2021年12月12日「わたしの口に新しい歌を」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

わたしの口に新しい歌を

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章57節~80節

音声ファイル

聖書の言葉

57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。67父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。68「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、69我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。70昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。71それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。72主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。73これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、74敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、75生涯、主の御前に清く正しく。76幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、77主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。78これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、79暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」80幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。ルカによる福音書 1章57節~80節

メッセージ

 私どもはそれぞれの人生において、まるで長いトンネルの中を歩んでいるように思える時があります。歩いても歩いても出口が見えないのです。出口から射し込む光がなかなか見えてこないことがあるのです。次第に不安になり、このまま永遠に闇が続くのではないかと恐くなることがあります。いつまで経っても朝がやって来ないのではないか。太陽の光が自分を明るく照らすことがないのではないかと不安になります。私どもは誰もが光を求めているのです。朝が来ることを待ち望んでいるのです。

 2千年前、主イエスがお生まれになった時代、ユダヤの国は深い闇に支配されていました。旧約聖書の最後にマラキという預言者が現れてから約400年の間、まるで神がいなくなってしまったのではないかと思うような沈黙の時代が続きました。その間、ユダヤの人たちはローマ帝国によって支配されることになります。私たちが苦しんでいるのに、神はどこにおられるのだろうか?なぜ神は黙っておられるのだろうか?そのような叫びが止むことはありませんでした。しかし、ついに主なる神様が沈黙を破られます。新しい救いの御業をわたしは始めるとおっしゃるのです。その救いの業を始めるにあたり、まず神様が選ばれたのは祭司ザカリアとその妻エリサベトでした。二人とも年を取っていました。新しいことを始めるには、あまりにも年を取り過ぎていると思われるような年齢かもしれません。しかし、神様は新しい救いの御業を始めるにあたり、若者を選ばれたのではありません。一組の老夫婦を選ばれたのです。

 ザカリアとエリサベトはそこで何を思ったのでしょうか。二人はこれまでずっと御言葉に聞き従い、神の前に正しく歩んでいました。しかし、当時、神様の祝福のしるしとされていた子どもが与えられませんでした。それは、神様から呪われ、罰を与えられたと思われてもおかくありませんでした。長い間、子どもが与えられないという苦しみ、悲しみを抱えながら共に生きてきたのです。もちろん、二人は何度も神に祈ったことでありましょう。しかし、祈りが聞かれることはありません。もうとっくに、「子どもをお与えください」という祈りをやめてしまったことでしょう。ある日、ザカリアは神殿の聖所で香をたいて祈りをささげる務めが与えられました。祭司として一生に一度しかできない光栄ある働きです。

 ザカリアが香をたいている時、突然現れたのが主の使いである天使です。天使が告げたことは驚くべきことでした。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(ルカ1:13)ついに、ザカリア夫妻の願いは聞き入れられたのです。自分たちにとって、もう忘れてしまった祈り。過去のものとなってしまった祈りを神様は今も覚えてくださり、そこから新しい救いの業をわたしは始めるとおっしゃいます。救い主イエス・キリストを指し示し、その主イエスを人々が受け入れ、信じることができるように。その道備えをするのが、あなたたちから生まれるヨハネだというのです。しかし、ザカリアはこの天使の言葉、つまり神様が与えてくださった喜びの知らせを受け入れることができませんでした。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」そう言って、神様がおっしゃることを疑い、拒否したのです。

 そのことへの罰、裁きとして、ザカリアはヨハネが生まれる日まで、口も利けなくなり、耳も聞こえなくなりました。まったくの沈黙の中に一人置かれることになったのです。しかし、神の裁きはザカリアを見捨て、滅ぼしてしまうようなものではありません。彼の不信仰、罪を戒めるだけでなく、そこから救い出すための沈黙を、神様はザカリアにお与えになります。神がザカリアの口を塞ぎ、ひたすら祈りと御言葉に集中することができる恵みの時を備えてくださいました。そして、10ヶ月経って、ついに神の約束の言葉が実現します。子どもが生まれた時、神はザカリアの口を御自身の力によって再び開いてくださいました。

