2026年02月22日「神よ、私にきよい心を」

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神よ、私にきよい心を

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 51章1~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

51: 1 神よ、私を憐れんで下さい。
    あなたの恵みに従って。
    私の背きの罪を拭い去って下さい。
    あなたの豊かな憐れみによって。
51: 2 私の咎を、私からすっかり洗い去り、
    私の罪から、私をきよめて下さい。

51: 7 ヒソプで私の罪を除いて下さい。
    そうすれば私はきよくなります。
    私を洗って下さい。
    そうすれば、私は雪よりも白くなります。
51: 8 楽しみと喜びの声を聞かせて下さい。
    そうすれば、あなたが砕かれた骨が喜びます。
51: 9 御顔を私の罪から隠し
    私の咎をすべて拭い去って下さい。
51:10 神よ、私にきよい心を造り、
    揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい。 詩編 51章1~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の礼拝は、クリスチャンではない皆様にも、万物の造り主なる真(まこと)の神とその御心を少しでもお分り頂きたいと願って行われる伝道礼拝でございます。そこで、今朝は少し自由にお話させて頂きたいと思います。

 説教題を「神よ、私にきよい心を」としました。お読みしました旧約聖書の詩篇51篇1、2節、そして7~10節を見ますと、この詩篇の作者が「きよい心」を自分にどんなに強く神に求めたかがよく分ると思います。その理由はあとでお話しますが、私たちが夫々、自分の内にきよい心を願い求めることは、何と尊く、素晴らしいことでしょうか。

 私たちは皆、幼い頃、両親や周りの人たちに、時には叱られ、時には諭(さと)され、嘘をつかず、ずるいことや乱暴なこともしてはならず、誰に対しても優しく、親切で、清い心でいることを教えられたと思います。

 また自分に対しても、愚かなことや無意味なことをすることを許さず、損得計算ばかりではなく、正しさや真実を第一とするきよい心でいることを教えられたと思います。

 ところが私たちは皆、ある年齢の頃から、自分が何かいけないことをしては、後ろめたさを覚え、罪悪感を抱くようになったのではないでしょうか。私も何歳頃だったでしょうか、自分がやった何かのことで後ろめたさを感じ、それを隠し、しかし、心の中は少しも平安でなかったことを今も鮮明に記憶しています。

 こういう幼い頃からのことを振り返りますと、聖書が言いますように、私たちには皆、生れながらに原罪(げんざい)と呼ばれる腐敗した罪の性質があり、またそのために現実にも色々な罪を犯し、しかもそういう時には自分の内面に少しも平安や幸福感はなく、むしろとても惨めで、暗く重い気持ちしかないことが、よく分ると思います。

 これは、神が私たちの内面に、善悪を判断し、しかしその判断基準に反することをすると心に痛みを覚える良心というものを与え、また正しさや愛に生きようとする、とても大切なきよい心を与えておられることから来ます。

 ですから、最初に申しましたように、私たちが自分の内にきよい心を神に願い求めることは、大変尊いことで感謝なことであり、また幸いなことなのです。この願い求めを、洗礼を受けているクリスチャンは勿論ですが、まだそうでない皆様も、是非大切にし、礼拝を通して求め続けて頂きたいと思います。私たち皆でお祈りしております。

 そこで、今朝の聖書箇所をもう一度見てみます。

 詩篇51篇は、標題によりますと、古代イスラエルの王で優れた信仰者であったダビデが歌ったものとされています。しかしダビデは自らの欲望に負け、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯し、妊娠させました。

 しかも自分の罪が発覚するのを恐れ、ウリヤを戦場から戻らせて妻の許に行かせ、バト・シュバの妊娠がウリヤによるものであるかのように見せかけます。しかしそれに失敗しますと、今度はウリヤをわざと戦闘の最も激しい所に送り、敵の手で殺させるという卑劣な罪を犯しました。

 ダビデは預言者ナタンに罪を指摘され、大変苦しみました。この詩はその時のことを歌ったものとされています。実際には、詩篇の標題は、どれも本文が作られてから大分後に追加されたものですので、本当の所は分りません。しかし内容から見て、自分の邪悪な醜い罪に苦しむダビデのものとして読んで良いでしょう。

 それで今朝心に留めたいのは10節「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい」という祈りです。1~9節で分りますように、作者は人として、特に真(まこと)の神を信じる者として決して犯してはならない罪を犯し、そのため、罪責感に激しく苛まれ(さいなまれ)、どうしようもない自分の罪深さに打ちのめされ、呻いていました。

