2026年01月22日「ここに希望がある 1」

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ここに希望がある 1

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
詩編 130章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

130:1 主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ、私の声を聞いて下さい。
    私の願いの声に耳を傾けて下さい。
130:3 主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、
    主よ、誰が御前に立てるでしょう。
130:4 しかし、あなたが赦して下さるゆえに、
    あなたは人に恐れられます。
130:5 私は主を待ち望みます。
    私の魂は待ち望みます。
    主の御言葉を私は待ちます。
130:6 私の魂は、夜回りが夜明けを
    まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、
    主を待ちます。詩編 130章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今回から暫く(しばらく)希望について共に考え、聖書に学びたいと思います。

 改めて言うまでもなく、希望は、心と魂を持つ私たち人間が生きて行く上で、どんなに大切でしょうか。一般論ですが、人間は希望を失いますと生きる意欲も力もなくなり、生きるのを断念し、生きていても亡霊のような空ろな存在になってしまうことがあります。

 その反対に、希望がありますと、不安や心配はあっても、なお明日に向かって、それどころか、困難に向かってさえ前進して行けます。

 1995年1月17日の未明に起った阪神淡路大震災では、死者6434名、倒壊した家屋は全壊半壊を合わせて何と39万棟に達しました。その後遺症は今もない訳ではありません。私も宝塚市の仁川という所で被災しましたが、知り合いの方もお二人亡くなり、思い出すと胸が苦しくなります。

 ところで、あの震災で考えさせられたことの一つは、希望が人間にとって如何に大切かということでした。折角、地震そのものからは助かりましたのに、その後、自分で命を絶たれた方が何名かおられました。今まで持っていたものの殆どを一瞬にして失ったため、希望を失い、絶望し、少し経ってから自死されました。本当に残念で悲しいです。

 2011年3月11日の東日本大震災でも、内閣府によりますと、震災関連自死は4か月で38名に上りました。これは決して他人事(ひとごと)ではありません。私たちも同じ状況に置かれたなら、どうでしょうか。愛する家族や家、仕事を初め、何もかも失った状態でも、私たちはしっかり生きていけるでしょうか。

 私たちは、究極の拠り所、つまり、何があっても頼りにでき、それを支えにして立ち上がり、前進していけるような確固とした希望を、本当に持っているでしょうか。私たち自身も深く問われていると思います。

 第二次世界大戦の時の、アウシュビッツを初めとするドイツ人による強制収容所のことを思います。実は、あれは希望を奪われた時、人間は果たして生きていけるのかどうかを実験するためのものだったとも言われたりします。収容されたユダヤ人たちは、全財産を没収され、体毛まで剃り落とされた者もいて、多くのユダヤ人がガス室で殺されました。

 ところが、実は収容されたユダヤ人の43%もの人がガス室に送られる前に亡くなっているそうです。しかも、その中で一番脆かったのが中産階級のユダヤ人だったといいます。どうしてでしょうか。

 自分の築いて来た財産、地位、肩書など、あらゆるものから、ある日、突然自分が切り離された時、多くの人が生きる希望を失い、死んでいったということです。その状況と彼らの気持を想像しますと、胸が詰まります。そして、改めて希望が如何に大切かを深く考えさせられる出来事だったと思います。

 近年は、人を愛することも一生懸命努力することもせず、早くから諦め、冷めた思いで生きている若者が増えていると言われます。人を愛し、夢中になり、或いは、何事かを一生懸命やった結果、挫折を体験して自分が傷つくことをひどく恐れるからだ、と言われます。

 しかし、失望感を味わいたくない、傷つきたくないという消極的な自己愛だけが働く所では、逆に深い喜びも満足も感動も決して体験できないのではないでしょうか。

 とはいうものの、今申し上げた若者たちの気持ちも分らないではないと思います。私たちも大なり小なり失望を味わっているからです。人間は失望を多く体験しますと、やはり臆病で消極的にならざるを得ないのだと思います。

 それなら、希望など、初めから下手に持たない方が良いのかというと、それも違うでしょうね。では、どちらなのだ、ということになります。恐らく多くの人をこのようにどっちつかずにしているのは、「私の究極の希望はこれだ」と言えるものがないからでしょう。

 しかし、まさにこの点で私たちは聖書に教えられます。

 最初にお読みしました詩篇130:5、6で、古代イスラエルの一人の信仰者はこう歌いました。「私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。

私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ち望みます。」

 ここには、「主を待ち望みます」、「御言葉を待ちます」、「主を待ち望みます」という表現が繰り返し登場します。聖書全体を見ますと、これに類する言葉が沢山出て来ます。まさに、聖書は「希望の書」と呼んでも大げさではないと思います。言い換えますと、本来、キリスト教とは「希望の宗教」であり、罪とその結果である諸々の悲惨を担って生きる私たち人間に、なお、神の独り子(ひとりご)イエス・キリストによる希望を与え、癒し、生かし、救うものと言えます。

 では、どのような希望があるでしょうか。次回から、この点を少し具体的に見て行きたいと思います。

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