Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 1:1 はじめに神が天と地を創造された。1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。創世記 1章1節~5節 メッセージ 今、創世記1:1~5を読みました。本当は2:3まで読むと良いのですが、時間の関係で1:5までにしました。それでもここから、神が天地万物を創造されたことを教えられます。 造り主なる真(まこと)の神は、人間が作った実体のない偶像の神々とは全く違い、存在、知恵、力、聖さ、正しさ、愛、真実において、無限・永遠・不変のお方です(ウェストミンスター小教理問答 問4の答を参照)。当然、私たちの認識能力を遥かに超えた方ですから、私たちは神を直接目で見たり手で触ることは出来ません。しかし多くの事象を通して、特に聖書の証しする神の独り子(ひとりご)イエス・キリストを通して、私たちは神を知ることが出来ます。 そこで今朝は、この造り主なる神を信じる幸せについて、少しお話したいと思います。 どんな幸せがあるでしょうか。第一は、魂の底からの安心や充足感、喜びのあることです。 私自身のことを少しお話させて頂きます。私は20歳の時に神を信じ、救い主イエスを信じ、受け入れ、寄り頼んで、洗礼を受けました。しかしそれ以前の私は、自分をも含め色々な人たちの生き方、考え方を見て、どう生きるのが本当に正しいのかを求め、本を一杯読み、良いと思った映画を鑑賞し、色々な場所へ行って自分の身をそこに置くなどして、答を探していました。しかし見つからず、心には充足感がありませんでした。 ある時、母が町でたまたま教会案内をもらい、私にくれました。キリスト教のことは前から気になっていましたので、「一度教会へ行ってみるか」と考え、しかし、絶対に深入りしないと決めて行きました。 やがて分りましたのは、この天と地と人間を造られた真の神にこそ答がある、ということでした。そこで洗礼を受け、クリスチャンになりました。 実体のない偶像を拝み信心する諸宗教、不完全な人間の考えた諸々の哲学、良くないことも考え行って来た自分自身の内に究極の答はありません。 けれども、人間は何故こうなのか、つまり、造り主なる神に背を向けているという罪の問題を鋭く説明し、このままだと人はどうなるのか、しかしそこからの救いも明確に教える聖書の証しする真の神にこそ答がある、ということを知りました。そしてそれが更に分るにつれ、私は安心や充足感や喜びを覚えないではおられませんでした。 実はこれは歴史上の色々な人たちでも同じです。4世紀から5世紀にわたって生き、真理を求めてさ迷ったあげく、ついに回心した有名なアウグスチヌスは、神にこう告白しました。「あなたは私たちをご自身に向けて造られました。ですから、あなたの許(もと)に憩うまで、私たちの心は安らぎを得られないのです。」17世紀のフランスの哲学者、科学者、数学者であったパスカルは言いました。「人間の心には、神の形をした空洞がある。それは神によってしか埋められない」と。造り主なる神を信じる幸せの一つは、魂の底からの安心、充足感、喜びがあることです。 大きな第二点に進みます。それは、色々な迷信、人の声や世間体、また自分自身から、そして何より死への根本的な恐れから私たちが解放され、本当の意味で自由にされる幸せです。 偶像を拝むことや単に昔からの因習であっても、それを忘れると祟りがあると言われて怖がる人、家を建て、あるいは借りる時に方角を気にしてお祓いや占いをしてもらう人、葬式に出て清め塩をもらい、自分の家の玄関前に撒く人もいます。本当は何かを恐れ、縛られているわけでしょう。 しかし、天地の造り主なる真の神を本当に信じる時、私たちの心には大きな変化が起ります。太陽、月、星、宇宙、壮大な海や山、様々な動植物、私たちの認識の及ばない領域、そして時間も空間も、全ては神が造られたものであり、被造物に過ぎず、従って、当然神ではなく、神のような力もなく、祟りなどあり得ないことがハッキリ分ります。 先程、人の声や世間体、また自分自身から、更に死への根本的な恐れからも解放され、自分を自由にされると言いました。 私たち人間は、自分が人からどう見られ評価されているかを結構気にします。無論、私たちは独善的であってはならず、人の声や評価も自分を客観的に知る鏡や物差しとして大切にし、謙虚でありたいと思います。 しかし、気にし過ぎて自分を失うことは、私たちをご計画により一人一人個性ある者として愛をもって造られた神の御心(みこころ)ではなく、私たちを駄目にします。 また私たち人間は自分自身にひどく囚われていることがあります。