2021年12月05日「恵みの沈黙」

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恵みの沈黙

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章5節~25節

音声ファイル

聖書の言葉

5ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。12ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。13天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」18そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」19天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」21民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。22ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。23やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。24その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」ルカによる福音書 1章5節~25節

メッセージ

 ルカによる福音書を記したルカという人は、当時の時代や歴史背景を含め、たいへん丁寧に記すことに努めました。元々は3節にあるように、「テオフィロ」というローマの高官に向けて記されたものです。彼は求道者、あるいは、信仰に入って間もない一人物だったと考えられています。そのテオフィロ様にどうしてもキリストの福音を信じてほしい、受け入れてほしいとルカは心から願いました。「福音を伝える」「神様からのメッセージと伝える」と言っても、その語り口は人によって様々です。その中でルカが心掛けたことは、すべてのことを初めから詳しく調べ、順序正しく記すということでした。聖書の教えが確実であるということを分かってもらいたいからです。ですから、救い主イエス・キリストの降誕を伝えるクリスマスの物語も、急に主イエスがお生まれになったという話から始めることはいたしません。母マリアや父ヨセフの話から始めることもいたしましせん。ルカがクリスマス物語を始めるに当たり、まず記したのは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物のことであり、さらにはその両親に当たる祭司ザカリアとその妻エリサベトの話から始めるのです。他の福音書を読み比べてみると分かるのですが、ルカはクリスマスまでの導入がとても長いのです。初めて聖書を開く人にとっては、ヨハネもザカリアもエリサベトも、あまり聞いたことがない人物でしょう。キリスト者にとっても、彼らの名前は知ってはいるものの簡単に彼らの物語に触れるだけで、すぐにページをめくってしまうかもしれません。しかし、ルカは祭司ザカリアの物語をもってクリスマスの物語を語り始めます。それは、時間の順番的にザカリアのほうが先だからというのではなく、私たちにとってクリスマスとは何であるのかということが実はこのザカリアの物語の中にあるのだということを確信していたからに違いありません。

 さて、5節では、「ユダヤの王ヘロデの時代」とあります。クリスマスは夢物語ではないのです。この世界の歴史、時代の中で確かに起こった出来事であるということです。クリスマスだけでなく、神様を信じてこの地上を歩むことは、決して現実離れした生き方をするということではないということです。信仰に生きるということは、まさにこの世の現実、歴史に地に足を着けながら歩んでいくということです。他にもルカによる福音書を読み進めていきますと、皇帝アウグストゥス(ルカ2:1)とか皇帝ティベリウス(ルカ3:1)といった当時の支配者たちの名前が丁寧に記されています。このことも、ルカが時代や歴史の出来事に対して忠実であるということのしるしです。そのような確かな現実の中に、主イエスがお生まれになり、地上を歩まれたのだということを指し示すのです。「ユダヤの王ヘロデの時代」とありました。ユダヤは当時、ローマ帝国の支配下にありました。ヘロデという人は、エドム人と呼ばれる言わば外国人ですが、ユダヤ地方を治めるためローマによって遣わされた人物です。ヘロデ大王と呼ばれることもありました。政治家としては評価される人物と言われていますが、彼はたいへんな暴君でした。常に自分の利益のことばかり考え、そのためならば、妻も子も兄弟も殺したと言われています。ベツレヘムで主イエスがお生まれたになった知らせを聞いたヘロデは、恐ろしくなって、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。クリスマスの直後に起こったたいへん恐ろしい出来事です。神さえも拒もうとする暗く、恐ろしい時代の中に、主イエスは救いをもたらすまことの光としてお生まれくださいました。

 そして、主イエスを私たちの救い主として、喜んでお迎えすることができるように、その道備えをするために遣わされたのが、ヨハネという人物です。そして、その両親である祭司ザカリアと妻エリサベトが最初に登場してくるのです。ザカリアは、「祭司」という神様のために働く特別な務めに召されていました。エリサベトもアロンという祭司の家系に生まれた女性です。二人とも由緒正しい家系に生まれ、しかも彼らは「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」とあります。しかしながら、決して二人は裕福であったとか、上級の祭司であったというわけではないようです。言い方が失礼かもしれませんが、どこにでもいるような名も無き普通の祭司であり、普通の夫婦です。神様の前で忠実に生きながら、慎ましく生きていたのです。しかし、その名も無き二人が、神様の救いという大きな物語の舞台の上に登ることになるのです。

