2022年01月30日「キリストの苦しみを満たす教会」

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キリストの苦しみを満たす教会

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節

音声ファイル

聖書の言葉

24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。コロサイの信徒への手紙 1章24節~29節

メッセージ

 今年度の年間標語聖句は、コロサイの信徒への手紙第1章24節の御言葉です。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」わずか1節の御言葉ですが、不思議な魅力を持った言葉だと思います。正直、素直に慰められるというよりも、私どもを戸惑わせ、あるいは、疑いの心さえ呼び起こすような言葉であるかもしれません。

 そのことはあとで触れるといたしまして、一つここではっきりしていることは、教会というのは「キリストの体」であるということです。この手紙を書いたパウロは、他の手紙の中でも「キリストの体」という言葉をもって、教会のことを言い表しています。例えば、コリントの教会に宛てた手紙の中にはこうあります。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリント一12:27)また、エフェソの教会に宛てた手紙の中にもこうあります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

 昨年の10月に、千里山教会では3年振りに教会修養会を行いました。「これからの千里山教会」という主題で、とりわけ2年前に新会堂が与えられた恵みを覚えつつ、現在の教会活動を御言葉の視点から見つめ直し、また、地域に向けてもどのような形で仕えていくことができるかを共に語り合いました。それをどう形にしていくかということが、今年の一つの課題でもありますが、修養会の中で与えられた数多くの御言葉の中で、特に私の心に留まったのが、「キリストの体」という言葉でした。

 その時は、コロサイではなく、コリントの信徒への手紙一第12章の御言葉が心にありました。教会はキリストの体に連なる、体の部分部分です。どの部分も軽んじられてはいけません。すべての部分が尊ばれなければいけないのです。それは、教会員一人一人が聖霊の賜物によって生きるということです。教会はこの世の組織とは違い、効率の良さや個人の能力を優先させることによって成長していく群れではありません。教会において、体のすべての部分を重んじるというのは、弱さの中にある兄弟姉妹を見捨ててはいけないということです。あるいは、「これをやっておいて」と、適当に奉仕を割り振ればいいということでもないのです。どれだけ効率がわるくても、時間が掛かっても、一人一人に与えられている賜物によって、共に教会を建て上げていくのです。教会員一人一人が、自分の弱さをも主の恵みのゆえに誇りとし、喜んで主と教会に仕えていくこと。このような教会こそ健やかな教会です。そのために何が必要なのでしょうか。パウロは語ります。「わたしはあなたがたに最高の道を教える。聖霊の最大の賜物、それは“愛”である」と。そして、「愛の賛歌」と呼ばれる有名な御言葉が続いていきます。教会員一人一人に与えられている聖霊の賜物によって、共に教会を形づくること。何よりも聖霊が与えてくださる「愛」をもって、教会を建て上げていくこと。そのことの大切さ、責任の重さ、また尊さを改めて教えられた思いがいたしました。

 本日共に聞きましたコロサイの信徒への手紙では、どのような文脈の中で、「キリストの体」ということが言われているのでしょうか。24節の少し前の、第1章18節で既に「キリストの体」ということが言われていました。18節「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」ここでは、教会はキリスト体であるとともに、キリストが「教会の頭」であるということが言われています。愛をもって教会を支配しておられるのはイエス・キリストです。キリストの御心が表される場所が教会なのです。その主イエスは、死者の中から最初に生まれたお方、復活の初穂となられたお方です。その復活の主の御体をもって、教会が作られました。

 さらに、20節を見ますとこのようにあります。「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」主イエスは十字架の上で、血を流して死んでくださいました。「体」という字はありませんが、キリストの体から流れ出た血潮によって、私どもの罪が清められ、神との間に平和と和解が与えられたのです。22節でも同じことが言われています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」この手紙の中で、「キリストの体なる教会」と語る時、パウロが深く心に留めていたことは、キリストの十字架の御苦しみです。しかも、キリストが御自身の「体」において、「体」をもって、苦しみを味わってくださいました。そのことによって、救いの御業が成し遂げられ、教会が生まれたのです。天の上から一方的に恵みを注ぎ、私どもを救ってくださったというのではなくて、神の御子であられるお方が、私どもと同じ肉体を持った人間として、十字架の死に至るまで苦難の道を歩み抜いてくださいました。教会はその「キリストの体」によって生まれたものであり、それゆえにまさに「キリストの体」なのだというのです。