自分で作ったセルフ・イメージや自画像に囚われ、それに自分がうまく合致した時には安心し、少し自分を誇らしく思ったりもしますが、合致しない時にはひどくガッカリし、落胆し、自分を愛せず、ヤケを起すこともあります。ですから、余りにも強い自意識にも、自分自身を縛り、駄目にする危険な面があります。これも聖書が言う私たちの罪がなせる業(わざ)です。 しかし、造り主なる神を私たちが知り、神を仰ぎ、神を畏れ敬い、神を中心に生きると、どうでしょうか。当然、人の声や噂、世間体なども大切にしますが、自ずとそれらは相対化され、小さくなります。むしろ、神に喜んで頂くことに比重が傾き、そのことの方が遥かに大切になります。すると、私たちはいつの間にか、人の声や世間体、また自分自身や自意識からも、少しずつ解放され、深く自由を味わうことを許されます。何と幸せでしょうか。 もう一つ、死への恐れがあります。私たちは何故死を恐れるのでしょうか。死は、私たちにとって未体験で未知のことであり、また死ぬ時に普通は痛みや苦しみのあることが分っているから、という点があります。 それに加えて、死んだ後、自分がどうなるのかが分らず不安ですし、特に生きていた時に自分が行なった全ての罪と悪に対する裁きのあることを、人は本能的に感じているからでしょう。 しかし、造り主なる神を信じ、イエス・キリストを救い主として心から信じ、依り頼む時、私たちはその信仰だけで必ず救われます。すなわち、自分の気付かない罪さえ全て神に赦され、イエス・キリストから永遠の命を与えられ、死後、永遠の裁きと滅びにではなく、永遠の天の御国に絶対に入れられます。これは主イエス・キリストの福音の中心です。使徒の働き16:31は言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 造り主なる神を、そして救い主イエスを信じる時、私たちは、この世が与えることもこの世が奪うことも出来ない魂の底からの自由を与えられる。これが二つ目です。 三つ目を見て終ります。先程の第一点とも少し重なりますが、私たちが人間としてどう生きることが最も相応しく、正しく、尊いかが分る幸せです。 私たちはどう生きるべきでしょうか。 マタイの福音書22:37~39で、イエスは旧約聖書の申命記6:5を引用して、「あなたは心を尽し、命を尽し、知性を尽して、あなたの神、主を愛しなさい」と教え、また同じく旧約聖書のレビ記19:18を引用し、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と教えられました。要するに、神を愛し、隣人を愛することです。 聖書では、愛は好きという感情ではありません。意志をもって、相手を大切し、相手に心を込めて具体的に仕えることです。 従って、神との縦の関係、垂直の関係を忘れず、造り主なる神を仰いで神を大切にし、神に仕えることです。従って、ご自分の独り子(ひとりご)イエスを私たち罪人の救い主として賜ったほどに私たちを愛して下さっている神の教えに従い、十戒を代表とする神の戒めを大切にし、罪と戦うことです。旧約聖書の伝道者の書12:13は言います。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」また新約聖書のヨハネの手紙 第一 5:3は言います。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」 また色々な人との横の関係でも、神が聖書で教えておられますように、隣人を大切にし、仕えることです。 具体的に隣人を愛し、大切にすることについて、コリント人への手紙 第一 13:4~7が良く教えていますので、その御言葉をお読みしたいと思います。お聞き下さい。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。」何と大切なことでしょうか。 造り主なる神を信じる幸せの三つ目は、私たちが人間としてどう生きることが最も相応しく、また尊いことなのかが分ることです。 今の時代、政治も経済も不安定で、価値観もバラバラですね。偽情報(フェイク・ニュース)も溢れていて、何が真実かも大変分りにくくなっている今の社会です。 けれども、私たちは特に御子イエス・キリストによって親しく自己紹介をして下さっています造り主、愛や知恵、力や真実に満ちた真の神に絶えず教えられ、聖書の教えを光として、共に支え合い、励まし合って、是非、歩んで行きたいと思います。 聖書を二か所お読みして終ります。 詩篇119:105は神に向って歌います。「あなたの御言葉は、私の足の灯。私の道の光です。」 創世記1:3「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」 関連する説教を探す 2025年の日曜朝の礼拝 『創世記』
