2021年11月21日「顧みられる神」

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顧みられる神

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
創世記 16章1節~16節

音声ファイル

聖書の言葉

1アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。2サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。3アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。4アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。5サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」6アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。7主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、8言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」10主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」11主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。12彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」13ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。14そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。15ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。16ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。創世記 16章1節~16節

メッセージ

 キリスト者として生きるということは、当然のことですが、神様を「信じて」生きるということです。では、神様の「何」を信じることが、信仰の中心・要となるのでしょうか。一つの言葉にまとめることはとても難しいかもしれません。神の「愛」を信じるとか、キリストによって「救われている」ことを信じるとか、色々あると思います。神様について信じなければいけないことは、一つだけではないからです。ですから、これだけが正解と言い切ることはできない難しさは確かにあるのですが、その大切なことの一つに、神様の「約束」を信じるということをあげることができるのではないでしょうか。

 私どももまた、日々、色んな約束をしながら生きているものです。「明日、何時に、何処で待っているからちゃんと来てね」とか、「結婚したら、こんな家庭を築いていこうね」というふうに。今はまだ目に見えないかもしれませんけれども、約束を結んで、それをちゃんと守ることに一所懸命になります。愛する相手を信じることは、その人との約束を守ることです。その先に、素晴らしい将来が待っていることでしょう。もし、約束が守られないならば、互いの信頼関係も壊れてしまいます。だから、信じることは約束を守ることでもあるのです。

 今お読みしました旧約聖書・創世記第16章には、信仰の父と呼ばれますアブラハムの物語が記されています。ここではまだアブラムと呼ばれていますけれども、このアブラハムの物語は、創世記第12章から始まります。この時、アブラハムは75歳でした。しかし、神様の約束の言葉によって、新しい場所へ旅立つことになりました。どこに行くのは、この時まだはっきりと示されていません。しかし、アブラハムは神様の言葉を信じて、新しい歩みを踏み出したのです。

 神様はアブラハムに約束してくださいました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」創世記第12章2〜3節の御言葉です。また第15章ではこのように神様はおっしゃいました。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(創世記15:4~5)

 アブラハムが神の祝福の源となり、彼らの間から生まれる子どもや子孫たちに神様の祝福が広がっていくということを約束してくださいました。神様の言葉や約束は目に見えるわけではありません。私どももまた、信仰とは目に見えることの中に本質があるのではなく、目に見えないことの中に、大切な真理があると信じています。自分で一つ一つのことを確かめなければ納得いかない、信じることができないというのではなくて、不確かな私どもに勝って神様が確かな御手によって捕らえて、導いてくださることを信じること。そのことの中に、私どもの救いがあり、確かな将来というものがあるのだと信じています。

 しかしながら、約束というものは、なるべく早く実現してほしいと願うのも人間の本心なのではないでしょうか。「いつか必ず、こうなる」ということを約束されていても、人によっては待つことができる限度というものがあるかと思います。約束の実現を待ち続けることも、相手を信頼し、愛することのしるしだと言う人もあれば、いつまでも相手を待たせるということは失礼なことだと言う人もいるでしょう。

 アブラハムもまた、神様の祝福を信じて、見知らぬ場所に旅立ちました。その神様の祝福が本当であるという一つのしるしが、アブラハムと後に「サラ」と呼ばれる妻サライとの間に、子どもが与えられるということでした。子どもが与えられないと、神様の祝福が子孫たちに広がりようもないからです。しかし、なかなか、その約束が実現されません。なかなか子どもが与えられないのです。焦ったアブラハムが考えたことがありました。それは、自分の親族の一人であるエリエゼルが私たちの家系を継ぐのだということです。そのことが先の第15章に記されていたことです。しかし、神様はアブラハムに声を掛け、夜空に広がる数え切れない星を見せてくださいました。自分の考えの中に閉じこもって信仰について考えるアブラハムを外に連れ出し、神様が見ておられる大きな世界を見せてくださるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムは、再び、神の約束の言葉を信じることができたのです。

