2020年11月22日「人生の終りを見つめて」

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人生の終りを見つめて

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 90章12節

聖句のアイコン聖書の言葉

90:12
 どうか教えて下さい。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させて下さい。
   (新改訳聖書2017年度版)詩編 90章12節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちが人として真実に生き、自分の人格と人生を完成する上で、自分の命の残り時間を自覚することは、とても大切です。詩篇90:12は神にこう祈ります。「どうか教えて下さい。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させて下さい。」つまり、自分の命の残された時間をよく考え、神の前に自分の人生を真に意義深く生きるために、知恵深い心を与えて下さい、と祈ります。

 私たちはやがて必ず死を迎えます。これを思うだけで、胸がキュッと締め付けられないでしょうか。しかし、常日頃からこのことを自覚していないと、毎日が無駄に過ぎ去り、私たちはアッという間に死を迎えます。

 何事も終りをよく考えることが大切です。優れた作曲家であったモーツァルトやバッハ、ベートーベンなどは、これから作る曲の特に最終楽章の最後の数節を既に聞いていたといいます。書き出しや途中は最後が決ってからなのです。優れた画家なども同じでしょう。

 私たちは周囲の状況や自分の感情に任せて、先のことを余り考えずに突っ走ることがあります。しかし、私たちの一生は、有名な音楽家や芸術家の作品より遥かに大切で、他のものでは絶対に置き換えることが出来ません。それならば、自分の人生の終りをよく考え、死に備えることは、どんなに重要でしょうか。

 ところで、私たちは、死んだ後、どうなるのでしょう。これは死ななければ分りません。しかし、死んだ後ではもう遅いですよね。

 では、神の言葉、聖書は何と言うでしょうか。ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」ドキッとしますが、聖書はいささかも曖昧に語りません。これは何と厳粛で、深く私たちを探る事実でしょう。そうであるなら、死後、自分の生きていた時のことの全てに神の裁きがあることを心に刻み、それに備えてよく生きることは、何と大切でしょう。

 しかし、私たちの隠れたことまで、それこそ心の中で密かに考えたことや、口にした悪い言葉までも含め、一切合切をご存じであられる神の裁きに、一体、誰が耐えられるでしょうか。ヘブル4:13は言います。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 確かに、私たちは法律を破るような罪は犯していないかも知れません。しかし、生れてこの方、一切嘘をついたことも、隠れて罪深いことやずるいことを考えたことも行なったことも全くない人がいるでしょうか。人は知らなくても、神は全てご存じです。

 私たちは自分には甘いですが、人にはうるさく、厳しく、どんなにしょっちゅう人を裁いているでしょうか。

世界には飢えた人が一杯いることを私たちは知っています。では、どれ程のことをしてきたでしょうか。

 私たちは、神に造られた自分の体と心と魂を清く守り、大切にしているでしょうか。自分を粗末にしたことはないでしょうか。私たちは神の裁きの座にやがて立ちます。自分を振り返るなら、私たちは皆絶望ではないでしょうか。

 しかし、感謝すべきことに、聖書はここで終りません!これ以上に、良い知らせ、福音、つまり、グッド・ニュースを教えます!それは神の独り子イエス・キリストが私たち罪人の救い主となって下さったことです。ヨハネ福音書3:16は言います。「神は、実に、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 御子を心から信じる者は、神による最後の審判で必ず赦しを頂き、永遠の死、永遠の滅びではなく、永遠の命を与えられます。

 私たちがイエスを心から救い主と信じ、受け入れ、依り頼むなら、何故裁かれないのでしょうか。それは全く罪のない御子イエスが、私たちのどうしようもない罪の一切合切を背負い、神の裁きを十字架で私たちに代って全部受けて下さったからです。ですから、イエスを心から信じ寄り頼む者は、罪を全部赦され、罪のない者と認められ、神の子とされ、永遠の天国へ入ることを許されます。

 また、私たちが心からイエスを信じるなら、復活して今天におられるイエスは、生涯私たちを導き、詩篇90:12の言う「知恵の心」を下さり、私たちを必ず守り、お導き下さいます。

 その知恵は、全てを神との関係の中で捉えさせ、生きる力を与えます。例えば、私たちが大変辛い試練に遭ったとします。私たちは困惑し、「何故私がこんな目に遭わなければならないのか」と言って、人に八つ当たりをしたり、神に文句を言ったり、自暴自棄になったりしやすいですね。しかし、それで解決になるでしょうか。

 聖書によりイエス・キリストが下さる知恵は違います。それは自己憐憫や攻撃的なことはやめさせ、辛い厭なことに遭っても、「神は私に何を教えようとしておられるのだろうか」と、神の御心を深く考えさせ、その時、答は分らなくても神に任せ委ねます。また、神を愛する者には最後には必ず万事が益とされるという神の約束(ローマ8:28)を信じさせ、むしろ、神の前で自分自身のあるべき姿勢と目標に思いを集中させます。実際、その方が問題を乗り越えさせ、私たちを人生の終りに向って良く備えさせます。これこそ真の知恵と言えます。

