毎週日曜は礼拝の日
日本キリスト改革派 仙台カナン教会は、毎週日曜日に神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、水曜日の祈祷会(お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜礼拝
- 毎週日曜日 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 祈祷会
- 毎週水曜日 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
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わが神、わが神、 マタイ27:45-60
大祭司カイアファと総督ピラトによる裁判において、死刑判決が下りましたが、審理の過程をとおしてイエスに罪がないことも明白になりました。
また、十字架につけられたイエスに向けて、神の子なら、自分を救え、十字架から降りてこい、との誹謗中傷が投げかけられました。
27章45節以下は、罪なき神の子であるイエスが十字架につけられた理由が明かされている箇所です。
12時から3時まで「全地が暗くなった」と記されています。旧約の出エジプト記10:21以下にあるとおり、闇は神のさばきを意味します。それゆえイエスの十字架において、全地が神のさばきのもとに置かれていました。ただし、さばきに苦しむのはイエス一人だけであり、全地に下されたさばきを十字架の苦しみとして負っていたのです。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)は、さばかれる者の叫びです。全地、すなわちすべての人に代わって罪のさばきを受けているのですから、ことばに表せない苦悩の中にいたはずです。
しかし、このことばは詩編第22編1節であり、22編全体を指していると理解することができます。22編の前半は神に見捨てられ、人に追いつめられてさいなまれる姿が描かれ、後半は23節で一転し、神の救いを朗々と賛美する内容になっています。十字架の死には、裁きと救いの両面があり、神の救いがまさることを確信するイエスの姿を読み取ることができます。
イエスが絶命すると、神殿の最奥にある垂れ幕が裂けました。これは、救いが成就し、神に相まみえる道が開かれたことを意味します。この救いの到来が、51節以下に黙示的表現で描かれています。黙示的とは、ピカソの絵のように時間と空間が捨象された表現方法です。墓が開き、多くの聖徒が生き返り、イエスの復活と共に聖なる都に入り、人々に現れたと記されているのは、キリストによって、死の力が無力にされ、神の聖徒の復活が保証されたことを教えるものです。この復活した聖徒たちの中にわたしたち自身をも見ることができます。