2022年02月06日「何を恐れて生きていますか」

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何を恐れて生きていますか

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章26節~31節

音声ファイル

聖書の言葉


26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」マタイによる福音書 10章26節~31節

メッセージ

 主イエスは、弟子たちに「恐れてはならない」「恐れるな」と何度も呼び掛けておられます。26節、28節、31節です。「恐れるな」という弟子たちへの呼び掛けは、同時に、今ここにいる私どもへの呼び掛けでもあります。この箇所だけでなく、聖書全体を読んでいると、しばしば、「恐れるな」という神の言葉を聞くことができます。それは、私どもが地上の歩みにおいて、如何に恐れに捕らわれている存在であるかということを示しています。家族や友人、同僚などの人間関係において恐れを抱いている人もいるでしょう。あるいは、これからの進路や将来を考える時、不安と恐れを抱くこともあります。あるいは、病や老い、そして死ということにおいて、恐れを抱くことがあります。また、災害や事故など突然大きな出来事に襲われて、恐れを抱くこともあるでしょう。そして、私どもを苦しめるのは、自分が本当に「怖い」と思っているもの、本当に「恐ろしい」と思っている存在について、なかなか口にすることができないということです。「あの人はとても怖い人だ」と冗談交じりに言っているうちは、本当に怖くはないのです。自分にとって本当に恐ろしい存在については、それこそ恐ろしくて口にできない。あるいは、恥ずかしくて口にできないということがあるのではないでしょうか。

 しかし、主イエスはそのような様々な恐れに捕らわれて、苦しんいる私どものことをよく知っていてくださいます。恐れる必要のないものに心を奪われ、神様のことさえも見失っている私どもをご覧になって、深い悲しみを覚えておられます。しかしそこで、「恐れるな」と声を掛けてくださるのです。神様がイエス・キリストをとおしてお与えくださる救いというのもまた、恐れから自由になるところにある。そのように言うこともできるのです。だから、何度も「恐れるな」と主は声を掛けてくださるのです。その声は、時に私どもに対する戒めの言葉であり、叱責の言葉であるかもしれません。しかし、それ以上に、恐れに捕らわれる私どもを励ます言葉でもあるのです。

 ところで、ここで主の弟子たちは、いったい何を恐れていたというのでしょうか。26節で、主は「人々を恐れてはならない」とおっしゃっていますから、弟子たちは人間を恐れているということで間違いないのですが、より具体的にはどういうことでしょうか。本日、お読みした第10章は、主イエスが十二人の弟子たちをお選びになり、伝道の働きに遣わす場面です。伝道の業は祝福に満ちた働きですが、同時に、殉教の覚悟が問われるということでもありました。16節で、主は弟子たちの派遣について、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」とずいぶん厳しいことをおっしゃいました。十二弟子や伝道の働きということに限らず、キリスト者として生きるということ自体が、迫害に遭い、殉教を覚悟しなければいけないというとでもあったのです。この時の弟子たちも、マタイが記したこの福音書を聞いていた教会の人たちも、迫害という苦難の中に立っていたのです。ユダヤ教から、ローマ帝国から厳しい迫害を受けていました。

 今週11日は、信教の自由を守る日です。その日に合わせて2・11集会も毎年行われています。迫害というのは、決して昔の話ではありません。いつも時代も、様々な場所でキリスト教会は迫害の苦難を経験してきました。今年の2・11集会は、日本からも近い香港のキリスト教会に焦点を当てて、講師の先生がお話しくださいます。香港においても、中国においても、堂々と自由に「私はキリスト者です」と声をあげづらい状況に追い込まれています。政府の考えに意見をするならば、捕らえられたり、国から追放される、国から出て行かざる得なくなる。そのようなことが実際に起こっているのです。また、いわゆる迫害ということではないかもしれませんが、2年前、新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた頃、よくこの箇所の御言葉が色んなところで引用されました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」28節の御言葉です。感染症によって、教会生活や信仰生活が脅かされ、いのちさえも失うかもしれないという恐れの中で、あなたがたは信仰者としてどう生きるのか。そのことがこの御言葉をとおして、問われたような思いがいたしました。

