2020年06月28日「キリストを迎える者は誰か」

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キリストを迎える者は誰か

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 3章14節~22節

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聖書の言葉

14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な 証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。15「わたしはあなたの 行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どち らかであってほしい。16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から 吐き出そうとしている。17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要 な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、 裸の者であることが分かっていない。18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火 で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣 を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。19 わたしは愛する者 を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。20 見よ、わたしは 戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたし は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。21 勝 利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と 共にその玉座に着いたのと同じように。22 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞 くがよい。」』」ヨハネの黙示録 3章14節~22節

メッセージ

 聖書の一番最後に記されている「ヨハネの黙示録」の御言葉をお読みしました。一読す るだけでは、難しいという印象を受けるかもしれませんが、同時に、このヨハネの黙示録 ほど関心をもって読まれた書物はないかもしれません。キリスト者だけではなく、そうで ない人たちも、この書物に強い関心を寄せてきました。しかし、それだけに多くが興味半 分で読んでみたり、誤った理解がされてきたのも確かな事実であります。ヨハネの黙示録 というのは、他の聖書の御言葉もそうですが、普通の書物、文学というのではなくて、「神 の言葉」であるということです。聞き手であり、読み手である人間がどのように解釈し、 理解するのかも大事ですが、それよりも信仰をもって聞くこと、神様からの語り掛けとし て静かに耳を傾けること。そのような信仰の姿勢が御言葉を聞くうえで、とても大切にな ってきます。

 ドイツにハンス・リエルという牧師がいました。この人がヨハネの黙示録について優れた解説を記しています(『ヨハネ黙示録』聖文舎)。第二次世界大戦中に刊行され、その後、 繰り返し版を重ね、日本語にも訳されました。リエル牧師は、ヒトラー政権と戦ったドイ ツ告白教会に属した人でした。ナチスの時代に抵抗したがゆえに捕らえられ、牢屋に入れ られた経験もある人です。戦争という混沌とした時代の中で、リエル牧師は黙示録にひた すら耳を傾けました。リエル牧師は、この本の中で、御言葉の解説に入る前に、「黙示録の 読みかた」から書き始めます。その中で、私どもは黙示録をとおして「見ることを学ぶこ と」が大切だと繰り返し語るのです。物事を正しく見ること、見極めること、そして、見 るべきものは何であるかをしっかりと見ることができるように、私たちは黙示録から学ぶ のだと言うのです。リエル牧師自身、世の権力に捕らえられ、牢獄では無力の状態にあっ た中、何を見ようとしたのでしょうか。黙示録の著者は、壮大な幻を見ることができたけ れども、囚人である自分は何も見ることができないと嘆いたのでしょうか。そんなことは なかったと思います。リエル牧師もまた黙示録を読みながら、そこで示されている幻をと おして新しく見ることを学んだのです。人が描いた幻ではなく、神が見せてくださる幻で す。つまり、私どもが描く将来を見るというのではなく、神様が見せてくださる幻に生き るところに、私どもの希望があるということを学んだに違いありません。

この幻を初めに見たのは、黙示録を記した伝道者ヨハネでした。ヨハネは、アジア州に ある7つの教会を巡回し、伝道をしていました。しかし、ローマ帝国の迫害に遭い、パト モスという島に流されてしまいます。しかし、ある主の日に、ヨハネは神から幻を見せて いだき、そのことを教会の人たちに手紙で伝えようとしたのです。第2章から、エフェソ の教会を筆頭に7つの教会に宛てた手紙が順番に記されていきます。本日登場します「ラ オディキア」の教会は、7つの教会の中で一番最後に出てくる教会です。主イエスは、ラ オディキアの教会の人たちにこのように語り掛けます。15〜16節です。「わたしはあな たの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、 どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口か ら吐き出そうとしている。」ここに興味深い言葉が出てきます。「冷たくもなく熱くもない」 という言葉です。要するに、なまぬるいということです。あなたがたは、冷たくも熱くも ない、なまぬるい。これがラオディキアの教会に対する主イエスの評価でした。

