2021年11月28日「父母を敬って生きる」

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父母を敬って生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

音声ファイル

聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 月に一度の夕礼拝では、「十戒」をとおして神様の言葉に聞いています。本日は第五戒にあたります。出エジプト記第20章12節の御言葉です。短くまとめると、「あなたの父母を敬え」ということです。十戒は大きく2つに分けることができると言われています。第一戒から第四戒までは神様とのより良い関係を築くための戒めが、後半の第五戒から第十戒までは隣人とのより良い関係を築くための戒めだと言われています。より良い関係というのは、「愛」という言葉に言い換えることもできます。神を愛すること、人を愛することはどういうことかを、それぞれ教えているのです。もちろん、両者は深く結びついています。神との関係をおろそかにするところで、自分も隣人も真実に愛することはできません。これまで第一戒から第四戒までを共に学びながら、神を愛することがどういうことかを教えられた私どもが、今度はこれから隣人と共に生き、隣人を愛して生きるというのはどういうことか。自分自身を愛するとはどういうことかを新たに学んでいくことになります。

 ところで、私どもは「隣人」と言われましても、いったい自分にとっての隣人とは誰なのだろうかと考えて込んでしまうかもしれません。主イエスがお語りになった「善きサマリア人の譬え」にあるように、「隣人とは誰か」などということを考えないで、あなた自身が率先して誰かの隣人になればいいと言われたら、そのとおりなのですが、少なくとも十戒は具体的な隣人を私どもに示しています。その最初に登場するのが「父母」です。自分の「親」であるということです。確かに親という存在は誰にとっても大切な存在であることに違いありません。しかし、聖書でまず人間関係と言えば、まず「夫婦」の関係を思い出す人も多いことでしょう。最初に神によって創造された人間はアダムでした。しかし、神はアダムを独りにさせることはありませんでした。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)と言って、妻となるエバを与えてくださいました。二人の間に生まれたのがカインとアベルという兄弟でした。今日でも、結婚ということを考える時、必ず創世記の御言葉に立ち帰ります。

 しかし、十戒はまず父母について語ります。夫婦関係を語るのは、そのあとの第七戒です。なぜ先に、「あなたの父母を敬え」と教えるのでしょうか。結婚というのは、確かに神様が与えてくださる豊かな祝福の一つです。でも、すべての人が結婚をするわけではありません。結婚しない道を選ぶこともゆるされていますし、独身だからこそできる働きもあるからです。他に、人間関係と言えば、「友人」のこと思い起こす人もいるでしょう。しかし、すべての人と私どもは友人であるわけではありません。性格や趣味などの共通点があるからこそお互い友達になるのだと思います。どこかで、自分の友に相応しい人は誰か選んでいるのです。結婚相手というのも、本当は神様から与えられた人ですが、自分がこの人を選んだという言い方をする人もいます。

 しかし、第五戒で言われている「父母」というのは、つまり、自分の「親」というのは、自分で選ぶことができません。親もまた生まれくる子どもを選ぶことはできません。自分の親も自分の子どもも神様が与えてくださったと、私どもは信じています。そこで色んな思いが沸き上がって来ることもあるでしょう。家族だからと言って、親子だからと言って、何も問題がないかと言うと決してそんなことはないからです。その時に、なぜ自分はこの親から生まれてきたのだろうか?と問うこともあるでしょう。親との関係が決して悪くなくても、深い悩みに陥る時、自分の存在意義を心の底から問うことがあります。その時に、なぜこの世界に生まれてきたのか?ということだけでなく、なぜ自分はこの父とこの母の子どもなのだろうか?と、問うこともあると思います。そして、親もまた自分の子どもを見つめ、なぜこの子が私たちから生まれてきたのだろうか?と思ってしまうこともあるかもしれません。特に、親の思い通りに子どもが育ってくれない時、あるいは親としての自分の力がまったくないことに気付いて落ち込む時、ふとそんなことを考えてしまうこともあるのではないでしょうか。普段生活する中で生まれてくるそれらの問いに、私どもはちゃんと答えることができるでしょうか。ちゃんと答えることができるならば、私どもは自分自身を肯定し、受け入れることができるでしょう。そして、自分の両親や家族を含め、これまでの神様の守りと導きを覚え、感謝することができるのです。