 パウロがコロサイの教会に対して、ここまで「キリストの体」ということを強調するのはなぜでしょうか。しかも、十字架の上で「体」から血を流すほどに苦しまれたことを繰り返すのはどうしてでしょうか。この時、コロサイの教会員を惑わす者たちがいました。その中に、主イエスが私どもと同じ人間であることを認めない人たちがいたのです。イエスを「神の子、救い主」と信じるものの、十字架の死について、キリストは神なのだから本当に苦しんではいない。苦しんでいる振りをしていただけなのだ。仮の死に過ぎないのだというのです。しかし、キリストが御自身の御体をもって、しかも、人間と同じ体をもって苦しみにあずかってくださったことを否定することは、主の十字架と復活そのものを否定することと同じことです。なぜ、キリストが苦難の道を歩み、十字架で死ななければいけなかったのか。しかもその御体をもって苦しんでくださったのか。このことをどう理解するのか。ここに救いの大切な鍵があります。だからパウロは、主イエスが十字架の上で、その主の体から流された血潮によって、神と私たちの間に平和と和解を与えてくださったのだということ。その御体をもって、教会を建て上げてくださったということを幾度も強調するのです。

 これらのことを踏まえ、本日の24節の御言葉があります。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」説教の最初に、この御言葉は不思議な言葉であり、戸惑いと疑問を抱いてしまうような御言葉だと申しました。その理由の一つは、「あなたがたのために苦しむことを喜びと(する)」ということです。よく言われるような、苦しみを乗り越えて、喜びの境地に達したということではありません。あるいは、苦しみの中で慰められる経験をしたということでもないのです。苦しむことそれ自体が喜びだというのです。そして、パウロがここでまず伝えたかったこと、強調していることは「喜び」ということです。苦しいだけで終わってしまっては、健やかな信仰に生きることができず、教会を建て上げていくことはできないからです。

 なぜパウロはコロサイの教会のために、苦しむことを喜ぶことができたのでしょうか。驚くべきことですが、パウロはコロサイの教会に行ったことはないのです。教会員の顔も知りません。コロサイの地に行き、キリストの福音を宣べ伝えたのは、7節に記されている「エパフラス」という人物です。しかし、パウロは「あなたがたのために苦しむことを喜びとしている」と語ることができました。実際にまだ会ったことがないにもかかわらず、パウロはコロサイの教会に特別な親しみを覚えています。「苦しみ」というのは、先程少し申しましたように、誤った教えに導こうとする敵に攻撃され、信仰の戦いの中にコロサイの教会が置かれていたということでしょう。教会のために苦しみを負うということは、必ずしも、自分が仕えている教会だけではないということをパウロの姿から学ぶことができます。パウロのように、まだ行ったことのない教会のために、あるいは、遠い地にある教会のためにも重荷と苦しみを負う。そのことをパウロは喜びとすることができた人でした。そのような広い教会観を持っていた人でした。

 私どもも、自分の教会のことだけで精一杯というのではなく、その視野を他の教会に広げることができるように祈り願いたいと思います。また、教会だけでなく、神学校をはじめ、大会・中会の多くの働きを覚え、祈り、献げることができるように信仰を整えていきたいと願います。また、千里山教会とめぐみキリスト伝道所のように、二つ以上の教会が共に集って礼拝をささげ、会員総会を行うことができるのは大きな恵みです。互いの教会のことを覚え、特に互いの苦しみを覚え祈りつつ歩むことのできる、そのような教会がすぐ近くにあるということ。このことは本当に幸いなことだと思います。

 苦しいから前に進むことをやめようというのではありません。苦しいから伝道が振るわない、教会が成長しないというのではないのです。キリストの体において、苦しみにあずかる者がいるならば、教会は喜びに生きることができる、成長すると主イエスは励ましていてくださいます。では、どうしたら苦しむことを喜びとすることができるのでしょうか。そのことが、24節の後半で語られていくわけですが、しかし、この箇所がおそらく一番難解で、私どもを悩ますのではないでしょうか。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」「キリストの苦しみの欠けたところを、私は身をもって満たす。」そう言われますと、まるでキリストの苦しみが不十分であるかのように思えてしまいます。十字架の救いの御業は完全でないから、その足りない分を、私たちが補って救いを完成するというふうにも読めてしいます。日本語訳が間違っているのかと思って、もとのギリシア語を見ても、文字通り、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」としか訳しようがない言葉なのです。それゆえに、教会の歴史の中で様々な解釈が生まれてきました。聖書の数ある御言葉の中でも、理解が極めて難解な箇所の一つと言えるでしょう。

 しかし、はっきりしているのは、キリストの贖いの御業が不十分であるとか、その不足分を人間の手で補うことができたら、救いに到達できるという理解は明らかに間違っているということです。それは福音でも、救いでも何でもありません。「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、十字架の救いの御業のことではないのです。パウロが他の箇所でも語るように、私どもの救いはキリストの十字架にすべてがかかっています。主イエス御自身も十字架の上で、「成し遂げられた」「完成した」と叫んでくださいました(ヨハネ19:30)。だから、私どもは罪から完全に救われたのです。罪の問題はキリストのゆえにすべて解決しているのです。キリスト者として罪に苦しむことがあっても、神のもとに立ち帰ることができ、赦しの恵みの中で何度も立ち上がって歩みだしていくことができます。