 また、ザカリアとエリサベトの二人は、この時もうずいぶんと歳を取っていました。長い間、共に歩み、ここまで歳を重ねてきたのです。そんな彼らが、夫婦として歩み始めた時から今に至るまで、ずっと苦しんできたこと、ずっと痛みを負い続けてきたことがありました。それは、7節にありますように、子どもが与えられなかったということです。当時、子どもが与えられるというのは、神様から祝福されていることのしるしでした。反対に子どもが与えられないというのは、神様から呪われているしるしとされました。神が罰を与え、裁きをくだしておられる。だから、子どもが与えられないのだと信じられていたのです。ですから、子どもがいないというのは、それだけで冷たい目で見られたり、差別の対象にさえなることだったのです。特に、女性にとっては辛いことでした。25節でエリサベトが、子どもを産むことができなかった自分は「恥」だったと言っているように、子どもを産むことができないというのは女性として、たいへん恥ずべきことだと当時は考えられていたのです。「あの人たちは真面目に神様に仕えているらしいけれども、子どもが一人もいないではないか。祝福されていないではないか。あの二人には何か大きな問題があるのだろうか?」そんな心無い言葉を浴びせられたこともあったかもしれません。このことで、エリサベトだけでなく、夫のザカリアもどれだけ苦しんできたことでしょうか。その苦しみ、悲しみを訴えるようにして、どれだけ神に祈り続けてきたことでしょうか。しかし、その祈りに神が答えてくださることはありませんでした。そして、もう人間的には子どもを産むことができない年齢まで歳を重ねたのです。ですから、もう、「子どもを与えてください」という祈りはとっくの昔にやめていたのかもしれません。しかし、二人は神様の前から離れるようなことはいたしませんでした。祈りが聞かれなくても、苦しみが取り除かれなくても、神に祝福されていないのではないかと疑ってしまうようなことがあっても、しかし、そのような自分たちの姿を隠すことなく、むしろありのままの自分を神の前にさらけ出し、そして、忠実に御言葉に従って生きてきたのです。

 その二人にとって、特に祭司ザカリアにとって、千載一遇とも言えるような特別な時が巡って来ます。8節です。「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」ザカリアは、5節にあるように「アビヤ組」というグループに属していました。祭司のグループには、全部で24の組に分かれています。その24の組が順番で、年に2回、それぞれ一週間ずつ、神殿で務めを果たしました。ザカリアが属するアビヤ組は、第8番目の順に当たります。この時、丁度自分たちの番に回ってきたのです。そして、祭司の務めの中で、神殿の聖所に入り、香をたくことがたいへん重要な務めとされていました。これは祈りを香の煙に乗せて、天におられる神のもとに届けるということを意味したのだそうです。

 この聖所に入ることができるのは、たった一人だけです。だから、神に選ばれたということを意味するくじを引いて、聖所に入ることができる一人を決めたのです。当時祭司の数は何人いたのでしょう。これは資料によって、数字がバラバラなのですが、7千人くらいいたという人もいますし、2万人くらいいたという人もいます。もし2万人としたら、それを24で割ると、一つの組みに800人ほどいるということになります。その中からくじで選ばれた人だけが聖所で光栄ある務めをすることができるのです。ですから、祭司として長く働いていても、聖所に入ることができないまま働きを終えるということも当然あるわけです。そして、もし選ばれたとしても、一度選ばれた人は、次からくじに参加できないと言われています。そういう意味で、一生のうちに一度あるかないかという重みを持った務めであり、祭司にとってはまさに晴れ舞台でありました。そして、この時、ザカリアが聖所に入って、香をたくというこの務めに選ばれたのです。選ばれたザカリアは、嬉しかったに違いありません。自分たちに子どもは与えられなかったかもしれない。その苦しみを引きずるように生きてきたけれども、人生の最後に神様は特別な祝福を与えてくださった。そう言って、心から喜び、神様に感謝したことでありましょう。「ザカリア」という名前には、「神は私のことを覚えていてくださる」という意味があります。神は、このような私のことを決して忘れることなく、覚えていてくださった。そのことを改めて知って、神に感謝したことでありましょう。