 さて、本日お読みした箇所の少し前の24節、25節を見ますと、弟子たちの師であられる主イエスも苦しみを受けるのだから、弟子たちもまた苦しみを受けるのだということが記されています。しかし、そうは言われても、いのちを奪われるような恐れを味わうのは誰でも嫌だと思います。怖いと思います。そうかと言って、キリスト者をやめるなどという愚かなことはしたくありません。それだったら、「イエスを主」と信じつつも、人々の前では公に自分がキリスト者であることは隠しておこう。そう考える人もいるかもしれません。あるいは、キリストは信じるけれども、伝道の働きは一部の人に任せておいて、自分は神様との一対一の静かな交わりを大切にしよう。そう思う人もいるかもしれません。

 しかし、主はこうおっしゃいました。26〜27節です。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」キリストの福音というのは本質的に、覆い隠すことができるようなものではないということです。「屋根の上で言い広めないさい」とあるように、人々に宣べ伝えるべきものです。それには理由がありまして、福音の真理というのは誰の目にも分かるようなものではないからです。そういう意味で、覆われており、隠されているのです。キリストの十字架とか復活とか、そのようなことがあったという事実や聖書に記されている多くの知識を得ることはできるかもしれません。しかし、その奥にある真理、神様からの本当のメッセージを受け取るためには、どうしても信仰が必要なのです。だから、その福音の真理を伝える伝道者が必要なのです。そして、本当の意味で、福音の真理がすべてが明らかになるのは、主イエスが再び来てくださる終わりの日です。それまで、私どもはこの地上において、神の国の進展のため、神と教会に仕えていきます。

 また、併せてお読みしたほうが良かったかもしれませんが、32節、33節にはこうありました。主イエスの言葉です。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」ここで主が求めておられるのは、「イエス様は私の仲間である」と言い表すことです。「仲間だと言い表す」という言葉は、「同じ言葉を言う」という意味です。主イエスの語ることに同意し、受け入れ、言い表すのです。そこから「告白する」という意味にもなりました。決して、心の中で、隠れるようにして「私はイエス様を信じます」と言い表すのではありません。人々の前で信仰を言い表すことに意味があるのです。洗礼を受け、キリスト者になる時も同じです。一人で洗礼式を行うことはできません。神と教会の前で、信仰を言い表し、洗礼の恵みにあずかるのです。そして、キリスト者になった後も、私どもは「イエス・キリストは私の救い主であり、私は主イエスの仲間です」と告白します。それがキリストの福音を宣べ伝えるということでもあるのです。「私は主イエスの仲間です」と人々の前で告白するかどうか、ここに、主イエスと私どもの関係が地上だけではなく、天上においてもかかっているのです。

 私どもは人間をはじめ、様々なものを恐れてしまいます。人々の支配や評価の中にあって、隠されている福音の真理、神様の愛を見失ってしまうことがあるのです。終わりの日に、すべてが明らかになるのだから、今という時をとにかく耐え忍ぼう。何もせずに黙って、静かに主を信じよう。そういう生き方をしようと思えばできるかもしれません。しかし、主イエスが望んでおられる生き方は、人々の前で信仰を告白し、福音を宣べ伝える生き方です。終わりの日に明らかにされ神の国の支配を、今、隠されたこの時に見ることのできる、そのような信仰のまなざしに生きることが求められています。でもそこに迫害や死の恐れが生じるのです。弟子たちの恐れ、そして、私どもの恐れ、その根底にあるのは「死」の恐れです。主イエスに従う私どもにとって、死の問題というのはもう解決済みのはずです。もうそのことはよく分かっているつもりですし、ちゃんと信じているのです。しかし、それにもかかわらず、死の恐れから解き放たれていない自分に気付かされることがあります。いのちの危険さえおかして、主イエスを告白して生きることにどれだけの意味があるのかと疑ってしまう罪や弱さがあるのです。

