2021年01月01日「涙と共に種を蒔く者(新年礼拝)」

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涙と共に種を蒔く者(新年礼拝)

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 126篇1~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

126:1 主がシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった。
126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、諸国の人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなさった。」
126:3 主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ。

126:4 主よ。ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください。
126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。
126:6 種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。

詩編 126篇1~6節

原稿のアイコンメッセージ

 新年を迎えました。しかし、新型コロナウィルスや他の原因で愛する人を失い、また様々な苦痛、悲しみのため、涙と共に2021年を迎えた方々も、世界には沢山おられます。私たちも何らかの不安や心配、重荷を抱えて、新年を迎えていると思います。この1年をどう生きるか。神の御心の一端を、今朝は詩篇126から学びたいと思います。

 最初に、この詩篇の序論的な点を少しお話致します。

 殆どの聖書学者は、この詩篇を、紀元前538年、ペルシア王キュロスの勅令により、ユダヤ人がバビロン捕囚から解放され、ユダヤに戻って、暫くしてからの歌と考えています。恐らくそうでしょう。

 帰って来た人々は、何十年間も破壊されたままのエルサレム神殿を、まず再建しました。そのことは預言者エレミヤが預言していたとはいえ、信じられない位、嬉しかったことでしょう。その時のことを、恐らく当時のイスラエルの霊的指導者だった詩篇作者が、皆と共に回顧したのが1~3節と言えます。

 ところで、新共同訳聖書は1節を「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて」と訳し、今から起ることについて歌ったようになっています。2節も将来のこととして訳しています。しかし、殆どの翻訳聖書は1節も2節も既に起ったこととして訳しています。逆に3節は、新共同訳は今から神に叶えて頂きたい願い事に訳していますが、ヘブル語聖書では既に叶えられたことを指す完了形になっています。

 このように、学問的には少し難しい点もあります。しかし、細かい話はもうやめて、私たちはヘブル語聖書の時制通りに訳している新改訳聖書のままで理解することに致します。

 もう一度1、2節を読みます。「主がシオンを復興して下さった時、私たちは夢を見ている者のようであった。その時、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。その時、諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ。」

 詩篇作者は、バビロン捕囚から解放されて祖国に戻り、エルサレムが復興された時、私たちの口には笑いが満ち、喜び叫ばないではおれなかった、と回顧します。

 加えて嬉しかったのは、2節の後半で言われますように、近隣諸国の人々までが、イスラエルの神、主の偉大さを認めたことでした。自分たちの回復もさることながら、何より主の御力と偉大さを近隣諸国の人々も認め、主なる神に注目してくれた!これは、天地の創り主なる真(まこと)の神、主を愛する信仰者にとって、どんなに嬉しかったでしょう。ですから、詩篇作者は、諸国の人々の言葉と殆ど同じ言葉を3節で繰り返し、呼応するかのように、3節「主が私たちのために大いなることをなさったので、私たちは喜んだ」と歌います。

 ところで、詩篇作者は、どうして1~3節のように、かつての嬉しかったことを回顧したのでしょうか。それは、今また新たな困難と危機に直面している自分たちを励まし、主への信頼をもう一度取り戻すためでした。

 成程、祖国への帰還は嬉しく、エルサレム神殿も再建できた。しかし、それで全てが終ったわけではありませんでした。ネヘミヤ記に見ますように、まだ壊れたままだった城壁を次に再建しようとすると、強い妨害が入り、ネヘミヤは何度か命まで狙われました。一つの問題が終っても、すぐまた次に新たな問題が起る!今の私たちも同じですよね。ヘブル13:14が言う通り、「私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来るべき都を求めている」ということを、改めて思わされます。

 では、また大きな困難に直面するという状況の中で、旧約時代の信仰者たちは、ただ大きなため息をつき、沈んでいたのでしょうか。そうではありませんでした。

 第一に、今見ましたように、詩篇作者は、歴史の中でなされた神の偉大な救いの御業(みわざ)を回顧し、彼らと契約を結んで下さった天地の創り主なる真(まこと)の神の力を、皆で再確認しました。

