2025年04月20日「キリストは死に勝利された」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉の体は神の国を相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなた方に奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終りのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちに変えられます、ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者に甦り、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記された御言葉が実現します。
    「『死は勝利に呑み込まれた。』
15:55 『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
      死よ、お前のとげはどこにあるのか。』
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業(わざ)に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
コリントの信徒への手紙一 15章50節~58節

原稿のアイコンメッセージ

 今日はキリスト教会の暦では、天の父なる神の御許(みもと)から約2千年前、この世に来られました私たち罪人の救い主、神の御子イエス・キリストが十字架の死の三日後に甦られたことを祝う今年のイースター・復活節に当ります。また来週の日曜日にデベット宣教師による特別伝道礼拝を持つため、毎年4月末に持つ召天者記念礼拝を、今年はこのイースター礼拝と兼ねて持っています。

 さて、Ⅰコリント15:50~58を今読みました。ここだけでは分りにくいですので、少し説明致します。

 神の御子イエスは、救い主キリストとして多くの素晴らしい働きをされ、大切な福音を語られました。しかし、当時のユダヤ教指導者たちはイエスを妬み、憎み、ローマ帝国の力を借りてイエスを十字架で殺しました。十字架は大変残酷な処刑方法である上に、イエスが息を引き取られた後も、ローマ兵は槍で左脇腹から心臓を突き刺し、死を確認しました。

 ところが、その金曜日も含め三日目の日曜日の朝、Ⅰコリント15:4以降にパウロが書いていますように、イエスは甦って多くの人に現れられ、40日後、弟子たちの見ている前で天の父なる神の御許に昇られました。

 この復活をイエスは、マタイ17:23が伝えますように前もって弟子たちに予告され、またイエスがこの世に来られる遥か昔に書かれました旧約聖書の詩篇16:10なども預言していました。

 そしてイエスの復活は、イエスを心から救い主と信じ、寄り頼む信仰者をも、世の終りに神が新しく創られる世界に復活させられ、完全な存在とされることを保証しています。

 ところが、イエスの復活と昇天の出来事から30数年後、ギリシアのコリントの町にありました教会には、復活を否定する人たちが現れました。そこで、これを憂えたパウロは15:1から論理立てて復活について語り、19、20節では「もし私たちが、この地上の(=今生きているこの世での)命においてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちは全ての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った(=死んだ)者の初穂として死者の中から甦られました」と述べ、キリストに起ったことは、そのキリストに信仰によって繋がっているクリスチャンにも必ず起きることを確認するのでした。

 先程お読みしました50~58節は、そういう論証の最後の部分ですが、今朝、特に心に留めたいのは、52節辺りから書かれていることです。すなわち、キリストの復活は、神と人に対する私たち人間の自己中心の罪がもたらした人間の究極の敵である死、そのままだと最も悲惨な永遠の滅び、永遠の裁きに直結するそういう死に対する勝利だということです。パウロは言います。54節4行目~57節「『死は勝利に呑み込まれた。』『死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。」

 繰り返します。どんなに弱く情けない私たち罪人であっても、神の御子イエスを自分の救い主として心から信じ、自分の力にではなく、今天におられるイエスにひたすら寄り頼む者は、イエスと同じように永遠の死に勝利することを保証され、永遠の命にもう与っているということです。

 ですから、いつ、どこで、どのように死んでも、魂は直ちに天の父なる神と共におられるイエスの許に召され、世の終りには神による新しい世界への復活を許され、しかも神と人のためにこの世でした愛の行いに神は全て報いて下さるのです。辛いこと、悲しいことがいっぱいあっても、イエスのように神と人に愛をもって誠実に仕えた信仰者は、その労苦が皆報われ、決して無駄にはなりません。パウロは言います。58節「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業(わざ)に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