 ただ、主イエスが天に昇られた後も、私どもが生きる地上には多くの苦難があることは事実です。自分の人生においても、教会においても、この世界においても、なお苦難は続いています。主イエスも十字架にかけられる前、弟子たちに、「あなたがたには世で苦難がある」とおっしゃいました(ヨハネ16:33)。しかし、その苦しみというのは、終わりの日における救いの完成に向かう、その歩みの中で経験する苦しみです。また、キリストの十字架がそうであったように、救いは「苦しみ」をとおして与えられていきます。だから、終わりの日の完成に向かって歩むキリスト者の歩みもまた、主の苦難にあずかるものとされていくということです。

 また、私どもが経験する苦しみは、自分一人だけの苦しみ、教会だけの固有の苦しみではありません。私どもがキリストの苦しみにあずかるということは、私どもの苦しみも、痛みも、深い傷もまた、キリストに属するものであり、キリストが知っていてくださるものであるということです。終わりの日がいつ来るかは誰にも分かりません。そういう意味で、「欠けている」と言うことができるかもしれませんが、その欠けたところを最後に満たしていてくださるお方は、他でもない主イエス御自身です。その主に結ばれた者として、私どもは主に従い、主御自身が苦しみをもって生み出してくださったキリストの体である教会に生きる者とされるのです。そのように、教会がキリストの苦しみを満たす教会となり、キリストの苦難にあずかる教会になることによって、私どもはますます主イエスとの深い結び付きに生きることができます。終わりの日の希望を確かにしながら、苦難の中を歩むことができるのです。だから、「あなたがたのために苦しむことを喜んでいます」「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とパウロは語ることができたのです。

 パウロはもともとユダヤ教徒のエリートでした。それゆえにキリスト教会を迫害することを生き甲斐としていました。そのパウロが復活の主イエスとお会いした時、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)という復活の主の御声を聞きました。天におられる復活の主は、迫害されている御自分の教会のために、今も苦しんでおられるお方であるということを、パウロは自分の経験として知っていました。救われた最初の時から知っていたのです。復活の主は今も生きて働いていてくださるお方であり、私たち教会の苦しみを、御自分の苦しみとして担っていてくださるお方である。このことにパウロは力づけられ、福音宣教の業に励んでいたのです。

 苦難のしもべであられる主イエスに従い、そのキリストの体である教会に生きているがゆえに、私どももまた苦しみを経験します。そのことをとおして主の苦難にあずかります。それはもう、私どもが苦しみを無視して生きることができなくなったということでしょう。しかし、そのことを私どもは喜ぶことができるようになったのです。違う言い方をすると、自分のことだけでなく、他者の苦しみを放っておくことができなくなったほどに、心から相手のことを思い、愛することができる者とされたということです。だからこそ、キリストの体である教会のために苦しむことを、喜びとすることができるようになりました。相手の幸せや喜びを真剣に願い、愛しているがゆえに、兄弟姉妹のために、また共に生きる隣人のためにも心を痛め、苦しむことができるようになりました。

 最後に、29節の御言葉をお読みします。「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」パウロの苦しみ、私どもの苦しみを支えるのは、「わたしの内に力強く働く、キリストの力です。苦しみを耐え、苦しむことを喜びとして生きることのできる根拠は、ただキリストの力によります。他の手紙の中でもこう言います。「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12:19)

 定期会員総会では、昨年度の神の恵みや喜ばしい出来事を数えます。反対に、苦しかったことや弱さを覚えたことなどに対しては、目をそらしてしまったり、数えることができたとしても、どこか気持ちが暗くなって終わってしまいがちです。しかし、私どもは「キリストの体」である教会のために心を砕き、心から苦しむことへと召されていることをもう一度心に留めたいと願います。その苦しみは一人で背負う苦しみではなく、教会全体の苦しみです。教会の頭である主イエスの前で、真実に苦しむことができるならば、神から離れることなく、苦しみを喜びとする信仰が与えられるのです。この年だけでなく、これからの教会生活やそれぞれの歩みにおいても、私どもは様々な苦難を経験することでありましょう。しかし、愛をもって御自分の体である教会を支配していてくださる主イエス・キリストが、苦しむことを喜びとすることができる力をも与えてくださいます。主イエス御自身が、私どもの中で力強く働いていてくださるのです。お祈りをいたします。

 教会の頭であられる主イエス・キリストよ、あなたは十字架の御苦しみをとおして、私どもを罪から救い出してくださいました。十字架で死んでくださった体、お甦りくださったその御体をもって教会を造り、私どもを今も救いの恵みに生かしてくださいます。なおこの世には苦しみがあり、教会もキリストの体であるがゆえに苦しみにあずかっています。しかし、どうか私どもが自分の苦しみだけでなく、兄弟姉妹の苦しみやこの世の苦しみをしっかり受け止めることができますように。何よりもこの世界と教会のために今も、執り成していてくださる復活の主の恵みと力によって、今日の私どもがあることを覚え、この年も喜んで神と教会にお仕えしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。