 しかし、本日の第16章に入りますと再び同じような過ちを犯すことになります。どれだけ待っても子どもが与えられないことに、我慢することができなかったのでしょう。アブラハムの妻サラがこのように提案します。2節「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。』」神様の約束からもう10年が経っていました。アブラハムは85歳、サラは75歳です。自分たちは高齢で、子どもは産まれる見込みがないと考えたのでしょう。だとしたならば、どうしたらいいのか。神様の約束が嘘ではなく、真実であるというこが明らかになるためにはどうしたらいいだろうか。そこで思い付いたのが、女奴隷ハガルとの間に子どもをもうけようとしたことです。つまり、神様の御計画に、自分たち人間の手を加えて何とかしようとしたということです。

 しかし、そこからアブラハムの夫婦関係、家族の関係は大きく崩れ始めます。「信仰の父」と呼ばれ、多くのキリスト者たちにとって模範となるような人物であるかもしれません。しかし、アブラハムは完璧な人間、信仰者ではありませんでした。見習うべき点があるものの、大きな欠けを持っていた人間でもありました。ところで、妻以外の女性との間に子どもをもうけて、自分たちの子とするということ。そのような方法で子どもを産むことに否定的な見方をする人たちもいるかもしれませんが、昔はそのような方法で子どもを残し、神様の祝福を受け継ぐことは認められていたことでした。それでサラは、夫アブラハムに提案したのです。女奴隷ハガルのところに行けば、子どもが与えられるかもしれない。アブラハムは妻の言葉に、何の違和感も抱くことなく、ハガルのもとに行きます。そして、計画どおりと言いましょうか、自分たちが願った通りに、子どもが与えられたのです。ここまではアブラハムとサラが願ったように物事が進んでいきます。

 しかし、ここから本人たちが思いもしなかった出来事が起こり始めます。4節「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」思いもしなかったこと、それは身ごもったハガルが、サラを軽んじるようになったということです。子どもという神様からの祝福はあなたではなく、この私に与えられているとハガルは思ったのでしょう。この祝福と喜びはあなたには分からないでしょと言わんばかりに、見下される思いをサラは経験しました。

 立場的には、ハガルは奴隷ですから、女主人であるサラを軽んじるということは、普通はあり得ません。でも、子どもを授かった瞬間、まるで立場が逆転したかのような状況になったのです。サラはそのことに耐え切れませんでした。そして、夫アブラハムのもとに行って訴えます。5節「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」サラは夫アブラハムに裁きを求めます。「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」とありますように、神の名による裁きを夫のあなたに下してほしいと願ったのです。でもその真剣な願いも聞き入れられませんでした。サラとハガルの間に起こった問題をまるで他人の喧嘩のように冷たくあしらいます。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(6節)アブラハムは責任を放り出し、好き勝手にしたらいいと言います。妻サラに対しても、女奴隷ハガルに対しても、慰めの言葉を語るのでもなく、あるいは戒めの言葉を語るのでもなく、好きなようにしたらいい。私の問題ではないと言って、背を向けるのです。

 それで、サラは、アブラハムの言葉をそのまま受け取りまして、ハガルにつらくあたったというのです。「つらくあたる」というのは、「卑しめる」「虐待する」と訳すことができる言葉です。ハガルは心身ともにつらい経験をしたのでしょう。人格を踏みにじられるような思いをしたのかもしれません。このつらさから逃れるためには、文字どおりサラのもとから逃げ出すしか解決の方法はありませんでした。お腹に幼いいのちを宿していますから、そんな危険なことをしたくはなかったはずです。しかし、逃げ出したいほどまでに、ハガルは追い込まれていました。それで、アブラハムとサラのもとを一人で逃げるように飛び出して行ったのです。その先に何が待っているのでしょうか。いのちを宿した体で、安全に旅を続けることができるのでしょうか。本当に安らぐことができる場所を見出すことができるのでしょうか。そんなこと何も分りませんでした。サラもアブラハムもハガルもそれぞれの思惑がすべてにおいて外れてしまう結果になってしまいました。あるところまでは上手く行くものの、一度、歯車が噛み合わなくなると、人は自分自身を見失ってしまいます。元を辿ると、神様の約束を待つことができなかったことにありました。神様の約束を疑ったこと、そこに人間が入り込むところに生まれる悲惨がここにあります。