 ザカリアはその開かれた口で何を語ったのでしょうか。それが、68節以降に記されていますように、神をほめたたえる賛美の歌でした。最後の78節、79節でこのように歌います。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」ザカリアの賛歌は、「朝の歌」「夜明けの歌」とも言われます。長く、暗いトンネルに、罪と死の闇の中にいのちの光が射し込んだのだと、老人ザカリアは歌うのです。本日も先週に引き続き、ザカリアの物語に耳を傾けます。そして、神様がザカリアの口に与えてくださった賛美の歌を、私どももまた心から歌うことができるようにと願います。

 ユダヤでは子どもが生まれてから八日目に割礼を受けることになっていました。神に選ばれた民であるということのしるしでもあります。そして、このおめでたい時に、子どもの名前を命名します。子どもの名前は、父親や祖父といった親族から取るのが普通でした。だから、この子の名前も「ザカリア」だと皆は思ったのです。しかし、母エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言ったのです。エリサベトは何かおかしなことを言っているのだと、人々は思ったのでしょう。父であるザカリアに身振りで尋ねるのです。この時点ではまだ口も利けず、耳が聞こえない状態です。それでザカリアは、板に「この子の名はヨハネ」と書いたのです。すると、64節にあるように、「たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」というのです。

 ザカリアが、板に「この子の名はヨハネ」と書いたのは、「間違いなくこの子の名前はヨハネだ」とか、「私はこの子をヨハネと命名する」ということだけを意味しません。もっと深い意味があるのです。「この子の名はヨハネ」と書き記したこと、それはザカリアの信仰告白でもあったということです。どういうことでしょうか。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と最初に告げたのは天使でした。つまり、神様がお語りになったということです。その神様がおっしゃったことをついに信じ、受け入れることができたからこそ、ザカリアは神様が命じられたとおり、生まれてきた子どもを「ヨハネ」と名付けたのです。沈黙が強いられたのは、ザカリアの不信仰のゆえでした。しかし、長い沈黙を乗り越え、いやその沈黙の中で、神様の言葉を信じる信仰が与えられていったのです。自分の弱さも罪もすべて神様に明け渡し、お委ねする信仰へと導かれていったのです。また、「ヨハネ」という名前には意味があります。それは、「主は憐れみ深い方」とか、「主は憐れみ深い方」という意味です。ザカリアは10ヶ月の沈黙の間、やがて生まれてくる子どものこと、ヨハネのことを考えていたことでしょう。妻エリサベトのお腹が時間とともに大きくなっていく様子を自分の目で見ながら、本当に神は憐れみ深い方だ。このような私たちにも心にかけてくださり、恵みをお与えくださるお方なのだということを魂の深いところで受け止めていたことでありましょう。

 ザカリアとエリサベトにとってヨハネは、まったく神様の恵みによって与えられたものです。子どもの名前さえも、自分たちで考えたのではなく、神様から与えられたものでした。二人はずっとそのことを大切にし、心に留めていたに違いありません。二人にとって、長年の願いであった子どもですが、彼らは決して自分の願いや思いの中で、ヨハネのことを育てようなどとは思わなかったと思います。神様の前でこの子はどういう存在なのだろうか。神様がこの子をこれからどのように導いてくださるのだろうか。親としての関心は常にそこにあったと思います。そして、ヨハネだけではなく、もう年老いた自分の人生をも改めて見つめ直したことでありましょう。私は神様の前でどのよう存在であり、神様は私の人生の中で何をなそうとしているのか。そのことを真剣に最後まで考えたに違いありません。以前のザカリアのように、「年をとっているから無理です」と言って、断ることができる理由は人間の中にいくらでもあるのです。しかし、神様はそこから新しい御業を始めてくださったのです。そうであるならば、信仰の姿勢を正さなければいけません。このことは私どもにとっても同じです。神様にはあらかじめ御計画があるのですが、それを聞かされる私どもにとってはあまりにも突然で、その内容もすぐに受け止めることができないかもしれません。そこで私どもの不信仰の罪があらわにされてしまうかもしれません。しかし、そこで沈黙し、御言葉に聞き、信仰のまなざしで主の憐れみを見続けるならば、私どももまたザカリアが経験した幸いに生きることができます。