 ザカリアは、聖所に入り、光栄ある務めを果たします。そこで思い掛けないことが起こったのです。11節以下にありますように、主の天使が現れたというのです。ザカリアは天使を見て、「不安になり、恐怖の念に襲われ」ました。なぜ、ザカリアは恐れを抱いたのでしょうか。そもそも、神殿の聖所というのは、神が臨在しておられる場所です。神がおられないようなところに、急に神が現れたというのではなく、まさにここに神がおられるというところに、神が現れただけなのです。だから、ここでのザカリアの恐れは、「おかしい」と言う人がいます。彼は祭司としてのお務めを滞りなく行うことばかり考えていたのではないかと言うのです。神様のために、真面目に行っているつもりでも、気付かない内に心が神様から離れてしまうという矛盾に私どもも陥ってしまうことがあります。だから、ザカリアも急に天使が現れて恐怖を覚えたというのです。また、反対に、ザカリアが恐れを抱いたのは、6節にありましたように、彼が神の前に正しく、主の掟に忠実に生きたらかではないかと言う人もいます。ザカリアは神を畏れ、神の前に如何に自分が罪深く、汚れた存在であるかをよく知っていたからこそ、天使が現れたことを恐れたのではないかというのです。

 いずれにせよ、ザカリアは聖所に現れた天使を見て、驚きました。そして、その恐れは取り除かれる必要がありました。自分で取り除くのではありません。「恐れることはない」と声を掛けてくださる天使によって、つまり、神御自身によって取り除かれるべきものです。天使は言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」「恐れることはない」とおっしゃってくださり、ザカリアは天使をとおして神様と向き合い、その言葉を聞くことになります。その天使をとおして語られた言葉は実に驚くべきものでした。それは二人の間に、子どもが与えられること。その子をヨハネと名付けなさいということでした。

 聖所で香をたくというのは、祈りをささげるということです。ザカリアは、どのような祈りをささげたのでしょうか。一つは、イスラエルの救いを求めて祈ったことでしょう。当時は、ローマ帝国に支配されていました。神の選びの民である自分たちが、外国の支配の中で長く苦しんでいました。だから、一日も早く私たちを苦しみから解放してください。そのために、メシア(救い主)をお遣わしください。そして、御国の栄光が来ますようにと、ザカリアは祈ったことでしょう。当時、皆がささげていた祈りでした。また、ザカリアの祈りは、神の民のための執り成しだけではなく、ザカリア自身も自分の祈りをささげたのではないでしょうか。だから、天使は「あなたの願いは聞き入れられた」と言った後、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」という約束を与えてくださいました。この時、ザカリアは既に歳を取っていましたから、「子どもを与えてください」という祈りを普段ささげていなかったかもしれません。もうとっくに諦めて、何も期待していなかったかもしれません。しかし、ザカリアとエリサベトが経験した苦しみというのは、歳を重ねたからといってなくなるわけではないのです。その思いを改めて聖所において、神に祈ったのではないでしょうか。

 私どもも教会に集い、祈りをささげます。その多くは自分のことというよりも、教会のことや、この世界のことを覚える祈りが多いと思います。礼拝の中で、自分自身のことばかり祈るといのうはあまりないと思います。しかし、実際は自分や自分の家族が抱えるありとあらゆる問題を抱えながら、ここに集うのではないでしょうか。主の日の礼拝というのは、私一人だけの礼拝ではありませんから、祈りをはじめあまり自分一人を主張するということはありません。しかし、それでも私どもは「私」という一人の人間として、神の前に立っているのです。これまでの自分の歩みを含め、自分が背負っている重荷を抱えながら、それを主イエスの前に降ろしながら、共に礼拝にあずかっているのです。