 しかし、もし、「自分は産んでほしいなんて頼んだ覚えがない。こうなったのはすべて親のせいだ」とか、「あなたは私たち両親にとって期待外れだった」などと言ってしまったならば、そこに何の光もないことは明らかです。今日も親子の問題、家庭の問題はますます深刻になっています。家族や友人など一番近くにいる人、すぐに直接顔を見ることができる人よりも、全然顔を知らない、出会ったこともない。そういう人との付き合いのほうが楽だという人もいます。一番近くにいる人、いつも一緒にいる人というのは、ありがたい反面、場合によっては、しんどくなることもあるのではないでしょうか。キリスト者の家庭、親子であっても、何の悩みや課題もないというところはないと思います。そういうところで、「あなたの父母を敬え」というのはどのような意味を持つ言葉なのでしょうか。

 私どもが自分自身の生き方を問う時、それは第一に神様のことを考えるのですが、その次に考えないといけないのは、自分の父であり母のことであると聖書は語るのです。考えてみると、この世界に生まれてすぐに一緒に生き始めるのは、自分の父と母です。いや母の胎の中にある時から、親と共に生きていたのです。生まれてから、生まれる前から一番近くにいるのが自分の両親です。私どもにとっての人間関係の始まり、基礎、それが父であり、母であるのです。まことの

いのちの根源は神様ですが、その神様は両親に自分のいのちを託してくださいました。両親はその与えられた子どものいのちを守り、養い、育てていくのです。

 ところで、「あなたの父母を敬え」というのは、言葉の上ではそれほど難しい教えではないでしょう。一般的に、両親を敬い、大切にし、愛することは、人として当然のことだと考えます。「親孝行」というよく知られた言葉もあるくらいです。両親だけでなく、祖先をも敬う。敬うどころから、祖先をも崇拝するということさえ起こり得るのです。「あなたの父母を敬え」という十戒の言葉も、要するに、「親孝行をちゃんとしましょう」ということなのでしょうか。親からいただいたたくさんの恩に応えるということなのでしょう。また、私どもが生きる日本という国は、いわゆるキリスト教国ではありません。そういう環境の中で、自分一人が洗礼を受け、キリスト者になるというのは、親との縁を切るということさえも意味しました。そのところで、「あなたの父母を敬え」という言葉は、私どもの生き方、存在そのものを揺さぶるような言葉であると思います。

 主なる神様はおっしゃいます。「あなたの父母を敬え。」「敬う」というのは、「重んじる」という意味の言葉です。「相手に重みを与える」ということです。また、「崇める」とか、「栄光を帰す」という意味でもあります。人間だけでなく、神に対しても用いられる言葉です。それは親を敬うことと、神を重んじることは一つであるということでもあります。子どもたちは、親をとおして神を知り、神を崇めるようになるということです。なぜ私どもは、父母を敬って生きなければいけないのでしょうか。それは生まれる前から今に至るまで、自分のことを守り、養い、育ててくれたからです。この世界に誕生したいのちを育ててくれる存在がいつも近くにいなければ、今の自分はないのです。もちろん親に反発することもありますし、信仰も違うということもあります。けれども、キリスト者である私どもは、そのような中にも神様の御手があり、配慮があるということを信仰の目で見ることができます。だから、私どもは父母を敬うのです。

 また、それだけではなく、もう一つ、父母を敬う大切な理由があります。同じ出エジプト記第13章11〜16節(旧約p115)に次のような御言葉があります。「主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」