 私どもも様々な形で沈黙が強いられることがあります。沈黙を余儀なくされることもあります。必ずしも自分の罪や不信仰だけが原因ではないでしょう。苦難や試練を経験する時、私どもは言葉を失います。どのような慰めの言葉をも受け付けようとしないのです。ザカリアの物語をとおして、私どもは沈黙の大切さを教えられるわけですが、大事なことは、私どもが沈黙を強いられる時、その沈黙の世界は、いったいどのような世界なのかということです。沈黙しても、そこでますます悩みが広がるということもあるのです。ますます闇が深くなるということもあるのです。嫌なことや悲しいことが、沈黙の中から一気に沸き上がってくるということもあるのです。色んな不平、不満がたまってくることもあるかもしれません。こんな辛い思いになるのだったら、騒がしい生活をして、気を紛らわしたほうがマシだということになってしまいます。

 では、ザカリアの場合はどうでしょうか。口が開かれたザカリアは、決して不平、不満を言ったわけではありませんでした。口が開け、舌がほどけたザカリアは、神を賛美し始めたのです。沈黙したその結果、ザカリアは神を賛美したのです。10ヶ月の沈黙の間、彼は何をしていたのでしょうか。もちろん、先程申しましたように、祈っていたとか、御言葉に聞いたというふうに言えるのですが、別の言い方をしますと、67節に「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」とあるように、おそらく沈黙の期間も聖霊に満たされて歩んでいたということです。沈黙においても、苦難の中で言葉を失うような状況にあっても、神の霊、神の力が私どもを満たしてくださり、沈黙の中にある歩みを支えてくださいます。だから、祈ることができ、御言葉に集中することができます。沈黙という苦難もまた、神の御手、神の恵みの中にあるのです。また、旧約聖書・詩編46編の終わりのほうに次のような言葉があります。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩編46:11)「力を捨てよ」というのは、「静まりなさい」ということです。神の前に静まり、御言葉に聞き続けるならば、私どもは神を知り、神をあがめることができます。沈黙することは、試練の時のように辛く感じることがあるわけですが、それが同時に救いの道、いのちの道になるのです。

 また、沈黙するということは、悩みの中にある時や忙しい時にだけすることではありません。今自分は順調だ。それほど忙しくものないし、少し心の余裕をもって生きることができている。そう思っている人も同じように、神様の前に静まる必要があります。静まる時がないというのは、どんな立場に置かれている人にもとってもたいへん危険なことです。以前のザカリアのように、神様のために仕えながらも、そこで自分を見失うということもあるのです。逆境の時も順境の時もいつも神様の前に静まり、自らの力を捨て、神様に働いていただくのです。そこで神がどのようなお方であるのかを知ることができ、神をあがめる生き方へと導かれていきます。

 さて、聖霊に満たされたザカリアが歌った賛美歌が68節以下に記されています。初めに「ほめたたえよ、イスラエルの神である主よ」とあります。ザカリアの賛歌は、この「ほめたたえよ」という言葉から、ラテン語で「ベネディクトゥス」と呼ばれるようになりました。また、67節で「預言した」とありますが、これはヨハネの将来について語る部分がありますから、「預言」と言われています。しかし、全体としては神をたたえる賛美の歌です。もう一度、68節、69節をお読みします。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。」「主はその民を訪れて」と歌いました。「訪れる」というのは、「顧みる」と訳すことができる言葉です。要するに、神様は私どものことを見ていてくださるということです。それも、ただボッーと見ておられるというのではありません。闇の中にいる私たちをじっとご覧になり、御自身の身を私たちのほうに向けてくださり、行動を起こしてくださるのが神様です。だから、主はその民を訪れてとあるように、この世界にまで降って来てくださいました。

 主の訪れは、私どもを解放するためです。神の民であるイスラエルの長い歴史を振り返る時、彼らは何度も「解放」の経験をしてきました。エジプトの地で長い間、奴隷として苦しんで来ましたが、神様がモーセを遣わし、エジプトの奴隷から解放されました。また、故郷を失った神の民イスラエルは、70年もの間、敵国バビロンの地で捕囚の時を過ごしました。しかし、神様の御計画により、再び故郷エルサレムに帰ることができました。「解放」というのは、これまでイスラエルの民が何度も経験してきた出来事です。そして、今、ユダヤはどのような状態にあるのでしょう。今、彼らはローマ帝国の支配の中にありました。神の民でありながら、なぜこのような屈辱を再び受けないといけないのかという嘆きの中にありました。神の御業がはっきりと見ることができない深い闇の中に置かれていたのです。