 そして、神様というお方は、私ども一人一人の嘆きとも言えるような祈りにも耳を傾けてくださり、答えてくださるのだということです。しかも、ここで心に留めるべきことは、自分にとって、もう過去の祈りとなってしまった、その祈りに対しても神は答えてくださるのだということです。「絶えず祈るように」「失望せず祈るように」と、聖書で勧められているものの、私どもはどこかで「この祈りはもうここまで」と言って、線を引いてしまうことがあるのです。「これ以上、期待しても無駄だ」と決めつけてしまうことがあるのです。しかし、本当はずっと心の中に引っ掛かっているのです。気になっているのです。「もうこのことについては、神様には祈らない」と言いつつも、本当はどこかで神様に答えてほしいと思っているのです。しかし、実際は声にして祈ることができないのです。けれども、神様は私どもが忘れてしまった祈り、過去のものとなってしまった祈りをずっと覚えてくださり、それに相応しい仕方で、相応しい時に答えてくださるということを覚えたいと思います。「ザカリア」という名前にありましたように、神様は私どものことを覚えていてくださり、決して忘れるようなお方ではないのです。

 ところで、ザカリアとエリサベトに与えられる「ヨハネ」という人物が、いったいどういう人物であるか、いったいどのような働きをするのか。そのことをも天使は同時に、ザカリアに示しました。それが14〜17節に記されている内容です。16〜17節にこうあります。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」丁寧にお話する時間はありませんが、ヨハネという人は、ザカリア夫妻にとっての喜びとなるだけではなく、多くの人々にも祝福をもたらします。ヨハネは人々に生きるべき正しい方向を示します。そのヨハネが指差す、その先にはイエス・キリストがおられます。その主イエスが、自ら私どもがいるところまで来てくださいます。それがクリスマスの出来事です。

 また、17節は旧約聖書マラキ書3章23〜24節の引用です。神がすべての者を裁くために来られる「主の日」の前に、預言者エリヤが遣わされるというのです。そのエリヤの働きをヨハネがするのだと天使は告げます。そして、16節に「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」とあるように、主イエスをお迎えするために、私どもがなすべき一番の備えとは、悔い改めることです。神に心を向け直すことです。クリスマスに向けて、教会がなすべき準備はたくさんありますが、何よりも神様の前に立ち帰ることこそが最大の備えです。そのためのアドヴェントです。神に立ち帰ることができる道を、主イエスを御自身が十字架において拓いてくださいました。主の十字架こそが私どもが立ち帰るべき場所でもあります。

 私どもがどこに向かって歩んでいけばいいのか。その正しい方向とともに、主イエス・キリストを指し示すためにヨハネは尊い働きをすることになります。このヨハネがザカリアとエリサベトとい歳を取った二人から生まれました。またこの後、ルカは、婚約中でまだ男性と関係を持ったことのないマリアが聖霊によって身ごもり、救い主イエス・キリストがお生まれになったということを記します。「時代や歴史を順序正しく忠実に記す」と言ったルカですが、ザカリアとエリサベトに起こったことも、マリアに起こったことも、ある意味、この世の常識を超えた出来事です。奇跡としか言えないようなこと、あり得ないことです。でもルカをはじめ、聖書はこのような奇跡を記すのでしょうか。それは、救いというのは人間の力によるのではないということです。救いは、ただ神様の力、神様の御業、奇跡によってでしか起こらないということです。救いはただ神様によって与えられるからこそ、私どもの人生に様々な苦難が襲ってきたとしても、崩れ落ちることはないという信仰に生きることができるのです。そのことをクリスマスの物語をとおして、聖書は改めて私どもに伝えているのです。

 さて、主の天使から驚くべき知らせを聞いたザカリアですが、彼はその言葉を聞いてどのような反応を示したのでしょうか。「神様、感謝します。長い間、私たち夫婦が抱えていた苦しみからこれでやっと解放されます。私たちのことをずっと覚えていてくださり、ありがとうございます」と言ったのでしょうか。実はそうではありませんでした。18節。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリアは、天使から告げられた喜びの知らせを信じることができませんでした。自分たちの願いであり、その願いどおりに答えてくださるというのにも関わらず、ザカリアは神様の言葉を信じることができませんでした。これと似たような話が、実は旧約聖書にもあります。それはアブラハムとサラのことです。彼ら夫妻もまた歳を重ねていたのです。しかし、神様は二人の間に子どもを与えてくださり、祝福を子どもやその子孫にまで与えるという救いの約束をしてくださいました。けれども、その約束から二十数年経っても、子どもは与えられません。そんなある時、み使いが現われ、「来年の今頃には子どもが生まれているでしょう」と言ったのです。その言葉を聞いていたサラはひそかに笑ったというのです。そんなおかしな話があるはずはない。もう自分は歳を取っているし、何の楽しみもないと思ったからです。ザカリアの場合、「笑った」とは書いていませんけれども、本質としては同じことです。ザカリアも「子どもが与えられる」という言葉を聞いて、心の中で笑ったのです。神様のおっしゃることはあまりにもおかしなこと、あり得ないことだと思ったのです。