 しかし、そのような私どものことをよく知っていてくださる主イエスは、このようにおっしゃってくださいました。28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」実際、殉教者たちにとって大きな励ましとなった主イエスの言葉ですが、どのような意味があるのでしょうか。体は滅びるが、魂はいつまでも生き続けるといった、いわゆる「霊魂不滅」を意味する言葉でありません。あるいは、迫害する者はせいぜい体を殺すことくらいしかできない。たいしたことはないから、恐れるな。もしそのようなニュアンスで主の言葉を受け取っても、「殺される」という恐怖は取り除かれないだろうと思います。主イエスは私どもが迫害のゆえに、体が殺されることは絶対にないとか、わたしが守ってあげるからあなたのいのちは大丈夫と保証しておられるわけではないのです。だから、迫害によって、体が殺されるということがあるということをはっきりと認めておられるのです。それだけに、ずいぶん激しい主の言葉であると思います。主イエスにしか語ることができない言葉がここにあります。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 「恐れることはない」「恐れるな」と何度も語り掛けておられた主イエスは、28節では、「恐れなさい」というふうにまったく正反対のことをおっしゃっていることに気付かされます。では何を恐れよというのでしょうか。それは、体も魂をも滅ぼすことのできるお方、つまり、「神を恐れよ!」というのです。真実に恐れるべきお方を、あなたがたは本当に恐れているか?主は私どもに問い掛けるのです。私どもは色んなものを恐れているかもしれません。口にできないほどに怖さに怯えながら生きているかもしれません。その恐れは嘘でも偽りでもないでしょう。普段の生活の中で抱く様々な恐れ、それ自体を否定しているわけではないのです。けれども、その上で問われるのです。本当に恐れるべき者、本当に恐れるべきお方をあなたは知っているか?そして、主イエスはおっしゃいます。あなたがたが恐れるべきお方は神なのだ。神を信じるということは、神を恐れることでもあります。なぜ神を恐れるのでしょうか。それは、魂も体も滅ぼすことがおできになるからです。自分は迫害されている側だから、滅びるとか地獄ということは関係ないというのではなくて、この自分もまた神に滅ぼされてもおかしくない存在であったということです。そのことを深く知る時に、私どもは神を真実に恐れることができます。

 ここで「体」と「魂」ということが言われています。「魂」というのは、「いのち」と言い換えることができます。私どもの「いのち」とは何か?ということです。この私を私たらしめている「いのち」とは何なのでしょうか。いのちとは、体を持って生きる地上の歩みに限られたことなのでしょうか。「体」というのは、「いのち」がこの地上の生活を営んでいく時の具体的な姿でもあります。ただ、その体が殺されるということもあるのです。誰もが、何らかの仕方で死を迎えるのです。しかし聖書は語ります。肉体は死ぬことがあっても、神様の御前にある本当のいのちは滅びないのだと。体と魂を滅ぼすことができるお方が、あなたのいのちを滅ぼすようなことはないとおっしゃってくださいました。ここに私どもの救いが与えられたのです。

 私どもは本当に恐れるべきお方である神を恐れず、人間ばかり恐れてしまっているのです。しかし、私どもは恐れる相手を間違えているのです。真に恐れるべき神を恐れることができたならば、他の様々な恐れからも解き放たれていく。このことを主イエスは私どもに約束してくださいます。そもそも、神が私ども人間をお造りになり、いのちをお与えになった時、お互い恐れを抱く存在としてお造りになったはずはないのです。キリスト教会に対する迫害もそうですが、人間が生み出す恐れというものが、私どもだけでなく、神様さえも深く悲しませていることを思います。その悲しみは、「恐れるな」と励ましてくださった主イエスが、十字架の上でその体を殺されておしまいにならなければ、決して癒えるものではなかったのです。

 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」神が恐ろしいお方であるという時に、それこそ神を怒らせたらたいへんなことになる。滅ぼされてしまう。だから、言うことを素直に聞こうという話になるかもしれません。しかし、主イエスが私どもに告げてくださる神のお姿、信仰に生きる喜びとはそういうことではないのです。