 クリスマスにこの世界に来てくださったイエス・キリストは、私どもを救う救い主です。では、どういう意味で、私どもにとって「救い主」と呼ぶことができるのでしょうか。当時、ユダヤのまさに敵でありましたローマ帝国から救ってくださるという意味での救い主なのでしょうか。出エジプトを経験し、捕囚解放を経験した彼らは、次も当然のようにローマの支配からの解放を何よりも期待していたことでありましょう。では解放とは、救いとはローマの支配から逃れることでしょうか。71節、74節を見ますと、「敵」という言葉があることに気付きます。71節「それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。」74節「敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える…。」この世界にはそれこそ色んな「敵」が存在します。しかし、その中心は主に仕えることを妨げようとする者です。つまり、仕えることの中心である礼拝を邪魔する力です。そのような意味で、礼拝をささげることができること自体が神の救いでもあるということです。私どもが主に仕えることができるために、心から神を喜び、神を永遠にたたえて生きることができるようになるために、神様御自身が救いの出来事を始めてくださいました。

 だから、イエス・キリストをとおして与えられる救いは「罪」からの救いです。76節、77節でヨハネの将来について預言する中で、ザカリアはこのように歌います。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」ヨハネが、「あっちに向かって歩むように」と語るその先に主イエスが立っておられます。その主イエスがあなたがたに与える救いとは罪からの救いだと言うのです。イスラエルの民がこれまで経験してきたエジプトやバビロンからの解放。そして、この時、経験していたローマによる支配。しかし、それらの解放や救いよりももっと根深く人間の中に残り、私どもの存在そのものを揺るがすのがこの罪の問題です。だから、神様が主イエスをこの世界に遣わしてくださったのです。69節の「救いの角」というのは、「私たちを救うための力」という意味です。神が神としての力を発揮してくださいます。イスラエルの王ダビデはもちろんのこと、救いの歴史が始まったアブラハムと結んだ聖なる契約を、神はお忘れになることなりません。救いの約束に対して、神様は真実であり、忠実でいてくださいます。先程の68節の「解放する」というのは、「贖う」ということです。身代金を払って、買い戻すという意味です。神様は罪の奴隷であった私どもを取り戻すために、身代金を払い解放してくださいました。独り子イエス・キリストのいのちが代価として十字架で献げられ、私どもは神様のものとされたのです。

 79節の「暗闇と死の陰に座している者たち」というのは、まさに罪の奴隷の中にある人間の姿です。もはや自分の力で立ち上がって、いのちの道を歩くことができなくなっている者たちです。そのような私どもを、あけぼのの光であるキリストをもって照らし出してくださるというのです。いのちと平和に導くまことの光そのものとして、私どものもとを訪ねてくださったのです。主イエスは、神でありながら、私たちと同じ人間としてこの世界に生まれてくださった。私どもがいる闇と死の現実の中まで低く降って来てくださった。それがクリスマスの出来事です。

 そして、神様がイエス・キリストをお与えくださったのは、78節で「これは我らの神の憐れみの心による」とありますように、神の憐れみの心がそうさせたというのです。「憐れみの心」というのは、深い同情を表す言葉です。教会生活が長い方はよく聞く言葉の一つですが、これは腸がちぎれるような痛みを表す言葉です。ルカはこの福音書の中で、慎重にこの「憐れみ」という言葉を用います。つまり、神様や主イエスが主語の場合にしかこの「憐れみ」という言葉を用いないのです。私どもも心が引き裂かれるような悲しい経験をすることがあります。しかし、神様もまた存在が強く揺さぶられるような痛みをもって、暗闇と死の陰に座している私どもを見ておられるのです。そして、神様の憐れみは、私どもの罪に打ち勝つのです。死の悲しみや恐れをはじめ、私どもが地上で経験するあらゆる痛みに打ち勝ってくださるのです。

