ここに希望がある 2 罪の赦し
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 詩編 130章1節~6節
130:1 主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ、私の声を聞いて下さい。
私の願いの声に耳を傾けて下さい。
130:3 主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、
主よ、誰が御前に立てるでしょう。
130:4 しかし、あなたが赦して下さるゆえに、
あなたは人に恐れられます。
130:5 私は主を待ち望みます。
私の魂は待ち望みます。
主の御言葉を私は待ちます。
130:6 私の魂は、夜回りが夜明けを
まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、
主を待ちます。詩編 130章1節~6節
前回から私たちは希望について学んでいます。希望は人が生きて行く上でまことに大切なものですが、罪に満ちたこの世で希望をもって生きることは容易ではありません。どんなに多くの人々が早々と希望を断念し、閉ざした心でいることでしょうか。
しかし聖書を見ますと、色々な信仰者が困難の中でもなお希望を持ち、困難を抱えつつも自分を失わず、神から与えられた使命を覚えて生きていたことが分ります。詩篇130の作者も5、6節で歌いました。「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます。」
彼は古代イスラエルの信仰者であり、民の指導者の一人であったようです。当時のイスラエルは、神に愛され多くの恵みを頂いていたにも関らず、忘恩的で神の戒めに背いて罪を犯し、神に罰せられ、苦難の内にありました。彼はそういう中で皆の苦悩を覚え、皆のために、また皆を代表するように祈りました。1節「主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。」
まるで真暗な淵の底にいるように、状況は最悪と思われました。しかし、彼は希望を抱き、6節「私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます」と告白します。夜は危険で、まして大昔のことですから、敵がいつ襲うか分らず、夜回りは夜明けをどれほど待ち望んだことでしょう。そのように、この人も神の救いの時を待ち、そして神に希望を置きました。
彼は5、6節で「待ち望みます」と何度も言います。聖書には同様の表現が沢山見られ、前回申しましたように、聖書はまさに希望の書です。ローマ人への手紙15:13は「希望の神が、信仰による全ての喜びと平安であなた方を満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせて下さいますように」と言います。
では、私たちは神からどんな希望を与えられるでしょうか。その一つは、4節にありますように罪の赦しです。
確かに「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、誰が御前に立てるでしょう」とある通り、神が私たちの罪深い行いや言葉、心の中を咎められるなら、誰も耐えられません。私たちは隠れて罪深いことをどんなに考え、口にし、行なってきたでしょうか。悪いことも恥ずかしいこともしたことのない人など、一人もいません。また私たちはなすべき善を知りながら、どれほど行なっていないでしょうか。ヘブル人への手紙4:13は言います。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」
私たちは、悔い改めができるように生きている間に罰せられることもありますが、死後は罪を全てあらわにされ、神に必ず裁かれます。そういう自分の罪を思いますと、私たちには本来、神に何かを願う資格などないことがすぐに分り、気持も萎えてしまいます。
しかし、ここで詩篇130:4は言います。「しかし、あなたが赦して下さるゆえに、あなたは人に恐れられます。」
「恐れられ」るとは、神への畏敬の意味であり、神を恐れることと共に、神への信仰と信頼を強くされることでもあります。すると、その強められた信仰と信頼により、神の赦しを、従って神の温かい愛と憐み、また力に満ちた助けをも確信できるようにされます。何という幸いでしょうか。
実際、私たちには神の御子イエスによる絶大な赦しがあります。罪も汚れも一切知らない御子イエスが、私たちを罪とその結果である悲惨から救うために人となって世に来られ、私たちの代りに十字架で神の刑罰を全て受け、命を捧げて下さいました。従って、自分の罪と不信仰を悔い改め、イエスを心から救い主と信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちは本当にあらゆる罪を赦され、神と和解を許されます。信じた今罪赦され、神との新しい最も幸いな関係に入れられるのです。罪の赦しは、神の様々な恵みの一つというより、神のあらゆる恵みがそこを通して私たちに注がれる通路のようなものと言えます。
それだけに、もしイエスによる罪の赦しがないなら、どうして私たちは神を希望とできるでしょうか。でも、ここに希望があります!御子を世に遣わされたほどに、神は私たちを愛して下さっているからです。ヨハネの手紙 第一 4:10は言います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)のささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
ここに、私たちがこれからも色々困難が予想されることを知りながらも、なお、生きていける究極の希望があります!罪の赦しがあるということは、神が私たちを本当に愛し、永遠に受け入れ、助けて下さることを意味するからです!
弱さのために私たちはこれからも失敗することがたくさんありますが、その都度、何度でも悔い改め、主イエスの十字架をしっかり見上げ、神の赦しの愛を信じ、安心して最後まで主の僕(しもべ)として生きて行きたいと思います。