2021年12月26日「人のいのちを生かすために」

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人のいのちを生かすために

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

音声ファイル

聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 夕礼拝では、十戒から神様の言葉を聞いています。本日は第六戒の「殺してはならない」(13節)という戒めです。「人を殺してはいけない」という教えは、誰かに教わるまでもなく、当然のことだと多くの人が知っていることでしょう。人間として絶対に犯してはいけない罪であるということを知っているのです。もし、この教えが破られ、人が人を殺すということが起こってしまったならば、あるいは、殺し合うということが起こってしまったならば、私たちの世界はどうなってしまうのでしょうか。想像することは、それほど難しいことではありません。しかし、私たちが人間として生きるうえで、人を殺すことは絶対にしてはいけないことと知りながら、幾度、この教えが破られてきたことでありましょうか。その度に、この世界は悲劇に襲われてきました。地上における人のいのちは限りがあり、誰もが死を迎えます。そのこと自体、もちろん悲しいことではありますが、何者かによって殺され、いのちが奪われたならば、どれほど辛いことでしょうか。どれだけ腹立たしいことでしょうか。復讐心が何倍にも膨れ上がり、さらなる悲劇を生み出してしまいます。

 また、「殺してはならない」という戒めは、今日の社会的な様々な問題を考える上でも、決して、無視することができない大切な問題です。例えば、戦争の問題をキリスト者としてどう考えたらいいのでしょうか。「戦争はよくないことだ」という一言で、戦争がなくなればいいのですが、それができません。むしろ、「戦争はいいことだ」「神が戦争を支持している」と言って、戦争を正当化し、人のいのちを奪い続けてきました。また、堕胎の問題をどう考えたらいいのでしょうか。「すべての堕胎は罪」だと、言い切ることができるのでしょうか。堕胎せざるを得ない、特別な事情があるのかもしれません。他にも、「自死」の問題があります。自分で自分のいのちを奪うということです。自死がいいはずはありません。しかし、死にたいと思うほどに追い詰められ、絶望している人たちのために私どもは何もできないのでしょうか。できるとしたら何ができるのでしょうか。また、終末期医療の問題もあるでしょう。人生の最期に病に苦しみ、寝たきりの状態に陥ることもあります。生きるとはどういうことかを深く問われる時です。しかも病で苦しむ本人だけでなく、その人の一番近くで支える家族の者たちが問われるということがあるのではないでしょうか。本日の礼拝の中で、丁寧に取り上げることはできませんが、心に留めて祈らなければいけない大切な課題であると思います。

 以前、小学生だったか中学生だったか忘れましたが、ある学生が先生に「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問をしたそうです。しかし、先生はどう答えていいか分からなかった。そんなニュースが話題になったことがありました。その内容について詳しくは知らないですが、人を殺してはいけない理由について、先生は何も答えなかった訳ではないと思います。先生の中にもいくつかの答えはあったのではないでしょうか。私どもも誰から「なぜ人を殺してはいけないのか?」と聞かれたら、どう答えることができるでしょうか。例えば、人間のいのちはこの世界の中で一番重いものだからとか、いのちが奪われ失われたら取り戻せないとか、周りの人が悲しむとか、誰もが自分のいのちを奪われるのは嫌だ。だからあなたも人を殺してはいけない。そういうふうに答えることもできるでありましょう。いずれも間違ったことを言っているわけではありません。しかし、自分も含め、人のいのちの重みを知り、それが奪われたらどれだけ辛いことか、人を殺すことがどれだけ取り返しがつかない恐ろしいことであるのかをよく知りながら、人類は殺人の罪を犯し続けてきました。何も分からずに、殺してしてしまったというのではないのです。殺してもいいと思ったから殺したのです。この人を殺しても、誰も悲しまないし、この人は生きている価値などない。私もこの人に酷いことをされてきたのだから、殺して当然だと言って、殺人を正当化してきました。それゆえに、周りが悲しむからとか、取り返しがつかないからという理由だけでは、人を殺してはいけない真の理由にはならないと思います。どうしたら、人を殺してはいけない理由が分かるのでしょうか。そもそも「殺してはならない」と命じられたのは、主なる神様でした。ですから、本当は神様のことをよく考えないと、「人を殺してはならない」という理由も分からないのです。