 同じルカによる福音書第7章11節以下に、「ナインのやもめ」と呼ばれる物語があります。愛する一人息子を失った母親の涙が止まることはありません。ナインの町の門から、大勢の者が付き添った葬儀の列が出てきます。向かうところはお墓しかありません。どれだけ深い愛を注いでいたとしても、どれだけ悲しみの涙を流したとしても死の現実と、死が最後に行き着く運命を、私ども人間は自分たちの力でどうすることもできないのです。しかし、そこに主イエスがやって来られます。ルカはこのように記すのです。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」(ルカ7:13)ここにも主イエスの憐れみがあります。腸がちぎれるような痛みをもって、「もう泣かなくともよい」と驚くべき言葉をお語りになるのです。この主イエスの憐れみは、単なる同情や共感というのではありません。憐れみの心で、「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださった主は、本当に母親がもう涙を流さなくてもいいようにしてくださいました。主イエスは、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と言って、息子を甦らせ、母親のもとに返されたのです。神の憐れみは、死の現実をも確かないのちへと変える力があります。死の悲しみに打ち勝つ強さがあるのです。

 私どもが生きる世界にもまだ死の現実があります。暗黒の闇があります。自分を取り巻く闇が、あまりにも長く、そして、深く思えてしまうことがあるのです。永遠に朝が来ないのではないかと不安になることもあるでしょう。しかし、神様は私ども憐れんでくださるお方です。その憐れみが、あけぼのの光となり、私どものもとを訪ねてくださいました。その光はどのような光なのでしょうか。あけぼのの光とあるのですから、まぶしいほどの強い光であるかもしれませんし、あまりの美しさに言葉を失ってしまうような光であるかもしれません。確かに、クリスマスは神様の栄光があらわされた素晴らしい時です。しかし、クリスマスの光というのは、何か神々しく輝いているというのではなくて、主イエスが家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶で寝かされたように、目立たない形で、気付かない仕方で私どもを訪れるのではなないでしょうか。だからこそ、私どもは神様の前に、今一度、静まる必要があることを強く思わされるのです。

 飼い葉桶に寝かされた主イエスのお姿の中に、私どもは主の十字架を見るのです。十字架こそ、暗闇と死の闇が最も深まる時でありました。神様の憐れみと愛の心は十字架において、最も力強く働くのです。神の憐れみがあらわされた十字架において、主イエスは罪と死と戦い、勝利してくださいました。神の憐れみが勝利を収め、主イエスは復活してくださいました。このお方が今も私どもに憐れみの心をもって、「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださいます。また、聖書の最後に記されているヨハネの黙示録には、次のような慰めに満ちた御言葉があります。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~4)アドヴェント(待降節)は、終わりの日にもう一度来てくださる主を待ち望む時でもあります。再臨の主を待つ信仰の姿勢を整える時でもあります。「主イエスよ、来てください」と祈りつつ、確かな望みに生きるのです。

 また、79節の最後でザカリアが歌ったように、私どもは「平和の道」を歩みます。神様との平和は、遠い先にある目標ではありません。キリストのゆえに、今既にここにある祝福の事実です。神様との平和、神様との交わりの中にある幸いを覚えながら、神様に仕え、礼拝する歩みを重ねていきます。そして、神の救いと平和が完成する終わりの日を待ち望みつつ歩むのです。私どもは、自分の人生の終わりにおいても、この世界の歴史の終わりにおいても、ザカリアが歌ったようにあけぼのの光に照らされ、包まれながら歩むことがゆるされています。人生の終わりに立つのは死ではありません。罪と死に勝利したもう主イエスが立っていてくださいます。主イエスが私どもの歩みをいのちの光で照らし続けてくださいます。だから、希望を持ちつつ、神様が与えてくださる賛美の歌をうたって生きるのです。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」お祈りをいたします。

 私たちの口を開いてください。私たちの口に新しい歌をお与えください。どのような沈黙や試練の中にあったとしても、あなたの霊に満たされ、やがてあなたを心から賛美する言葉が与えられることを信じることができますように。救いの光として来てくださった主イエスの御業によって、あなたとの平和に今生かされている確かな事実を見ることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。