 しかし、神様は、そのような罪深い存在をいつも心に留めてくださるお方です。神様は御使いを通して、ハガルに語り掛けてくださいました。「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。7〜8節。『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。』」神様は私どもの名を呼んでくださるお方です。「ハガルよ」と神様は名を呼んでくださいました。ハガルはエジプトから来た奴隷でした。奴隷というのは、昔はよくあった制度ですが、通常一人の人間としてまともに扱われることはありません。酷い言い方をするとまるで物のように使われ、売買の対象にさえなります。ハガルがサラから受けた仕打ちもそのようなつらいものだったのでしょう。

 しかし、神様は彼女の名を呼び、問い掛けてくださいます。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」これは、人間のいのちの根源を問うとても大切な問いなのではないでしょうか。私どももまた、どこから来たのでしょうか。そしてどこへ行こうとしているのでしょうか。人生という大きな旅路において、どこに向かって歩んでいるのでしょうか。その歩みを支え、これこそが確かな生き方だと保証してくるものは何なのでしょうか。とりわけ、試練の中で自分の歩みが止まってしまような時、たとえ歩くことができたとしても明確な目的が見出せない時、私はどこから来て、どこへ行くのか、が分からなくなってしまうことがあるのです。

 ハガルは御使いの問いに答えました。「女主人サライのもとから逃げているところです。」ハガルは自分がどこから来たのかを答えることができました。サラのもとで酷い目に遭った。だからそこから逃げて来たというのです。でも、「どこへ行こうとしているのか」という問いに対しては、何も答えることができませんでした。彼女には自分の将来が見えていませんでした。見えていたとしても不安な将来であったに違いありません。彼女だけではないでしょう。誰もがこれからの自分の姿をはっきりと見ることができるわけではないのです。漠然と見えている人はいるかもしれません。しかし、はっきりとは分からないのです。もちろん、いいように自分の将来を思い描くと思いますが、必ずしも自分が思い描いたような自分が将来に待っているとは限りません。

 しかし、キリスト者であるならば、そこで神様の言葉を信じることができます。神様の約束に望みを置くことができるのではないでしょうか。神様はハガルに何とおっしゃったのでしょう。これもまた理解しがたい不思議な言葉でした。主の御使いは言います。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」神様はおっしゃるのです。「サライのもとに帰りなさい」。サラのもとにいるのが嫌ですいのちからがら逃げ出してきたのに、なぜサライのもとにもう一度帰らないといけないのでしょうか。神様は何も私のことを分かってくれていないと思ったかもしれません。「もっと酷い目に遭え」とでも言うのですか、神様?と思ったかもしれません。

 そこで神様は約束の言葉を与えてくださいます。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。」子孫を数えきれないほど増やすというのは、神様がアブラハムに与えた約束です。アブラハムの子孫が増え、神の民イスラエルとなり、やがて救い主イエスがお生まれになります。エジプトの女奴隷であったハガルは、神様の祝福の道筋から一歩も二歩も外れて立っているような存在だと見なされていました。しかし、神様はそのようなハガルに、そしてイシュマエルに祝福を与えると約束してくださいました。神様は、自分は救いの道からそれている、漏れていると思うような者をも憐れみ、救いの中へと導いてくださるお方です。