私どももまた、「あなたは冷たくもないし、熱くもない」などと言われますと、確かにそ のとおだと思ってしまうところがあるかもしれません。あまりにも的を得ているものです から、例えば、お祈りの中でも、「私は冷たくも熱くもない、なまぬるい人間です」と言っ て、自らを低くするということがあるのだと思います。しかし、ここで言われている「熱 い」とか「冷たい」というのは、熱い人がものすごい信仰熱心な人、冷たい人がまるでも う信仰を捨ててしまったかのような生き方をしている人、そして、なまぬるい人がそのど っちでもない人、だということを言おうとしているのではないということです。主イエス は「冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と願っておられますから、冷たい・熱い という言葉は、ここでは両方とも良い意味で使われています。「なまぬるい」というのは、 「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」とありますから、明らかに主イエスの 御心にかなっていない人間のことを意味するのです。私どもが、「自分はなまぬるい信仰だ」と言う時、「私は完璧な人間弟子はないし、まあ信仰に生きるとはこんなものだ」と言って、 甘えているのかもしれません。しかし、ここでは甘えてなどいられません。主イエスが私 どもを口に含んだ時、「なまぬるい」「不味い」「気持ちわるい」と言って、吐き出されてし まうということです。このことを、私どもはどれだけ深い畏れをもって受け止めているで しょうか。人は確かに、中途半端なところや、はっきりすることができず曖昧になってし まう部分があります。私たちの生活には、そのように白黒はっきりと分けることができな い難しさが存在するのも事実です。しかし、主イエスがここでおっしゃっておられるのは、 信仰の問題です。神様から与えられた信仰に生きるということにおいて、このようななま ぬるい信仰に生きてもらっては困るのだ。冷たいとか、熱いとか、はっきりした信仰に生 きてもらわなければ困るのだということです。

 第2章から7つの教会に宛てられた手紙が順に記されています。これらの手紙というの は、主イエスがそれぞれの教会に送った「成績表」と言われることがあります。「成績表」 というのは、あまりいい響きに聞こえないかもしれません。自分に自信があるならまだし も、自信がない時は、自分で見たくもないし、家族にも見せたくないものです。しかしな がら、実際に第2章から読み進めていきますと、最初に出てくるエフェソの教会に対して は、「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」 (2章3節)と言い、二番目に出てくるスミルナの教会には「わたしは、あなたの苦難や 貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」(2章9節)と言っているので す。主イエスは迫害下にあるそれぞれの教会に対して、苦難の中、あなたがたは信仰に固 く留まっていると労をねぎらい、評価しているのです。そのうえで、あなたがたのこうい うとことは、こうしたほうがいいというふうに、具体的なアドヴァイスをするのです。と ころが、この最後に登場するラオディキアの教会だけ、たいへん厳しい語調で語られています。

 いったいなぜラオディキアの教会は、主イエスからわたしの口には合わない、なまぬる くて不味いと言って、吐き出されてしまうのでしょうか。一つは、ラオディキアという街 の環境がそうさせてしまったのかもしれません。17節で主はこうおっしゃるのです。「あ なたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、 自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かってい ない。」「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない。」ということ、これ こそが、ラオディキアの教会の人たちの心の中にある正直な思いでした。このラオディキ アという街は、大きな商業都市だったと言われます。金融も盛んで、あちこちに銀行があ りました。また織物産業が盛んで、黒い羊の毛を用いて色んなものを作っていたのです。 医者を養成するための学校もあったと言います。また18節に「目に塗る薬」とあります が、ラオディキアは目薬の産地でも有名だったそうです。

 自分たちは金持ちで、満ち足りているというのは、強がりでも何でもなく本当にそう思 っていたのでしょう。かつてラオディキアに大地震が襲ってきて、大きな被害を受けた時、 ローマ皇帝から援助したいという申し出があったものの、いや自分たちは十分間に合っている。助けていただく必要はないと言って、断ったという話が残されていると言います。 それほどに豊かだったのです。そして、ラオディキアにいたキリストの信仰に生きる者た ちでさえ、経済的、物質的な豊かさに満たされている自分に酔っていたのです。また、ラ オディキアは、政治的にはそれほど重要な街ではなかったため、他の街に比べれば、迫害 が厳しくなかったのではと言われます。そのようなところで、緊張感のようなものがなく なってしまい、信仰の本質さえも見失ってしまったのかもしれません。

