の民の歴史にとって最大の苦難の時と言ってもいいでしょう。その深い悲しみの中で、文字通り、哀しみの歌をうたいます。そして、この出来事が自分たちにとって何を意味するのかを問うのです。朗読していただいた第3章にこのような言葉がありました。

 「軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。」(哀歌3:28~33)

 この歌をうたった信仰者は言うのです。「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。」イスラエルは罪のゆえに、神から懲らしめを受けました。深い悲しみと絶望の中にイスラエルの民は置かれています。「しかし、塵に(つまり地面に)口をつけたらいい。神の前にひれ伏したらよい。望みが見出せるのだから…」そのように呼びかけ、神の愛が今も注がれていることに気付かせようとしています。昔も今も変わらないのです。神の御前にひれ伏し、ひざまずかなければ、決して聞こえてこない御言葉があるというのです。塵に口をつけるほどに低くならなければ、見えてこない主の恵み、主の真実があるのです。そして、神は私どもをお見捨てになるお方ではないということです。神の御心は、私どもを苦しめ悩ますことではありません。私どもを救うことです。だから、主に望みを置こう!主を待ち望もう!そう言って、神の民を励ますのです。

 「主よ、あなたは恵みに溢れたお方です!」という女性の信仰告白もまた、主の前にひざまずくところ、主を礼拝するところで与えられたものでした。自分を軸にする生き方、自分にこだわる生き方をするのではなく、主イエスに軸を置き、主イエスを心から受け入れること。そこから自由に射し込んでくる救いの光に照らされて、私どもも歩んでいきたいと願います。厳しい現実と戦わなければいけないことがあります。苦しみの中でその意味を問い続けることもあ流でしょう。しかし、そのような中にあっても、あなたを豊かな恵みに招こうとしておられる方がおられます。苦しみの中で、ユーモアが与えられるほどに確かな望みを与えてくださるお方がおられるのです。今、私どもはその主イエスの前にひれ伏しているのです。お祈りをいたします。

 主の前にひれ伏すところで見えてくる恵みがあります。苦しみや戦いの中で、なお大胆かつ自由に生きることができるほどの豊かな恵みを、あなたは私どもに備えていてくださいます。どうか、主のいのちの言葉を聞き取ることができますように。御言葉に示されたあなたの恵みを霊のまなざしをもって、はっきりと見ることができますように。教会の歩みをはじめ、教会員お一人お一人の生活を、これからもあなたの守りと愛の中に置いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。