 また、「イシュマエル」という名前には、「主があなたの悩みを聞いてくださる」という意味が込められています。聖書には言葉として記されていませんが、彼女の数々の悩みに、神様は耳を傾けてくださったのでしょう。「サライのもとに帰りなさい」と命じた言葉は、ハガルを再び嫌な目に遭わせるためにいじわるをしたということではありません。主人のもとから逃げるというのは、主人が信じていた神様から逃げ、信仰を捨てたということを意味しました。だから、サラのもとに帰るのは、何よりも主なる神様のもとに帰ることでもあります。厳しい現実から逃げればいいというのではなく、神様のもとに逃げること。神様こそ、私どもの避けどころ、避難所とするように、主は命じられます。

 ハガルは荒れ野で経験した神様との出会いについて、次のような言葉で告白しています。13節「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」「神様、あなたこそエル・ロイです」と信仰を言い表しました。「エル・ロイ」とは、すぐ後に括弧で括られているように、「わたしを顧みられる神」という意味です。顧みるというのは、「見る」という意味です。ハガルは、「神様は、私をいつも見ていてくださるお方」だということに、深い慰めと励ましを見出しました。神様が私を見てくださったというのは、女主人サラから酷い目に遭わされ、逃げ出して、辛い日々を過ごしていたということ。その辛く孤独な経験をしている自分を見ていてくださったこと。そこに深い慰めがあります。しかし、それだけではないでしょう。反対にこんな自分の姿は見られたくないと思うことがあります。それは罪に満ちた自分の姿です。ハガルにとっては、自分が身ごもったことを知った瞬間、女主人のサラを軽んじ、見下したことでした。そして神様を捨てて、逃げ出したことでした。でもそういうハガルの姿をも神様はじっーと目に留めていてくださいます。その神様が、ハガルに「あなたがこうなったのは自業自得だ」と言ったのでもなく、罪を裁いて滅ぼされたわけでもありませんでした。「サライのもとに帰りなさい。神様のもとに帰りなさい」とおっしゃってくださり、「あなたもわたしの救いの中に招かれている」と約束をしてくださいました。

 実はこの物語は、誰が何をどう見るかということが非常に重要な意味を持っています。アブラハムとサラの夫婦、サラとハガルの関係が悲惨なものになってしまったのは、彼らが見るべきものをちゃんと見ることができなかったからです。まず、2節のサラの言葉を見ると、日本語では訳されていませんが、原文のヘブライ語を直訳すると、「ごらんなさい、主はわたしに子供を授けてくださいません」と訳することができます。サラは、神様が約束どおり子どもを与えてくださらないという現実を見、それを夫のアブラハムにも見せようとしています。また、4節で、身ごもったハガルが、女主人サライを「軽んじた」とありますが、これは「彼女の目において女主人を軽蔑した」という意味です。身ごもったハガルの目に、サライは軽い存在に映ったのです。また、6節のアブラハムの「好きなようにするがいい」という言葉も、「あなたの目において良いようにしなさい」ということです。そして、「彼女(ハガル)はサライのもとから逃げた」というのも、「彼女の顔から逃げた」ということです。ハガルは自分を見つめるサライに耐えることができず逃げ出したのです。

 このように、第16章の前半は、人間が何をどのように見つめたかということを軸に物語が展開されます。そのまなざしに狂いが生じる時、そこは修羅場とかします。私どももまた自分を見つめる他人のまなざしによって傷付くことがあります。逆に、自分の他人へのまなざしが、相手を傷付けることがあります。軽蔑や嫉妬、争いや対立など、そこには、私どもが互いをどう見ているかということに大きな原因があるのではないかと思えてなりません。本当に見つめるべきものを、正しい仕方で見つめることができないために、私どもの人生や世界は、悲惨なものとなり、修羅場と化してしまいます。