 しかし、主イエスはラオディキアの教会の人たちのことについて、「自分が惨めな者、哀 れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」というふうに、 ずいぶん厳しいことをお語りになりました。主は、あなたがたは「惨めな者」だとはじめ に語ります。使徒パウロもまた自分のこと、自分の罪について語る時、「わたしはなんと惨 めな人間なのでしょう。」(ローマの信徒への手紙7章24節)と語りました。また聖書が 語る信仰について宗教改革者たちがまとめた「ハイデルベルク信仰問答」の中でも、「悲惨」 あるいは「惨め」という言葉を用いて、人間の罪を語りました。この「悲惨」というドイ ツ語は、元々、「故郷を失う」という意味です。人にはそれぞれの故郷があり、そこには家 族や友人がいます。また、学校もあり、大人になるために必要な多くのものを学びます。 故郷というのは、生まれた場所、育った場所であると同時に、「わたし」という人間を形成 していくうえでとても大事な場所になってきます。そして、聖書が語る人間の本当の故郷 というのは、神様の懐にいることです。そこから離れてしまう時、人間は人間でなくなっ てしまうのです。一般的には故郷や親元から離れた遠い場所で仕事をし、生活をすること が一人前になったことのしるしのように思われます。でも、聖書が語ることは、神様とい う故郷から私どもは離れては生きていくことはできないということです。ラオディキアの 教会の人たちは、自分たちを取り囲む豊かな環境にあって、もしかしたら、自分たちの力 でも十分に生きることができるのではないか。自分たちだけで、それなりに楽しい生活を 続けていくことができると思ってしまったのかもしれません。

 ですから、主イエスがラオディキアの教会に求めていることは、19節の最後に言われ ているように、「悔い改めよ」ということです。悔い改めなさい!あなたがたの故郷である 神様のもとに帰って来なさい!ということです。また主イエスはこのようにも勧めていま す。18節です。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわた しから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見える ようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」主イエスは問われるのです。あなたがたの 本当の裕福さとは何なのか?あなたがたを救ってくださった神様のお姿を見えなくさせて しまうほどの富が、あなたを本当に生かすものになるのか?そうではないだろう?と主は おっしゃいます。では、本当の意味で裕福になるとはどういうことなのでしょうか?その ために主は三つのものを買うように勧めます。一つは火で精錬された金、二つ目は白い衣、 三つ目は目に塗る薬です。これら三つのものは、すべてラオディキアの街にあったものを 意識して語られていると言われます。街には金がありました。主イエスがおっしゃったの は火でさらに精錬された金です。不純物がすべて取り除かれた純金のように、真っ直ぐな 信仰に生きなさいということです。また、街には黒い羊の毛から作られた織物がありました。それに対抗して、主は「白い衣」とおっしゃったのです。神様の前で生きているのだ から、恥ずかしくないように白い衣と身に付けなさいというのです。また、ラオディキア は目薬の産地でした。でも、主が求めておられるのは目の病が治る目薬ではなく、心の目 が開け、見るべきものを見つめながら生きていくことができる信仰のまなざしです。

 そして、主イエスはこれら三つのものを、「自分で手に入れなさい」というのではなく、 「わたしから買うがよい」とおっしゃっていることに注目したいと思います。主イエスの もとに行かなければ買うことができないものを、ちゃんと買って、生きていきなさいとお っしゃいます。ラオディキアはお金や物に溢れている街でありましたから、何かがなくな って困るということはあまりなかったかもしれません。仮になくなっても、代わりになる ものはいくらでもあるし、それを簡単に手に入れることもできたでしょう。でも主イエス が与えてくださるものは、他の代用品で足りるようなものではないのです。主イエスのも とに行かなければ、絶対に買うことができないものであり、これがなければ神様の前で真 実に生きていくことができないものです。ラオディキアの教会の人たちは、主イエスから しかいただくことができないまことの富、まことの宝を知っていたはずです。でも、いつ の間にか、キリストに代わる他の豊かさによっても生きていくことができるではないかと 思うようになってしまったのです。あるいは、自分たちの街が他の街に比べて、迫害が厳 しくないことをいいことに、そこで気が緩んでしまい、他の教会のために執り成しの祈り をささげたり、今、自分たちがどこに立つべきか。その信仰の土台を見失ってしまいました。