 はじめに考えたいことは、私どもの人間とは何者であるかということです。創世記第1章には天地創造の物語が記されています。神はあらゆる被造物をお造りなった後、創造の冠として、最後に人間をお造りになりました。では、人間が人間であるとはどういうことでしょうか。創世記第1章26〜27節に次のようにあります。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(旧約2頁)また、創世記第9章6節にこのようにあります。「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(旧約11頁)これらの御言葉の中に見られる鍵になる言葉は、「神にかたどって」「神に似せて」という言葉です。「神のかたち」と言われることもあります。私どもが人間であるというのはどういうことか。何をもって、自分は人間だと言うことができるのでしょうか。それは、私どもが「神にかたどって」「神のかたち」に造られたからです。そのことによって、私どもは神との「交わり」の中に生きることができるようになったということです。こうして、礼拝をしたり、祈ったり、賛美をささげることができるのも、私ども一人一人の中に神のかたちがあるからです。そして、このことは、私たちのいのちが自分自身のものではなく、まったく神様のものであるということです。「あなたはわたしのものだ。」「わたしはあなたとの交わりを大切にして、共に生きていきたいのだ。」そうおっしゃってくださる神の愛によって、私どもは生きることが許されているということです。そして、私どもが人間関係を築き上げていく時に大切なのは、私たちを御自分にかたどってお造りくださった神様を「わたしの主」とすることです。神様を私たちのいのちの土台とする時、はじめて人間同士の関係も健やかなものとされていくのです。

 しかしもし、人を殺し、人のいのちを奪うということが起こってしまったらば、どうなるのでしょうか。もちろん、先程申しましたように、そこに深い悲しみが生まれ、怒りや復讐といった更なる悲劇が起こることでありましょう。そして、もっと深いところで何が起こっているのでしょうか。それは人を殺すことによって、神様とその人との交わりを断ってしまう、そういう行為であるということです。「あなたと共に生きたい」を願っておられる神様の御心を踏みにじるということなのです。また、それは、「あなたを罪から救いたい」と願っておられる神様の思いを、途中で断ち切ってしまうことでもあります。それゆえに、救い主イエス・キリストを否定する行為なのです。神にかたどって創造し、いのちの息を吹き入れられたのは神様です。人間は神様のものです。しかし、その人間のいのちを、自分の手によって奪うというのは、「自分こそが神である」と言っているようなものなのです。自分のいのちも他人のいのちもすべて支配するのは、この私だというのです。このことは第一戒で言われていた、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めにも背くたいへん大きな罪なのです。だから、人を殺してはいけないのです。

 「殺してはならない」という戒めは、まだ神様を信じていない人にもよく分かる教えです。そして、人を殺すという罪の重さを知っています。その現実が中々なくならない悲しさを覚えながら、しかし、どこかで「私は何十年生きてきたけれども、一度も人のいのちを奪ったことなどない。」「色んな過ちを重ねてきたけれども、人を殺すほどの罪人ではない。」そのように思うことがあるかもしれません。しかしながら、聖書が語るのは、人を実際に殺すという行為さえしなければ、それでいいのかという話なのです。この世的には、誰かに暴力を振るったり、暴言をはいたりしてもいのちさえ奪わなければ、殺人と言われることはありません。それなりの罰を受けることはあるかもしれませんが、殺人に比べれば、遥かに軽いものです。しかし、それで果たして、「私は殺していません」と、神様の前で申し開きをすることができるのかと聖書は問うているのです。私どもキリスト者にも同じように問われていることです。

 聖書にも人を殺す話がたくさん出てきます。その最初に登場するのが、「カインとアベル」と呼ばれる兄弟の物語です。兄のカインが弟のアベルを殺してしまいました。その理由は、弟アベルがささげた献げ物だけが神様に受け入れられて、自分の献げ物は受け入れられなかったからです。なぜ、神様がアベルの献げ物だけを良しとされたのか、その理由も明らかにされません。カインはまったく納得できませんでした。考えれば考えるほど、嫉妬と怒りの思いに満ちてきました。その怒りによって、神に心を向けることができなくなりました。そして、ついにアベルを野原に呼び出し、殺してしまったのです。カインの心の中に渦巻いていた、嫉妬や怒りといった感情がやがて殺人へと結びついていったのです。新約聖書のヨハネの手紙一第3章15節では、カインとアベルの物語に触れながら、このように言います。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」