 以上が、今朝改めて心に留めたいことです。

 さて、ご承知のように、この教会の二階には納骨棚があり、現在、お二人のお骨が納められています。2000年7月4日、81歳で亡くなった袖岡花さん、2016年4月28、68歳で亡くなった和田宣子さんです。

 それと、納骨されてはいませんが、2018年2月10日、94歳で亡くなった岸本靖子さんは、かつて救い主イエス・キリストを心から信じ、寄り頼み、神への賛美と祈りを共にした神の家族です。また昨年の1月12日に洗礼を受けられ、3月24日に天に召された原和泉さんも、納骨はされていませんが、神の家族です。原和泉さんは、洗礼を受けられたのは84歳でしたが、若い頃は幼い娘さん二人を教会に通わせ、心の中ではイエス・キリストを信じて来られました。

 そして本日もご家族がご出席下さっています和田宣子さんは、軍隊の力が強く、長く混乱が続き、この3月28日の大地震で大変なことになっていますミャンマーで、若い頃、日本の医療ボランティアティームの一員、特に栄養士として働かれた活動的な女性でした。

 聖書は、イエスが死に勝利された事実を私たちに教えます。ということは、そのイエスを救い主として幼子のように信じ、受け入れ、心から寄り頼んで生きた人は、亡くなってはいても、イエス・キリストと同じように死に勝利し、今、神の御許で例えようもない喜びと感謝とやすらぎの内に、イエスと共に本当に生きておられるのです。

 このことを改めて心に留め、よく思い巡らしたいと思います。彼らは亡くなっています。しかし、死の力より遥かに強い神の御子イエスの救いの中に入れられ、今もイエス・キリストと共に喜びと感謝と平安の内に本当に生きておられ、今地上に生きている私たちのことを気にかけ、また悲惨なことの多い罪に満ちた今の世界が終るその時を待っておられます。

 そういう信仰者には、終りに何があるのでしょうか。繰り返しも含めて確認します。

 第一に、思いにおいても言葉においても行いにおいても、神の嫌われる、そして自分でも嫌いな自己中心の罪を二度と犯さず、痛みも苦しみも不自由さも一切ない、イエス・キリストに似た新しいきよい体、最高に嬉しい体への復活を許され、新しい完全な自分とされるのです。

 第二に、生きていた時、神に導かれていたこともよく知らないまま、不十分ながらも行なった神と隣人に仕える全ての愛の行い、愛の業(わざ)、そこには大変な苦労もあったのですが、その一切合切に神は報いて下さるのです。

 聖書の最後の書、ヨハネの黙示録の14:13で、ヨハネは天から聞いた声をこう伝えています。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らと共についていくからである。」

 「彼らの行いが、彼らと共についていく」とは、神への感謝から信仰者が行った善い行いに、神が永遠に報いて下さるということです。

 無論、真(まこと)の信仰者は、自分がした善い行いなど、全然覚えていません。けれども、神は完璧に記憶しておられ、報いて下さいます。このことをイエス・キリストも約束しておられます。世の終りには全ての人が神の前に立ち、公平に裁きを受けますが、苦しみや悲しみ、また貧困などの中に生きざるを得なかった方々に温かい心をもって仕えた信仰者に、キリストはこう言って永遠に報いて下さいます。マタイ25:41「まことに、あなた方に言います。あなた方が、これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです。」

 イースターとは、救い主イエス・キリストの十字架の死からの復活を祝い、神をほめたたえ、信仰を励まされる大切な日です。しかし、それだけではありません。死に勝利されたキリストの故に、キリストを心から仰ぐ者も死に勝利させて頂き、またどんなに小さな行いでもこの世で神と人に仕えた愛の業(わざ)は決して無駄にならず、世の終りに必ず報われることを改めて教えられ、励まされる日でもあります。

 召天者のお一人一人を見上げ、彼らも今、天で笑顔で歌っておられるでありましょうその賛美の歌に、私たちの賛美の歌を是非、合わせたいと思います。

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