 だから、主イエスは強く悔い改めを求めておられます。主はおっしゃいます。「わたしは 愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(19節) 主イエスは、ここで「愛する者」とラオディキアの教会の人たちに向けて語り掛けておら れるのです。あなたがたにどうしても神のもとに、わたしのもとに帰ってきてもらいたい。 そのためには、厳しいことを言うかもしれないし、叱ることもするかもしれない。しかし、 あなたがたを愛するということにおいては何の変わりもない。この「愛する」というのは、 あなたがたを「友」(友人)として愛するということです。「友情」と言い換えてもいいで しょう。そして、聖書は「友としてあなたがたを愛する」と言う時に、何か妻や夫、家族 を愛する愛に比べて、少し次元が低い愛であるということを言おうとしているのではあり ません。思い起こしますのは、主イエスが十字架にかけられる前に、食事の席で弟子たち にお語りになった言葉です。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。...わたしは あなたがたを友と呼ぶ。」(ヨハネによる福音書15章15節)そして、「友のために自分の 命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(同15章13節)という忘れることので きない言葉を語ってくださいました。友として、私どものもとをいつも訪ねてくださる主 イエスは、十字架でいのちをささげてくださるお方です。そこまでして、あなたがたのこ とを神のもとに連れ戻したいのだと願っておられるのです。

「火で精錬された金をわたしから買うがよい。」と主はおっしゃってくださいました。で も、私どもが代価を払って、救いを手に入れたのではありません。私どもは、キリストのもとに真っ直ぐ行くことすらできない者でした。それどこから、色んな場所を訪ねては、 ここには救いはない。ここにも幸せはないなどと言って、結局は自分も神も見失った生活 をしていたのです。いや、自分が失われた存在であることすら気付いていなかったのだと 思います。しかし、そのような者を主イエスがいのちをかけて見つけ出してくださいまし た。だからこの神の愛に包まれている事実にもう一度気付いていただきたいのだと言うのです。

 そして、主イエスはたいへん印象に残る御言葉を与えてくださいました。20節です。 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者 があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をす るであろう。」主イエスは、私どものことを愛する「友」として訪ねてくださいます。ただ、 興味深いことに主イエスはここで、戸口に立って、叩いているだけで、中に入ろうとはな さらないということです。私どもの思いを越えて、主は熱心なお方ですから。扉が前にあ ろうが、戸に鍵が掛けられていようが、どんな妨げがあったとしても、主は私どものとこ ろに来ることができるはずではないでしょうか。主が復活なさった時、弟子たちが閉じこ もる部屋の中に入って来られ、平安を告げてくださいました。でも、ここで主イエスは中 に入ろうとはなさいません。「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」とありま すように、家の中にいる者が扉を開けることを願っておられます。

 イギリスの画家にウィリアム・ホルマン・ハントという人がいます。この人が「世の光」 という絵を描いています。黙示録第3章20節の御言葉を描いたものです。主イエスが家 の扉の前に立ち、左手にランプを持ち、右手で扉を叩いておられます。この絵をどこかで 見られた方もおられるかもしれません。私ももう何年も前に見た記憶があります。確かキ リスト教の雑誌か新聞だったと思いますが、絵と共に解説が短く記されていました。それ を読みながら、なるほどと思わされたのは、ハントが描きます扉に「取っ手」がどこにも ないと言うことです。つまり、外からは一切開けることができない扉、中にいる者しか開 けることができない扉だということです。本当に不思議な絵だと思いました。このことは、 救いというのは、私どもが扉を開けるか、開けないかにかかっているということを言おう としているのではないと思います。救いは私たち人間ではなく、神にかかっているからで す。それにもかかわらず、主はここで扉を開けることを、家の中にいる私どもに委ねてお られるのです。主イエスは、「どうせこの人間はわたしの訪問を快くは思ってくれない。ず っと扉の前で待ち続けるのも面倒だ。だから、力尽くで扉をねじ開け、入って行って、救 いを与えればいいではないか。」そう言って、神様御自身の愛を示し、救いを与えようとは しなかったということです。「わたしの愛を受け入れてほしい」「わたしの愛を喜んでほし い」と願っておられます。そして、扉を開けるのをずっと待ち続けておられるのです。私 どものことを信じておられるからです。神様は私どもを愛される方であると同時に、私ど もの愛を強く求めるお方でもあるのです。