 だからここでも主イエスは、29節以下でこうおっしゃいました。これもまた心に深く刻まれる神の愛に満ちた言葉です。29〜31節。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」まずここに登場するのは、市場で売られている二羽の雀です。値段は一アサリオンです。日当の16分の1に当たる値段です。だいたい500円とか600円くらいでしょうか。ただ雀というのは、一羽単位では売られていません。一羽300円で売ってくれというふうにはいかないのです。いつも何羽かセットになって売られているのです。それは一羽では売り物にならない。一羽では商品価値がないということです。そのように雀というのは、最も小さいもの、最も価値のないものを表す存在でもありました。けれども、神様はそのような最も小さく価値のないもののいのちを最後まで看取ってくださるというのです。神様の許可がなければ、一羽の雀さえも死ぬことはないというのです。それほどまでに、神様はいのちに対して、深い関心を持ってくださり、一羽の雀のいのちさえも神様の守りの中にあるというのです。まして、神のものとされた私どもの命が、神の守りから外れていることなどあり得ません。私どももまた、自分が小さな存在、弱い存在であるということを知っていると思います。その私どものいのちを神様は御自分の御手の中で守ってくださるのです。私どもを愛しておられるからです。

 また、30節では「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とありました。いったい自分の髪の毛が何本あるか。そこまで自分のことを知っている人はいないでしょう。神様は私どもが自分のことを知る以上に深く私どものことを知っていてくださいます。それは髪の毛一本に至るまで、私どものいのちを御手の守りの中に置いてくださるということです。そして、神様は私どもが「体」を持って生きること、私どもの「肉体」を決して軽んじてなどいないということです。むしろ、たいへん重んじていてくださいます。髪の毛一本に至るまで心を配ってくださるのです。「あなたの体なんかどうでもいい。魂のほうが大事だから、迫害を恐れず福音を宣べ伝えよ」というのではないのです。私どもの体が傷つき、痛むこと。まして殺されるということ、死ぬということ。この事実がどれほど神にとって辛いことであるか。そのことを神様は私たち人間以上に知っていてくださるのです。

 神を恐れるということは、「こんな失敗や過ちをおかしたら滅ぼされてしまうかもしれない」と言って、ビクビクしながら生きることではありません。そうではなくて、自分の体と魂を滅ぼすことのおできになるお方が、自分のことをいつも心に留め、見守ってくださるということ。それほどまでに神は愛といのちに満ちたお方であるということを知って生きることです。そこに、人間であり、体を持って生きているがゆえに生じる恐れから解き放たれ、安心して生きる道が拓かれます。主を真実に恐れるならば、そこに落ち着いた生活、穏やかに生きる生活が与えられていくのです。

 主の弟子たちがそうだったように、私どもも人間に対する恐れのゆえに、主を捨てて逃げ出すことさえしてしまう者です。しかし、その私どもの罪に、恐れに捕らわれる臆病な心に、主は勝利してくださいました。十字架で死なれた主イエスは、お甦りになられたのです。主は十字架で人々から体を殺されただけではなく、神に裁かれ、陰府にまで降ってくださいました。だから、私どもは神に裁かれ、滅ぼされることなく死ぬことができます。もう私どもを地獄に行くことはないのです。主の甦りのいのち中で、死に勝って生きることができるようになりました。どれほどこの世の恐れに捕らわれようが、「恐れるな」と何度も呼び掛けてくださり、十字架で死んでくださるほどに、私どもの存在を丸ごと受け入れてくださいます。私どもの耳元で、福音の言葉を語ってくださるのです。主イエスが御自身の存在といのちをもって、「あなたはわたしのもの」「あなたはわたしの仲間」だと言って受け入れ、認めてくださるからこそ、私どもは心穏やかに生きられるのです。心から神様の前に悔い改め、人を恐れることなく、信仰を言い表す者へと変えられていくのです。ここに私どもの真実の強さがあります。お祈りをいたします。

 体のいのちを奪われるかもしれないという恐れの中で、教会は歩みを重ねてきました。多くの者がキリスト者であるということで迫害に遭い、いのちを奪われてきました。その闇の力が今もこの世界から消えることはありません。しかしそれでも、あなたの民として歩むことができているのは、主よ、あなたが「恐れるな」と声を掛けてくださり、体も魂もすべて御手の中で支配してくださる神を示してくださったからに他なりません。神を恐れ、この世の恐れから自由になり、深いところで心から安心して生きることができますように。今からあずかります聖餐においても、主の十字架と復活のゆえに、体も魂もキリストのものとされた恵みを見出し、終わりの日の望みを仰ぎ見ることができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。