 しかし、そのような人間をじっと見つめてくださるお方がいます。罪の中で、苦しみ、傷付く私どもを見ていてくださり、語り掛けてくださり、出会ってくださるお方がおられます。そこに私どもの救いがあります。荒れ野に逃げ出したハガルが経験したことは、まさにこのことでした。広大な荒れ野の中で、砂粒にすぎないような小さな私に目を留めてくださった。神は私と出会ってくださった。その喜びが彼女の言葉に表れています。「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です。」私を顧みてくださる神と真実に出会う時、私どもは自分の誇り、他人を軽蔑する生き方から解き放たれます。見るべきものが何であるかを本当に知ったからです。

 アブラハムとサラもまた、帰って来たハガルから神様との出会いの出来事、そこで交わした対話、そして神様は私たちを顧みられる神であるという話を聞いたのではないでしょうか。アブラハムとサラの二人は深い畏れを抱いたことでしょう。神様の約束、神様の計画を信じ切ることができず、自分たちの手によって、神様の約束を実現しようと企んだこと。その後に起こった家族の間でのごたごた、ハガルへの酷い仕打ちなど、これまでのすべてが神様に見られていたことを知った時、自分たちの惨めさと罪深さ、そして神様への畏れを抱いたに違いありません。そのように、信じてはまた疑うことを繰り返すアブラハムたちですが、神様の憐れみの中で、神の言葉を信じる者へとつくり変えられていくのです。現実に見える世界と神様の言葉が映し出す世界を見比べて、「これはおかしい」「これは信じられない」と疑うのではなく、ただ神様が見せてくださる約束の世界に望みを置くこと。ここにだけ確かな祝福と希望があることを知るようになったのです。

 13節の後半で、ハガルはこのように言っています。「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか。」とても分かりにくい訳ですが、神様が自分を顧みられたこと、つまり神様が見つめてくださったことと、自分が神様を見つめたこととが語られているのではということは分かります。以前の訳ではこうなっていました。「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」。これも日本語として理解するのが難しいですが、要するに、ハガルは、自分を本当に見つめておられる神様と出会ったということです。それによって、自分が本当に見つめるべき方と出会うことができたのです。その時、間違った仕方で見つめていた他のものから目を離すことができたのです。他のものとは、自分自身の誇りであり、自尊心です。それらを見つめることが、人を軽蔑すること、見下げることを生み出しました。彼女の目は、自分を誇り、その裏返しとして人を蔑む目となっていたのです。その目が、自分を見つめておられる神様との出会いによって、その神様を見つめる目へと変えられていきました。彼女が新しく歩み出す力を与えられたのはそのことによってだったのです。そして、私を見てくださる神様の姿をうしろから礼拝したということです。旧約聖書では、神様を正面から見た者は死ぬと言われていたからです。罪に汚れた人間と聖なる神様との間には、まっすぐに見つめることのできない隔てがあったのです。

 しかし、今は違います。神様が御子イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださったらからです。だから、神様から遠く離れて、その姿をうしろから見て礼拝しなくてもよくなりました。神様の御前に立つことができるようになりました。神様の約束を疑い、目に見える現実がすべてだと思い込んでいる私どもを救い出してくださったからです。だから、私どもは主の日ごとに、教会に集まり、礼拝をささげます。自分たちがどこから来て、どこに行くのかという人生の道筋を、御言葉をとおして神様から見せていただきます。私どもの歩みは、この一週間を振り返ってみても、決して完全なものではなかったことでしょう。しかし、そのような私どもから目を離すことなく、赦しのまなざしの中に置いてくださいます。そして、私どもの悩みに耳を傾けてくださる神様が、私どものこれからの歩みを確かに導いてくださいます。神様の救いの約束を、真っ直ぐに見続ける信仰のまなざしを与えられたいと心から願います。お祈りをいたします。

あなたの救いの約束を待ち続け、信じ続けることができますように。どこから来て、どこに行くのか、私どものすべて見ていてくださるあなたにお委ねし、確かな歩みを重ねていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。