 イスラエルの民は、神様の力強い御手によって奴隷の家エジプトから脱出し、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地に入れられます。その時、すべての雄の初子は人間であれ、家畜であれ神に献げなければならないというのです。土地も初子も神が与えられたものだからです。しかし、人間の男の子は家畜の初子を神に献げることにより、神から買い戻すことが出来るのです。そして、子どもがなぜ、「こんなことをするの?これはどういう意味があるの?」と尋ねたら、「神の力強い御手によって、奴隷の家エジプトから導き出され、約束の地を与られたことを記念するためだ」と答えるようにというのです。神様が行われた出エジプトの救いの物語を語り継ぐのです。神様との関係の中に、神との契約の中に、私たちが置かれているがことを親から子へと語り継ぐのです。親は神の恵みを子どもに届ける通路となります。だから、子どもは親を敬うのです。そのような意味で、第五戒は一般的に言われる親孝行とは違います。親は子に語り継ぎます。出エジプトという救いの御業がなければ、私たちの今日はなかった。あなたの今もこの土地もなかった。神の奇跡の御業によって私たちの今がある。生きることができる土地がある。土地がなかったイスラエルの民は、神様から土地を与えられたことを何よりも大切にしました。このように、親が子へと神の救いの物語を伝えることが、主が与えられる土地で長く生きることと結び付いているのです。

 だから12節後半にも、こう記されているのです。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という言葉です。文字通り親を敬えば、長寿が与えられるとか、長生きしたければ、親を敬いないさいという秘訣を教えているように思われるかもしれません。一般的には、長生きできるというのは、幸いなことだと考えられています。そのために自分の健康管理をしたり、老いに打ち勝つ若さを取り戻そうと必死になります。しかし、本日の御言葉が語る「長く生きる」というのは、先程の第13章にもありましたように、そういうことではありません。父母を敬って生きるならば、「あなたの神、主が与えられる土地に」長く生きることができるというのです。大事なのは、神様との契約に留まるということです。そこに私どもの祝福があるからです。そしてそのために、約束の地が与えられた救いの歴史を親から子へと語り継ぐのです。「信仰継承」と呼ばれることもあります。もちろん信仰そのものを与えてくださるのは神様ですが、親は神の契約の担い手としての使命があります。エジプトの奴隷から解放されたという出来事は、今日の私どもにとっては、キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から解放されたということです。新しい出エジプトを体験したということです。その救いの物語を、決して、昔話を語るように子どもに語るのではなく、今ここにいる私たちの物語として、あなたの物語として語り継ぐことです。それは今も救いの神があなたと共に生きて働いておられるということを知ることでもあるのです。今、私どもはカナンの地にいるわけではありません。しかし、与えられた国や場所で、キリストのものとして生きています。救いの物語を何度も語り直すことによって、私どもが生きている人生、今生きている場所を神様から与えられたものとして、感謝して受け取り直すことができるのです。

 ところで、この第五戒と前回の第四戒は、積極的命令と言って、いわゆる禁止命令ではありません。「〜しなさい」というふうに、積極的に勧めているのです。「このようなことをしてはいけません」というのではなく、「このように生きましょう」と勧めています。第四戒は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」ということです。そのあとに長い言葉が続きます。そこを見ますと、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と言っていますから、純粋な意味で積極的に勧めているのは、不思議ですけれども、本日の第五戒だけと言ってもいいのです。いずれにせよ、第四戒と第五戒は神の民として生きるために、このように生きなさい。このように生活しなさいと勧めます。ある人は、「まずこの二つをやってご覧という励ましの言葉ではないか」と言っています。安息日には神の前で礼拝をささげること。そして、普段の生活において、親は子に救いの物語を語り伝え、子は親を敬って生きる。とにかくこの二つを真剣にやってご覧なさい。そうしたら、間違いなく豊かな祝福が与えられるというのです。

