2025年10月09日「人の生きる目的 1」

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10:31 こういうわけで、あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。コリントの信徒への手紙一 10章31節

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 今日から何回かに分けて、「人の生きる目的」ということをお話致します。

 『人は何で生きるか』というトルストイの有名な小説があります。人は人の愛により、また神によって生かされていることを教えるロシアの民話風の短い話です。「人は父母なしでも生きていけるが、神様なしじゃ生きられない」という言葉に、この小説は要約されています。

 しかし更に大切なことは、何によってではなく、「何のために」人は生きるのかという点です。人は目標があれば、苦しくても耐えられます。頑張れます。少し古い話ですが、1996年のアトランタオリンピック女子マラソンの上位3名に、NHKは「何を目標に走ったのか」とインタビューをしました。金メダルのエチオピアのロバ選手は「祖国のために」と答え、銀メダルのロシアのエゴロワ選手は「家族のために」と言い、銅メダルの日本の有森選手は「自分のために」と答えました。夫々の生きてきた背景が出ていて興味深いですね。そして共通していたのは、目標がしっかりしていたことでした。ですから、あれだけ頑張ることもできたのでしょう。

 では、人生の目標や目的がなければ、どうでしょうか。

 これも大分前のことですが、友だちが突然飛び降り自殺をした高校生が、新聞の投書欄にこう訴えていました。「学校の先生は『強く生きなければならない』と言いましたが、では何のために強く生きなければならないのでしょうか。人間は生きる目的もなく、ただお金や名誉のためだけに生きていて良いのでしょうか。私は知りたいのです。本当の人生の目的を。」

 ここには、友人の突然の死に「何故」と問いつつ、でも、人生の指針を示してほしい学校の教師からも両親からも答が得られないまま苦しむ魂の叫びがあります。

 一方では、生活指導をしていたある高校教師のこんな告白もありました。「私は自分が教える立場にあることにつくづく疲れました。自分の心の中には絶対他人に言えないような罪があり、矛盾だらけなのに、生徒の前では『それはこうだ』と教えなくてはならない。でももっと恐ろしいのは、そんな自責の念さえもいつの間にか消え、教育も単なる一つの職業と割り切っていくことなんですよね。人前ではどうにも装うことができる。だが私は疲れた。本当のものがあるなら心からそれが欲しい」と思うようになったと書いておられました。この方は本当に誠実な方だと思います。

 人は何のために生きるのか。映画の『男はつらいよ』の中で、主人公の寅さんは甥っ子の満男に「人間は何のために生きるの?」と聞かれます。そこで寅さんはこう答えます。「何ていうか。ほら、あぁ、生れて来て良かったなって思うことが何べんかあるだろう、そのために人間生きてんのじゃねえのか。」この答で多少満足する人もいれば、満足しない人も沢山いるでしょうね。

 紀元1世紀のローマにヴァローという思想家がいました。彼は「人生の目的は何か」という質問を識者たちにして回りましたが、答は何と320通りもありました。その返事の余りにまちまちなのを見て、彼は今更のように、神が啓示を与えて下さらなければ、人は途方にくれる他ないことを悟ったそうです。その通り、この大切なことは、世界と私たち人間を造られた神によらなければ分りません。

 では、具体的にはどうすれば分るでしょうか。感謝なことに、ここに聖書があります!聖書は、天と地とその中に満ちる全てのものの造り主なる唯一の生ける真(まこと)の神が、人々を導いてご自分のこととその正しい御心を書かせられた真理の書、救いの書です。ここに答があります。

 では、聖書は人の目的を何と言うでしょうか。人は何のために生きるべきなのか。Ⅰコリント10:31は言います。「あなた方は、食べるにも飲むも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。」その時々の当座の目的も大切ですが、人は最終的には、人を造られた神の麗しい栄光を現すために生き、存在するのであり、ここにこそ真(しん)に私たちを生かし、満たす究極の答のあることを、聖書は明確に教えます。

 では、神の栄光を現すとはどういうことでしょうか。今日はもう時間がありませんので、この点は次回以降に回します。

 今日改めて覚えたいことは、私たちは救い主イエス・キリストを通して、「存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変」(ウェストミンスター小教理問答 問4参照)の生ける真(まこと)の神、それも父・子・聖霊なる三位一体(さんみいったい)の素晴らしい神を仰ぎ、神ご自身に教えられる時にのみ、私たちが生きる究極の意味も目的も分ることです。その時こそ、私たちは感謝と喜びに満ちたこれ以上ない魂の満たし、力、勇気、希望、平安を与えられることを、深く心に留めたいと思います。

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