聖書の言葉 4:3 しかし私にとって、あなた方に裁かれたり、あるいは人間の法廷で裁かれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分を裁くことさえしません。コリントの信徒への手紙一 4章3節 メッセージ 今年の私たちの教会標語「キリストのうちに共に生きる」に関わることとして、今日は居場所について考えたいと思います。 ひと頃、「居場所」ということがよく言われました。「私には居場所がない。私などいなくていい。必要とされていない」などと消極的に言われることが多かったですね。 真(まこと)の神を信じ、神の御心に従って誠実に生きたために迫害された旧約時代の信仰者たちについて、ヘブル人への手紙11:38は言います。「この世は彼らに相応しくありませんでした。」これは大変厳しい現実です。今日の世界にも、こういうことのある国の政府は決してその事実を認めませんが、現実にはクリスチャンや教会にとって大変厳しく、まさに居場所のない国もあります。 しかし、ひと頃、よく言われた先程の「私には居場所がない」という場合は、周囲から居場所をもらえず、拒否されていることもあると思いますが、むしろ、自分で自分の居場所がないと思っている人も少なくないと思います。確かに、神を無視するこの罪の世には、弱い人に居場所を与えず、追い出してしまう残酷な面があります。しかし、自分で自分の居場所がないと考え、そう思い込んでいる場合もあります。不幸なことですね。 では、何故そうなのでしょうか。幼少期からの家庭環境や生育歴が関係し、その中で繰り返してきた自分の思考パターンと行動の積み重ねがあると思います。つまり、必ずしも周りが意地悪で居場所を与えないのではなく、むしろ周りは何とか居場所を作ってあげようとするのですが、ほんのちょっとしたことでもすぐ状況を否定的に捉え、そこから抜け出せないでいる。そうであるなら、とても不幸なことです。 北海道日高市の浦河という町に、キリスト教に立った『べてるの家』という精神障害者のための自立施設があります。そこに関わっておられる北海道医療大学看護福祉学部教授でソーシャルワーカーの向谷地(むかいやち)生良さんによりますと、こんな感じだそうです。 浦河のキリスト教会には、統合失調症や虐待経験を持った人など、人と人との繋がりに辛い経験を持ち、孤立や孤独を余儀なくされ、コミュニケーションにも深刻な難しさを抱える人たちも多いのですが、浦河教会に初めて足を運んだ方は皆、「居心地がいい」と言うそうです。 そしてその秘訣は、一人一人が「自分の助け方」を考えて実践しているからだといいます。すなわち、居心地の良い場所、いわゆる「居場所」を自分の外の環境に求めるのではなく、自分の中に作る工夫が必要だとして、向谷地さんは次のように書いておられます。 「人から干渉されたり、不快な思いをすることも多いのですが、実は私たち自身が自分を必要以上に責めたり、受け入れていないという現実もあります。浦河教会には、一人一人が自分の中に『居心地の良い場所』を作ることで、家庭的な温かい場が生まれます」と。 この通りなのだと思います。「自分には居場所がない」と言う時、実際に周りが悪い場合もありますが、自分が何らかの理由で自分を受け入れられないケースも多いのだと思います。そして、それにもある程度やむを得ない理由があるでしょう。しかし、仕方がないと言って、そのままで良いでしょうか。 ここで、聖書の伝える信仰者に学びたいと思います。例えば、パウロはコリント人への手紙 第一 4:3でどう述べているでしょう。「私は、自分で自分を裁くことさえしません。」細かい説明は省きますが、パウロはもう必要以上に自分を裁きませんでした。 改めて言うまでもなく、パウロは時には自分を打ち叩き(Ⅰコリント 9:27参照)、深く自分を吟味する真の信仰者でした。しかし、それはあくまで、御自ら(おんみずから)私たちの救いのために十字架で命を献げて下さった神の御子イエス・キリストの計り知れない赦しと神の無限の愛を覚える中でのものでした。ですから、彼は自分に何か欠けや気に入らない所があっても、もはや自分を自分自身や自分の置かれた所から追い出すようなことはしませんでした。先程の言い方を借りますと、パウロはイエス・キリストの故に自分の内に自分の居場所を持ち、それを神に許されていることを感謝し、全てを主に委ねていました。 いいえ、更に言いますと、「イエス・キリストの内に居場所が与えられていること」に、彼は自分を全く委ねていたのでした。 今年の当教会の標語、「キリストのうちに共に生きる」の中の「キリストのうちに」には、事実、私たちがキリストの内に与えられている永遠の居場所に生きることも含まれています。何と素晴らしい恵みでしょうか。 私たちも、主イエス・キリストの内に永遠の居場所を与えられていることに自分を全く委ね、感謝し、またキリストの体である教会の中で、互いの居場所を、愛と真実をもってもっともっと大切にしたいと思います。 関連する説教を探す 2026年の祈祷会 『コリントの信徒への手紙一』