 そして、安息日を聖別することも、父母を敬うことも、両方とも「時間」に関わる戒めだということです。第四戒においては、「七日目」を聖別するということです。天地創造の御業において、神は七日目を祝福してくださったのです。第五戒においては、エジプトの奴隷から救われたという「歴史」を親から子へと語り継ぐということです。どういう歴史を自分たちは生きてきたのか。そしてこれからどう生きようとしているのかを伝えるということです。私どもが神の民であるということの一つのしるしは、血縁関係があるとか、カナンの地に住んでいるとか、そういうことではありません。初めは大事だったかもしれませんが、時間とともにそれらは大きな意味を持たなくなりました。自分たちがイスラエルの民であり、神の選びの民であることの大切なしるしは、安息日を聖別し、神を礼拝して生きるということ。神の救いの歴史を語り継ぎ、昔から今に至るまで、そして、これからも生きておられる神様の祝福にあずかって生きるということです。そして、洗礼を受けること、救われることは、自分一人だけの経験ではなく、神の民に加えられるということでもあります。神の民というのは教会共同体のことです。教会もまた、神の救いの歴史という一つの時間の中を共に歩んでいるのです。父母と共に、信仰の先輩たちと共に同じ歴史を歩んでいるのです。

 「あなたの父母を敬え」というこの第五戒の言葉ですが、私自身、まだ幼い子どもや成人になっていない若者に対して語られているとばかり思っていたところがありました。でも、よく考えてみると十戒を初めに受け取ったのは、既に成人した大人たちであるということです。その人自身がもうすでに結婚し、親になっている。子ども与えられている。そういう大人に対して、教えられている御言葉でもあるということです。その場合、自分の父母というのは一体何歳くらいになるのでしょうか。決してもう若くはないのです。「高齢者」「老人」と呼ばれるような年齢です。今日も親の介護や認知症など病の問題など、多くの課題が与えられています。昔のイスラエルの民においても同じでした。だから、白髪の老人や長老を敬い、神を畏れるようにと、旧約聖書は勧めます(レビ19:32)。一方で、箴言には次のような御言葉があります。「父に暴力を振るい、母を追い出す者は/辱めと嘲りをもたらす子。」(箴言19:26)「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」(箴言23:22)親に対して、暴力を振るったり、追い出したり、侮るようなことをするなと戒めているのは、実際、そのような現実があったからでしょう。教会の中でも、介護や病をはじめ、自分の親のことについて語ってくださる方はとても多いのです。それは絶えず親のことが心にあるからでしょう。自分自身キリスト者として、高齢になった親とどう向き合うのか。教会の仲間としてどのような助けの手を差し出すことができるのか。真剣に祈り考えるべき事柄です。専門的なことは十分にできないかもしれませんが、そこでこそイエス・キリストにしか与えることができない平安を、今度は子どもから親に伝えることができます。自分にとって一番近い隣人である親を愛することに召されているのです。ずっと長い間、共に生きてきて、どうしても父母を赦せないということもあるかもしれません。しかし、そのような自分の親に対しても、神様はこれまで忠実に働いてくださいました。御自身の真実と愛を貫いてくださいました。神が「契約の神」であるというのはそういうことです。その神の誠実さを受け入れ、父母を最後まで敬い、愛する生き方に導かれます。

 また第五戒は、年齢に関係なく「子ども」に対してだけ教えている戒めではなく、既に親の立場にある者たちに対して教えている御言葉でもあります。新約聖書のエフェソの信徒への手紙に、次のような御言葉があります。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:1~4)第五戒を土台として、パウロが教会の人々に語ります。子どもたちに対して、両親に従うように語りながら、同時に親に対しても大切な言葉を語ります。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」親が子どもに対して怒ることは当然あるのですが、その怒り方は「主がしつけ、諭されるように」ということです。「諭す」というのは、子どもが正しくちゃんと理解できるようにということです。そのためには、時間も忍耐も必要です。どういう言葉を掛けるべきが、その言葉の修練も必要です。「お前が明らかに間違っている」と頭ごなしに怒ったところで、子どもが悔い改める訳ではないでしょう。親として正しいことを子どもに語っているつもりでいながら、救いようのない裁きの言葉を語ってしまう。その結果、子どもがますます怒りに燃えてしまうというということはいくらでもあることです。でも、主イエスが私どもに与えてくださった福音というのは、そういうことではありません。「主がしつけ諭されるように」という言葉は、

