2025年5月18日(日) 日曜礼拝「生涯は手の幅ほどのもの」

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2025年5月18日(日) 日曜礼拝「生涯は手の幅ほどのもの」

以下をクリックすると、説教動画を見ることができます。 https://youtube.com/live/weQdGtpWbDQ



手の幅ほどの生涯   詩39:2-10

「空(くう)の空(くう)、空の空、一切は空である」(コヘレト1:2)
 
旧約聖書コヘレトの言葉の有名な書き出しです。旧約聖書には、人生の短さとむなしさを強調する知恵の伝統があります。その中でもコヘレトの言葉は際立っており、好んで読まれています。

詩編39編もこの伝統の中にあります。沈黙に沈黙を重ねた後、うめくように出てきたことばが5節です。

教えてください、主よ、わたしの行く末を
わたしの生涯はどれ程のものか
  いかにわたしがはかないものか、悟るように(39:5)
最後の「悟るように」は、「悟ることを」と読んでください。

詩人の苦悩が5節~7節に記されています。生涯、人生とのことばが繰り返されており、何らかの出来事に悩みを深くしているのではなく、自分の生涯・人生全体の意味を問いかけていることが分かります。

「与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの」(6)とあります。「与えられた」生涯とは、生まれた時・所・境遇・最期について、自分で望んだり選んだりできるものではない、人生はままにならない、という思いです。

手の幅とは、イスラエルでは指を四本そろえた幅とのことです。じっと手を見て、自分の生涯はこの幅ぐらいのものとため息をつくのは、人生の短さを思ってでしょうか、ちっぽけさなのでしょうか。

「人は確かに立っているようでも すべてむなしいもの。」(6)とは、立派で自信に満ちている人であっても、人生は空虚なものだということをわかっていないだけのことだ、という冷めた見方でしょうか。

「ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」(7)とは、額に汗して働き、財をたくわえても、いずれ人の手に渡ってしまうだけなのに、というのであれば、三代で身上をつぶすだけのことでしょうか。

では、何に、どこに、人生の意義を見出したらよいのでしょうか。

毎週日曜は礼拝の日

日本キリスト改革派 仙台カナン教会は、毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、水曜日の祈祷会(お祈りの会)がおすすめです。

日曜礼拝
毎週日曜日 午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
祈祷会
毎週水曜日 14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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