 「昔は良かったのに…」などというノスタルジアに浸るだけの歴史の回顧は、聖書にはありません。神による救済の出来事を聖書で私たちが何度も繰り返し振り返るのは、神の真実と愛と救いの力をしっかり確認し、心に留め、困難を前にしてすぐ逃げ腰になりやすい私たちの魂を鼓舞し、前進していくためなのです。

 そして、詩篇作者は第二に、その神に信頼して大胆に神に祈り願います。4節で彼は祈ります。「主よ。ネゲブの流れのように、私たちを元通りに下さい。」

 ネゲブとは死海の西に広がるユダの荒地の更に南にある乾燥地帯のことです。太陽が照り付ける乾燥地帯に、普通は川の流れなど期待できません。

 ということは、4節は、主は不可能を可能にし、無から有を生じさせ、死を生に変えることのお出来になる全能の神だという信仰告白であり、そういう神への信頼に基づく非常に大胆な祈りなのです。

 私たちの祈りはどうでしょうか。しばしば、小ぢんまりとした小さな願いで終っていないでしょうか。しかし、改めて私たちは、御子イエスを死者の中から復活させられた全能の神にもっと信頼し、期待し、もっと大胆に求めて良いことを教えられます。詩篇作者は、自分と皆をこういう大胆な信仰へと促し、事実そのように神を信じて祈ります。

 これで終りではありません。主に信頼しつつ、第三に彼は自分たちのなすべき、またなし得ることを誠実に行なっていくことの大切さを歌います。5、6節「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」聖霊に導かれて、詩篇作者は、こうして自分と皆を主への信頼と誠実な労苦に励む歩みへと促します。信仰に基づく労苦は、決して無駄になることはないからです。

 今日、私たち夫々が召された務めや役割は違います。しかし、この御言葉は私たち一人一人にも教会にも当てはまるとても大切なものだと思います。5節「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」これが神のお約束です。

 無論、神には神のお考えがあり、計画と順序があります。私たちの願う通りではありません。しかし時が来れば、神は必ず報いて下さいます。ですから、私たちは、うむことなく主の業(わざ)に黙々と励むのです。ガラテヤ6:9は言います。「失望せずに善を行いましょう。諦めずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」Ⅰテサロニケ5:24も言います。「あなた方を召された方は真実ですから、そのようにして下さいます。」ピリピ1:6は言います。「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さると、私は確信しています。」詩篇30:5も語ります。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」

 「涙と共に。」そう言えば、私たちの永遠の救い主、また喜び、希望、命となって下さったイエス・キリストについて、ヘブル5:7は「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことが出来る方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを捧げ、その敬虔の故に聞き入れられました」と語ります。その通り、主イエス・キリストは、詩篇126の約束が、誠実な信仰者に必ず実現することを、自ら示して下さいました。主ご自身も、涙と共に地上の生涯を歩まれ、十字架で死なれ、しかし、全能の父なる神により復活させられました!私たちは、そういう主イエスに背負われて生かされ、導かれているのです。イザヤ46:3、4で神は言われます。「ヤコブの家よ、私に聞け。イスラエルの家の全ての残りの者よ。胎内にいた時から担がれ、生れる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとっても、私は同じようにする。あなた方が白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。」

 私たちは2021年の最初の朝を迎えることを許されました。そして御子イエスを心から信じ、依り頼む者は、このような神に背負われていることを改めて教えられました。

 それ故、今年もひたすら自分の務め、奉仕、責任、献げ物に誠実に努め、神の約束の実現を体験する幸いを、是非、ご一緒に許されたいと思います。またそれにより、真(まこと)の神をまだ知らない方々にも、御子イエスを賜った程に私たちを愛しておられる神を知って頂き、この世が与えることも奪うことも出来ない魂の救いの喜びと平安に、是非、与って頂けるようにと願います。

 もう一度5、6節を読んで終ります。「涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」アーメン

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