2025年11月23日「試練を乗り越える」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10章13節

原稿のアイコンメッセージ

 「試練を乗り越える」という説教題の通り、今朝は試練についてお話致します。天と地を造られ、今も全てを治め、しかもご自分の御子を救い主イエスとして賜ったほどに私たちを愛して下さっている神が、試練について聖書で教えておられることを学びたいと思います。

 13節を先ほど読みました。この手紙は、神の御子である救い主イエスを心から信じ、そのイエスを多くの人に伝えた使徒パウロが紀元1世紀の中頃、神に導かれて、コリントという町の教会員に宛てて書いたものです。今朝は、ここから試練について三つの点を教えられたいと思います。

 まず第一のことは、試練は誰もが経験するものだということです。

 パウロは、「あなたがたが経験した試練は皆、人の知らないものではありません」と言います。この時、コリントの教会の信者たちは、人間が作った偶像の神々を以前は周りの皆と同じように拝んでいましたが、もう拝まなくなったこともあり、周りから怪訝(けげん)な顔をされ、いやがらせや迫害も受けていました。

 ここではそういう試練ですが、私たちは皆、この世で大なり小なり病気や障害、誤解や中傷、大きな災害や事故、トラブルに巻き込まれるなど、辛い試練に遭います。

これは、どうしてなのでしょうか。

 聖書は、人類が造り主なる神に背いた結果、罪が人の中に入り込み、そこからあらゆることに歪みが生じたため、この世で苦難が絶えないということを教えます。聖書を読みますと、人間の罪が招いた歪みは、自然界にも及んでいることが分ります。

 中には、明らかに自分が原因で招いた苦しみもあります。その場合は、私たちも「仕方がない」と思って我慢します。けれども、いくら考えても自分が引き起したのではない余りにも辛い試練があります。そんな時、私たちはひどく困惑し、落胆します。

 とりわけ私たちを苦しめるのは、何故自分がこんな目に遭わなければならないのか、という思いです。「どうして自分なのだ」と、答の出ない疑問に私たちは苛立ち、普通に生きている他の人を見ますと、気持は複雑です。時には神をも恨みます。そういったことが、一層自分を苦しめます。

 しかし、聖書は言います。13節「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません」と。聖書協会共同訳は「あなた方を襲った試練で、世の常でないものはありません」と訳しています。そうなのです!私たちはつい「自分だけが」と考え、それが一層試練を辛く感じさせ、私たちを苦しめます。

 しかし、聖書全体を見ても歴史と社会全体を見ても、試練は決して私たちだけではありません。実に多くの人が経験しているのです。無論、これが分ったからといって、試練がなくなるわけではありません。けれども、「どうして私だけなのだ?」と思う辛さから私たちを解放し、気持ちが少し楽になります。

 このことで、十数年間、ある難病に苦しまれた一人の方が、この御言葉によって「ちょっと楽になりました」とおっしゃった時の笑顔を思い出します。試練は誰もが経験する!以上が第一の点です。

 二つ目に進みます。耐えられない試練を、神は私たちに、特に御子イエスを信じる者に決してお与えにならないということです。これも何と大きな慰めでしょうか。

 試練に遭った時、私たちには、試練そのものと先ほどお話したことだけでなく、更に他の苦しみ、辛さがあります。何でしょうか。「今でもこんなに辛く、痛いし苦しいのに、こんな調子なら、この先、いったいどうなって行くのだろう」という非常に大きな不安です。先のことを思うと、本当に暗澹(あんたん)たる気持ちになり、気が滅入り(めいり)ます。

 1995年1月17日、午前5時47分頃、突然激しい地震に、私は当時、兵庫県の宝塚の教会で遭いました。いわゆる阪神淡路大震災です。恐ろしい揺れのため、近くの大学の学生であった一人の教会員の住む二階建てのアパートは崩れてしまい、一階で寝ていた彼は、しかし奇跡的に助かりました。とはいえ、手のひらに大きなけがをし、彼を車に乗せ、瓦礫(がれき)だらけの道路を何とか病院へ運びました。