今、創世記1:1~5を読みました。本当は2:3まで読むと良いのですが、時間の関係で1:5までにしました。それでもここから、神が天地万物を創造されたことを教えられます。
造り主なる真(まこと)の神は、人間が作った実体のない偶像の神々とは全く違い、存在、知恵、力、聖さ、正しさ、愛、真実において、無限・永遠・不変のお方です(ウェストミンスター小教理問答 問4の答を参照)。当然、私たちの認識能力を遥かに超えた方ですから、私たちは神を直接目で見たり手で触ることは出来ません。しかし多くの事象を通して、特に聖書の証しする神の独り子(ひとりご)イエス・キリストを通して、私たちは神を知ることが出来ます。
そこで今朝は、この造り主なる神を信じる幸せについて、少しお話したいと思います。
どんな幸せがあるでしょうか。第一は、魂の底からの安心や充足感、喜びのあることです。
私自身のことを少しお話させて頂きます。私は20歳の時に神を信じ、救い主イエスを信じ、受け入れ、寄り頼んで、洗礼を受けました。しかしそれ以前の私は、自分をも含め色々な人たちの生き方、考え方を見て、どう生きるのが本当に正しいのかを求め、本を一杯読み、良いと思った映画を鑑賞し、色々な場所へ行って自分の身をそこに置くなどして、答を探していました。しかし見つからず、心には充足感がありませんでした。
ある時、母が町でたまたま教会案内をもらい、私にくれました。キリスト教のことは前から気になっていましたので、「一度教会へ行ってみるか」と考え、しかし、絶対に深入りしないと決めて行きました。
やがて分りましたのは、この天と地と人間を造られた真の神にこそ答がある、ということでした。そこで洗礼を受け、クリスチャンになりました。
実体のない偶像を拝み信心する諸宗教、不完全な人間の考えた諸々の哲学、良くないことも考え行って来た自分自身の内に究極の答はありません。
けれども、人間は何故こうなのか、つまり、造り主なる神に背を向けているという罪の問題を鋭く説明し、このままだと人はどうなるのか、しかしそこからの救いも明確に教える聖書の証しする真の神にこそ答がある、ということを知りました。そしてそれが更に分るにつれ、私は安心や充足感や喜びを覚えないではおられませんでした。
実はこれは歴史上の色々な人たちでも同じです。4世紀から5世紀にわたって生き、真理を求めてさ迷ったあげく、ついに回心した有名なアウグスチヌスは、神にこう告白しました。「あなたは私たちをご自身に向けて造られました。ですから、あなたの許(もと)に憩うまで、私たちの心は安らぎを得られないのです。」17世紀のフランスの哲学者、科学者、数学者であったパスカルは言いました。「人間の心には、神の形をした空洞がある。それは神によってしか埋められない」と。造り主なる神を信じる幸せの一つは、魂の底からの安心、充足感、喜びがあることです。
大きな第二点に進みます。それは、色々な迷信、人の声や世間体、また自分自身から、そして何より死への根本的な恐れから私たちが解放され、本当の意味で自由にされる幸せです。
偶像を拝むことや単に昔からの因習であっても、それを忘れると祟りがあると言われて怖がる人、家を建て、あるいは借りる時に方角を気にしてお祓いや占いをしてもらう人、葬式に出て清め塩をもらい、自分の家の玄関前に撒く人もいます。本当は何かを恐れ、縛られているわけでしょう。
しかし、天地の造り主なる真の神を本当に信じる時、私たちの心には大きな変化が起ります。太陽、月、星、宇宙、壮大な海や山、様々な動植物、私たちの認識の及ばない領域、そして時間も空間も、全ては神が造られたものであり、被造物に過ぎず、従って、当然神ではなく、神のような力もなく、祟りなどあり得ないことがハッキリ分ります。
先程、人の声や世間体、また自分自身から、更に死への根本的な恐れからも解放され、自分を自由にされると言いました。
私たち人間は、自分が人からどう見られ評価されているかを結構気にします。無論、私たちは独善的であってはならず、人の声や評価も自分を客観的に知る鏡や物差しとして大切にし、謙虚でありたいと思います。
しかし、気にし過ぎて自分を失うことは、私たちをご計画により一人一人個性ある者として愛をもって造られた神の御心(みこころ)ではなく、私たちを駄目にします。