以前の訳では「主の薫陶と訓戒によって」とありました。幼児洗礼式の際にも次のような誓約文があります。「あなたがたは、今、あなたがたの子を全く神にささげますか。あなたがたは、謙虚に神の恵みにより頼み、あなたがたの子の前に敬虔の模範を示し、彼とともにまた彼のために祈り、教理を教え、また主の薫陶と訓戒のうちに彼を育てるように努めることを、約束しますか。」「主の薫陶」、つまり主イエスの香りを放つ親として、子どもを育て、導いていくということです。お父さんお母さんと一緒にいたら、イエス様というお方が、どのような方かがよく分かる。そのようなお手本として生きるということです。

 親の立場にある者は、どうしたら自分たちは子どもから尊敬される親になることができるのだろうかと考えるものです。それこそ、「家族サービス」と言って、子どもや家族の皆に喜んでもらえるために色んなことをするのだと思います。もちろんそれらのことも大事なことでしょう。神様のことや教会のことばかり一所懸命になって、全然家族を顧みないというのは、神様が望んでおられる生き方ではありません。その上で、第一戒にあるように、まず親自身がまことの神を神として生きること。そして、隣人を自分のように愛する生き方を大切しにしていきます。心から神に仕え、神に従っている親の姿や言葉には権威があります。子どもを親の言いなりにするということではありません。親は子どもを支配し、所有する権威ではなく、子どもを真実に生かし、慰め力づける権威、子どもを真実の喜びに導く、そのような素晴らしい権威を神様は親に与えてくださいます。

 最後に「あなたは父母を敬え」という言葉は、ある意味ではこれまで見てきたように、キリスト者の親子、キリスト者の家族の間でしか通じない教えであるかもしれません。しかし、自分の親や子どもがキリスト者でないということは、今日いくらでもあるのです。家族と縁を切るようにして、自分一人キリスト者になったという方もたくさんおられます。その場合、父母を敬わなくてもいいのでしょうか。子どもを愛さなくてもいいのでしょうか。そんなことはありません。隣人を愛するというのは、教会の中やキリスト者の間でしか通じないような狭い教えではありません。あるいは、洗礼を受けないまま死んでいった家族のことをずっと気に掛けている方もおられることでしょう。そのように、自分の家族についての心配事、祈りの課題はたくさんあるのですが、しかし大事なことは、今既にこの私がキリストにあって救われているということです。そして、神様の契約、神様の救いの祝福というのは、私個人に与えられていると同時に、共に生きる家族にも及ぶものであるといことを信じることです。使徒パウロも「あなたもあなたの家族も救われます」と言いました(使徒16:31)。それは私一人が洗礼を受けたら、あとの家族も自動的に救われることになっているということはではないのですが、それでも私という一人の存在が、自分の親や家族に決定的な意味をもたらす。それは確かなことです。そして、私を救い給う神は、私の家族の歩みや歴史をも知っておられ、御手の中で導いてくださるお方です。天地をお造りになり、エジプトの奴隷から救い出し、御子イエス・キリストによって罪の奴隷からも解放してくださった神が、私や私の家族の歩みを知らないはずはありません。先に死んだ者がどうなったのかということについて、「救われた」という確信を持つことは難しいのですが、同時に神を信じていなかったのだから、「見捨てられた」などと言うこともできないはずです。私どもにできることは、ただ神にお委ねする他ありません。まだキリスト者でない親や子どもにおいても、同じように神にお委ねするのです。そして、できるならば地上にいる間に、信仰に導かれるようにと祈ります。自分がキリストにあって、罪赦され、死に勝利したいのちの希望に生かされているということを、隠すことなく、証ししていくこと。それこそが、あなたの父母を敬って生きるということでもあるのです。お祈りをいたします。

 神を愛するだけではなく、隣人を自分のように愛する生活へと私どもを招いてくださいます。あなたの御心によっていのちが与えられ、ここまで生きることがゆるされました。あなたの恵みとともに、多くの者に支えられてきた私どもです。とりわけ、親をとおしてそれぞれの歩みが守られてきました。あなたの目からすれば、親も子どもも様々な弱さや罪がありますが、あなたがキリストにおいて愛し、赦してくださったように、私どももまたあなたから与えられた愛に生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。