 教会員の二人の女子大生も下宿が全壊し、何日間か二人を教会堂で寝泊まりさせました。

 家がかなり傷んだある教会員は肩を落とし、「先のことを思うと暗澹たる気持ちだ」とおっしゃいました。それはそうでしょう。本当にそうだと思います。

 けれども、皆、立ち上がりました!その時は耐えられそうにないと思えましたが、神は結局、耐えさせて下さったのでした。

 大阪のある病院で私が病院牧師・チャプレンとして働いていた時、私より4歳年下の男性が重い肺の病気で入院され、私は関わるようになりました。何回か訪問した時、彼のベッドサイドで、私は今朝の聖書の御言葉を読みました。彼からは何の反応もありませんでした。

 それから何日か後、病床訪問をした時、彼は笑顔を見せ、「自分は苦しんで死ぬのがものすごく怖かったけど、神様は耐えられない試練に遭わせることはないんやというので、安心しました」とおっしゃいました。

 その後も病床訪問を続け、彼は退院され、やがてある教会で洗礼を受けられました。

 6年前の2月、「自宅で子供と孫に囲まれ、すうっと静かに旅立ちました」と奥様から手紙を頂きました。67歳半でした。

 イエス・キリストの父である真実な神は、ご自分を心から信じ、ご自分に全てを委ねる者に、耐えられない試練を絶対にお与えにならない!何と感謝な約束でしょうか。これが二つ目です。

 三つ目を学んで終ります。それは13節「耐えられるように、試練と共に脱出の道を備えていて」下さることです。これも何と嬉しい神のお約束でしょう!

 念のために確認しておきます。御子イエスを信じる信仰者に対して、聖書は、神が試練そのものを取り除いて下さるとは約束していません。無論、神の御心(みこころ)ならば、試練そのものも全能の御手をもって取り除いて下さいます。しかしそうでなくても、神は信仰者に対し、試練そのものは続いても、耐えられるように脱出の道、逃れの道を備えていて下さる、ということです。

 具体的にどのような脱出の道なのかは、言われていません。ひと口に試練と言っても、色々なものがあります。従って、それにより、脱出の道も異なるでしょう。しかし、ハッキリしていることは、どんな試練であろうとも、それに耐えられるように「脱出の道」、逃れの道を備えていて下さることです。

 神の御子イエスを救い主として心から信じ、イエス・キリストの体である教会に堅く結びついている信仰者は、勿体なくも、そのキリストの故に既に神の子供とされています。そういうご自分の子供に、天の父なる神は、どうして脱出の道もない耐えられない試練をお与えになるでしょうか。

 従って、ここで大事なことは、こういう神の御言葉、聖書の約束を本当に心から信じ、具体的なことでは神にお任せすることです。辛さの中にあっても、地獄の苦しみを私たちに代って全て、あの十字架上で体験して下さった御子イエスを仰ぎ、また私たちを妬むほど愛しておられる聖霊なる神に自分を明け渡し、また私たちの苦しい時を狙って私たちの信仰を潰そうとして働くサタンに警戒し、昼も夜も神を見上げて祈ることです。

 心が混乱し、祈りの言葉がまとまらなかったり、祈りの言葉が言葉とならないような時には、主イエスがお教え下さったマタイ福音書6:9~13の「主の祈り」を、一つ一つ、心で意味をよく考え、深く唱えてみることです。

 また、自分が神を本当に第一にしているかどうかを、何度も自分に問うことです。言い換えますと、御子イエスを十字架につけられたほどに私たちのような罪人を愛して下さっている神を、自分も愛しているか、第一にしているかどうかを、自分に問うことです。

 そして、私たちが神を愛し、第一にして、本当に神を大切にしているなら、神は試練をも含めて最終的には必ず万事を益として下さいます。ローマ人への手紙8:28は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」と約束しています。これは、目に見えない非常に危険なサタンの試み、策略から逃れ、サタンを退けられる最高の道かも知れません。

 試練を乗り越える!これは誰にとっても何と大切なことでしょうか。神の知恵の結集である聖書の御言葉により、苦難と試練の中でも、私たちが静かに落ち着いて主イエスの御足の跡を踏みしめ、天の御国に向かって、そして万事を益として下さる神の愛の中で、どうかしっかり前進していけますように!

関連する説教を探す関連する説教を探す