 旧約聖書においても、新約聖書においても同じような話が記されているということ。これはどういうことかと申しますと、結局人間は昔も今も変わらないのだということです。どれだけ人間が歩みを重ねても、経験を積んでも、文明や文化が栄えたとしても、その根っこにある部分はまったく変わっていないということです。自分たちの力では変えることができないということです。神様の御前に立ち、喜びの知らせを聞いても、あるいは、驚くべき御業を見たとしても、なかなか信じようとしないのです。「まさかこんなことが起こるはずはない」とか、「今さら、そんなことを言われも」と言って疑ってしまうのです。あるいは、「自分たちは今、十分なくらいに恵みをいただいているから、もう結構です」と言って、神様からの恵みを拒否するということもあるでありましょう。いずれにせよ、自分の中にある考えや経験など、いつも自分を基準にして物事を考えてしまいます。神様の言葉さえも、自分を基準にして、信じるかどうかを判断してしまうのです。ある説教者は、「私たちは、神様に介入される余地を持っているだろうか」と言っています。「神様に邪魔をされることに、喜んで心を開いているだろうか」と言うのです。神様がなさることを、私どもは簡単に受け止めることができなのも事実でしょう。神がなさることはいつも驚くべきことばかりだからです。それゆえに、私たちを恐れさせ、不安にさせる面が確かにあるのです。神様のせいで、計画していた人生に狂いが生じるということもいくらでもあるわけです。しかし、そこで神様の言葉を信じ、信頼し、従っていくことができるかどうかが問われているのではないでしょうか。神がなさる驚くべき御業を見聞きしても、その恵みの大きさを素直に受け取ることができない罪が私どもにもあるのです。この点においても、今一度、神様の前に立ち帰り、悔い改めることへと、このアドヴェントの時、私どもは招かれているのです。

 神様の言葉を信じることができないザカリアに対して、天使はこう言いました。19〜20節。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」「このことが起こる日まで」というのは、ヨハネが生まれるまでということです。それまで間、口が利けなくなり、話すことができなくなるというのです。また、次週読むところですが、62節を見ると、人々は、「父親に…手振りで尋ねた」とありますから、おそらく耳も聞こえなくなったのだと思います。話すこともできず、他人の言葉も聞こえなくなったというのです。まったくの沈黙の中に、ザカリアは一人置かれることとなります。神の言葉を信じなかったから、口が利けなくなる。これは、要するに、神から罰が与えられた。神の裁きがくだされたということです。「罰」とか「裁き」という言葉を聞くと、私どもは恐ろしく感じると思います。「裁き」と言っても、大小様々あるわけですが、裁きを受けている本人がそこで何の苦しみも痛みも感じない。それは裁きでも何でもありません。では、神様の裁きとはいったいどういうものなのでしょうか。私どもを滅ぼしてしまうだけのものなのでしょうか。

 ザカリアは口が利けなくなり、耳も聞こえなくなるという、言わば、沈黙の状態に一人置かれることになりました。これはとても辛いことだと思います。それは、体がそういう不自由な状態になったという苦しみよりも、神様を信頼することができなかったという自分の罪の重さや痛みを強く感じたからだと思います。沈黙の中で、ザカリアは自らの罪を深く心に留めたことでありましょう。また、これまでの自分の人生を静かに振り返ったのではないでしょうか。祭司としての働きをはじめ、妻エリサベトとの歩みを振り返ったことでありましょう。子どもがずっと与えられなかった苦しみを思いつつ、今、神様が自分たちの願いを聞いてくださったその不思議な御業を思い巡らせていたことでありましょう。