 そのように、神様と私たちは一方的な関係ではなく、交わりの中に生きることを望んで おられます。ですから、「...戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあるように、「共に食事をする」 ということが語られます。「食事をする」というのは、文字通りの食事、愛餐ということよ りも、礼拝における聖餐のことを意味すると教会は昔から理解してきました。聖餐という のは、私どもの目が開かれる時であると言うことができます。ルカによる福音書には、「エ マオ途上」と呼ばれる復活の主と弟子たちの出会いの物語が記されています。今自分たち と一緒に歩いておられる方が、復活の主であることに二人の弟子は気付きませんでした。 心が鈍かったのです。しかし、復活の主はそんな彼らと一緒に歩むことをやめようとはせ ず、最後まで一緒に歩き続けてくださいました。そして、御言葉を丁寧に説き明かしてく ださったのです。やがて日が暮れる時間が近づき、二人の弟子は主イエスを自分の家に招 き入れます。そこで、主イエスがテーブルマスターになり、パンを裂いて、賛美の祈りを ささげてくださいました。そして、パンを渡されたその時に、弟子たちの目がついに開け たのです。あの時、一緒に歩いてくださったのは、復活の主であるということがはっきり と分かったのです。

 ヨハネの黙示録をはじめに読んだ教会の人たちは、ローマ帝国の迫害の中にありました。 毎日のように教会の仲間のいのちが奪われたという知らせを聞かなければいけませんでした。人々は地下に身を潜め、礼拝をささげ、信仰を守ったと言われています。そこにいの ちを失った兄弟姉妹の遺体を収めた棺が運び込まれました。今日、聖餐の時に用いるパン とぶどう酒を置く聖餐卓は、この時用いられていた棺ではなかったかと言われます。棺の 上にパンとぶどう酒を置いて、聖餐の恵みにあずかったのです。いったいどういう思いで 礼拝をささげ、聖餐にあずかったのでしょうか。愛する信仰の仲間のいのちが奪われ、自 分たちの無力さを嫌というほど感じていたことでしょう。本当に神はおられるのだろうか と疑うこともあったかもあったかもしれません。しかし、そのような中にあっても、聖餐 の食卓において、復活の主の勝利が、永遠のいのちの確かさが明らかにされ、礼拝の度に 目が開かれるという経験をしたのだと思います。

 21節にもこのような御言葉があります。「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座 らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」あ なたがたは「勝利を得る者」として主は見ていてくださいます。自分たちは地下に逃げる ことしかできない敗北者であると感じていたことでしょう。「しかし、あなたがたは勝利者 である。なぜなら、キリストの勝利にあずかっているのだから」とおっしゃってください ます。だから、聖餐は勝利の食卓です。終わりの日、主が再び来てくださり、救いが完成 する時、喜びの祝宴に招いてくださると約束してくださいました。このまことの勝利者で ある主イエスが見せてくださる大きな幻を、私どももまた礼拝の中で見ることがゆるされ ています。地上の信仰の歩みには、なお信仰の戦いがあり、試練があります。その中で過 ちを犯してしまうこともあるでしょう。しかし、復活の主は、いつも私どものもとを訪ね、 心の扉を叩いておられます。御言葉をとおして、私どもに語り掛けておられます。「見よ、 わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、 わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 私どもも訪問を喜んで受け入れ、そこで与えられる更なる喜びと希望に生きる者でありたいのです。お祈りをいたします。

 私どもの心の目を開いてくだい。信仰のまなざしでいつもあなたの恵みを真っ直ぐに見 つめることができますように。心の扉を叩いてくださる私たちの主を喜んで迎え入れ、主と共にある喜びと幸いの中を歩んで行くことができますように。主イエス・キリストの御 名によって感謝し、祈り願います。アーメン。