また私たち人間は自分自身にひどく囚われていることがあります。自分で作ったセルフ・イメージや自画像に囚われ、それに自分がうまく合致した時には安心し、少し自分を誇らしく思ったりもしますが、合致しない時にはひどくガッカリし、落胆し、自分を愛せず、ヤケを起すこともあります。ですから、余りにも強い自意識にも、自分自身を縛り、駄目にする危険な面があります。これも聖書が言う私たちの罪がなせる業(わざ)です。
しかし、造り主なる神を私たちが知り、神を仰ぎ、神を畏れ敬い、神を中心に生きると、どうでしょうか。当然、人の声や噂、世間体なども大切にしますが、自ずとそれらは相対化され、小さくなります。むしろ、神に喜んで頂くことに比重が傾き、そのことの方が遥かに大切になります。すると、私たちはいつの間にか、人の声や世間体、また自分自身や自意識からも、少しずつ解放され、深く自由を味わうことを許されます。何と幸せでしょうか。
もう一つ、死への恐れがあります。私たちは何故死を恐れるのでしょうか。死は、私たちにとって未体験で未知のことであり、また死ぬ時に普通は痛みや苦しみのあることが分っているから、という点があります。
それに加えて、死んだ後、自分がどうなるのかが分らず不安ですし、特に生きていた時に自分が行なった全ての罪と悪に対する裁きのあることを、人は本能的に感じているからでしょう。
しかし、造り主なる神を信じ、イエス・キリストを救い主として心から信じ、依り頼む時、私たちはその信仰だけで必ず救われます。すなわち、自分の気付かない罪さえ全て神に赦され、イエス・キリストから永遠の命を与えられ、死後、永遠の裁きと滅びにではなく、永遠の天の御国に絶対に入れられます。これは主イエス・キリストの福音の中心です。使徒の働き16:31は言います。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
造り主なる神を、そして救い主イエスを信じる時、私たちは、この世が与えることもこの世が奪うことも出来ない魂の底からの自由を与えられる。これが二つ目です。
三つ目を見て終ります。先程の第一点とも少し重なりますが、私たちが人間としてどう生きることが最も相応しく、正しく、尊いかが分る幸せです。
私たちはどう生きるべきでしょうか。
マタイの福音書22:37~39で、イエスは旧約聖書の申命記6:5を引用して、「あなたは心を尽し、命を尽し、知性を尽して、あなたの神、主を愛しなさい」と教え、また同じく旧約聖書のレビ記19:18を引用し、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と教えられました。要するに、神を愛し、隣人を愛することです。
聖書では、愛は好きという感情ではありません。意志をもって、相手を大切し、相手に心を込めて具体的に仕えることです。
従って、神との縦の関係、垂直の関係を忘れず、造り主なる神を仰いで神を大切にし、神に仕えることです。従って、ご自分の独り子(ひとりご)イエスを私たち罪人の救い主として賜ったほどに私たちを愛して下さっている神の教えに従い、十戒を代表とする神の戒めを大切にし、罪と戦うことです。旧約聖書の伝道者の書12:13は言います。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」また新約聖書のヨハネの手紙 第一 5:3は言います。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
また色々な人との横の関係でも、神が聖書で教えておられますように、隣人を大切にし、仕えることです。
具体的に隣人を愛し、大切にすることについて、コリント人への手紙 第一 13:4~7が良く教えていますので、その御言葉をお読みしたいと思います。お聞き下さい。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。」何と大切なことでしょうか。
造り主なる神を信じる幸せの三つ目は、私たちが人間としてどう生きることが最も相応しく、また尊いことなのかが分ることです。
今の時代、政治も経済も不安定で、価値観もバラバラですね。偽情報(フェイク・ニュース)も溢れていて、何が真実かも大変分りにくくなっている今の社会です。
けれども、私たちは特に御子イエス・キリストによって親しく自己紹介をして下さっています造り主、愛や知恵、力や真実に満ちた真の神に絶えず教えられ、聖書の教えを光として、共に支え合い、励まし合って、是非、歩んで行きたいと思います。
聖書を二か所お読みして終ります。
詩篇119:105は神に向って歌います。「あなたの御言葉は、私の足の灯。私の道の光です。」
創世記1:3「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」