 沈黙の中で様々なことを思い巡らしたであろうザカリアですが、しかし、その中で唯一聞こえてくる言葉がありました。それが神の言葉です。沈黙という裁きをとおして、ザカリアは神様と真っ直ぐに向き合うことのできる貴重な時が与えられました。ですから、神様が私どもを裁かれるという時、それは裁くことによって、同時に恵みを与え、救いに導くという性格を持っています。救いに至ることができる裁きや苦しみを、神様は私どもにもお与えになることがあるのだということです。ザカリアはこれまでの苦しみの日々を思いつつ、しかしそこで騒ぐことも、自分を見失うこともなく、神様の前に静まり、耳を傾けました。そのような沈黙の歩みの中で、次週学びますけれども、68節以下にありますように、神をほめたたえる賛美の歌となる言葉が蓄積されていくのです。また、「悔い改める」ということも、実はこれも自分一人でできることではないのです。私どもに御言葉を語り掛けてくださる神様の導きの中で与えられていくものです。静まって、神の言葉に聞くことによって、ザカリアは悔い改めへと、そして、祈りと賛美へと導かれる恵みの経験をしたのです。また、妻エリサベトも24、25節にあるように、五ヶ月の間、身を隠していました。安静にするためにという理由もあったかもしれませんが、しかし、彼女もまた、神様の前で沈黙した時間を過ごしたのです。そこに、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」という神様への感謝の言葉が生まれました。自分にとって「恥」であり、呪いたくなるような苦しみから解放してくださった。この感謝と喜びが沈黙の中から与えられていくのです。

 このような恵みの経験を、ザカリアはいったいどこで経験したのでしょう。ザカリアはどこで祈りをささげ、どこで天使をとおして神様との対話を重ねたのでしょうか。どこが本日の物語の舞台となっているのでしょうか。それは神殿の聖所においてであるということです。このことに実はとても深い意味があるのです。この関連で、最後にもう一度、思い起こしたいことはザカリアやエリサベトはいったいどういう人だったのかということです。名高い祭司ではありません。どこにでもいるような貧しい、名も無き祭司でした。子どもが与えられず、人生のほとんどをその苦しみで覆われていたような二人でありました。しかし、救いの出来事は、クリスマスの出来事はそのような深い嘆きや貧しさの中で始まるということを告げるのです。

 ザカリアとエリサベトは、子どもがいないがゆえに、祝福されていないのではないか。呪われているのではないか。そして、生きているのが恥ずかしいとさえ思っていたのです。しかし、二人は神の前に正しく歩み続けました。神がおられる神殿での生活を大切にしたのです。それは祭司という仕事柄、大切にしたというのではありません。どのようなことがあっても、人は神を礼拝して生きる他、望みはないことを知っていたからです。神の前に正しく、非の打ちどころがないとうふうに聖書は二人のことを語ります。もちろん、本日のザカリアの姿にあるように、まったく罪を犯さなかったということではありません。弱さも苦しみも罪も、様々な問題を抱えていたザカリアですが、それでも神様と共に生きることを願い、誠実に生きるならば、その人生は神様に祝福された人生だということです。

 この恵みの経験を、ザカリアが神殿における祈りの生活から始めたように、私どもも教会の礼拝から始めていきます。私どもが生きる世界には多くの言葉や情報、価値観が溢れています。その中でひたすら沈黙することに集中します。様々な思いが込み上げてくるかもしれません。ですから、沈黙は苦しいことでもあります。しかし、そこで、神の言葉に耳を傾けるならば、そこで聞くべき言葉、語るべき言葉が必ず与えられます。神を賛美する言葉が与えられるのです。だから、私どもの歩みに無駄なこと、無意味なことは一つもありません。神の前に静まるならば、そこから新しく力強い歩みが始まるのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたが与えてくださる静けさの中で、ひたすら御言葉に耳を傾け、あなたのことを思う時を備えてください。それぞれに様々なことがあった一年ですが、そうであるからこそ、今あなたの前に沈黙し、あなたが与えてくださる賛美の歌をうたうことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。