今年の私たちの教会標語「キリストのうちに共に生きる」に関わることとして、今日は居場所について考えたいと思います。
ひと頃、「居場所」ということがよく言われました。「私には居場所がない。私などいなくていい。必要とされていない」などと消極的に言われることが多かったですね。
真(まこと)の神を信じ、神の御心に従って誠実に生きたために迫害された旧約時代の信仰者たちについて、ヘブル人への手紙11:38は言います。「この世は彼らに相応しくありませんでした。」これは大変厳しい現実です。今日の世界にも、こういうことのある国の政府は決してその事実を認めませんが、現実にはクリスチャンや教会にとって大変厳しく、まさに居場所のない国もあります。
しかし、ひと頃、よく言われた先程の「私には居場所がない」という場合は、周囲から居場所をもらえず、拒否されていることもあると思いますが、むしろ、自分で自分の居場所がないと思っている人も少なくないと思います。確かに、神を無視するこの罪の世には、弱い人に居場所を与えず、追い出してしまう残酷な面があります。しかし、自分で自分の居場所がないと考え、そう思い込んでいる場合もあります。不幸なことですね。
では、何故そうなのでしょうか。幼少期からの家庭環境や生育歴が関係し、その中で繰り返してきた自分の思考パターンと行動の積み重ねがあると思います。つまり、必ずしも周りが意地悪で居場所を与えないのではなく、むしろ周りは何とか居場所を作ってあげようとするのですが、ほんのちょっとしたことでもすぐ状況を否定的に捉え、そこから抜け出せないでいる。そうであるなら、とても不幸なことです。
北海道日高市の浦河という町に、キリスト教に立った『べてるの家』という精神障害者のための自立施設があります。そこに関わっておられる北海道医療大学看護福祉学部教授でソーシャルワーカーの向谷地(むかいやち)生良さんによりますと、こんな感じだそうです。
浦河のキリスト教会には、統合失調症や虐待経験を持った人など、人と人との繋がりに辛い経験を持ち、孤立や孤独を余儀なくされ、コミュニケーションにも深刻な難しさを抱える人たちも多いのですが、浦河教会に初めて足を運んだ方は皆、「居心地がいい」と言うそうです。
そしてその秘訣は、一人一人が「自分の助け方」を考えて実践しているからだといいます。すなわち、居心地の良い場所、いわゆる「居場所」を自分の外の環境に求めるのではなく、自分の中に作る工夫が必要だとして、向谷地さんは次のように書いておられます。
「人から干渉されたり、不快な思いをすることも多いのですが、実は私たち自身が自分を必要以上に責めたり、受け入れていないという現実もあります。浦河教会には、一人一人が自分の中に『居心地の良い場所』を作ることで、家庭的な温かい場が生まれます」と。
この通りなのだと思います。「自分には居場所がない」と言う時、実際に周りが悪い場合もありますが、自分が何らかの理由で自分を受け入れられないケースも多いのだと思います。そして、それにもある程度やむを得ない理由があるでしょう。しかし、仕方がないと言って、そのままで良いでしょうか。
ここで、聖書の伝える信仰者に学びたいと思います。例えば、パウロはコリント人への手紙 第一 4:3でどう述べているでしょう。「私は、自分で自分を裁くことさえしません。」細かい説明は省きますが、パウロはもう必要以上に自分を裁きませんでした。
改めて言うまでもなく、パウロは時には自分を打ち叩き(Ⅰコリント 9:27参照)、深く自分を吟味する真の信仰者でした。しかし、それはあくまで、御自ら(おんみずから)私たちの救いのために十字架で命を献げて下さった神の御子イエス・キリストの計り知れない赦しと神の無限の愛を覚える中でのものでした。ですから、彼は自分に何か欠けや気に入らない所があっても、もはや自分を自分自身や自分の置かれた所から追い出すようなことはしませんでした。先程の言い方を借りますと、パウロはイエス・キリストの故に自分の内に自分の居場所を持ち、それを神に許されていることを感謝し、全てを主に委ねていました。
いいえ、更に言いますと、「イエス・キリストの内に居場所が与えられていること」に、彼は自分を全く委ねていたのでした。
今年の当教会の標語、「キリストのうちに共に生きる」の中の「キリストのうちに」には、事実、私たちがキリストの内に与えられている永遠の居場所に生きることも含まれています。何と素晴らしい恵みでしょうか。
私たちも、主イエス・キリストの内に永遠の居場所を与えられていることに自分を全く委ね、感謝し、またキリストの体である教会の中で、互いの居場所を、愛と真実をもってもっともっと大切にしたいと思います。