 自分の死を直視することは、何と大切でしょうか。昭和天皇の戦争責任発言で、1990年1月、右翼の人に銃撃され重傷を負った元長崎市長の本島等さんは、ベッドで自らの死を思いました。クリスチャンの彼は、その時のことをこう書きました。「神から託された人間の使命、困っている人や苦しんでいる人に、どの位のことが出来たかという反省、赦しを求める祈り、そして喜んで死ねるかなぁと密かに考えました。」

 私の勤めていた淀川キリスト教病院のホスピスでは、洗礼を受けて亡くなる方が時々ありました。自分の死が迫るのを知る時、人は裸の自分に、すなわち、肩書や地位などは全く関係なく、自分そのものになります。すると神のことに気づき、救い主イエスを真剣に求め始められるのです。また、感謝すべき人には感謝し、謝るべき人には謝って、自分の人生を精算し、最後の仕事である死に静かに臨んで行かれます。ご家族も、例えば、「お父さん、ありがとう。もう頑張らなくていいよ。もう行っていいよ」と皆で手を握り、感謝を述べ、シッカリ別れが出来ます。何と幸いでしょうか。

 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起りました。ハイジャックされた飛行機がニューヨークの世界貿易センターのツインビルの一つに突っ込み、4分後、別の一機がもう一方のビルに突っ込みました。遅れて、ワシントンの西にある国防総省の一角に更に別の1機が突っ込みました。火と煙が見え、灰色の煙と共にビル全体が崩壊していったあの光景を、私は忘れられません。特に、崩れ落ちるビルの中にいた人たちのことを思いますと、堪らない気持になります。

 その後、新しい事実も分かりました。ピッツバーグ郊外に落ちた4機目のユナイテッド航空93便の乗客の勇気ある行動です。

 彼らに自分たちの飛行機がハイジャックされたことはすぐ分りましたが、それ以上のことは分りませんでした。しかし、ある男性が家族に飛行機から密かに電話をかけ、今回の自爆テロを知らされ、これがただのハイジャックではなく、皆を乗せたままどこかに突っ込もうとしていることが分り、やがて皆に伝わりました。時間のない極限状態で、乗客は皆、動揺し、悩みました。

 しかし、先程の男性が電話で妻と話した後、「我々で犯人から操縦桿を取り戻そう」と別の男性に言います。遂に数名の男性が中心となって皆が立ち上がり、犯人たちのいた飛行機前部に突進し、皿の割れる大きな音を最後に、地上との交信は途絶え、飛行機はピッツバーグ郊外に墜落し、全員が死亡しました。けれども、彼らの勇気ある行動により、地上では1名の犠牲者も出ませんでした。死を前にして、乗客たちは夫々が混乱と苦悩の中、電話で「ありがとう。さようなら。愛している」などと最後の言葉を地上の家族や友人に語り、或いは、家族を気遣って友人に伝言して電話を切る。彼らの勇気ある行動が、彼らのラストメッセージでした。

 私は、自分がどんな死に方をするにせよ、何を最後の言葉として家族や周囲の人に伝え、自分のどんなあり方を自分のラストメッセージと出来るだろうかと、自分の足りなさを覚えさせられました。そして私を造り、私をイエス・キリストへの信仰だけで永遠の救いに入れて下さる愛と憐れみに満ちた神の前に、自分の最後のことを考えつつ生きて行く大切さを、改めて教えられました。

 精神分析学者ユングは、「人は生きてきたように死んでいく」と言いました。ですから、例えば、家族への真実な愛や感謝、励まし、天国での再会の約束などのラストメッセージを、急に送ることは、とても難しいですね。自分もいつか必ず神のご計画の中で命の終りを迎えることをよく覚え、そこから目を逸らさず、直視して今を生きることが大切だと思います。

 ですから、中世の修道院で修道士たちが廊下などですれ違う時、互いに「メメント・モリ(死を覚えよ)」と言い交したことは、とても意義深いと思います。そうして、神と人の前に、また自分に対しても、真実に生きることを可能としたのでした。

 死を茶化さず、知らぬ振りをして生きるのでもない。むしろ、正面から自分の死を見つめ、罪の赦しと清い永遠の命を喜んでお与え下さるイエス・キリストを仰ぎ、詩篇90:12「どうか教えて下さい。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させて下さい」と祈りつつ、一日一日を生きる!ここに真に幸いな一生があると思います。内村鑑三がかつて言いました「一日一生」、つまり、一日一日を掛け替えのない一生のような思いで、神と人に対し、また自分に対しても生きていきたいと思います。この心を大切にして、毎日を丁寧に真実に生きて行きたいと願います。

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