 彼は古代イスラエルの信仰者でした。ですから、神に罪を正直に告白し、心から悔い改めるなら、神に罪を赦してもらえることは分っていました。しかし本当の信仰者であるなら、「まぁ、また赦してもらえればいい」などと、簡単に済ませることは絶対にできません。

 罪を神に赦して頂けることは、勿論、嬉しい。しかし彼としてはそれ以上に、もう罪を犯すことのないもっときよく、揺るがない確かな自分にされたかったのでした。ですから、彼は神にこう祈らないではおれなかったのです。10節「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい」と。

 私は、ここに自分自身を、また13節から分りますように、周りの人たちをも客観的に冷静に批判できる真実な心を持ち、しかもそれで終らず、自分も周りの人たちも神の憐れみによって罪を赦され、救われ、真(しん)にきよい者に造り変えられなければならないと真剣に願う、そういう真実な信仰者の姿を見ないではおられません。そして今の私たちも、本当は皆こうであるべきではないだろうかと思います。

 『戦場のピアニスト』という映画が20年以上前に話題になりました。私はそれを家内と一緒に観ました。

 1939年9月、ポーランドの首都ワルシャワは、攻めて来たドイツ軍の手にアッという間に落ちました。ワルシャワに住んでいたユダヤ人たちは、全員、ゲットーと呼ばれる狭い居住地域に強制的に押し込められ、とても過酷な生活を強いられ、最後には絶滅収容所と呼ばれたアウシュヴィッツ強制収容所に送られたのでした。

 その狂気のようなドイツ軍の手を逃れ、ワルシャワ市内で逃亡生活を何と2年以上送り、最後に一人のドイツ軍将校に助けられ、奇跡的に生き延びたポーランドのユダヤ人ピアニスト、ウラディスワフ・シュピルマンの体験記『ピアニスト』を映画化したものです。

 辛うじて生き延びたシュピルマンが、戦後、オーケストラをバックに超人的とも言える素晴らしいピアノ演奏をすするところで映画は終ります。私はそれを観ながら、「音楽というものをここまで見事に作り上げ、またそれをこれほどまで見事に演奏できる人間とは、何と凄い(すごい)存在だろう。神様がこの力を人間に与えられたのでなくて、何だろう」と本当に心から思いました。

 ところが同時に、「その同じ人間が、どうしてあそこまで残酷で非人間的なことを行えるのだろうか」と、暫く気持の整理ができませんでした。

 無論、聖書が言いますように、それは人間に生れつき染み付いている腐敗した罪の性質(原罪)の故だとは分っています。けれども、同じ人間の内にある余りにも大きな矛盾に、正直、心が整理できず、重かった。

 そんな気持で何日か過ごしていましたが、家内がシュピルマンの書いた原作本を買ってきました。私は一気に読みました。

 その本には、シュピルマンを助けたドイツ人将校、ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の日記の抜粋も載っていました。とても立派なクリスチャンであり、実はシュピルマン以外にも何人かを救っていたのでした。

 心を打たれましたのは、そのホーゼンフェルトの日記でした。あんな時代に、自分の国と同胞のドイツ人のやっていることを鋭く厳しく批判し、しかも「依然起るがままにしている我々は何という卑怯者であろう」とか、「こうした犯罪を許している我々も共謀者」であると述べ、自分の周りの人間をとがめるだけでなく、神の前で自分自身にも批判の眼差しを向けていたのでした。

 気の毒にも、彼は1952年に、ソ連の戦犯捕虜収容所で病気のために亡くなりました。しかし、このような、きよい心を失わない真実なクリスチャンがいたとは、何と尊い事実かと思いました。

 21世紀の今、無論、時代は違います。でも、またエゴイズム丸出しの主張が堂々とされ、すぐ他人を味方か敵かに二分し、敵だと分ると、ひどい言葉で徹底的に叩き排除する人たちが、増えています。このような中、自分自身や周りの人々や徐々に変化する社会をも、常に神の御言葉・聖書により冷静に客観的に正しく批判でき、しかもそれだけでなく、温かく人を助け支え、人に仕える真実な愛に生きるきよい心、揺るがない霊を持ち続けることは、何と大切でしょうか。

 私たちに罪の全き赦しと永遠の命を与えるために人間となられ、十字架で命を捧げ、また復活された神の独り子(ひとりご)、イエス・キリストを心から信じ、受け入れ、依り頼み、そうしてご一緒に神の子供とされ、また主イエス・キリストを通して、詩篇51篇の作者と同じように、10節「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい」と、真摯な篤い祈りを、私たちも天に召される時まで、是非、献げ続ける者でありたいと思います。

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