 また主イエス・キリストは、「山上の説教」の中で、次のようなことをおっしゃっています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」マタイによる福音書第5章21〜22節の御言葉です。主イエスは、本日の十戒の言葉を取り上げながら、「殺すな」という神の言葉が何を意味するのか。その真意を明らかにしてくださいました、殺すというのは殺人という行為だけがすべてではありません。主がおっしゃるように、「腹を立てる者」、「ばかと言う者」「愚か者と言う者」も皆、人を殺したことと一緒だということです。そして、そのような者は、永遠の裁きを受けるというのです。このような主イエスの言葉を聞くと、私どもは戸惑ってしまいます。誰も言い訳できなくなります。神様の目には、この私も人殺しの罪で裁かれるのだと思うと、本当に恐ろしくなります。私どもは普段、いくらでも誰かに対して腹を立て、怒りに満ちて生きているからです。なかには正しい怒りもあるでありましょう。声を上げて、怒らなければいけない時もあります。しかし、この怒りがいつも御心にかなった怒りとなっているでしょうか。相手を建て上げ、救うための怒りとなっているでしょうか。ただ自分の正しさを明らかにしたいがためだけに、怒って、腹を立ててはいないでしょうか。

 キリスト教会の歴史の中で、様々な信仰問答が作成され、私たちもその恩恵を受け、信仰の足腰が鍛えられてきました。そのほとんどにおいて、十戒の解説を丁寧にしています。色んな信仰問答を読み比べながら、それだけでも多くのことを学ぶことができるでありましょう。私たちの教会でよく読んでいるいくつかの信仰問答を見ますと、今回の第六戒を解説するところで、例えばこういう言葉があります。「殺人の根」「密かなる殺人」「隠れた殺人」「内的殺人」。つまり、それらが意味するところはこういうことです。「あなたがたの中にある妬みや憎しみ、怒りや復讐心によって、密かに誰かを殺してはいないか?」「あんなやついなくなればいいのに。あいつがいたから俺の人生台無しになったと言って、誰にも見つからない仕方で、自分の心の中で隠れるようにして誰かを殺してはいないだろうか?」「あなたの心の奥に殺人の根っこがあるではないか?」そう私どもに問い掛けるのです。嫉妬、憎悪、怒り、復讐…、そういった殺人の根とも言える私どもの心の延長線上に殺人があるのです。

 神様は、「殺してはならない」と命じておられます。すべての者が聞くべき神の言葉ですが、特に私たちキリスト者が聞き、人を殺さずに生きる道を進んでいかなければいけません。神様は、エジプトの奴隷の家から導き出したイスラエルの民に対して、また、罪の奴隷から解放された私たちキリスト者に対して、「殺してはならない」とおっしゃっているのです。あなたがたなら、人間のいのちの重さがどれほどのものであるか、誰よりもよく知っているはずではないか。だから、「殺してはならない」という戒めを真実に生きていただきたいのだとおっしゃるのです。私どもが罪から救われたというのはどういうことでしょうか。私どもが救いの喜びに生かされているというのは何を意味するのでしょうか。それは死に値する私どもが、イエス・キリストによって、新しいいのちに生かされ、今があるということをよく知っているということです。もう一度、神のかたちが回復され、神様との交わりと平和の中に生かされている喜びを私どもは知っているのです。

 また、私どもは「殺してはならない」という御言葉を、より積極的に理解して、生活の中で生かしていく必要があります。私どもが罪から救われたというのは、もう人を殺さずに生きていけるようになったということです。人を妬んだり、憎んだりして生きていく必要はなくなったということです。ではどういうふうに、私どもの生き方は変えられていくのでしょうか。それは、人を愛し、人のいのちを重んじるようになったということです。信仰問答においても、例えば、ウェストミンスター小教理問答を見ると、人のいのちが失われないように、それを保ち、守る務めがあると言います(問68)。ハイデルベルクベルク信仰問答では、私どもが人を殺さずに生きるということは、人を愛して生きることだと言います。忍耐、平和、寛容、慈愛、親切をもって人を愛するように。敵に対しても復讐心に燃えるのではなく、善を行うように勧めます。(問107)

 本日は今年最後の主の日です。先週クリスマスを共に祝い、その恵みの中で一年を終え、新しい一年の歩みを始めようとしています。クリスマスは、天使が羊飼いたちに告げたように大きな喜びで満ち溢れた出来事です。神の栄光の光が輝き出た素晴らしい出来事です。だから、私どもは賛美を歌わずにはおれません。しかし、一方で、クリスマスは人間の闇が何であるのかが明らかになった出来事ではなかったでしょうか。家畜小屋でお生まれになった主イエスは、居場所がなく、飼い葉桶に寝かされました。それは神であられる独り子が、私たちと同じ人間としてこの世界の一番底辺に来てくださった出来事を意味しました。主イエスは、生まれた時から居場所なきところを御自分の居場所として、救い主としての歩みを始めてくださったのです。他にもユダヤの王ヘロデが、主イエスの存在を恐れ、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという恐ろしい出来事が、クリスマスの直後に起こったのだと聖書は語ります。

 皆が主イエスの到来を喜んだわけではありません。まことの光であられる主イエスによって、私どもの闇が暴かれ、それを恐れた人々は主を拒んだのです。しかし、飼い葉桶に寝かされた主イエスは、そのような苦難の道を最初から歩んでくださいました。その道は最後には十字架に辿り着くのです。なぜ主が十字架につけられたのでしょうか。それは主イエスを妬んだ人々によって捕えられ、十字架で殺されたからです。主を十字架につけることによって、人間の罪は頂点に達しました。しかし、十字架は同時に神様の救いの御計画でもありました。神様は主イエスを十字架の上で裁き、呪い、殺してまでして、罪人である私どもが生きることを望まれました。どこまでも私どもが生きることを願う神様の愛によって、この日も、私どもは生かされているのです。

 この救いの恵みに感謝しつつ、キリストの十字架と復活によって与えられた新しいいのちを、どのように献げていくのかを、私どもは真剣に考えるようになったのです。クリスマスの出来事は、占星術の学者たちが宝の箱を開け、それぞれの献げ物を主イエスにささげたように、私どもも受けるだけではなく、献げる生き方に喜びを見出す時ではないでしょうか。キリストを与えてまでして、「あなたはわたしのもの」とおっしゃってくださった神様を、「わたしの主」と告白して生きていきます。自分のために生きるのではなく、私の主でいてくださる神様のために生きるのです。そして、自分を愛するように、隣人を愛し、隣人のいのちを重んじて生きていくのです。この私を救ってくださった神様が、あなたを見捨て、あなたを放っておかれるはずなどない。キリストの福音があなたを真実に生かすのだという確信をもって、人々との交わりを大切にしていきます。身近な人間関係に目を向ける時、また、この国や世界に目を向ける時、今もなお「殺してはならない」という神の言葉が無視されている現実があることを思います。既に救っていただいた私どもも深い闇と絶望に捕えられるような思いになってしまうこともあるでしょう。しかし、そこで闇の思いと戦いつつ、愛に生きる道を選びとらなければいけません。

 他者の痛みや悲しみを受け止めつつ、そこでどのような慰めの言葉、人を造り上げる言葉を語ることができるでしょうか。どのように人々に寄り添うことができるでしょうか。そのことをキリスト者として心から祈りつつ、求めていかなければいけません。赦し合うことができない現実、怒りや復讐の思いが消えない現実を覚えて、教会は執り成しの祈りをやめてはいけないのです。クリスマスの恵みにあずかることができた私どもは、今一度、主から与えられた使命を覚えつつ、新しい年の歩みを始めていきたいのです。お祈りをいたします。

 いのちと希望の源である神よ、この一年もあなたとの交わりに生かされ、教会の兄弟姉妹をはじめ、多くの者との交わりが与えられたことを感謝いたします。しかし、一方であなたがお与えくださった尊いいのちが軽んじられ、奪われた現実があったことを思います。決して、人事ではなく、そのような殺人の根が自分の中にもあることに、深く恐れを抱く者です。どうか罪の虜からいつも解き放ってください。いのちを奪うのではなく、いのちを支え、守り、そして生かすために私どもに何ができるのかを祈り求めていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。